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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「カナちゃん、行っちゃヤダ……」
物心ついた頃から、ずっと一緒にいて、大好きだった幼馴染のカナちゃんこと水城奏。
彼の唯一の家族だった母親が亡くなり、遠い街の親戚に引き取られることになってしまった。
――それはわたしが十歳で彼が十四歳の秋のこと。
ふたりとも早くに片親を亡くしていたせいか、お互いの寂しさがわかる、とても心の距離が近い相手だった。
母はわたしが五歳の時に亡くなったけれど、父とはその前から一緒に暮らしてはいなかった。
父はわたしより再婚相手とその娘との生活を取ったから……
「ねえ、もう一度うちのおじさんに頼んでみようよ?」
身体の弱かった母に代わり、わたしをこれまでずっと育ててくれたおじは母の兄にあたる。
そしてカナちゃんはおじが監督を務める少年野球チーム〈ストライカーズ〉の一員で、おじの息子……つまりわたしの従兄と同い年で仲がよく、わたしともよく一緒に遊んでくれた。彼の母親が夜遅くまで働いていたのもあって、家でご飯を食べたり泊まったりする家族同然の付き合いだった。
おじの家は元々チームの子やOBの人たちの出入りが激しかったし、誰かが下宿していることも多かった。だからカナちゃんが中学を卒業するまでのたったの半年間。おじさんに頼めば、どうにかなると思っていたのに……
「監督に頼んでも無理なんだ。でもいつか――奈々がおとなになったら迎えに来るよ」
「ホントに?」
それが本当ならどれだけうれしいことか。
わたしは泣きながらカナちゃんにすがりつく。
彼には異国の血が混じっていて、瞳を下から覗き込むと蒼みがかったグレーに見える。
わたしはその瞳を見るのが大好きだった。
「だから泣かないで。奈々に泣かれるのが一番つらいよ」
彼はわたしの涙を指で拭い、おでことまぶたにやさしいキスを落とした。
わたしがちいさい頃はよくしてくれたけれど、いつのまにかしてくれなくなったおまじない。
「絶対……約束だよ?」
「約束するよ。だから、奈々のここのキスを僕に予約させて?」
そっとわたしの唇に触れる彼の指は長くて綺麗で……おとなの男の人みたいに思えた。
「いいよ、カナちゃんなら……だからきっと迎えに来てね」
離れてしまうのは悲しかったけれど、彼がそう約束してくれたことがうれしかった。
だけどその後、彼からの連絡はまったくなかった。
何度も書いた手紙は、いつしか宛先不明で戻ってくるようになった。
わたしの一番はいつだってカナちゃんだったけど、四つ年上の彼からすればわたしはまだまだ子供で……恋愛対象になれないってことはわかっていたのに。
別れ際の約束がうれしくて……それからもずっと、馬鹿みたいに彼を待ち続けてしまった。
――あれから十四年。
わたしのファーストキスはいまだ、誰のモノにもなっていない。
カナちゃんのことはとっくの昔に諦めている……
ただ、彼以上に好きになれる人ができなかっただけ。
そして誰とも付き合うことのないまま、わたしは二十四歳の秋を迎えた。
1 コネ就職の悲劇
「上野奈々生。来週から経営企画部へ異動してもらいたい」
お昼休み前、上司に呼び出され、突然言い渡された人事異動はあまりにも想定外すぎて……わたしの思考回路は思いっきり停止してしまった。
「はい? あの、わたしが……経営企画部へ、ですか?」
わたしが勤める綱嶋物産は海外にも支社を持つ大手企業だ。
その会社の経営企画部といえば会社の中枢。高学歴でバイリンガルな総合職のエリート社員たちが多く在籍している。
そこに一般職で総務部勤務二年目のわたしが異動?
無名私立女子大学の国文学科卒業で、英語もまともに話せないというのに!
