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1巻
1-2
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クールでカッコイイ先輩なんだけど、スーツ萌えがすごくて、その審美眼はかなり鋭い。
そんじょそこらのスーツでは萌えないどころかダメ出しがはじまる。先輩曰く、日本のビジネスマンはスーツのセレクトが下手なんだって。少々お腹が出てても、体型に合わせてピッタリに仕立てたスーツはその人に合っていて、それも萌えるらしい。
「センパイ、スーツが似合ってても奈々生にとっては憎っくき義姉の婚約者なんだから! なにか対策を考えなきゃだよ」
「そ、そうね。とりあえず奈々生をアシスタントに指名した理由を直接聞いて……すぐに辞めるなんて言わずに、総務に戻してもらえるよう掛け合ってみたらどうかしら。もしすぐに戻れなくても、本来のアシスタントの翠川くんが帰国するまでの三ヶ月間だけなら大丈夫じゃない?」
「そうですよね……別に綱嶋さんに対して文句はないし。ただ、義姉と関わり合いたくないだけだから。義姉がまだ帰国しないのなら、なんとかなるかもですよね?」
話してみる価値はあるかもしれない。それに一週間で転職先を探すのは難しすぎる。
「そうそう。もしかしたら奈々生の話を聞いて、婚約破棄になるかもしれないしね!」
邦、怖いこと言わないで。そんな幼い頃の話で破談になったりしないと思うよ。義姉もそれなりに成長しているだろうし。
「それじゃ、直接話してみます。ただでさえおじの世話になりっぱなしで、いきなり無職になるわけにはいかないですから。いつかひとり暮らしするためにも……」
本当は就職したらすぐにでも、おじの家を出て独立するつもりだった。それなのに、先に慎兄が家を出てしまって、出たくても出られなくなってしまったのだ。
『お願いだから家を出るなんて言わないでちょうだい。慎一がいないだけでも寂しいのに、奈々ちゃんが出ていくなんてダメよ! あなたはずっと、この家にいてくれなきゃ』
おばに泣きつかれて、しかたなく家を出るのは諦めた。
幼い頃から育ててくれた彼女に懇願されては逆らえない。本当の娘じゃないけれど、一生面倒を見るつもりはある。それほど、おじたちには恩を感じているのだから。ただ、慎兄が結婚したらいずれは同居すると思う。あれで親思いなところがあるし、その時に実の妹でもない小姑なんて邪魔なだけだ。その頃には家を出たほうがいいとも思っているけれど。
「奈々生は気を遣いすぎだよ。それだけ苦労してきたんだろうけどね……」
先輩がしみじみと言いながら、ギュッと抱きしめてくれた。
「そんな、たいした苦労してないですよ。養育費はもらってたし、大学まで出してもらえたんですから。おじやおばもやさしくて、本当の娘のように育ててくれて……きっと、父に引き取られるよりもずっと、しあわせだったはずです」
おじたちからは本当の娘になってほしいとも言われている。それも養女とは違う形――つまり慎兄のお嫁さんとして。
「辞める辞めないは綱嶋くんと話してからとして、あとは明日からの研修をどうするかね。なにか言われてる? 服装とか」
「制服じゃなくてスーツでって言われてます。だけど、どんなスーツを着ればいいのか……」
総合職の女性は、わたしたち一般職のように制服ではなく基本スーツだ。真木先輩も、今日はかっこいいパンツスーツ姿。秘書課の社員たちは、他の総合職の人たちのようなシンプルなスーツではなく、華やかなものを着ていることが多い。わたしがそんな服を持っているはずもなく、入社式に着たリクルートスーツを引っ張り出してくるしかないと考えていた。
「それじゃ、明日の研修までにいろいろと準備しなきゃね」
「いろいろとって……」
先輩が思いっきり楽しそうな顔をしている。彼女がこういう顔をするのは、なにか企んでいる時で……
「そうね。総務課の上野奈々生はこれでいいけど、重役のアシスタントになるなら、もうちょっと頑張らないとね」
「えっ、なにを頑張るの? 邦」
ふたりがニッコリ笑って、にじり寄ってくる。
「邦、今日の終業後は緊急ミッションよ! 奈々生を変身させるからね。研修先の秘書課の気取った女どもに、わたしたちの奈々生を馬鹿になんてさせないんだから!」
気持ちはうれしいけど、それは無理じゃないかな? だって素材がモノを言う部分が大きい。
「まあ任せておきなさいって。綱嶋くん好みに仕上げてあげるから」
別に綱嶋さん好みじゃなくてもと、抵抗したけれど……
閉店間際のセレクトショップに連れて行かれ、スーツや靴など一式揃えることに。バッグは先輩が使わなくなったブランド物を異動祝いだと言ってプレゼントしてもらったけど、それ以外の準備で夏のボーナスが半分以上飛んでしまった。
それから更に先輩の知り合いの美容師さんに頼み込んで、髪型を変えてもらい、化粧の仕方も教わった。まあ、外見が変わったところで中身まで変わるわけじゃないけれど。
鏡の中の自分はちょっぴり以前と違って華やかで、お嬢様っぽく見えてくすぐったい。
「ここまでしなきゃダメなんですか? 先輩」
「ダメよ。奈々生はただでさえ自分に自信がないからね。今のまんま出向いても、萎縮するだけでしょう? それが目に見えてるから、ここまでするのよ」
確かに、コネ入社なうえに一般職のわたしは総合職の私服組に引け目を感じていた。容姿に対してのコンプレックスも元々酷かった。それは、可愛らしかった義姉に父親を取られたのが原因だ。
その義姉を選んだ婚約者に会うことに対して、気後れもかなりあった。だけど今の自分なら、すこしだけ大丈夫かなって。
