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イース②
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夢を見た。
青い花が咲き乱れる場所で、黒髪の少女が笑っている。強い風が吹いて、草や土の匂いに混じり、少女の髪の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
これは、村にいた頃の夢だ。
村の外れにある木の柵を潜り抜け、茂った木々の間を抜けると、その先に小さな丘があるのだ。春になるとそこは一面小さな青い花が咲き、とても美しい景色が見られる。偶然見つけたその場所は、俺とリシュリーだけの秘密の場所だった。多分知っている人は他にもいたとは思うけど。幼い俺たちは、自力で見つけた美しい景色に心奪われ、有頂天になっていた。
花の名前は……なんだっけ。いつか二人で調べた筈なのに、忘れてしまった。
初めてあの青い花を見た時、リシュリーは目を輝かせていた。隣で柔らかに微笑んだ彼女を見た瞬間、思ったんだ。
俺はこの子をお嫁さんにする、って……。
だけど変だ。
夢だけど、確かにあった出来事なのに。
隣を向いても、リシュリーの顔が見えないんだ。喜びに揺れるあの美しい薄紫色の瞳を無性に見たかった。
耳の奥で、声が聞こえる。幼い子どもの、懐かしい声。
『りちゅりー、じゅっといっちょだよ!』
『うん! いーしゅとりしゅは、じゅっといっちょ!』
ああ、そうだ。ずっと昔から約束していたんだ。ずっと一緒だって……。
夢の中、俺は思わず少女の頬に手を伸ばす。
だけど、伸ばしたその手は彼女には届かない。
顔の見えない彼女の、しかし口元が動くのだけは何故か分かった。
「うそつき」
そして、彼女は目の前から消えてしまった。
✚✚✚✚✚
「夢、か………」
只の夢だ。だけど目覚めてから暫く、うそつき、という声が耳にこびり付いていた。
顔を洗って、剣を握り演習場へ向かう。出勤にはまだ早いがすっかり目が醒めてしまった。ここの所サボり気味だった朝練をするには丁度いい。
一心不乱に木刀を振っていると、まるで昔に戻ったみたいだ。自分に〈剣士〉スキルがあると分かってから、村にいた時も素振りを欠かしたことは無い。
「今朝は早いんだな」
背後から聞こえた声に振り向くと、同僚騎士のエイダンが立っていた。
俺より少し年上の彼は、先日までは辺境近くに派遣されていた。王都に戻ってきたのは俺の入隊より少し後だから、先輩だけど、同期のような気安さで接することが出来る不思議な存在だ。
「久々に早く目が覚めたんだ」
「てっきりアルカ嬢のとこだと思った。昨日店にいただろ?」
「……見てたのか?」
「まぁな。サリアちゃんがいないから早く帰ったけど」
成程、と頷きながら、少しバツが悪くて目を逸らす。
俺とアルカが出会ったあの店は、元々はエイダンに連れて行って貰った店だったから。
元々王都近郊で育ったらしいエイダンは王都周辺の地理に詳しく、美味しい飯屋も楽しく遊べる酒場も人気のデートスポットも女に人気の宝飾店も――兎に角よく知っていた。
この所は以前より行動を共にすることが減ったが、王都に出てきたばかりの頃は色々な場所に連れて行って貰っていた。
程々に遊んでいるらしい彼は、お気に入りの女目当てにアルカの働くあの店に定期的に足を運んでいるらしく、たまたま誘われて同行したのが最初だった。
着飾った女性に給仕してもらうような店に行くのが初めてだった俺は、場違いさにそわそわし、ひどく緊張していた。自然体でお気に入りの女と話すエイダンに尊敬の眼差しを向けたものだ。
そんな俺の緊張をほぐしてくれたのがアルカだった。肉厚の唇で艶めかしく笑うアルカに、俺の目は釘付けになった。
アルカは、村にいたら決して出会えないタイプの女だった。
思えば、あの頃から俺は段々とリシュリーを他の女と比べるようになった気がする。
「なぁ、ひとつ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「……お前、本当にリリーちゃん……いや、リシュリーちゃんとは何でも無かったんだよな? 彼女の話は嘘なんだよな?」
