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桜の奇跡  ~赤い糸の絆~

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「原先生!」
 大きな声で名前を呼ばれて、原は我に返った。
「脈拍、触れません。すぐにお願いします」
 消防士が倒れている加納の父親の手首で脈をみている。
「すみません。加納先生のお父様をここで死なせるわけにはいきません。治療させてください」
 原は加納の母親に深く頭を下げると、患者の傍に屈みこんだ。
「あなたのことなんか大嫌いなのよ。主人に触らないで」
 落ちていた車の部品を投げつけられて、こめかみに当たる。
「先生、血が・・・」
 うわずった南の声に、原はしっかりとした声で指示を出す。加納の母親の暴言は、もう耳には届かなかった。
 目の前の患者に集中する。
 原に向かって物を投げる加納の母親は、消防隊に拘束されている。
「南さん、バイタル計って。18Gサーフロ針で一号輸液早めに落として」
 ステートをかけて、胸の音やお腹の音を確認していく。患者が体を九の時にしたところで、噴水状吐血。フライトスーツの胸のあたりをひどく汚染した。
 携帯エコーを胸から腹部にかけてあてていく。
「腹部膨張あり。内臓破裂の可能性あり」
「血圧低下しています」
「点滴全開にしてください」
 喘いでいた呼吸が停止し、心停止が起きた。
「VF(心停止)です。除細動つけて」
「はぁい」
 南は素早くセットしていく。
 すぐさま原はCPR(心肺蘇生法)開始する。胸が五㎝くらい沈み込む。
「AED準備できたら教えてください」
「いつでもOKです」
「離れて」
CPRを一時中断して、患者から下がる。
「離れてください」
 患者の傍に誰もいないことを確認して、AEDを作動させる。
「・・・もどりません」
「もう一度、除細動します」
 原はすぐに、CPRを再開する。全身を使って、患者の胸をリズミカルに圧迫する。
 チャージの時間が長く感じる。
 早く、早くと心が騒ぐ。
「・・・チャージ完了しました」
「離れて」
 CPRを中断させて、患者から下がる。
「離れてください」
 AEDを作動させ、体が跳ね上がる。
「・・・心拍が戻りました」
「挿管します」
「はい」
 喉頭鏡を受け取り、気管チューブを挿入していき固定し、呼吸の管理を行う。
「ストレッチャーお願いします。至急ヘリで送ってください。とにかく早めに移送を」
 救急隊にそう告げると、原は由紀子に軽く頭を下げる。
 加納の母親は呆然と立っていた。
「南さん、患者さんに付添お願いします。お母様もお連れして」
「え、私だけですか?」
「移動の時間は五分弱です。大丈夫です」
「わかりました」
 原は携帯電話で救命救急センターにコードブルーを鳴らす。
「六十代男性。内臓破裂の可能性あり。ショック状態です。消化器外科の加納先生のお父様です。現在、挿管にて呼吸管理しています―――」
 先に搬送先に症状を知らせることで、受け入れ態勢が整い、すぐに治療が行われる。
 集められた他の傷病者は、みな擦り傷程度だった。
 救急車で対応できると判断した。
 次に原は追突した軽自動車のもとに急いだ。体のほとんどがひしゃけた車体で覆われている。見えるのは左手の手首から先だけだった。扉が切断されていても治療できることは、ほとんどない。
「石垣総合病院救命救急センター、フライトドクターの原です。お名前は言えますか?」
「・・・武藤・・・信二」
「武藤さん、今痛いところはどこですか?」
「・・・両足と右手の感覚が全くない。痛いところは頭と胸・・・」
 潰れた車に覆われて、顔も体も見ることはできなかった。
 痛いと訴える患部もまったく見えない。触れることすらできない。
「少しでも体が楽になるように輸液を入れますね」
「・・・はい」
 見える左手の手首より少し上に18Gのサーフロ針。
 輸血が必要になったときに、そのまま使えるように。救出できた時には、そのままMRIにも行くことができる。指の先端にパルスオキシメータ(動脈血酸素飽和度)をはめ、サチュレーションを測定する。
 酸素だけでも送ることができないか、隙間を探してみるが、ほんの少しの隙間もなかった。怪我の状態も出血量も、なにも確認することすらできない。
 いったん車の座席から、体を引き出す。
 潰れた車体は、狭くそれほど大柄ではない原でも、かなりの圧迫感を感じる。
 運転席側は、もっと破損が大きくて、疾病者に触れることはできなかった。
 レスキュー隊のひとりが、原に近づいてきた。
 原は小さい声で、状況確認をする。
「どれくらいで救出できそうですか?」
「無理に動かすと、トラックが落ちてきて軽自動車の上に降ってくる恐れがあります。なので、慎重にせざるを得ません」
 最悪な事態が頭を過る。救出不可能。
 一番不安なのは、取り残されている患者自身だ。
「原先生・・・あっ」
 南が戻ってきて、目の前の惨状に悲鳴をあげる。
「南さんは危険だから、少し下がっていて」
「原先生だって」
「僕は医者だよ。ここで怖がってどうするの?」
「わかりました」
 彼女を少し下がらせて、原はもう一度、助手席側から、上半身を車体にいれる。
「頑張ってください。もう少しで救出されますよ」
「・・・はい」
「お年はいくつですか?」
「・・・ろくじゅうご・・・です・・・」
 できることは励ましの声をかけ続けることだけだ。
「今日はどこかにお出かけになっていたんですか?」
「・・・ええ、ええ、ネモフィラがきれいにさいていたので・・・」
返ってくる声は徐々に小さくなり。
「・・・さつえいりょこうに・・・」
しまいには何の反応もなくなった。
「ネモフィラは、水色の綺麗な花ですね。美しかったでしょうね」
「・・・・・・」
 握り続ける手から力が抜けていった。体温が急速に奪われていく。
 サチュレーションと一緒に表示される脈拍が0になって、エラーに変わる。
 原は目を閉じて、そっと男性の手をシートの上に置いた。
 手首に触れて、脈拍を確認する。
 フライトスーツのポケットからナースウオッチを取り出して、時間を確認する。
「死亡を確認しました。時間は―――」

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