「やれるだけのことをやって挑むのみよ。奈々生は頑張り屋だし、仕事についてはわたしが仕込んだんだから大丈夫よ。自信持ちなさい!」
確かに先輩には、かなり鍛えてもらった。新しい仕事を教わって頑張ればいいだけだ。見た目をこうして整えれば、なんとかなりそうな気がしてくるから不思議。
「そうそう。この勢いで合コンも行っちゃおうよ! 奈々生ったら、合コンも紹介も苦手だって逃げてるけど、いい加減、初恋の君のことは忘れなきゃ。初恋は叶わぬものって言うでしょう?」
「それを言うなら、実らぬものよ、邦」
「やだな、ふたりとも。もうとっくに諦めてるし、合コンや紹介は苦手なだけだよ……」
付き合う相手を品定めするのは嫌だし、誰かと付き合いたいとか思わなかった。
だけど邦や先輩には、初恋の相手が忘れられないからだと思われている。酔った勢いでカナちゃんのことを話したのは失敗だったかもしれない。
「誰とも付き合わないなんて、可愛いのにもったいないよ? 奈々生」
「先輩まで……可愛いなんて言ってくれるのは、身内と先輩たちだけだから」
それに……わたしの場合、彼氏を作らないんじゃなくて作れないだけ。そういう機会もないし、自信もない。実の父親にすら選ばれなかったのだから。
カナちゃんもきっと、別の人を選んだんだ……だから手紙の返事もなく、迎えにも来ない。
――人を好きになるって怖いな。選んでもらえなかったら、行き場のない想いを抱えてつらいだけだもの。
2 再会は突然に
それからの一週間は秘書課で猛特訓を受けた。
たとえ経営企画部所属でも、スケジュール管理等では秘書課と連携しなければならないからだ。
研修内容は、挨拶の仕方や電話の取り方、スケジュールの調整法など。服装や身だしなみは先輩と邦の協力で及第点をもらえたけれど、美しいお辞儀の仕方やお茶の出し方など、秘書課ならではの作法まで厳しく叩き込まれて結構大変だった。
そのうえ秘書課のお姉さま方の視線はたいそう冷たく、嫌味や皮肉も言われた。
皆が密かに狙っている若きイケメン後継者のアシスタントに指名されたのが、わたしでは誰もが納得しないのだ。きっと義姉のような人でなければ……
だけどなにを言われようと頑張るしかなかった。応援してくれる先輩や邦に申し訳ないもの。
「午前中だけって思ってたのに……夕方になっちゃった」
週末、残った仕事と渡された資料を整理してしまうように言われ、日曜まで出勤しなければならなかった。
誰も教えてくれる者がおらず、結局予想以上に時間がかかり、夕方近くに。
ようやく仕事を終え、家の最寄駅から商店街の中にある自宅へ向かう。住居を兼ねたおじの店に来たお客様の邪魔にならないように、裏手にある駐車場側の出入り口に回る。
日曜のこの時間帯なら、おじの指導する少年野球チームの練習も終わり、コーチやOBたちが店にたむろしている頃だ。今日はその相手をするのもしんどい……
「あれ? 誰だろう……」
駐車場には見慣れない白い車。よく見ると従兄の慎兄が乗っている逆輸入された日本の高級ブランド車と色違いだ。
わたしが近づくと、車の中から背の高い男性が降り立つ。
ラフなジーンズにジャケット姿。サングラスをしているので顔はよくわからないけれど、その姿を見ただけで懐かしいような、キュッと胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
まさか一目惚れ? いやいやあり得ない! だってそんなものしたことがない。
だけど、なぜだろう? はじめて見た気がしない……
わたしはその人から目が離せずに、その場で立ち尽くしていた。
「奈々……?」
すこし低くて甘い声がわたしの名を呼ぶ。
この声はまさか……? それなら、さっき胸がキュッとしたのも納得できる。だって、どれだけ年月が経っても彼に逢えばすぐにわかると思っていたから。
ずっとずっと逢いたくて逢いたくて堪らなかったその人……
「――カナちゃん、なの?」
サングラスを外したその顔には、別れた頃の面影があった。
整った顔立ちにシャープな輪郭。なのにやわらかい雰囲気に感じるのは、やさしく笑う表情と、青灰色の瞳のため。
その瞳は光に透けると水晶のように綺麗で、わたしは幼い頃からそれを覗き込むのが大好きだった。薄茶色のやわらかそうな髪が夕日を浴びてきらめいて見える。
「ああ、そうだよ。僕の奈々……逢いたかったよ」
微笑みながらやさしく語りかけてくるこの声。昔よりも低くなっているけれど聞き覚えがある。それに、話す時の独特のイントネーションは間違いなく『カナちゃん』のものだ。
「カナちゃん!」
わたしは思わず駆け寄り、彼の腕の中に飛び込んだ。
ぎゅうっと抱きつくとそれ以上の力で抱きしめ返され、伝わる温もりで実感する……ああ、カナちゃんだって。
だけど頬に押しつけられた彼の衣服から香るのは、すこしスパイシーで甘い大人のフレグランス。
子供の頃、抱きついて甘えた時にTシャツやユニホームからした土埃や汗の匂いはもうしない。
「わたしも……逢いたかった」
――ああ、そっか。わたしは諦めたふりをしていただけで、ちっともカナちゃんのことを諦めていなかったんだ。
ずっと好きなままで……そのことを忘れようとしていただけで、彼のことをずっと想い続けていたのだ。だからカレシが欲しいとも思えなかったし、好きな人もできなかった。
再会しても、思い出の彼と現実の彼とのギャップにショックを受けるかもしれないと予想していたけれど、実際は幻滅するどころか想像以上に素敵な男性に成長していた。
その声もやさしさも全部昔のままで……わたしの心の中の幼いカナちゃんがいた位置に、ストンと今の彼が居座ってしまった。
でも、目の前にいるのが本物のカナちゃんだったら……どうして今まで連絡のひとつも寄越さなかったの?
