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じゅうしー
しおりを挟む「秋くん……」
珍しくも苑子は気まずげに顔を顰めた。
基本的にどんな悪事も悪びれもなくやってしまう苑子にとっては非常に珍しい。
一瞬、秋と目を合わせたが、すぐにそれを逸らしてしまう程度には動揺し、後ろめたく思っているのだ。
やらかした自覚がある分、なけなしの良心が珍しくも疼く。
そんな自分にほんのちょっぴり焦っていた。
「……いつから、そこにいたの?」
平静を装うのも馬鹿らしいと思いながらも、口から出る言葉は焦る内心と違い随分と冷たく聞こえた。
苑子の平坦な問いに、その場の視線が集中し、更に空気が険しくなるのが分かる。
「もしかしなくても…… 嵌められた?」
今自分がどういう表情をしているのか分からないが、少なくとも煩いぐらいに睨みつけて来る幼馴染が更に視線を鋭くするくらいにはふてぶてしいらしい。
「へぇ…… 意外だな。自分がどんだけ最低なことをしたのか、やったのか…… 自覚できるぐらいの良心がお前にもあったのか?」
尻と同じで軽いもんだと思ってたと、吐き捨てようとする寸前で、春斗はそれを呑み込む。
隣りで目を潤ませて、今のこの状況に恐怖し怯え、戸惑う雪子に気を遣ったためだ。
その姿に苑子はいらっとした。
全ての元凶は自分かもしれないが、結果的に部外者に嵌められたという事実に苑子は今最低な気分なのだ。
居心地が悪いといったらない。
「……まさか春斗が他人の恋愛事情に首を突っ込みたがるオトメンだったなんて。覗きに聞き耳? 趣味悪すぎてゲロ吐きそう」
「全部てめぇの身から出た錆だろうが。悪趣味なのはお互い様だ」
高校に入ってからはお互い無視することが多かっただけに、まともに罵り合うのは久しぶりだ。
そして苑子は改めて春斗が苦手だと思った。
「悪趣味は否定しないけど、わざわざ雪子使って呼び出して嵌めようとしたそっちの方が女々しくてキモイ」
相性がとにかく悪い。
「……男を弄んで悦に入っている尻軽にとやかく言われたくねぇーよ」
おまけに堅物で冗談や揶揄い、軽口の類が一切きかない。
苑子の暴言に怒りで我を忘れたのか、じりじりとこちらに近寄って来る春斗に対して苑子は口から一瞬出そうになった反論もとい罵倒を呑み込んだ。
今この場でそれを言うと本気で春斗に殴られかねない。
むしろ殺されそうだ。
(尻軽尻軽って、よく言うわ)
なので苑子は出かかったそれを胸の内だけで呟いた。
(その尻軽に発情したのはどこのどいつだよ)
*
今にも人を殺しそうな顔で青筋を立てる春斗に見下されながら、苑子はもう取り繕うことを止めにしようと思った。
先延ばしにしていた秋との関係を不本意な形で破綻させられ、春斗と雪子という最悪なコンビの前でこれ以上の醜態を晒したくなかったのだ。
さっさと逃げるに限る。
もしくは流す。
「はいはい。尻軽でもビッチでも淫乱でもどうぞご自由に」
半ば投げやりな気持ちでいつの間にかにじり寄って来た春斗の胸を押しのけ、不自然なほどの沈黙を保ったままの秋に視線と軽い笑みを向けた。
「で。秋くんはいつからそこにいたの?」
秋の肩が微かに揺れる。
苑子と秋の付き合いは非常に短い。
だが、この短期間の中で秋が呆れるぐらいに馬鹿正直で素直な男だということを苑子は知った。
その秋が、ずっと黙り込んでいる。
「……最初から、です」
声は、弱弱しかった。
俯く秋の表情を確認することはできない。
もっと近くによって、その顔を確認しなければならないのに、苑子はほんの少し躊躇った。
「……そっか」
一瞬、胸を過ぎった罪悪感と、名残惜しさ。
それはすぐに胡散した。
「全部聞いちゃったなら、もうしょーがないよね」
へらっと自分でも間抜けな笑みだと自覚しながら苑子は笑う。
「ごめんっ! 秋くんのこと、利用しちゃった」
