叶わぬ恋と知りながら

久石ケイ

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1巻

1-3

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 慎兄が男の本性と実態をまざまざと見せつけてくれたせいで、気軽に男の人と付き合う気になれなくなったと言っても過言ではない。
 一生を共にするのなら、できればわたしだけを大事にしてくれる人がいい。慎兄も妹としては文句なく大事にしてくれているけど、カノジョや奥さんなんて御免ごめんだ。
 こうして現実の恋愛から目をそむけてきたわたしにとって、カナちゃんはずっと別格だった。想い出の中の彼は王子さまで、けがれなき存在だったから。
 それに……夫婦になるってことは、アレでしょ? キスとか、それ以上のこともするんでしょう?
 無理無理、絶対無理! 慎兄とは今まで一度もそんな雰囲気になったことがないし、考えたこともない。それに、キスはやっぱりカナちゃんとがいいな……なんてね。
 ダメだ、さっきのキスを思い出して顔が火照ほてってくる。

「俺は別にいいぞ。おまえなら気心が知れてて、嫁姑よめしゅうとめ問題もクリアしてんだから」
「わたしが良くないってば! 慎兄にとっても、ありえないでしょ?」
「こんないい男を前にしてなに言ってんだ、カレシがいたこともないくせに……。ああそうか! 俺が近くにいるせいで他の男なんてかすんで見えて困ったよな。悪かった」
「どこにいい男がいるっていうのよ?」
「ここにいるだろうが! まあ、男を見る目だけは教育しておいてやったからな。今まで彼氏ができなかったのは、俺以上の男がいなかったってことだろ?」

 確かに一部の女性から見れば慎兄はイイ男かもしれないけれど……

「どうやったらそこまで自惚うぬぼれられるのよ。慎兄は兄貴、それ以外のなにものでもないよ」

 偉そうだしワガママだけど、いざという時は助けてくれるし頼りにもなる。だけどわたしにとって、すでに家族だ。もし夫婦らしいことをしなくてもいいのなら、一緒に暮らせるとは思うけど……

「ふたりとも相変わらず仲がいいわね。ほんとにいつ結婚しても、孫の顔を見せてくれてもいいのよ? 若いおばあちゃんになるの楽しみだわ。それにわたし、奈々ちゃん以外のお嫁さんなんて、きっとイビっちゃうわね」

 おばさんが満面の笑みで恐ろしいこと言い出すから困ったものだ。

「もう、冗談もそのぐらいにしてよね」

 だってわたしの心の中にはカナちゃんがいるのだから。けれどもその名前を今は出しづらかった。
 もう随分長い間、この家の中でカナちゃんの名前を聞いていない。彼の名前が出るたびに、おばさんが話題を変えるから、段々と誰もその話題を出さなくなっていた。これまでは連絡がないことに落ち込むわたしを気遣って話をらしてくれていたのかと思っていたのだけれど……

「それとも奈々生は、誰か好きな人でもいるのか?」

 慎兄がいきなりその話題を口にして、思わず冷や汗が背中を流れた。

「べ、別にいないけど……」

 カナちゃんに今日逢ったことは内緒だと言われている。だから今、話すわけにはいかなかった。

「奈々ちゃん。慎一と結婚して子供ができても、わたしたちが面倒見るから安心して外に働きに出ていいのよ。今からその時が待ち遠しいわ」
「おばさん……」

 すでに孫のことで頭がいっぱいになっているようで、その妄想はとどまるところを知らない。

「それで、明日来るんだろ? その、新しい上司とやらは」

 あきれたおじが助け舟を出してくれた。

「そうなの。だから明日もすこし早めに家を出るね。上司より先に着いてなきゃダメだろうから」
「だったら会社まで車で送ってやるよ。俺も朝から奈々生の勤め先近くの取引先に行かなきゃなんねえんだわ」