これまで一度も会いに来てくれなかったのに、どうして今更?
そのことを考えると、寂しさや怒りのようなものが込み上げてきた。それは涙になってみるみるうちにわたしの瞳から溢れていく。
「なんで泣くんだよ? あれからずっと、奈々が泣いていないか心配してたのに……」
彼はわたしの頬を両手で挟み込み、親指で涙を拭き取りながら困った顔をしていた。
「それじゃ……どうして今まで、連絡してくれなかったの? 手紙も返ってくるから、どこにいるのかもわからなかったんだよ? それなのに、こっちの気も知らないで……なにが『心配してた』よ! カナちゃんの馬鹿……馬鹿っ!」
ドンと拳で目の前の彼の胸を叩いた。何度も、何度も、泣きじゃくりながら……
「連絡したよ」
「嘘!」
知らない、そんなの一度も聞いてない!
「嘘じゃない。何度か電話したし手紙も書いたよ」
そんな……おじたちからは、電話も手紙も全然ないと聞かされていたのに?
「ごめん、心配かけたよな?」
カナちゃんはポンポンとわたしの頭を撫で、ふたたび頬に手を添えると愛おしげに撫でてくる。
顔を歪めながら微笑む彼は、この街から出ていった時と同じ表情をしていた。
なによ、そんな顔されたら全部許しちゃうじゃない。
「元気にしてたのなら、いいよ……」
「やっぱり奈々はやさしいね。ずっと僕のことを待っていてくれたの?」
――迷ったけれど頷いた。だってカナちゃん以外の人なんて考えられなかったから。
「今、誰か付き合ってる人はいる?」
「いないよ……誰とも付き合ったことないよ」
「本当に? それじゃ、あの約束……守ってくれてたんだね」
とっくの昔に諦めてて、約束を守ってきたわけじゃないけれど……誰ともキスしたことがない。
「ありがとう! うれしいよ、奈々」
ふたたびギュッと抱きしめられた。
「そう言うなら……カナちゃんは、今までなにしてたのよ」
見上げると、カナちゃんの青灰色の瞳にわたしの顔が映る。
わたしの唇をやさしくなぞる彼の指も、泣きそうに微笑むその顔も全部あの日と同じで……
幼い頃は平気だったのに、懐かしさと同時に気恥ずかしさが込み上げ、動悸が激しくなる。
「……そんなに可愛い顔するなんて、反則だよ」
可愛いと言われて慌てて俯く。だって、自分が可愛くないなんて百も承知している。
こんなに素敵な男性になった彼は、今のわたしを見てがっかりしていないだろうか? そう思うと、いたたまれなくなってしまう。
それなのに彼はわたしの顎を持ち上げると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「奈々、逃げないで……」
信じられないほど近くに見えた、彼の綺麗な青灰色の瞳。
気づいた時には、わたしは目を閉じることなく、それを受け止めていた……
「……っ!」
啄むように触れ、やわらかく温かな感触を残し離れていく彼の唇。
――これがファーストキス?
二十四歳にしてようやく経験したそれはあっという間で、だけどその感慨を噛みしめる暇もないほど強く抱きしめられた。
「奈々……やっと迎えに来ることができたんだ。もう、誰にも邪魔はさせない」
耳元でカナちゃんが甘くそう言うけど、誰が邪魔するというの?
「あ、おばさんから電話」
ポケットの中の携帯が震えた。電車に乗る前に連絡していたのに、なかなか帰らないのを心配してかけてきたのだろう。
「もう、おばさんったら、本当に心配症なんだから」
すこしでも帰りが遅いと、こうして連絡してくる。これでも、仕事をはじめてからはまだ自由が利くようになったほうだ。ちょっと過保護すぎると先輩たちには言われるけれど、ここまで育ててもらった恩があるから、あまり強く反発できなかった。
「ねえカナちゃん。今からうちに寄っていくでしょ? おじさんたちもきっと会いたがるよ。慎兄は駅前のマンションでひとり暮らししてるけど、近くだからすぐに飛んで来ると思うの」
「いや、いいよ。きっと僕は歓迎されないから」
それって……やっぱり邪魔をしてたのはおばさんたちだと言うの?
そんなことあるはずがない。おじもおばも、あれほどカナちゃんのことを可愛がっていたのだから。
わたしが物心ついた頃から、慎兄とカナちゃんと三人でいつも一緒にいた記憶がある。
わたしには両親との思い出はほとんどなく、季節ごとのイベントは、カナちゃんを含む少年野球チームのメンバーと一緒のことが多かった。
おじが経営するウエノスポーツ用品店でスポーツ・レジャー用品などを貸し出していた関係で、お得意さんやチームの子たちを対象にしたいろいろな催し物をやっていた。
春の花見に夏のお祭りや花火、海や山に、海水浴にキャンプ。秋はバーベキューに山登り。冬のスケートにスキー。
家族がいれば当然一緒に過ごすはずのクリスマスや初詣も……長い夏休みも冬休みも春休みも、他に行くところのないわたしとカナちゃんは、慎兄と一緒にうちで過ごすことが多かった。
おじさんたちからしても、カナちゃんは家族同然のはずだったのに……どうして?