ぱんっと両手を合わせて謝罪する。
随分と身勝手で、傍から見ると今の謝罪のポーズも相当イラつくだろうなと思いながらも、苑子は秋が心底自分に惚れていることを逆手にとって可能な限り可愛らしく振る舞った。
身長差を利用し、手を合わせながら首を傾げて秋の様子を伺う。
ぴくっと、秋の肩が揺れ、その拳が握りしめられるのを見て、苑子は若干及び腰になった。
「いけないことをしたって、分かってる。もう、本当に反省してる」
「……」
「……ほんとうに、ごめん」
「…………」
相変わらず場の空気は最悪だ。
頭を下げ、出来れば秋が逆上して暴れず、このまま苑子との付き合いはちょっとした火傷だと思って解放して欲しいと苑子は思った。
この時点で今だ反応の薄い秋を見て、苑子はもう完全に諦め、気持ちを切り換えていた。
ほんの僅かだが、確かに胸にあった秋を手放すことへの名残惜しさ、率直に言えばもったいないと思う感情を捨てたのだ。
物凄く自分に忠実な彼氏という名の下僕を割と苑子は気に入っていたが、どう言い訳しても自分の先ほどの告白はあまりにもゲスすぎた。
百年の恋も冷めるだろうと本人が一番分かっている。
「できれば、許して欲しいけど…… ダメ?」
ならばとりあえず謝るしかない。
秋にまだほんの少しでも自分に対する情があることを期待して。
そんな苑子のふざけた態度に春斗は我慢できなかったらしく、今だ何も返事をしない秋に代わって詰め寄ろうとした。
「苑子、お前いい加減に……」
苑子のふざけた謝罪を嫌悪も露に見ていた春斗だったが、顔を上げた秋を見て、訝し気に眉を顰めることとなる。
* *
「苑子先輩」
秋は怒っていなかった。
「謝んなくていいです」
失望もしていなかった。
代わりに苑子の耳に届いたのはひどく穏やかな声だ。
「俺、全然気にしてないんで」
その声色の通り、秋はどこか少し困ったように、それでいてひどく穏やかに笑っていた。
(……あれ?)
秋の返事を聞きながら、苑子はなんだか想像していたのと違う……と思いつつ恐る恐る顔を上げた。
視界に映る秋の顔を見て、懐かしいとすら思えた。
何年かぶりに再会したような気持ちだ。
たぶん、きっともう二度とそのどこまでも明るく陽気な笑顔を見ることはないんだろうなと思っていたせいだ。
「俺の方こそ、その、結果的に盗み聞きしちゃって…… すみませんでしたっ!」
「え、あ…… うん?」
がばっと勢いよく腰から頭を下げて謝罪する秋に、苑子はなんと答えるべきか迷った。
眉を下げ、必死に謝罪する秋に含むところはまったくないようで、正直その反応はまったくの予想外だった。
大なり小なり嘘がつけないであろう秋がこの場で激怒するか、嘆き恨みを零すか、もしくは絶望に人間不信に至るか。
非常に不本意ながら、苑子と春斗はほぼ同じ様な未来を予測し、そして同時に外れたことに戸惑っていた。
「なんでそうなんだよ……」
背後で呻く春斗に苑子も思わず頷きそうになる。
「おい、間宮? お前、正気かよ? さっき、そいつが言ってたこと、ちゃんと聞いてたのか?」
どこか焦るように春斗が秋に詰め寄ろうと、苑子の肩を掴みどかそうとする。
だが、春斗の手が苑子に触れるよりも前に秋はその手首を掴み、威嚇するように睨みつけた。
「……苑子先輩に気安く触んなよ」
秋は完全に春斗を苑子に害成す者として認識していた。
恋のライバルとかそんな可愛いものではない。
春斗の端整な顔を睨みつけながら、秋はここに来る前までにクラスメート達から聞かされた春斗の噂話を思い出していた。
派手で目立つ苑子と春斗。
今まで苑子のみの情報を集めることに必死だった秋はその中で時折交る春斗の話を意識的にシャットアウトしていたが。
よく考えればこれだけ顔立ちが整った男が暇人凡人の多いこの高校で悪目立ちしないはずがなかった。
ちょっとクラスの噂好きの女子に聞けば喜々としてその情報を提供してくれる。