「は? なんで今更そんなこと聞くんだ」
俺は内心どきりとしながらも訝しげな顔を作る。射貫くようなエイダンの視線に目を逸らしてしまいたくなるが、そうするべきではないと直感で分かった。
俺を呼んでいる女がいる――エイダンにそう声を掛けられたのは、少し前のことだ。女の名前は“リリー”。
リシュリーのことだと直ぐにピンと来たが、面倒事の気配を感じ、咄嗟に「知らない女だ」と口走ってしまった。
それは俺に、後ろ暗い所があったからだ。
物心つく前から、俺とリシュリーはくっついて育った。気付けばリシュリーは一番大好きで大切な女の子になっていて、いつも自分の側にいるのが自然だった。一生一緒にいたいと思っていた。
だから、王都に誘った。リシュリーが王都に興味が無いのは分かっていた。リシュリーは村の同年代の子と比べて、村の外の派手な人や物に浮つくこともなく、流行に左右されるタイプでは無かったからだ。あの頃の俺は、リシュリーのそういう落ち着いた所も好きだった。
リシュリーのことだけを考えるなら、家族や友人に囲まれたこの村で夫婦として暮らしていくのが最良だっただろう。
だけど、俺は騎士になる夢を捨てきれなかった。田舎の村では〈剣士〉スキルなんて持っていたって宝の持ち腐れだ。
王都に行けば、騎士になれる。金も手に入る。だから村にやってきた騎士様に誘われた時、二つ返事で了承していた。まぁ、舞い上がっていた、とも言う。
それでも俺の中ではリシュリーと一緒に生きることは確定事項で、彼女のいない生活なんて考えられなかった。
どうにか一緒に来てほしくて、言葉を尽くしてリシュリーを誘った。頷いてくれた時は喜びと安堵で胸が一杯になった。
そして王都にやってきた俺たちは、リシュリーが成人するのを待って、結婚することにした。
俺も騎士になるまで知らなかったことだが、平民の時と違い、教会で誓約書にサインしただけでは夫婦と認められないらしい。王宮に書類を提出する必要があるが、どうせ職場が王宮なのだ。仕事のついでに俺が書類を提出し、申請することで話はついた。
だが――結果的に、俺はその書類を出さなかった。
わざとじゃない。わざとじゃなかったんだ。……少なくとも初めは。
書類を出しに行こうと思っていた日、王宮内に不審者が侵入した。無事に不審者を捉えた時にはすっかり日は暮れ、貴族籍管理科の窓口は閉まっていた。
既にリシュリーとは一緒に暮らしているし、夫婦みたいなものだ。書類の提出が一日遅れるくらいなんてことない。
仕方ないので、翌日に持ち越すことにした。
翌日は他国から要人数人が極秘で訪れているとかで、勤務時間が押していた。なんとか退勤し書類提出に向かうが、広い王宮の中で深くにも迷ってしまった。そしてまたその日も窓口には間に合わなかった。
そんな日が何日も続く内、次第に俺は書類のことを忘れがちになった。
大分後になって知ったことだが、書類は騎士団長経由で提出すれば、勤務時間内に団長付の文官が処理してくれたらしい。
でもそれを知った時にはもう、俺のリシュリーへの気持ちは少しずつ離れていた。
飾り気のない素朴な可愛さも、小柄で守ってあげたくなるようなところも、他の男を知らないかたい身体も――村にいた頃、大好きだった美点に、気付けば段々と嫌悪を覚えるようになっていた。一度不快感を抱くと、次々と嫌な所ばかり目につく。
幸い、まだ結婚式も挙げていない。俺たちはまだ若いし、急いで夫婦にならなくても良いんじゃないか。だって結婚しようと思えばいつだって出来るんだから。
そんな理屈で、俺はリシュリーとの結婚を申請することはしなかった。
俺が罪悪感を抱いたのは、結婚を先延ばしにすると決めたこと自体ではなく、二人のことなのにそれを一方的に決め、しかもリシュリーに知らせることをしなかったからだ。
騙そうと思ったわけじゃない。王都まで連れてきて、やっぱり結婚を一旦止めよう、なんて言われたら、リシュリーが傷付くと思ったんだ。少しの間、距離を置きたいだけ。
その時は結婚を先延ばしにしたからといって、リシュリーと別れるつもりなんてなかった。いずれ時機を見て結婚するなら、わざわざ傷付けるようなことは言わなくてもいいだろう、と判断した。