「君には新しく就任する経営企画部統括部長のアシスタントに就いてもらいたい。なに、アシスタントと言っても語学力や専門知識は必要ない。スケジュール管理をする秘書のような仕事だ」
統括部長といえばうちでは常務取締役が兼任するポスト、つまり重役になる。
「あの、それほどの大役でしたら秘書課の方が適任ではないのですか?」
わたしに秘書のスキルはまったくないのだから。今までの仕事でも特別評価されるような活躍はしていないし、総務の仕事を無難にこなすのが精一杯だ。せめて容姿やスタイルがよければ今回抜擢された理由になるのかもしれないけれど、わたしの見た目は至って普通……だと思う。
幼い頃からおじ家族などに『可愛い』と言われて育ったけれど、それは周りにいるのが男の子ばかりだったからだ。
その証拠にいまだ男の人と付き合ったことがない。
恋愛らしき話は、初恋のカナちゃんとのことだけ……
それに、本当に可愛いというのはあの子みたいな娘のことを言うのだ。――父の再婚相手の娘、お人形さんみたいに可愛らしかった義姉。
「君は、海外事業部の綱嶋奏くんを知っているね」
「あ、はい。それはもちろんです」
綱嶋物産の次期後継者と言われている彼を社内で知らない人はいない。
子供のない社長夫婦が養子に迎えた甥で、アメリカの大学を出てMBAを取得後にこの会社へ入社。そしてある事件があったあと、海外支社立ち上げのために二年前からドイツに赴任中だ。
わたしが入社した時すでに日本にいなかったので、まだ一度もお目にかかったことはない。ただ、どうやらかなりのイケメンで仕事もできる人らしく、いまだに先輩方や女性社員の話に上がる。
射止めれば玉の輿だけど、残念なことにすでに婚約者ありだ。
「実は先日の役員会で彼が統括部長に就任することが決まったのだよ。急ぎ帰国することになったが、彼のアシスタントを務める翠川くんは現地での引き継ぎのために残らなくてはならなくてね。彼が戻ってくるまでの間、君にアシスタントをやってもらいたい。なに、ほんの三ヶ月の間のことだ」
「あの、他に適任者がいらっしゃるはずです。わたしでなくても……」
たとえ短い期間でも無理! わたしにはそう言い切りたい事情があった。
「いや、君にしか頼めんのだよ。彼が海外勤務になった理由は、君も聞いたことがあるだろう?」
――確かにわたしも知っている。それは有名な話だった。
二年前、彼に好意を寄せていた同期の女性社員が社内でカッターを振り回し、綱嶋さんに近づこうとした別の女性を切りつけたという。止めに入った綱嶋さんが軽い怪我をしたそうだが、危害を加えた社員というのが社長夫人の身内だったらしく、事件は公にならなかった。
それ以来、彼には女性の部下やアシスタントはつかなくなったと聞いている。
けれど一応わたしも女なんだけど? それはかまわないのかとツッコミたくなる。
「彼が君を指名したのだよ。その理由は……君にも心当たりがあるはずだ」
「そ、それは……」
わたしは……それが理由で避けたかったのだ。
「君は、彼の婚約者である宮之原美麗さんの義理の妹にあたるそうだね」
そう、彼の婚約者はわたしの義理の姉。といっても、もう十八年は会っていないけれど。
闘病中の母と幼かったわたしを捨てて父が再婚した女性の連れ子、それが義姉だ。
再婚相手は大正時代から続く宮之原財閥一族の娘で、父とはその系列会社に勤めていた時に出会ったらしい。
母は産後に身体を壊し入院しがちだったため、わたしはちいさい頃からスポーツ用品店を営むおじ夫婦に預けられて育った。父は仕事が忙しく、たまにしか会いに来られないと聞かされていたけれど……本当は不倫し、彼女の家族と一緒に暮らしていたからだった。