その中で苑子との不穏な噂が多々あったが、実際に春斗の苑子に対する嫌悪を感じ取った秋からすれば的外れも甚だしく感じられ、つくづく噂など当てにならないと実感したものだ。
「……てめぇ、あんだけのこと言われてまだそいつに尻尾振るのかよ? とんだマゾ野郎だな。プライドも糞もねぇ」
「はぁ? あんたに文句言われる筋合いなんてねーよ。こんな、騙し討ちみたいなことして…… 俺はてっきり苑子先輩とあんたとでなんか話でもすると思ってここに来たのに…… 苑子先輩の妹使ってこそこそ盗み聞きするなんて聞いてねぇよ!」
途中、思わず聞き入ってしまって結局最後まで全て盗み聞きしてしまったことを棚上げし、秋はここぞとばかりに春斗を批難する。
普段頭がいいとか冷静沈着と謳われる春斗だが、どうやら秋の指摘は彼自身非常に不本意であり、悔し気に歯を食いしばった。
実際、今のこの状況は春斗の望んでいたものではない。
秋の反応もそうだが、元々春斗は雪子を巻き込むつもりは欠片もなかった。
ただ、春斗は雪子が苦しむところを見たくなかった。
どうすれば雪子が泣き止むのか、そればかりを考え、慰めたのだ。
そして、健気にも苑子に嫉妬する自分を嘆き、秋と苑子二人の幸せを願おうとする姿に、春斗はキレた。
春斗は苑子の悪辣さを知っている。
気まぐれな苑子がわざと噂が立つように秋と絡み、雪子に見せつけていることを瞬時に悟った。
衝動のまま、雪子にキスをし、その華奢な身体を抱きしめながら、春斗は決意したのだ。
これ以上雪子が傷つかないよう、彼女が愛しているという男の目を覚まさせてやろうと。
そして、雪子に自覚してもらわなければならない。
その傍にいる血の繋がった姉がとんでもない阿婆擦れだということを。
例え、苑子の手から解放された秋が雪子の気持ちを知り、二人が晴れて付き合ったとしても。
それが雪子の、愛する少女の幸せならば喜んで身を引こうと。
そう、春斗は決意したのだ。
『私、お姉ちゃんに嫉妬する自分が恥ずかしい…… そんな、資格なんてないのに…… 秋くんの幸せを願えない自分が、大嫌いっ』
違うと、違うのだと、春斗には上手く雪子を慰める方法が見つからなかった。
『雪子は悪くない、全部苑子が悪いんだ』
元来春斗は不器用な男だ。
『俺が、それをあの男に証明してやるから』
自分を責め立てる雪子を慰める方法が、そして雪子を笑顔にさせる方法がこれしか思い浮かばなかった。
衝動的にキスをし、そしてそれを許されただけで春斗はもう満足だ。
誰も知らないであろう春斗の献身。
皮肉にも、それを一番理解しているのは苑子だったりする。
春斗にとっては不本意でしかないが。
事情も何も知らない秋に春斗の気持ちが分かるはずもない。
互いに睨み合い、ピリピリとした空気を発する中、蚊の鳴くような必死の制止が上がった。
「やめて……!」
* * *
ずっと、今まで呆然と三人のやりとりを見つめていた雪子は咄嗟に自分の話が出たことに驚き舌を縺れさせながら必死に何かを伝えようとする。
「雪子さん……?」
「雪子……」
それは秋に対する弁解か、春斗への弁護か。
秋の訝し気な視線と、春斗のどこか痛まし気な視線に晒され、雪子の硝子のような繊細な作りの心臓が嫌な音を立てる。
「ちっ、ちがう、ちがうの…… は、ると君は…… 悪くない……っ ぁ、わ、私が…… 私が、勝手に……ッ」
ふえっと雪子の目から涙が零れる。
必死に涙を止めようと手の甲で滴を拭おうとするが、拭いても拭いても溢れて止まらず袖を濡らすばかりだ。
片手に持ったお弁当箱をお守り代わりに抱え、嗚咽を洩らしながら泣き腫らす雪子に慌てたのは春斗だ。
「ごめん、俺のせいだ…… 全部俺が悪かった。雪子は何も悪くないから」
「ふっ、ふぇ…… はっ、はると、くん……」
「雪子はよく頑張ったよ…… 自分から行動を起こせるようになった。もう、昔と違って今の雪子は凄く勇気があるよ。何も謝ることなんかない」