「今日はもう帰るよ。またすぐに逢えるさ。それから……今日のことはまだ誰にも内緒だよ。また改めて挨拶に来るから、いいね?」
その真剣な物言いに思わず頷くと、ふたたび唇にちいさくキスが落とされた。
「それじゃ、また」
彼はそう言って車に乗り込むとエンジンをかける。
そのエンジン音は静かで、発進する時も砂利を踏む音だけ残し走り去っていく。
わたしはキスの余韻を噛みしめながら、車のテールランプをいつまでも見送っていた。
「ただいま」
「おかえり、奈々ちゃん。晩ごはんできてるわよ」
「あ、はい。それじゃ着替えてきますね」
部屋に入ってからも、ぼんやりとカナちゃんのことばかり考えてしまう。
結局、今まで彼がどうしていたのか、教えてもらえなかった。
連絡先すら聞かせてもらえなかったのって、もしかして騙されてる? 本当はすでに結婚してて、連絡されたら困るとか? まさかとは思うけれど、そんな不安がよぎってしまう。
だけど一番ショックなのは、こんなにやさしいおばさんがカナちゃんからの連絡を取り次いでくれなかったかもしれないこと。わたしがどれほど寂しがっていたか、知っていたはずなのに……
「よお、遅かったな。もうすこしで会社まで迎えに行かされるところだったぞ」
「慎兄、帰ってたの?」
きつい目をしたキツネ顔の従兄が、居間に寝っ転がったまま、迷惑そうにわたしを見る。どうやら今日はデートがなかったらしく、晩ごはんを食べに来たようだ。
慎兄になら話してもいいのだろうか? カナちゃんが来たことを。
「奈々ちゃんが日曜出勤だなんて! 今までなかったのに、あの娘の嫌がらせじゃないの? 早く辞めちゃいなさい、そんな会社」
「おばさん、今日の出勤は義姉のことと関係ないから」
今回異動の辞令が下りた時、転職するかもしれないことを伝えていた。その時はじめておじたちに、綱嶋物産は義姉の婚約者の会社であったことを打ち明けたのだ。そして今回、彼のもとで仕事をすることになったと。
「そうだぞ。無理しなくていいんだぞ。嫌ならいつでも仕事を辞めろ」
「もう、おじさんまで……」
その話を聞いた時のおじたちはかなり激昂しており、すぐにでも仕事を辞めろと言いはじめた。とりあえず転職先を探してからというわたしの言葉で矛先を収めてもらった。
「まったく酷いものね。友嗣さんったら、とんでもない会社を実の娘に紹介して!」
おばは父のこととなると昔からボロクソだった。
「おふくろ、綱嶋は大企業だぞ? むこうが奈々生の素性に気づかなければどうにかなったさ」
だけど指名されたということは正体がバレてしまったのだ。
「奈々ちゃんも黙ってないで、すぐにわたしたちに言ってくれればよかったのよ。それで家を手伝ってくれれば……」
おばは昔から、やたらとわたしを手元に置きたがり、いつも必要以上に手をかけてくれていた。そのため慎兄はかなり寂しい思いをしていたらしい。時々慎兄がわたしに意地悪するのは母親が自分より可愛がっているように思うからだと、カナちゃんが教えてくれた。それからはできるだけ気を遣うようになった。意地悪といっても義姉にされたことに比べると可愛らしいものだったし。
それに父の家から帰ってきてからは、まったく意地悪されなくなった。きっと彼なりに気を遣ってくれたのだと思う。
だからかな? 慎兄が先に家を出たのは。わたしが遠慮なくこの家にいられるようになの?
だけど将来慎兄が結婚して、お嫁さんが来たら邪魔になる。その時は……わたしが出ていかなければならない。
「奈々ちゃんは無理しないでいいのよ。いざとなれば慎一が面倒見るって言ってるんだから」
「慎兄はその気もないのに冗談で言ってるだけだからね。信じちゃダメだよ、おばさん」
まだ言ってる……。二年前、就職先が潰れて途方にくれていたあの時、慎兄がいきなりそんなことを言い出したのが、この誤解の元だ。
『就職が決まらなくても、おまえひとりぐらい俺が養ってやるよ。俺の嫁になればおまえもこの家を出なくていいし、ずーっとこのうちの子でいられるぞ』
今まで一度だってわたしを女扱いしたことないくせに、突然そんなことを言い出した慎兄。
一番よろこんだのはおばさんで『まあ、よかったわ! これで奈々ちゃんは一生わたしの娘ね』って目を輝かせ、おじさんも『おお慎一、やっとその気になったか』と……
それ以来おじたちは、わたしが慎兄と結婚して正式にこの家の嫁になることを楽しみにしている。
だけど、わたしにとって慎兄は兄以外のなにものでもない。いくら従兄妹同士は結婚できると言っても、兄妹同然に育ってきて今更って感じだ。
それならもっとちいさいうちに養女になって、おじさんたちの本当の娘になりたかった。なのに、世間体を気にした父たちに阻まれた。
だけど上野の姓を名乗っていたので、言わなければ誰もわたしがこのうちの子じゃないなんて思わなかった。成人した今となっては、どちらでもいいこと。そんなものがなくても、わたしたちは本物の家族のはず。
それに……カノジョがいるのに、そういうことを言っちゃダメだと思うよ慎兄。
高校の時も大学の時も就職してからも、いつだってカノジョがいたくせに。女を切らしたことがないっていうのが彼の自慢だ。就職して会社の近くにマンションを借りたのだって、女の人を連れ込むためで……その現場、何度か目撃してるんですけど?