そのうち彼女が妊娠し、お腹の子供を盾に離婚を迫り――病床の母はそれを受け入れたという。そして母は生きる気力を失い……しばらくして亡くなってしまった。
父は再婚時に宮之原の婿養子に入っており、現在はその系列会社の重役を務めながら、再婚相手と義姉、異母妹の四人で暮らしている。
わたしは父から養育費をもらっていたものの、ほとんど一緒に暮らしたことがない。
ああ……こんなことなら、いくら卒業間際に内定先が潰れたからといって、長年疎遠だった父に就職先を頼ったりしなければよかった。
宮之原系列でない会社を就職先にと頼んだ時、大手企業を紹介してくれたのは、実の娘に対してすこしでも愛情が残っていたからだと思っていたのに……かえって悪い結果を招いてしまった。
まさか綱嶋が義姉の婚約者の会社だったなんて! そのことを知ったのは随分あとだけど、わかった時にやめておくべきだったのだ。
わたしを嫌っている義姉が、このことを知ったらどうなるのか……考えただけでも恐ろしい。
「とりあえず、明日から秘書課で研修を受けるように。連絡はしてあるから」
「そんな……」
「まあ、頑張りたまえ」
そう言い残し、上司はわたしに書類を手渡すとさっさと会議室を出ていってしまった。
どうすればいいのかな……。悩みながら職場へ戻るその足取りは重い。
「ただいま……」
すでにお昼休憩の時間に入っていたらしく、総務部にいるのは惣菜パンにかぶりついている同期の田原邦だけ。お弁当組のわたしは、いつも彼女と一緒にデスクでお昼を食べている。
「ちょっと、どうしたのよ? 落ち込んだ顔して……なにかあった?」
くりくりした目を見開いて、心配そうにこちらに視線を向けてくる邦の表情はとても可愛い。
小柄で小動物のような彼女は、見かけによらず超積極的な肉食系女子だ。
わたしとは対照的な性格だけど、さっぱりしていて案外気が合っていた。
「どした、奈々生? 悲愴な顔して」
わたしたちに声をかけながら総務部に入ってきたのは、四期上の真木理保子先輩。彼女は入社当時わたしの指導社員で、仕事もできる才媛だ。この春から営業部に異動してしまった。
外回りが多く先輩もかなり忙しいようだけれど、彼女が内勤の時はこうして三人一緒にお昼を食べている。
「ちょっと上に呼び出されてました……。先輩は午後から外回りですか?」
「今日はずっと内勤よ。それで、用件はなんだったの?」
先輩は空いてる席に座ると、テイクアウトしてきた食べ物の袋を取り出した。それを見てわたしも自分のお弁当箱を開ける。今日のおかずは昨夜おばさんが作ってくれたロールキャベツ。よく味の染みたそれを頬張ると、すこしだけ落ち着けた。
「実は……来週から経営企画部へ異動するようにって。新しく着任する統括部長のアシスタントに任命されたんです。なので明日から一週間、秘書課で研修を受けなきゃならなくて」
「なっ、奈々生が経営企画部へ……異動?」
「ええっ? 嘘でしょ?」
ふたりには思いっきり驚かれてしまった。邦は食べていたカスクートを喉に詰まらせるし、先輩は飲みかけていた珈琲を噴き出しそうになっていた。
「それで、新しい統括部長って……誰?」
「海外事業部の綱嶋さんです。社長の甥の」
「へえ、綱嶋さん帰国するんだ。アシスタントっていいなぁ……。奈々生、絶対会わせてよね」
邦は単純によろこんでいるけれど、こっちはちっともうれしくない。
「綱嶋くんがそのポストに就くのはわかるけど、どうして奈々生がアシスタントに抜擢されたの?」
先輩と綱嶋さんは確か同期だ。黙っているわけにもいかず、とりあえず簡単に事情を説明した。
綱嶋さんの婚約者がわたしの義姉で、わたしはコネ入社だということを。
「それじゃ奈々生は宮之原のお嬢様だったの?」
邦が目をキラキラさせて聞いてくる。