「っ…… ご、ごめん、なさいっ! か、かってな、ことして……っ」
よしよしと春斗の大きく温かな手で頭を撫でられる。
その心地の良い安心感に、雪子の涙が止まらない。
雪子は後悔していた。
雪子があのとき春斗に秋を苑子に盗られたことについてずっと心の内で溜まっていた鬱憤を吐き出しさえしなければ。
こんな、知りたくもない真実を秋が知ることもなかった。
雪子は、ただ初めて知る高揚感に酔っていた。
ずっと、憧れだった幼馴染に慰められ、キスされて、まるで春斗の力強い意志を分けてもらったような、苑子に立ち向かえる勇気を与えられたような気がしたのだ。
もう昔のように怖い事から目を瞑り、優しい幼馴染に手を引かれるだけの自分はもういらない。
変わりたいと、春斗の抱擁の中で雪子は初めて自分から何かを成そうと決めた。
春斗にだけ重荷を背負い込ませたくない。
苑子にどんな秘密があるのか、知ればきっと後悔するかもしれない。
でも、きっと雪子は知らなければならないのだ。
傲慢で美しい姉の本性を。
その悪意から大事な人を自分で守らなければならないのだ。
(そうだ…… 変わらなきゃ、私が、変わらなきゃ……!)
優しい春斗。
優しい秋。
雪子のことを思ってくれた春斗の言葉をちゃんと聞かなかった自分を恥じながら、胸の内にあった感情が徐々に大きくなっていくのが分かる。
春斗が側にいてくれるから。
雪子を守ってくれる春斗のおかげで、消えかかっていた雪子の心がどんどん熱くなる。
(私が…… 守らなきゃ)
意を決した雪子はそっと春斗の側から離れる。
途端に震えそうほどの寒気に襲われた。
それでも雪子は、真っ直ぐ苑子を見た。
全ての元凶のくせに、どこか冷めた目で雪子達のやりとりを観察する姉の姿が目に入ったとき。
「お姉ちゃん……」
雪子の胸から熱い塊が迫り上がるのが分かった。
軽薄な笑みを浮かべる苑子に雪子は耐えられないとばかりに吐き捨てた。
「お姉ちゃんは、最低だ」
* * * *
雪子をよく知る苑子と幼馴染の春斗。
二人にとって雪子の行動は予想外だった。
「……ねぇ? なんで?」
元から腫れ気味だった目を更に赤く腫らし、悔しそうに憎らし気に唇を噛みしめたまま雪子は間近にある苑子の顔を睨み、罵倒した。
「なんで、そんな、酷いことができるの? 秋くんの気持ちを踏みにじって……! 人の心を弄ぶなんて、最低だよッ!」
「……」
逃がさないとばかりに、いつの間にか雪子の手は苑子の細い手首を捉えていた。
苑子の華奢な手首が微かに軋む。
元々虚弱な雪子程度の力だからこそそんなに痛みはないが。
「ふざけないでっ わ、私が、私がっ、秋くんのことを好きだから…… 好きだから、付き合うって、意味分からない、そんなの、可笑しいよ!」
「……だから、さっきから言ってんじゃん。雪子が秋くんを好きだから、付き合う価値があるの? 分かる?」
「分かんないよっ! お姉ちゃんのこと、全然分かんないっ!」
近距離で叫ばれ、苑子は気だるげな外面とは裏腹に、初めての雪子の分かりやすい怒りに内心で嗤った。
顔を真っ赤にして、涙をぽろぽろ零して、怒りのみで吠える雪子を見て胸がすく思いだ。
昨夜の雪子のつまらない反応を思えば、今はだいぶマシになっている。
きっと、春斗が側にいるからだろう。
雪子一人で苑子に噛みつくことなど、できるはずもないのだからと苑子は思っている。
「秋くんの…… 人の気持ちを弄んで、傷つけて…… なんで、そんな酷いことができるの? 信じられない…… お姉ちゃんは可笑しいよ、人の気持ちが、痛みが分からないなんて……!」
雪子が怒れば怒るほど、興奮すればするほど、苑子は笑い出したいほど愉快だった。
実際に嗤っていたのだろう。
くすくすと、いつの間にか自分の耳に入って来る笑い声がより一層可笑しかった。
(私が可笑しい? 人の痛みが分からない?)