そのことを言うと『結婚してから浮気しないように今のうちに遊び倒してるだけだ』と開き直る。
いやいや、意味がわからないから! 自分は遊びまくっておいて、わたしには『おまえは遊ぶのナシな』なんて不公平じゃない? 飲みに行くのはストライカーズのチームメイトや会社の先輩たちじゃないと許可してもらえないのだから。
まあ今のところ、別にそれで不自由はしていないけれど。
そもそもわたしが気軽に男性と付き合えなくなったのは慎兄の影響だ。
中学の野球部を引退して髪が伸びはじめると急にモテだした彼は、やたら遊ぶようになった。高校で野球部に入らなかったのも『坊主になるのがいやだから』という理由で、それからはとんでもない軟派ぶり。
付き合った女性は数知れず。どれだけ遊び人かってことは、わたしが一番良く知っている。
その気がありそうな子は必ず口説く。自分にカノジョがいても、相手にカレシがいてもだ。
そんじょそこらのスーツでは萌えないどころかダメ出しがはじまる。先輩曰く、日本のビジネスマンはスーツのセレクトが下手なんだって。少々お腹が出てても、体型に合わせてピッタリに仕立てたスーツはその人に合っていて、それも萌えるらしい。
「センパイ、スーツが似合ってても奈々生にとっては憎っくき義姉の婚約者なんだから! なにか対策を考えなきゃだよ」
「そ、そうね。とりあえず奈々生をアシスタントに指名した理由を直接聞いて……すぐに辞めるなんて言わずに、総務に戻してもらえるよう掛け合ってみたらどうかしら。もしすぐに戻れなくても、本来のアシスタントの翠川くんが帰国するまでの三ヶ月間だけなら大丈夫じゃない?」
「そうですよね……別に綱嶋さんに対して文句はないし。ただ、義姉と関わり合いたくないだけだから。義姉がまだ帰国しないのなら、なんとかなるかもですよね?」
話してみる価値はあるかもしれない。それに一週間で転職先を探すのは難しすぎる。
「そうそう。もしかしたら奈々生の話を聞いて、婚約破棄になるかもしれないしね!」
邦、怖いこと言わないで。そんな幼い頃の話で破談になったりしないと思うよ。義姉もそれなりに成長しているだろうし。
「それじゃ、直接話してみます。ただでさえおじの世話になりっぱなしで、いきなり無職になるわけにはいかないですから。いつかひとり暮らしするためにも……」
本当は就職したらすぐにでも、おじの家を出て独立するつもりだった。それなのに、先に慎兄が家を出てしまって、出たくても出られなくなってしまったのだ。
『お願いだから家を出るなんて言わないでちょうだい。慎一がいないだけでも寂しいのに、奈々ちゃんが出ていくなんてダメよ! あなたはずっと、この家にいてくれなきゃ』
おばに泣きつかれて、しかたなく家を出るのは諦めた。
幼い頃から育ててくれた彼女に懇願されては逆らえない。本当の娘じゃないけれど、一生面倒を見るつもりはある。それほど、おじたちには恩を感じているのだから。ただ、慎兄が結婚したらいずれは同居すると思う。あれで親思いなところがあるし、その時に実の妹でもない小姑なんて邪魔なだけだ。その頃には家を出たほうがいいとも思っているけれど。
「奈々生は気を遣いすぎだよ。それだけ苦労してきたんだろうけどね……」
先輩がしみじみと言いながら、ギュッと抱きしめてくれた。
「そんな、たいした苦労してないですよ。養育費はもらってたし、大学まで出してもらえたんですから。おじやおばもやさしくて、本当の娘のように育ててくれて……きっと、父に引き取られるよりもずっと、しあわせだったはずです」
おじたちからは本当の娘になってほしいとも言われている。それも養女とは違う形――つまり慎兄のお嫁さんとして。
「辞める辞めないは綱嶋くんと話してからとして、あとは明日からの研修をどうするかね。なにか言われてる? 服装とか」
「制服じゃなくてスーツでって言われてます。だけど、どんなスーツを着ればいいのか……」
総合職の女性は、わたしたち一般職のように制服ではなく基本スーツだ。真木先輩も、今日はかっこいいパンツスーツ姿。秘書課の社員たちは、他の総合職の人たちのようなシンプルなスーツではなく、華やかなものを着ていることが多い。わたしがそんな服を持っているはずもなく、入社式に着たリクルートスーツを引っ張り出してくるしかないと考えていた。
「それじゃ、明日の研修までにいろいろと準備しなきゃね」
「いろいろとって……」
先輩が思いっきり楽しそうな顔をしている。彼女がこういう顔をするのは、なにか企んでいる時で……
「そうね。総務課の上野奈々生はこれでいいけど、重役のアシスタントになるなら、もうちょっと頑張らないとね」
「えっ、なにを頑張るの? 邦」
ふたりがニッコリ笑って、にじり寄ってくる。
「邦、今日の終業後は緊急ミッションよ! 奈々生を変身させるからね。研修先の秘書課の気取った女どもに、わたしたちの奈々生を馬鹿になんてさせないんだから!」
気持ちはうれしいけど、それは無理じゃないかな? だって素材がモノを言う部分が大きい。
「まあ任せておきなさいって。綱嶋くん好みに仕上げてあげるから」
別に綱嶋さん好みじゃなくてもと、抵抗したけれど……
閉店間際のセレクトショップに連れて行かれ、スーツや靴など一式揃えることに。バッグは先輩が使わなくなったブランド物を異動祝いだと言ってプレゼントしてもらったけど、それ以外の準備で夏のボーナスが半分以上飛んでしまった。
それから更に先輩の知り合いの美容師さんに頼み込んで、髪型を変えてもらい、化粧の仕方も教わった。まあ、外見が変わったところで中身まで変わるわけじゃないけれど。
鏡の中の自分はちょっぴり以前と違って華やかで、お嬢様っぽく見えてくすぐったい。
「ここまでしなきゃダメなんですか? 先輩」
「ダメよ。奈々生はただでさえ自分に自信がないからね。今のまんま出向いても、萎縮するだけでしょう? それが目に見えてるから、ここまでするのよ」