 へえ、珍しいな。慎兄が送ってくれるのって、なにかのイベントの時以外なかったのに。

「はいはい、ついででも助かるよ。ありがとね、慎兄」

 滅多めったにないから甘えておこう。電車だと一時間かかるけれど、車だと三十分で済むから。



   3 好きになってはいけない人


「気が重いな……」

 月曜日の朝、わたしは誰もいない役員執務室で新しい上司が到着するのを憂鬱ゆううつな気分で待っていた。
 昨夜はカナちゃんと再会できたうれしさと、今日の初顔合わせの不安とがごちゃ混ぜになって、よく眠れなかった。
 義姉の婚約者と仕事なんてうれしくないに決まっている。真木先輩は綱嶋さんのことを悪くは言わなかったけれど、義姉を婚約者に選んだ時点で好感は持てない。
 それでも仕事は仕事。準備万端ばんたんでアシスタント専用のデスクについて待っていると、執務室のドアがガチャリと開き、背の高い男性が入ってきた。
 銀縁ぎんぶちのメガネに黒い髪をふわりとうしろになでつけている。
 先輩が好きそうな細身の三つぞろいスーツ。おそらくオーダーメイドのそれは、均整の取れたその人の身体に合っていた。スーツに関しては、わたしも先輩に影響されているのですこしだけうるさいかもしれない。

「はじめまして。本日よりアシスタントを務める上野奈々生です」

 そう挨拶あいさつしながらゆっくりとお辞儀じぎをする。秘書課研修でのお辞儀じぎの指導は厳しくて、この角度とエレガントさを会得えとくするのはなかなか大変だった。
 なのでそのことばかりに気を取られ、あまり彼の顔を見ていなかった。
 ゆっくりと頭を上げると、その人がやさしげな笑みを浮かべながら歩み寄ってくるのが見えた。
 あれ? 黒い髪にメガネをかけているのですぐにわからなかったけれど、この人って……

「カ、ナちゃん?」
「言っただろう? 奈々。すぐに逢えるって」

 頬に押しつけられたスーツの硬い生地の感触……。わたしはすでに彼の腕の中にいた。

「どうして……なんでカナちゃんが?」

 一瞬、事態が理解できなかった。その間、抱きしめられたまま呆然ぼうぜんとして息を呑む。
 わたしがここで対面するのは、新しい上司のはず。
 それなのにカナちゃんがいるってことは……彼が綱嶋奏ってことなの?
 ――――そんな……カナちゃんが、義姉の婚約者だったなんて!
 昨日再会できた時はうれしくてたまらなかった。だけど、今日はうれしくないどころか怖くなる。

「は、離して……カナちゃん」

 慌てて彼の胸元を押し返し、急いで彼から離れた。
 もし誰かに見られたら……そう考えるだけで一気に血の気が引く。

「どうした? 顔色が悪いね。そんなに驚かせた?」

 わたしは必死で横に首を振る。驚いたけれどこばんだ理由はそうじゃない。彼が義姉の婚約者なら、こうして抱きあうなんてダメに決まってる。

「どうして……綱嶋なの? カナちゃんは水城かなでじゃなかったの? 下の名前だって……!」
「亡くなった母の兄が綱嶋の社長だったんだ。養子になった時に名前の読みもに変えたことを……昨日は黙っていて悪かったよ」
「なんで昨日、そのことを言ってくれなかったのよ!」

 カナちゃんが綱嶋奏になったと聞いていれば――昨日のキスを受け入れたりしなかったのに!

「ごめん。急いでたんだ。それに昨日は奈々が僕を待っていてくれたことがうれしすぎて……話す余裕がなかった。それに、会社で話したほうが現実味があるだろ? 僕が綱嶋だって」

 確かにそうだけど、まさか……知らなかったの? わたしが自分の婚約者の義妹だってこと。
 知らずに逢いに来たの? アシスタントにしたのも、わたしが幼馴染おさななじみだったから?

「怒ってるのか? 待たせてごめんよ。だけど、これからはずっと一緒にいられるから」

 これからも一緒にって……仕事上はそうかもしれない。だけど婚約している身でありながら、どうしてそんなことが言えるの? わたしならなんでも言うことを聞くと思った? 義姉を妻に迎えて、わたしを愛人にでもしようっていうの?