「父が婿養子に入っただけで、わたしは宮之原とはなんの関係もないよ。それに……わたしは義姉に嫌われてるから」
「嫌われてる? あたしと違って誰にでも好かれる奈々生が?」
邦が素っ頓狂な声で聞き返してくる。男性に対してかなり積極的な彼女は、同性からは少々煙たがられていた。わたしはいい子だと思うんだけど。
「このまま義姉の婚約者のアシスタントになるわけにはいかないのよ。できるだけ早く転職先を決めて、会社を辞めようと思ってて……」
だって、義姉とは二度と関わりたくなかったから。
就職当時はこんな因縁のある会社だとは露知らず、よろこんで仕事をしていた。先輩や邦と出会い、ずっとこの会社で頑張るつもりだったのに……社長の甥が義姉の婚約者だと知り本当に焦った。
ただ、義姉はここ数年海外で仕事をしていると聞いていたし、綱嶋さんが海外勤務中で顔を合わせることがなかったため、つい彼が帰国するまでは勤め続けてもいいかと先延ばしにした結果がこれだ。
「なんで奈々生が会社を辞めなくちゃならないの?」
邦が訝しむのも無理はない。わたしと義姉にはそれほどの確執がある。もっとも、わたしはなにもしていないけれど。
「それって、その女が昔……奈々生を階段から突き落としたことがあるから、だよね?」
「先輩、どうしてそれを?」
この会社の誰にも言ってないはずなのに……
「聞いたのよ、あなたの従兄から」
そっか、慎兄が先輩に話したんだ。それとも先輩が聞いたのかな?
あの事件のトラウマから、わたしは今でも階段を降りるのが苦手で、やたらと手すりを持つ癖が抜けない。先輩はそれに気がついていたらしい。
――そう、あれは母が亡くなり一時期父の家に引き取られていた頃のこと。その時わたしは、しばらくの間ひとりでは階段を降りられないほどのトラウマを負った。
なんとか手すりを持って降りられるようになったのは、一緒に階段を降りる練習をしてくれた四歳上の従兄の慎兄や、大好きだった幼馴染のカナちゃんのおかげだ。
十九年前……母が亡くなったあと、すでに再婚していた父はわたしを引き取るとおじたちを押し切った。だけどそれはわたしのためでなく、自分たちの世間体のため。
そのことをわたしは、すぐに思い知る。父は最初から他人行儀で、継母も義姉も迷惑がっている態度を隠そうとしなかったから。
『わたしのパパなんだから、近づかないで! あんたなんか早く出ていっちゃえ!』
引き取られたその日の夜、父のいない所で義姉にはっきりとそう言われた。
おじの家で周りにいたのは男の子ばかりで、わたしは義姉ができることを密かに期待していたというのに、まったく歓迎されていなかったのだ。
病床の母に離婚を迫るような継母にしても、わたしをよく思うはずがない。それに継母は、生まれたばかりの異母妹のことで手一杯だった。
たまに父が早く帰ってきても、義姉がべったりくっついて近寄ることもできなかった。確かに義姉はわたしより長く父と暮らしていたし、甘え下手のわたしより仲が良く、本当の娘のように見えた。
――本当はわたしのお父さんなのに……
悔しかったけれど、そう言いたくても言えないほど父と距離があった。
父だって懐かない実の娘より、見た目も可愛らしい義姉のほうがいいに決まっている。だからわたしと暮らそうともしなかったし、会いに来なかったのだろう。さらに今は、父と継母、ふたりの間にできた異母妹もいる。
それでも父が家にいる日はまだよかった。いない日は宮之原家の人たちに徹底的に無視される。
わたしが自室にいれば勝手にごはんがいらないことにされるし、洗濯物を出せば捨てられていたこともあった。
『それ服だったの? 雑巾かと思ったわ』
義姉はそう言って、おばが持たせてくれた服を馬鹿にしてゴミ箱に捨てていたのだ。