確かに、コネ入社なうえに一般職のわたしは総合職の私服組に引け目を感じていた。容姿に対してのコンプレックスも元々酷かった。それは、可愛らしかった義姉に父親を取られたのが原因だ。
その義姉を選んだ婚約者に会うことに対して、気後れもかなりあった。だけど今の自分なら、すこしだけ大丈夫かなって。
「やれるだけのことをやって挑むのみよ。奈々生は頑張り屋だし、仕事についてはわたしが仕込んだんだから大丈夫よ。自信持ちなさい!」
確かに先輩には、かなり鍛えてもらった。新しい仕事を教わって頑張ればいいだけだ。見た目をこうして整えれば、なんとかなりそうな気がしてくるから不思議。
「そうそう。この勢いで合コンも行っちゃおうよ! 奈々生ったら、合コンも紹介も苦手だって逃げてるけど、いい加減、初恋の君のことは忘れなきゃ。初恋は叶わぬものって言うでしょう?」
「それを言うなら、実らぬものよ、邦」
「やだな、ふたりとも。もうとっくに諦めてるし、合コンや紹介は苦手なだけだよ……」
付き合う相手を品定めするのは嫌だし、誰かと付き合いたいとか思わなかった。
だけど邦や先輩には、初恋の相手が忘れられないからだと思われている。酔った勢いでカナちゃんのことを話したのは失敗だったかもしれない。
「誰とも付き合わないなんて、可愛いのにもったいないよ? 奈々生」
「先輩まで……可愛いなんて言ってくれるのは、身内と先輩たちだけだから」
それに……わたしの場合、彼氏を作らないんじゃなくて作れないだけ。そういう機会もないし、自信もない。実の父親にすら選ばれなかったのだから。
カナちゃんもきっと、別の人を選んだんだ……だから手紙の返事もなく、迎えにも来ない。
――人を好きになるって怖いな。選んでもらえなかったら、行き場のない想いを抱えてつらいだけだもの。
2 再会は突然に
それからの一週間は秘書課で猛特訓を受けた。
たとえ経営企画部所属でも、スケジュール管理等では秘書課と連携しなければならないからだ。
研修内容は、挨拶の仕方や電話の取り方、スケジュールの調整法など。服装や身だしなみは先輩と邦の協力で及第点をもらえたけれど、美しいお辞儀の仕方やお茶の出し方など、秘書課ならではの作法まで厳しく叩き込まれて結構大変だった。
そのうえ秘書課のお姉さま方の視線はたいそう冷たく、嫌味や皮肉も言われた。
皆が密かに狙っている若きイケメン後継者のアシスタントに指名されたのが、わたしでは誰もが納得しないのだ。きっと義姉のような人でなければ……
だけどなにを言われようと頑張るしかなかった。応援してくれる先輩や邦に申し訳ないもの。
「午前中だけって思ってたのに……夕方になっちゃった」
週末、残った仕事と渡された資料を整理してしまうように言われ、日曜まで出勤しなければならなかった。
誰も教えてくれる者がおらず、結局予想以上に時間がかかり、夕方近くに。
ようやく仕事を終え、家の最寄駅から商店街の中にある自宅へ向かう。住居を兼ねたおじの店に来たお客様の邪魔にならないように、裏手にある駐車場側の出入り口に回る。
日曜のこの時間帯なら、おじの指導する少年野球チームの練習も終わり、コーチやOBたちが店にたむろしている頃だ。今日はその相手をするのもしんどい……
「あれ? 誰だろう……」
駐車場には見慣れない白い車。よく見ると従兄の慎兄が乗っている逆輸入された日本の高級ブランド車と色違いだ。
わたしが近づくと、車の中から背の高い男性が降り立つ。
ラフなジーンズにジャケット姿。サングラスをしているので顔はよくわからないけれど、その姿を見ただけで懐かしいような、キュッと胸が締めつけられるような痛みを覚えた。
まさか一目惚れ? いやいやあり得ない! だってそんなものしたことがない。
だけど、なぜだろう? はじめて見た気がしない……
わたしはその人から目が離せずに、その場で立ち尽くしていた。
「奈々……?」
すこし低くて甘い声がわたしの名を呼ぶ。
この声はまさか……? それなら、さっき胸がキュッとしたのも納得できる。だって、どれだけ年月が経っても彼に逢えばすぐにわかると思っていたから。
ずっとずっと逢いたくて逢いたくて堪らなかったその人……
「――カナちゃん、なの?」
サングラスを外したその顔には、別れた頃の面影があった。
整った顔立ちにシャープな輪郭。なのにやわらかい雰囲気に感じるのは、やさしく笑う表情と、青灰色の瞳のため。
その瞳は光に透けると水晶のように綺麗で、わたしは幼い頃からそれを覗き込むのが大好きだった。薄茶色のやわらかそうな髪が夕日を浴びてきらめいて見える。
「ああ、そうだよ。僕の奈々……逢いたかったよ」
微笑みながらやさしく語りかけてくるこの声。昔よりも低くなっているけれど聞き覚えがある。それに、話す時の独特のイントネーションは間違いなく『カナちゃん』のものだ。
「カナちゃん!」
わたしは思わず駆け寄り、彼の腕の中に飛び込んだ。
ぎゅうっと抱きつくとそれ以上の力で抱きしめ返され、伝わる温もりで実感する……ああ、カナちゃんだって。
だけど頬に押しつけられた彼の衣服から香るのは、すこしスパイシーで甘い大人のフレグランス。
子供の頃、抱きついて甘えた時にTシャツやユニホームからした土埃や汗の匂いはもうしない。
「わたしも……逢いたかった」
――ああ、そっか。わたしは諦めたふりをしていただけで、ちっともカナちゃんのことを諦めていなかったんだ。
ずっと好きなままで……そのことを忘れようとしていただけで、彼のことをずっと想い続けていたのだ。だからカレシが欲しいとも思えなかったし、好きな人もできなかった。
再会しても、思い出の彼と現実の彼とのギャップにショックを受けるかもしれないと予想していたけれど、実際は幻滅するどころか想像以上に素敵な男性に成長していた。
その声もやさしさも全部昔のままで……わたしの心の中の幼いカナちゃんがいた位置に、ストンと今の彼が居座ってしまった。
でも、目の前にいるのが本物のカナちゃんだったら……どうして今まで連絡のひとつも寄越さなかったの?