「奈々?」

 ううん、カナちゃんはそんなことを考える人じゃない。そう信じたい。
 でも、わかっていることがひとつだけある。――このひとを好きになってはいけないってこと。
 義姉の婚約者に横恋慕よこれんぼするわけにはいかないのだから。
 だけど……ずっとまえから好きだった場合はどうすればいいの?
 昨日ようやく初恋の人と再会できてよろこんでいたところだったのに、こんなにもすぐ失恋気分を味わうなんて。これからはその想いを隠し続けなければならないなんて……まるで拷問ごうもんだ。

「あのっ……」

 ダメだ、泣くな! 言わなきゃいけないと決めていたことがあるのだから。
 今日は、総務に戻してもらえるよう頼むつもりでいた。笑顔で、穏便に話すつもりでいたのに。
 ――――もう、この恋が叶うことはない。
 その事実がわたしから感情のコントロールを失わせた。
 鼻の奥がツンとして、自分の顔がゆがんでいくのがわかる。
 口を開くと嗚咽おえつが込み上げてきて、それを全部呑み込もうとして……失敗した。

「ふぐっ……ううっ」

 必死で維持した笑い顔のまま、ポロポロと涙が零れ落ち嗚咽おえつあふれさせた。

「泣かないで。奈々に泣かれると弱いんだ。悪かったよ、黙っていて」

 彼の手がふたたび伸びてきて、思わず唇にキスされると思い構えてしまったけれど、カナちゃんはわたしの頭をかかえ込んで髪にキスすると、ふたたび抱きしめて何度も頭を撫でた。
 やめてよ! 婚約者がいるのに……。ああもう、だんだん腹が立ってくる。苦しんでいるのはわたしだけなの?

「そうじゃ……ない! なんで……もうっ」
「頼むから説明させてほしい」

 説明? 婚約してることを? あんまり聞きたくないけれど……

「昨日はきちんと話せなくて悪かったよ。今はまだ、奈々と再会したことを、監督たちに知られる訳にはいかないからね」

 腕からのがれようとするわたしをかかえ込んだまま、カナちゃんはさとすように話しはじめた。

「やっぱり、おじさんたちがカナちゃんからわたしへの手紙や電話を止めてたの?」
「ああ、何度か手紙を書いたし電話もしたよ。だけど取り次いでもらえなかったんだ」

 それじゃ、やっぱり昨日カナちゃんが帰ってきていることは言わなくてよかったんだ。
 もっとも、彼が義姉の婚約者、綱嶋奏と知った今、おじたちに言えるわけがないけれど。

「僕も途中であきらめて連絡しなくなってしまった。会いに行きたくても、引き取られた親戚の家はすぐに出てしまったから……そんな余裕もなくてね」

 えっ? そっちの話? 説明って婚約の件じゃないの?
 いずれにしても、今までカナちゃんがどうしてきたのかも聞きたかった。

「僕を引き取った親戚の奴らは母の残した保険金が目当てで、入院費や葬式代でほとんど残っていないと知ると、高校に行かず働けと言い出したんだ。定時制でもいいから行かせてほしいと訴えてもダメだった」
「そんな、カナちゃんは昔から勉強が好きで、よくできたのに……」

 わたしが小学生の頃、よく夏休みの終わりにチームのOBたちが、おじの家に勉強を教えに来てくれた。泊まりがけで来ることもあり、合宿のようですごく楽しかった思い出がある。
 OBの中で一番頭がよかったのは、七つ上の誠兄まこにい。現在はIT系の会社の社長さんだ。慎兄はその会社を立ち上げから手伝って、そのままそこに就職している。
 その誠兄の次に頭がよかったのがカナちゃんだ。慎兄も要領がよくて頭はいいけれど、真面目に勉強しないし教える時もすぐに怒り出すから……わたしはいつもカナちゃんに教わっていた。
 カナちゃんはやさしくて辛抱しんぼう強くて、教えるのもすごく上手だった。

「住み込みで働きながら定時制の高校へ行こうと考えて、保証人になってくれる人を探して、母方の戸籍を辿たどって綱嶋に行き着いたんだ。最初は疑われたし歓迎もされなかったよ。だが伯父は、ある条件を呑むなら学費と生活費の援助をしてやると言ってきてね……その条件がこれだよ」