正論だ。
否定する要素など一欠けらもない。
「お姉ちゃんは人として最低だよ!」
初めて聞くかもしれない、雪子の怒鳴り声に苑子はほくそ笑んだ。
(今更だよ、ばーか)
自分がどうしようもない人でなしの阿婆擦れだってことぐらい、ずっと前から知ってる。
そう言われて、そう「教育」されて来たのだから。
その通りに、「望むまま」に苑子は育ったのだ。
ただ、それだけのこと。
ある意味、苑子ほど親孝行な娘も珍しいだろう。
(まぁ、褒められたことはないけど)
苑子の顔の笑みはますます深まる。
とても無邪気で、可憐な、花開くような笑み。
それは荒れ狂う雪子から見ればひどく冷たく、禍々しいものだ。
涙でぼやけたはずの視界で、何故か苑子の笑みだけは鮮明に見えた。
もしかしたらそれは、雪子の願望が見せる幻だったのかもしれない。
雪子は恐ろしかった。
姉が分からない。
何故、全てを持っている完璧な姉がわざわざ雪子を苛めようとするのか。
雪子には何もないと知っているくせに、更に雪子から大事なものを奪い獲ろうとする、その強欲さも、目的のために人の気持ちを簡単に傷つける無慈悲さも、好きでもないという男にあんな厭らしいことができる淫乱さも、何もかもが理解できず、ひたすら恐ろしくて汚らわしかった。
「なんで、笑ってられるの……?」
怒りか嫌悪か恐怖か、訳も分からなく背中に嫌な汗をかきながら、雪子は苑子が愉快で仕方がないというように自分を笑うのを見て、目の前が一瞬真っ赤に染まるほどの激情に支配された。
「ねぇ、お願いだから、ちゃんと反省してよ……! 謝ってよっ」
こんなにも近いのに、どうしてか遠い。
どうして雪子の気持ちを分かってくれないのか。
姉に伝わらないのか、それが哀しくて悔しくて、腹立たしい。
「馬鹿に、しないでよ……!」
息切れを起こしながら、雪子が片手に抱えていた弁当箱が音を立てて地面に落ちる。
苑子の手首を掴んでいた手とは反対の手が、苑子の顔に向かって振り降ろされようとしていた。
だが、苑子の頬を目がけて飛んできたその手は、見覚えのある男の手によって制止された。
雪子の手を止めたのは、秋だ。
* * * * *
苑子と雪子の目が見開く。
気づけば雪子は秋に手を握りしめられ、苑子から遠ざけるように腰を抱かれていた。
そして、苑子はまた逆に雪子から遠ざけるように、春斗に腕を引かれ、乱暴に引っ張られた。
あんなにも強く雪子に握りしめられていた手首はあっさりと解放され、爪の痕だけが痛々しく残っている。
元から力の弱い雪子の拘束は二人の大柄な男の力で意図も容易く解かれたのだ。
「あきくん……?」
一瞬前まで冷静な判断など何一つできなかった雪子はいきなり変わった視界と、燃えそうなほど熱い男の胸板を頬に感じて、呆然と呟いた。
何故だか本能で、今自分の手を握りしめ、腰を強く掴み抑え込んでいるのが秋だと分かった。
「……ごめん」
ふいに、秋の手の力が弱まる。
あ、と思わず雪子の口から切なげな吐息が零れた。
無意識に零してしまった物欲しそうな甘い吐息に雪子の頬が赤くなる。
「……落ち着いた?」
「っ……」
「……悪いけど、苑子先輩が傷つけられるのを黙って見てられないんだ、俺」
秋のその言葉に、雪子の胸がずきっと痛む。
(どうして……)
どうして、秋はまだ苑子を庇うのだろう。
まだ、苑子のことが好きなのだろうか。
酷い仕打ちをされて、騙されても、まだ好きなのだろうか。
(なんで、私じゃないの……?)
分かっている。
全部、意気地のない自分の蒔いた種だってことぐらい。
雪子に勇気があり、恥も恐怖も押しのけて秋に想いを伝えていれば……
こんなことに、ならなかったのに。
全部雪子のせいだ。
(全部、私が悪いんだ…… 私が、皆を不幸にしてる……!)