彼女や異母妹はいつだって可愛らしくて高そうな服を着ていたから、それと比べれば質素だったのは事実。だけどその服はおばが選んで買ってくれたものだったからすごくショックで……
しかし義姉に捨てられたことを言おうものなら、継母に『美麗がそんなことするはずないでしょ!』と怒鳴られる始末。
わたしはその家にいるのが嫌で嫌で、おじさんの家に帰りたくて堪らなかった。
だけど、おじさんに『やっとお父さんと暮らせるのだから、可愛がってもらうんだぞ』と送り出された以上、すぐに帰りたいとは言えなかった。
もしかしたら、わたしが戻ると迷惑かもしれない……と思っていた。
そんなわたしが父の家にいられなくなる出来事があったのは、そう――あれは母の命日に近い日曜日の朝だった。
その日、父とわたしはふたりだけで母の墓参りに行くことになっていた。わたしは、もしかしたら墓地でおじの家族と会えるかもしれないと密かに期待していた。
『奈々生、そろそろ出かけよう。車で待ってるから早く降りてきなさい』
父に呼ばれ、二階の自室を出て階段を降りようとした、その時――わたしはいきなり誰かに背中を押された。
体勢を崩して落ちる瞬間、うしろに伸ばした手で掴んだそれと一緒に、踊り場まで転げ落ちた。
先についた左手から鈍い音がし……そのあとわたしの上にそれが落ちてくる。
あちこちを酷く打っていたけれど、その痛みをすぐに感じることはなかった。しばらくの間は頭が真っ白になっていたから……
『痛いよぉ! ママ、パパ!』
その声に驚き、ようやく目を開けると、泣き真似をしながらわたしを見下ろす義姉の姿が見えた。
『この子が悪いのよ! わたしを引っ張ったの……頭が痛いわ。いっぱい打ったのよ』
そう言いながら、継母に泣きつく義姉。
彼女の服をわたしが引っ張った? 確かにそうかもしれないけれど、それはうしろから押された時に咄嗟に掴んだだけなのに。
『なんてことしてくれるのっ!』
身体を起こし『違う』と言いかけたその瞬間、継母が恐ろしい顔でわたしの頬を打った。
その勢いでふたたびうしろに倒れ込んだわたしは、またもや頭を床に打ちつける。
『美麗、かわいそうに……すぐに病院へ連れて行ってあげるからね』
痛い痛いと泣き叫びながら、両親と車で出ていく義姉。誰もいない家に取り残されたわたし。
誰かに痛みを訴えることもできず、しばらくの間、呆然としていた。
時間が経つと左手首がジンジンと痛みはじめたけれど、怖くて動かせない。
『おじちゃん、おばちゃん……いたいよぉ……ううっ……うえっ……』
泣いて叫んでも助けてくれる人は誰もおらず、痛みはあとからどんどん襲ってきた。
帰りたい。おじさんの家に……
そう思ったわたしは、動かない手首を抱えて家を出た。
駅の方向もわからないまま、よろよろと歩き続ける。あちこちが痛くて、不安で、怖くて……嗚咽が止まらなかった。
――結局通りかかった人が、わたしの頬が腫れているのと、左の腕を抱えたままなのを不審に思い、おまわりさんを呼び……病院へ連れて行ってくれた。
『奈々生! 大丈夫か?』
おじさんたちが駆けつけた頃には治療は終わり、わたしの左手にはギプスが嵌められていた。
家はどこかと聞かれ、わたしは『ウエノスポーツ用品店』と答えたから、おまわりさんがおじに連絡してくれたのだ。
『奈々ちゃん、痛かったよね? だからあんな男のところへ帰すのは反対だったのよ!』
おばさんは駆け寄ると、わたしの腕を気遣いながら抱きしめてくれた。その腕の中は温かくて、止まっていた涙がふたたび溢れてしまう。
『いたかった……こわかったよぉ……ううっ……うわぁーん!』
わたしは泣きながら必死で説明した。義姉にうしろから押されて階段から落ちたこと、あの家でされた仕打ちのいくつかを。