 そう言って自分の目と髪を指差した。

「髪と目の色を変えること。両親や過去を知っている者とは連絡を取らないこと。そして名前の読みを『かなで』から『そう』に変えるように言われたんだ」
「名前には、カナちゃんのお父さんの想いが込められていたのに」

 亡くなったカナちゃんのお父さんはピアノ弾きで、『かなで』という名前はお父さんが残してくれた唯一の遺産だと話してくれたことがあった。それなのに……

「伯父は、父がハーフだったことや、母が夜の仕事をしていたことが気に入らなかったんだ」
「そんな……カナちゃんの瞳の色、すごく綺麗きれいなのに」

 そっとのぞき込むとコンタクトが入っているのがわかる。わたしの大好きなあの瞳の色が隠されているのには、そんな理由があったんだ。

「奈々がいつもそう言ってくれたから、僕は自分を嫌いにならずにいられたんだよ」

 カナちゃんは幼い頃から外国人の子と言われ、小学校に入るまではかなりいじめられていたそうだ。だけど慎兄と仲良くなって、野球をはじめてからはなくなったらしい。

「あの頃から、奈々は僕の心の支えだったよ。どんな時も笑っている君を思い出すだけで、僕はこれまでずっと頑張ってこれたんだ」

 カナちゃんはわたしの顔をのぞき込むと、やさしく微笑んだ。
 昨日と髪や目の色が違っていても、他は皆同じだ。昔と変わらないやさしい顔立ちに表情、ソフトな口調にやわらかい仕草。それらに大人の色気みたいなものが加わって、ドキドキして頬が熱くなるのが止まらない。
――でも、大事に思われていたとしても、義姉を選んだのならときめいている場合じゃない。
 たとえどれほど彼を好きでもあきらめなければ……そう考えるとふたたび涙があふれてくる。

「そんなに可愛い顔をして泣くなんて反則だよ。会社では我慢するつもりだったのに……」

 うつむいたわたしのあごをやさしくつかんで持ち上げ、彼はゆっくりと顔を近づけてきた。

「今度は昨日みたいなお子様のキスじゃすまないよ。大人のキスって、わかる?」

 大人のキスってどんな? と考える間もなく彼の唇が近づいてくる。
 後退あとずさりしたけれど、うしろにあった自分のデスクに追い詰められ、それ以上逃げられない。そして彼の腕に捕らえられたまま、ふたたびキスがはじまってしまった。

「んんっ……っ!」

 昨日と違って何度も角度を変えながら唇を押し当てられて、まるで食べられてしまいそうな勢い。
 腰と頭を固定されているので、苦しくても逃げられない。
 ダメだよ! 婚約者がいるのにキスなんかしちゃ……
 これが本気のキスだってことぐらい、わたしにだってわかる。それなのにその唇を、手を、本気で払いのけられない。濡れた舌先をこばめない。
 それどころか、こんなふうにされても嫌じゃない……。いくら相手がカナちゃんでも、義姉の婚約者なのだから受け入れちゃいけないというのに!

「……っ」

 後頭部に回されていた手が、わたしの髪を撫でながら耳朶みみたぶをやさしく撫でていく。その途端、腰のあたりにゾクゾクと震えが走った。
 ――これはなに? なんなの?
 はじめての感覚におびえた。
 彼の指はわたしの首筋をなぞり、背中を流れ強く掻き抱く。
 その間もキスはまず、何度も角度を変えてわたしの唇をみ続けていた。やさしく、だけど逃げられないほど執拗しつように繰り返される。

「好きだよ、奈々……ずっとこんなキスを君にしたかったんだ」

 好きって……婚約者は? 義姉のことはどうなっているの?