雪子のレンズはもう涙でぐちゃぐちゃだ。
まともに秋の顔が見えない。
今、秋は一体どんな表情で自分を見ているのだろうか。
雪子を、軽蔑したのだろうか。
雪子のせいで、苑子に弄ばれ、傷ついたのだ。
きっと、雪子を恨んでいる。
「……ごめんなさい」
雪子はもう立ってるのもやっとの状態だ。
息切れと眩暈。
慣れない感情に慣れない行動。
その全てが雪子の体力を奪い、苦しませていた。
咄嗟に秋が倒れそうになるその身体を抱きしめ、支えなければその場に崩れ落ちていただろう。
「ごめんなさい、秋くん」
擦れた息遣いで、嗚咽と共に雪子は吐き出した。
全部自分のせいだと雪子は自分を責めた。
雪子さえ、いなければ。
「……好きになって、ごめんなさい」
秋を好きになってさえいなければ、秋はきっと苑子によって傷つくことはなかった。
(あなたを好きになって、ごめんなさい)
* * * * * *
今にも消えてしまいそうなほど儚く、華奢な肩を震わせる雪子。
美しい黒髪に花びらが舞い落ちり、それは一層幻想的な光景だった。
雪子は美しかった。
本人がいくら無自覚で、自身の容姿にコンプレックスを抱いたとしても、その評価が変わることはない。
それは雪の結晶のように一瞬で溶けてしまうような、清純なまでの美であり、姉の苑子には決して真似のできない類の生まれ持った色香だ。
その色香に当てられ、長い間ずっと心を囚われた男がいた。
今、それに当てられているのは、秋だ。
(そっか。雪子さんは俺が好きなんだ)
今更ながら秋は雪子の告白ともいえない告白を聞いて、顔を赤くした。
純粋にとてもとても嬉しかったのだ。
雪子に好意を抱かれたことが。
(すっげぇ、嬉しいかも)
しばらくして。
俯き泣き震える雪子の頭を、そっと秋は撫でた。
同い年のはずなのに、雪子がずっと幼い少女のように思えた。
ずっと、片思いをしていた秋の優しい仕草に、雪子の胸が状況も顧みずに勝手に暴れ出す。
心臓の音が聞こえてしまうのではないかと心配になるほど激しく。
「なんで? 謝ることなんか、ないじゃん」
秋の声はとても温かく、そして爽やかだ。
それは雪子が中学のとき、ずっと心の支えにしていた男の子の声だった。
「俺は、嬉しいよ。雪子さんに、好かれて」
どこか照れたような、年相応の無邪気な声で秋は優しく雪子に囁く。
自分の気持ちを、この感謝を少しでも雪子に伝えたかった。
「ありがとう」
本当に、ありがとう。
涙が出るほど、秋は雪子に好かれたことが嬉しくて堪らなかった。
「俺を、好きになってくれて」
満面の笑みを浮かべ、秋は幸せそうに微笑んだ。
これほど、自分の幸運に感謝したことはない。
秋は本当に嬉しかった。
雪子に好かれ、恋されていた事実に誇らしさすら感じた。
自分のことを思い、懸命に怒り、健気に謝る少女。
秋は雪子に対してどうしようもない愛しさが沸き上がるのを感じた。
(苑子先輩は…… 雪子さんを泣かせたくて、俺と付き合ったんだな)
苑子のどこまでも軽薄で悪びれない告白を思い出す。
人を妬むようなタイプではないのに、何故という疑問はあったが、その理由まで知る必要はなかった。
苑子が本当は秋のことをどう思っているのか。
それさえ分かればいいのだから。
心のどこかで、ずっと疑問だったのだ。
どうして苑子は自分と付き合ってくれたのか。
本当に自分のことが好きなのか。
そうすると必然的に、秋はあの日、初めて苑子の姿を見たときのことを思い出す。
秋が苑子に惚れた瞬間のことを。
(苑子先輩は、俺の事、好きじゃないんだな……)
視界の隅で舞い落ちる桜の花びらを目にし、初めてここで苑子に告白したときのことを、そして恋に堕ちた瞬間のことを秋は思い出した。
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