だけど、時間が経てば経つほど、俺とリシュリーの距離は埋めがたいものになり、結婚するなんて考えられなくなった。
青い花が咲き乱れる場所で、黒髪の少女が笑っている。強い風が吹いて、草や土の匂いに混じり、少女の髪の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
これは、村にいた頃の夢だ。
村の外れにある木の柵を潜り抜け、茂った木々の間を抜けると、その先に小さな丘があるのだ。春になるとそこは一面小さな青い花が咲き、とても美しい景色が見られる。偶然見つけたその場所は、俺とリシュリーだけの秘密の場所だった。多分知っている人は他にもいたとは思うけど。幼い俺たちは、自力で見つけた美しい景色に心奪われ、有頂天になっていた。
花の名前は……なんだっけ。いつか二人で調べた筈なのに、忘れてしまった。
初めてあの青い花を見た時、リシュリーは目を輝かせていた。隣で柔らかに微笑んだ彼女を見た瞬間、思ったんだ。
俺はこの子をお嫁さんにする、って……。
だけど変だ。
夢だけど、確かにあった出来事なのに。
隣を向いても、リシュリーの顔が見えないんだ。喜びに揺れるあの美しい薄紫色の瞳を無性に見たかった。
耳の奥で、声が聞こえる。幼い子どもの、懐かしい声。
『りちゅりー、じゅっといっちょだよ!』
『うん! いーしゅとりしゅは、じゅっといっちょ!』
ああ、そうだ。ずっと昔から約束していたんだ。ずっと一緒だって……。
夢の中、俺は思わず少女の頬に手を伸ばす。
だけど、伸ばしたその手は彼女には届かない。
顔の見えない彼女の、しかし口元が動くのだけは何故か分かった。
「うそつき」
そして、彼女は目の前から消えてしまった。
✚✚✚✚✚
「夢、か………」
只の夢だ。だけど目覚めてから暫く、うそつき、という声が耳にこびり付いていた。
顔を洗って、剣を握り演習場へ向かう。出勤にはまだ早いがすっかり目が醒めてしまった。ここの所サボり気味だった朝練をするには丁度いい。
一心不乱に木刀を振っていると、まるで昔に戻ったみたいだ。自分に〈剣士〉スキルがあると分かってから、村にいた時も素振りを欠かしたことは無い。
「今朝は早いんだな」
背後から聞こえた声に振り向くと、同僚騎士のエイダンが立っていた。
俺より少し年上の彼は、先日までは辺境近くに派遣されていた。王都に戻ってきたのは俺の入隊より少し後だから、先輩だけど、同期のような気安さで接することが出来る不思議な存在だ。
「久々に早く目が覚めたんだ」
「てっきりアルカ嬢のとこだと思った。昨日店にいただろ?」
「……見てたのか?」
「まぁな。サリアちゃんがいないから早く帰ったけど」
成程、と頷きながら、少しバツが悪くて目を逸らす。
俺とアルカが出会ったあの店は、元々はエイダンに連れて行って貰った店だったから。
元々王都近郊で育ったらしいエイダンは王都周辺の地理に詳しく、美味しい飯屋も楽しく遊べる酒場も人気のデートスポットも女に人気の宝飾店も――兎に角よく知っていた。
この所は以前より行動を共にすることが減ったが、王都に出てきたばかりの頃は色々な場所に連れて行って貰っていた。
程々に遊んでいるらしい彼は、お気に入りの女目当てにアルカの働くあの店に定期的に足を運んでいるらしく、たまたま誘われて同行したのが最初だった。
着飾った女性に給仕してもらうような店に行くのが初めてだった俺は、場違いさにそわそわし、ひどく緊張していた。自然体でお気に入りの女と話すエイダンに尊敬の眼差しを向けたものだ。
そんな俺の緊張をほぐしてくれたのがアルカだった。肉厚の唇で艶めかしく笑うアルカに、俺の目は釘付けになった。
アルカは、村にいたら決して出会えないタイプの女だった。
思えば、あの頃から俺は段々とリシュリーを他の女と比べるようになった気がする。
「なぁ、ひとつ聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「……お前、本当にリリーちゃん……いや、リシュリーちゃんとは何でも無かったんだよな? 彼女の話は嘘なんだよな?」
「は? なんで今更そんなこと聞くんだ」
俺は内心どきりとしながらも訝しげな顔を作る。射貫くようなエイダンの視線に目を逸らしてしまいたくなるが、そうするべきではないと直感で分かった。