「こっ……んん!」

 一旦離れて質問しようとした瞬間、開いた唇の間から彼の舌先がもぐり込んできた。あごつかまれ、そのまま彼の舌に口内を蹂躙じゅうりんされてしまう。
 粘膜と粘膜をこすり合わせ……内側を共有する、これが大人のキス?
 この先を知らないわたしでも、なにを目的とするキスなのかわかってしまう。全身を密着させられ、そのまま彼に食べられてしまいそうで……怖かった。
 逃げたいのに逃げられない。だけどそろそろ酸欠で限界。

「んぐっ、んんっ!」

 苦しくて息ができなくて、彼の胸を叩いた。足に力が入らなくて、どうすればいいのかわからない。腰砕けって、こういう状態のことを言うの?

「奈々、鼻で息しないと死んでしまうよ?」

 うれしそうな顔をして言うけれど、急にそんな芸当ができるはずないじゃない! ついさっきまで、やさしく触れるだけのキスしか知らなかったのに……

「っ、やっ……やめてっ!」

 彼の胸を押し返し、ようやくその腕の中から抜け出すことができた。けれども足はガクガク。彼が身体を支えてくれなかったら、床に座り込んでいたはずだ。

「そんなに嫌だった?」

 のぞき込んでくる心配そうな彼の顔があまりにも近くて、驚いて思わず頭を横に振る。
 キス自体は嫌じゃなかった……
 だけどダメなものはダメ! たとえ幼馴染おさななじみでも、約束でも、婚約者の義妹にキスなんかしちゃダメに決まっている。こんなの……許されるはずがない!

「なんで……どうしてこんなキスするのっ!」

 腰を固定されて動けないながらも、必死で腕を突っぱって距離を作る。このままじゃ、またこの腕に取り込まれてしまう。

「我慢できるわけないだろ? 昨日だってどれほど自分を抑えていたことか。大人になった奈々が僕を待っていてくれたんだ。ようやく我慢しなくて済むんだよ?」

 我慢できないほどわたしとキスしたかったの?
 その時わたしの中に罪悪感と、ほんのすこしだけ優越感が生まれた。たとえ一瞬でも彼が義姉よりもわたしを選んでくれたことが、義姉には決してかなわないと思っていたわたしに、すこしだけ自信を持たせてた。だけど同時に、そう思ってしまった自分に嫌悪を感じてしまう。

「お願いだから……これ以上なにもしないで」
「どうして? こんなに僕のキスにこたえてくれているのに?」

 ねえ、なんでそんなうれしそうな顔してるの? すこしは申し訳ないと思わないの? 自分は婚約しておいて……勝手すぎるよ!

「僕だけの奈々……もう二度と離さない」
「やっ……んん!」

 ふたたび引き寄せられて、キスがはじまってしまう。わたしを離さないその腕は強引で、先程より更に激しくて。熱い粘膜に絡め取られたまま、なにも考えられなくなっていく。
 キスって……こんなに生々しいものなの?

「ああ……奈々の全部を僕だけのモノにしてしまいたいよ」

 その言葉にハッとする。それってキス以上のこと? ダメ……絶対に許されない!
 わたしは最後の理性をかき集め、必死で彼を引き離しながら叫んだ。

「なっ、なに言ってるのよっ! 婚約してるくせに!」

 カナちゃんはその言葉でようやく我に返ったのか、表情が一瞬にして曇った。

「それは……違うんだ、奈々」

 なにが違うの? わたしの義姉と婚約しているくせに! と、告げようとした瞬間、執務室の内線が鳴った。
 わたしは反射的にうしろを向いて、すぐそばにある受話器を取った。足に力が入らなくてふらつくけれど、必死でデスクにしがみついて、できるだけ平静をよそおう。

「経営企画部統括部長室です。……はい、出社されています。わかりました。すぐに向かうよう、お伝えいたします」

 そう答えていったん電話を切り、それから彼に向き直る。

「統括部長、役員会がはじまるので、至急会議室まで来るようにとのことです」

 精一杯、仕事用の声で伝える。

「もうそんな時間か……。奈々、婚約のことはきちんと解消できてから話すつもりだったんだ」
「いいから急いでください!」

 早くひとりになって頭を整理したかった。そうでなきゃ、どうしていいのかわからない。

「わかった……それじゃ行ってくる。昼も社長と約束があるから戻れないけれど、終業後必ずここに帰ってくるから。その時にゆっくり話そう。それまで待っていてくれるよね?」