『うんうん、奈々生は悪くなんかないよ。こんな目に遭って……かわいそうに』
『かえりたい……上野のおうちにかえりたいよ』
『ああ、帰ってこい。もう二度とあんな家に返すものか!』
おじさんもそう言ってくれて、ようやくわたしは安心することができた。
わたしは全身打撲で頭部に瘤ができ、左手首の尺骨が折れていたが、脳波に異常はなかった。踊り場のある階段だったのと、子供で身体がやわらかかったのが幸いしたようだ。そうでなければと考えたらゾッとする。
一方の義姉はいくら検査しても瘤すらできていなかったそうだ。わたしの上に落ちたのだから、酷くないのはあたりまえ。それなのに大騒ぎし、病院でも首を傾げられ……自宅に戻るとわたしはおらず、玄関のドアも開きっぱなし。警察から呼び出されて義姉の嘘はバレ、父たちはわたしを虐待していたという疑いをかけられたらしい。
大事にしないでほしいと、父はその日の夜遅く頼みに来た。しかし謝罪してほしいというおじたちの要望に反して、義姉はわたしを突き落としたことを認めず、継母が謝りに来ることもなかった。そのため、おじと父……というよりも宮之原側はかなり揉めたらしい。
おじたちは児童虐待で訴えてでも、わたしを養子にして正式に引き取りたいと交渉したそうだけど、世間体を気にした父はわたしを養子に出すことを拒否。そのうち宮之原側からおじの営むお店に圧力がかけられ……随分と騒がしかった記憶がある。
結局謝罪はなし、慰謝料を含んだ養育費を一括で払うことで話がつき、わたしはおじたちのもとで暮らすことが決まった。
わたしとしてはあちらの家と縁が切れるなら、それでよかった。
「なにそれ……酷すぎっ!」
話し終わると、さっきまでわたしが宮之原の娘だと羨ましがっていた邦の態度が一変していた。
もっとも、母が父と離婚した際、わたしは母を筆頭とした上野の戸籍に入っている。父はわたしを置いて宮之原の養子に入ったので、わたしは宮之原の籍には入っていない。
「人の父親を奪っておきながら偉そうに! 怪我までさせて嘘つくなんて最悪の女じゃん。いくら子供の頃の話でも、そんな女選ぶなんて綱嶋さん最っ低! なんか彼の株が下がったわ。むしろ軽蔑するよ」
酷い言われようだけど、実はわたしもそう思っていた。
あの義姉を選ぶなんて……いくら評判のいい人でも、それだけで好感は持てない。
「だから、綱嶋さんが帰国する前に辞めようと思ってて……」
「なんで? そんな女のために奈々生が会社を辞めることないってば!」
邦はかなり怒り心頭だ。
「でも義姉とはできるだけ関わりたくないの。それなのに今回の人事には面食らっているのよ。義姉とわたしの因縁を知らないにしても唐突すぎて」
「それならいっそのこと、直接彼に事情を話してみたらどう? 大丈夫。綱嶋くんは話のわかる人よ。それは同期のわたしが保証するから」
なるほど、直接ね。ここは本人を知っている先輩の意見を聞くのが得策かもしれない。
「へえ、センパイがそこまで言うってことは、綱嶋さんって噂通りのイイ男なの? もしかしてセンパイと艶っぽい話とかあったりして?」
「邦、それはないわ。確かに彼は綺麗な顔立ちをしてたけど。ちょっとデキすぎてて胡散臭いというか、本心が読めないところのある男だったからね」
「センパイのタイプじゃなかったってこと?」
「あら、観賞用としては最高よ。物腰がやわらかくて、スリーピーススーツの似合う細腰の肩幅がある体型でね。さすがに入社当時はオーダーメイドは着てなかったけど、それでもかなりいいスーツを着てたと思うわ」
はじまっちゃった……先輩のスーツ萌え談義。
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