これまで一度も会いに来てくれなかったのに、どうして今更?
そのことを考えると、寂しさや怒りのようなものが込み上げてきた。それは涙になってみるみるうちにわたしの瞳から溢れていく。
「なんで泣くんだよ? あれからずっと、奈々が泣いていないか心配してたのに……」
彼はわたしの頬を両手で挟み込み、親指で涙を拭き取りながら困った顔をしていた。
「それじゃ……どうして今まで、連絡してくれなかったの? 手紙も返ってくるから、どこにいるのかもわからなかったんだよ? それなのに、こっちの気も知らないで……なにが『心配してた』よ! カナちゃんの馬鹿……馬鹿っ!」
ドンと拳で目の前の彼の胸を叩いた。何度も、何度も、泣きじゃくりながら……
「連絡したよ」
「嘘!」
知らない、そんなの一度も聞いてない!
「嘘じゃない。何度か電話したし手紙も書いたよ」
そんな……おじたちからは、電話も手紙も全然ないと聞かされていたのに?
「ごめん、心配かけたよな?」
カナちゃんはポンポンとわたしの頭を撫で、ふたたび頬に手を添えると愛おしげに撫でてくる。
顔を歪めながら微笑む彼は、この街から出ていった時と同じ表情をしていた。
なによ、そんな顔されたら全部許しちゃうじゃない。
「元気にしてたのなら、いいよ……」
「やっぱり奈々はやさしいね。ずっと僕のことを待っていてくれたの?」
――迷ったけれど頷いた。だってカナちゃん以外の人なんて考えられなかったから。
「今、誰か付き合ってる人はいる?」
「いないよ……誰とも付き合ったことないよ」
「本当に? それじゃ、あの約束……守ってくれてたんだね」
とっくの昔に諦めてて、約束を守ってきたわけじゃないけれど……誰ともキスしたことがない。
「ありがとう! うれしいよ、奈々」
ふたたびギュッと抱きしめられた。
「そう言うなら……カナちゃんは、今までなにしてたのよ」
見上げると、カナちゃんの青灰色の瞳にわたしの顔が映る。
わたしの唇をやさしくなぞる彼の指も、泣きそうに微笑むその顔も全部あの日と同じで……
幼い頃は平気だったのに、懐かしさと同時に気恥ずかしさが込み上げ、動悸が激しくなる。
「……そんなに可愛い顔するなんて、反則だよ」
可愛いと言われて慌てて俯く。だって、自分が可愛くないなんて百も承知している。
こんなに素敵な男性になった彼は、今のわたしを見てがっかりしていないだろうか? そう思うと、いたたまれなくなってしまう。
それなのに彼はわたしの顎を持ち上げると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「奈々、逃げないで……」
信じられないほど近くに見えた、彼の綺麗な青灰色の瞳。
気づいた時には、わたしは目を閉じることなく、それを受け止めていた……
「……っ!」
啄むように触れ、やわらかく温かな感触を残し離れていく彼の唇。
――これがファーストキス?
二十四歳にしてようやく経験したそれはあっという間で、だけどその感慨を噛みしめる暇もないほど強く抱きしめられた。
「奈々……やっと迎えに来ることができたんだ。もう、誰にも邪魔はさせない」
耳元でカナちゃんが甘くそう言うけど、誰が邪魔するというの?
「あ、おばさんから電話」
ポケットの中の携帯が震えた。電車に乗る前に連絡していたのに、なかなか帰らないのを心配してかけてきたのだろう。
「もう、おばさんったら、本当に心配症なんだから」
すこしでも帰りが遅いと、こうして連絡してくる。これでも、仕事をはじめてからはまだ自由が利くようになったほうだ。ちょっと過保護すぎると先輩たちには言われるけれど、ここまで育ててもらった恩があるから、あまり強く反発できなかった。
「ねえカナちゃん。今からうちに寄っていくでしょ? おじさんたちもきっと会いたがるよ。慎兄は駅前のマンションでひとり暮らししてるけど、近くだからすぐに飛んで来ると思うの」
「いや、いいよ。きっと僕は歓迎されないから」
それって……やっぱり邪魔をしてたのはおばさんたちだと言うの?
そんなことあるはずがない。おじもおばも、あれほどカナちゃんのことを可愛がっていたのだから。
わたしが物心ついた頃から、慎兄とカナちゃんと三人でいつも一緒にいた記憶がある。
わたしには両親との思い出はほとんどなく、季節ごとのイベントは、カナちゃんを含む少年野球チームのメンバーと一緒のことが多かった。
おじが経営するウエノスポーツ用品店でスポーツ・レジャー用品などを貸し出していた関係で、お得意さんやチームの子たちを対象にしたいろいろな催し物をやっていた。
春の花見に夏のお祭りや花火、海や山に、海水浴にキャンプ。秋はバーベキューに山登り。冬のスケートにスキー。
家族がいれば当然一緒に過ごすはずのクリスマスや初詣も……長い夏休みも冬休みも春休みも、他に行くところのないわたしとカナちゃんは、慎兄と一緒にうちで過ごすことが多かった。
おじさんたちからしても、カナちゃんは家族同然のはずだったのに……どうして?