俺を呼んでいる女がいる――エイダンにそう声を掛けられたのは、少し前のことだ。女の名前は“リリー”。
リシュリーのことだと直ぐにピンと来たが、面倒事の気配を感じ、咄嗟に「知らない女だ」と口走ってしまった。
それは俺に、後ろ暗い所があったからだ。
物心つく前から、俺とリシュリーはくっついて育った。気付けばリシュリーは一番大好きで大切な女の子になっていて、いつも自分の側にいるのが自然だった。一生一緒にいたいと思っていた。
だから、王都に誘った。リシュリーが王都に興味が無いのは分かっていた。リシュリーは村の同年代の子と比べて、村の外の派手な人や物に浮つくこともなく、流行に左右されるタイプでは無かったからだ。あの頃の俺は、リシュリーのそういう落ち着いた所も好きだった。
リシュリーのことだけを考えるなら、家族や友人に囲まれたこの村で夫婦として暮らしていくのが最良だっただろう。
だけど、俺は騎士になる夢を捨てきれなかった。田舎の村では〈剣士〉スキルなんて持っていたって宝の持ち腐れだ。
王都に行けば、騎士になれる。金も手に入る。だから村にやってきた騎士様に誘われた時、二つ返事で了承していた。まぁ、舞い上がっていた、とも言う。
それでも俺の中ではリシュリーと一緒に生きることは確定事項で、彼女のいない生活なんて考えられなかった。
どうにか一緒に来てほしくて、言葉を尽くしてリシュリーを誘った。頷いてくれた時は喜びと安堵で胸が一杯になった。
そして王都にやってきた俺たちは、リシュリーが成人するのを待って、結婚することにした。
俺も騎士になるまで知らなかったことだが、平民の時と違い、教会で誓約書にサインしただけでは夫婦と認められないらしい。王宮に書類を提出する必要があるが、どうせ職場が王宮なのだ。仕事のついでに俺が書類を提出し、申請することで話はついた。
だが――結果的に、俺はその書類を出さなかった。
わざとじゃない。わざとじゃなかったんだ。……少なくとも初めは。
書類を出しに行こうと思っていた日、王宮内に不審者が侵入した。無事に不審者を捉えた時にはすっかり日は暮れ、貴族籍管理科の窓口は閉まっていた。
既にリシュリーとは一緒に暮らしているし、夫婦みたいなものだ。書類の提出が一日遅れるくらいなんてことない。
仕方ないので、翌日に持ち越すことにした。
翌日は他国から要人数人が極秘で訪れているとかで、勤務時間が押していた。なんとか退勤し書類提出に向かうが、広い王宮の中で深くにも迷ってしまった。そしてまたその日も窓口には間に合わなかった。
そんな日が何日も続く内、次第に俺は書類のことを忘れがちになった。
大分後になって知ったことだが、書類は騎士団長経由で提出すれば、勤務時間内に団長付の文官が処理してくれたらしい。
でもそれを知った時にはもう、俺のリシュリーへの気持ちは少しずつ離れていた。
飾り気のない素朴な可愛さも、小柄で守ってあげたくなるようなところも、他の男を知らないかたい身体も――村にいた頃、大好きだった美点に、気付けば段々と嫌悪を覚えるようになっていた。一度不快感を抱くと、次々と嫌な所ばかり目につく。
幸い、まだ結婚式も挙げていない。俺たちはまだ若いし、急いで夫婦にならなくても良いんじゃないか。だって結婚しようと思えばいつだって出来るんだから。
そんな理屈で、俺はリシュリーとの結婚を申請することはしなかった。
俺が罪悪感を抱いたのは、結婚を先延ばしにすると決めたこと自体ではなく、二人のことなのにそれを一方的に決め、しかもリシュリーに知らせることをしなかったからだ。
騙そうと思ったわけじゃない。王都まで連れてきて、やっぱり結婚を一旦止めよう、なんて言われたら、リシュリーが傷付くと思ったんだ。少しの間、距離を置きたいだけ。
その時は結婚を先延ばしにしたからといって、リシュリーと別れるつもりなんてなかった。いずれ時機を見て結婚するなら、わざわざ傷付けるようなことは言わなくてもいいだろう、と判断した。
だけど、時間が経てば経つほど、俺とリシュリーの距離は埋めがたいものになり、結婚するなんて考えられなくなった。
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