 やさしい言い方だけど、有無うむを言わせぬニュアンスだった。

「……わかりました。それでは、いってらっしゃいませ」

 かしこまって部屋から出ていく彼を、深くお辞儀じぎしながら見送る。
 彼の姿が見えなくなると、そのままへなへなと床に座り込んでしまった。

「どうしよう……またキス、しちゃった」

 義姉の婚約者とキスするだなんてシャレにもならない。もし誰かに見られたら言い訳できない。

「このままじゃダメだよね」

 きちんと話しておかなければならない。義姉とわたしのことを。さっきのキスを……なかったことにはできないけれど、もうしてはいけない。
 わたしは力の入らない身体を起こし、よろよろとデスクに戻る。そして酷い罪悪感をかかえたまま仕事に就くしかなかった。


「ちょっと待って、綱嶋さんが初恋のカナちゃんだったって……どういうこと?」

 お昼休み、執務室で大声を出す邦の口を、わたしは慌ててふさぐ。
 本来執務室には勝手に人を入れてはいけないけれど、緊急事態なので大目に見てもらいたい。SOSを出したわたしを心配して、真木先輩と邦がこっそり訪ねてくれたのだ。

「そうよ、ちゃんと説明しなさい!」

 先輩に命令され、洗いざらい吐かされた。カナちゃんが綱嶋さんだったこと、昨日カナちゃんに再会したこと。その時キスされたことは黙っていたのに、邦にカマをかけられてバレてしまった。

「それにしても婚約者のいる身で奈々生に手を出したのは許せないわね。二股かけようだなんて……綱嶋くんを見損なったわ」

 カナちゃんを不実な人だと思いたくないけれど、昨日今日の行動だけ見るとそういうことになる。
 けれど不実なのはわたしも同じだ。キスを受け入れてしまったのだから……

「いっそのこと、お義姉さんから取っちゃえば?」
「な、なに言い出すのよ。邦ってば……」
「だって、その女は今まで奈々生のものをいろいろ奪ってきたんでしょ? だったら、ひとつぐらい奈々生がもらってもバチは当たらないんじゃない? 綱嶋さんだって、その気みたいだし」

 邦の言葉に思わずドクンと胸が鳴った。――本当に奪っていいの? 大好きなカナちゃんと、これからの未来を夢見ても許されるの?

「相変わらず過激な発言だけど、それはいい考えね。邦」
「先輩まで、なにを言ってるんですか」
「でしょ? これからずっと仕事で一緒にいるんだったら勝てる! 奈々生でも誘惑できるって!」

 相変わらず邦は強引な考え方をする。いいなと思った人に彼女がいても、とりあえずアタックするのだ。本人同士が本気の恋をしていたら奪えないはずだからと。彼女のそういうタフなところは、すごいと思うけど……

「無茶なこと言わないでよ。わたしがあの義姉に勝てるはずないじゃない」

 そう、無理に決まっている。義姉は容姿も学力も申し分なく、そのうえ宮之原という家のうしろだてもあるのだ。父だって、実の娘のわたしより彼女を選んだのだから。
 それにもし奪えたとしても、今度はわたしが言われるのだ。
 ――義姉から婚約者を奪った女だと。
 それだけは嫌だった。相手のいる人を奪うなんて非常識で不道徳な行為だ。された側はどんな思いをするのか、母を間近で見てきたわたしが一番よく知っている。だからこそ……絶対にしたくなかった。

「なんであきらめるの? 奈々生にキスしてきた時点で半分勝ってるようなもんだよ?」
「勝ち負けじゃないよ……」

 だからさっきのキスも、この想いも……さっさと忘れたほうがいいに決まっている。

「まだ結婚してないんだからいいじゃん! 奈々生をアシスタントに指名した時点で、むこうもその気だと思うよ? 婚約解消させて、そのあと付き合えばいいんだって」

 そんな強引なことを……邦はいとも簡単なことのように言ってのける。


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