「今日はもう帰るよ。またすぐに逢えるさ。それから……今日のことはまだ誰にも内緒だよ。また改めて挨拶に来るから、いいね?」
その真剣な物言いに思わず頷くと、ふたたび唇にちいさくキスが落とされた。
「それじゃ、また」
彼はそう言って車に乗り込むとエンジンをかける。
そのエンジン音は静かで、発進する時も砂利を踏む音だけ残し走り去っていく。
わたしはキスの余韻を噛みしめながら、車のテールランプをいつまでも見送っていた。
「ただいま」
「おかえり、奈々ちゃん。晩ごはんできてるわよ」
「あ、はい。それじゃ着替えてきますね」
部屋に入ってからも、ぼんやりとカナちゃんのことばかり考えてしまう。
結局、今まで彼がどうしていたのか、教えてもらえなかった。
連絡先すら聞かせてもらえなかったのって、もしかして騙されてる? 本当はすでに結婚してて、連絡されたら困るとか? まさかとは思うけれど、そんな不安がよぎってしまう。
だけど一番ショックなのは、こんなにやさしいおばさんがカナちゃんからの連絡を取り次いでくれなかったかもしれないこと。わたしがどれほど寂しがっていたか、知っていたはずなのに……
「よお、遅かったな。もうすこしで会社まで迎えに行かされるところだったぞ」
「慎兄、帰ってたの?」
きつい目をしたキツネ顔の従兄が、居間に寝っ転がったまま、迷惑そうにわたしを見る。どうやら今日はデートがなかったらしく、晩ごはんを食べに来たようだ。
慎兄になら話してもいいのだろうか? カナちゃんが来たことを。
「奈々ちゃんが日曜出勤だなんて! 今までなかったのに、あの娘の嫌がらせじゃないの? 早く辞めちゃいなさい、そんな会社」
「おばさん、今日の出勤は義姉のことと関係ないから」
今回異動の辞令が下りた時、転職するかもしれないことを伝えていた。その時はじめておじたちに、綱嶋物産は義姉の婚約者の会社であったことを打ち明けたのだ。そして今回、彼のもとで仕事をすることになったと。
「そうだぞ。無理しなくていいんだぞ。嫌ならいつでも仕事を辞めろ」
「もう、おじさんまで……」
その話を聞いた時のおじたちはかなり激昂しており、すぐにでも仕事を辞めろと言いはじめた。とりあえず転職先を探してからというわたしの言葉で矛先を収めてもらった。
「まったく酷いものね。友嗣さんったら、とんでもない会社を実の娘に紹介して!」
おばは父のこととなると昔からボロクソだった。
「おふくろ、綱嶋は大企業だぞ? むこうが奈々生の素性に気づかなければどうにかなったさ」
だけど指名されたということは正体がバレてしまったのだ。
「奈々ちゃんも黙ってないで、すぐにわたしたちに言ってくれればよかったのよ。それで家を手伝ってくれれば……」
おばは昔から、やたらとわたしを手元に置きたがり、いつも必要以上に手をかけてくれていた。そのため慎兄はかなり寂しい思いをしていたらしい。時々慎兄がわたしに意地悪するのは母親が自分より可愛がっているように思うからだと、カナちゃんが教えてくれた。それからはできるだけ気を遣うようになった。意地悪といっても義姉にされたことに比べると可愛らしいものだったし。
それに父の家から帰ってきてからは、まったく意地悪されなくなった。きっと彼なりに気を遣ってくれたのだと思う。
だからかな? 慎兄が先に家を出たのは。わたしが遠慮なくこの家にいられるようになの?
だけど将来慎兄が結婚して、お嫁さんが来たら邪魔になる。その時は……わたしが出ていかなければならない。
「奈々ちゃんは無理しないでいいのよ。いざとなれば慎一が面倒見るって言ってるんだから」
「慎兄はその気もないのに冗談で言ってるだけだからね。信じちゃダメだよ、おばさん」
まだ言ってる……。二年前、就職先が潰れて途方にくれていたあの時、慎兄がいきなりそんなことを言い出したのが、この誤解の元だ。
『就職が決まらなくても、おまえひとりぐらい俺が養ってやるよ。俺の嫁になればおまえもこの家を出なくていいし、ずーっとこのうちの子でいられるぞ』
今まで一度だってわたしを女扱いしたことないくせに、突然そんなことを言い出した慎兄。
一番よろこんだのはおばさんで『まあ、よかったわ! これで奈々ちゃんは一生わたしの娘ね』って目を輝かせ、おじさんも『おお慎一、やっとその気になったか』と……
それ以来おじたちは、わたしが慎兄と結婚して正式にこの家の嫁になることを楽しみにしている。
だけど、わたしにとって慎兄は兄以外のなにものでもない。いくら従兄妹同士は結婚できると言っても、兄妹同然に育ってきて今更って感じだ。
それならもっとちいさいうちに養女になって、おじさんたちの本当の娘になりたかった。なのに、世間体を気にした父たちに阻まれた。
だけど上野の姓を名乗っていたので、言わなければ誰もわたしがこのうちの子じゃないなんて思わなかった。成人した今となっては、どちらでもいいこと。そんなものがなくても、わたしたちは本物の家族のはず。
それに……カノジョがいるのに、そういうことを言っちゃダメだと思うよ慎兄。
高校の時も大学の時も就職してからも、いつだってカノジョがいたくせに。女を切らしたことがないっていうのが彼の自慢だ。就職して会社の近くにマンションを借りたのだって、女の人を連れ込むためで……その現場、何度か目撃してるんですけど?
そのことを言うと『結婚してから浮気しないように今のうちに遊び倒してるだけだ』と開き直る。
いやいや、意味がわからないから! 自分は遊びまくっておいて、わたしには『おまえは遊ぶのナシな』なんて不公平じゃない? 飲みに行くのはストライカーズのチームメイトや会社の先輩たちじゃないと許可してもらえないのだから。
まあ今のところ、別にそれで不自由はしていないけれど。
そもそもわたしが気軽に男性と付き合えなくなったのは慎兄の影響だ。
中学の野球部を引退して髪が伸びはじめると急にモテだした彼は、やたら遊ぶようになった。高校で野球部に入らなかったのも『坊主になるのがいやだから』という理由で、それからはとんでもない軟派ぶり。
付き合った女性は数知れず。どれだけ遊び人かってことは、わたしが一番良く知っている。
その気がありそうな子は必ず口説く。自分にカノジョがいても、相手にカレシがいてもだ。
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