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じゅうごー
しおりを挟む昔の話だ。
苑子がピアノを辞めた日のこと。
突然教室を辞めるという苑子と珍しくも付き添って来た母。
普段は厳しいその先生が、焦ったように母を説得するのを苑子はぼんやり蚊帳の外で聞いていた。
内心で先生が焦るのも無理はないと思いつつ。
もうすぐ発表会があり、苑子もまた珍しく真剣に練習していたことを、その先生は嬉しそうに応援してくれていたのだから。
『本当にごめんなさい、先生。この子、いい加減で飽きっぽくて。初めからピアノを続けるのが無理だったんです。ご迷惑をおかけして、他の子達にも本当に申し訳ないと思っています』
心底申し訳なさそうに平謝りする母の背中を見ながら、苑子は無言だ。
『この衣装も…… せっかくのご厚意は大変有難いんですけど、この子にはやっぱりもったいないです。お返ししますわ』
母が丁寧に差し出した紙袋の中には発表会で着る予定だったドレスがある。
教室の先生がいけないと知りながらこっそり苑子に渡してくれたものだ。
とても綺麗なドレスだ。
正直ピアノよりもその衣装を着て皆に披露したいという気持ちが強かった。
だから難しい課題曲にも挑戦しようと思えたのだ。
当時の先生はそれを人参にして苑子のやる気を引き出していた。
苑子がどれだけそのドレスを気に入っていたのか知っていた先生はもうあげたものだと、だから返さなくともいいと言った。
『いいえ、先生。これはお返しします。もっとこのドレスが似合う子が他にたくさんいますもの』
やんわりと困ったように笑うばかりの母に、先に折れたのは先生の方だ。
『本当に残念です。苑子ちゃんには才能があり、その成長を見るのが私の楽しみでした』
見送られる際、ずっと黙っていたままの苑子の頭を、長く伸ばした髪の毛を一筋手に取って、先生は本当に残念そうに苑子に語り掛けた。
『せっかく、発表会のために伸ばしたのにね……』
まだ幼い苑子は無性にそのとき、泣きたくなった。
『苑子に才能ですか?』
でも、結局涙は一滴も流れなかった。
『まさか。そんなもの、この子にあるわけないじゃないですか』
先生の手の代わりに母の手が苑子の頭に置かれる。
そのときの髪の毛が軋む痛みは今でも記憶に残っていた。
『それよりも先生。どうか雪子のことを大事に見守ってやってください。あの子、とにかく身体が弱くて…… でも、とっても大人しくて優しい子なんです。何かあったらすぐに連絡をください』
もう苑子の存在を忘れた母の姿を見ながら、苑子はもう伸ばす意味のない髪を切ろうと思った。
髪を伸ばしたところで、本当に褒めて欲しい者は結局苑子を見てはくれないのだから。
*
そして、今現在。
目の前の光景を見て「まあ、そうなるよな」というのが苑子の率直な意見だ。
見つめ合う男女。
慈しむように、誰が見ても好意が透けて見える熱い視線を妹の雪子に注いでいるのは苑子の彼氏だ。
(いや、元か)
これはもう完璧にアウトだろう。
誰が見ても。
秋のあの対応も、今のあの表情も。
それをうっとりと受け止める雪子の、今にも抱かれたそうな女の顔。
身から出た錆とはいえ、一抹の虚しさは感じる。
悔しいことに、苑子が手さえ出さなければ秋は永遠に雪子の好意を知ることはなかっただろうという事実。
なんだかんだ苑子の嫌がらせが雪子の恋を実らせてしまったことに、やってしまった感が半端ない。
抱かれ損とはこのことかと、苑子は自嘲する。
たぶん、一番のとばっちりは平静を装っている隣りの幼馴染だろうが。
「二度目の失恋おめでとう」
今だ苑子の手首を掴んで放さない春斗に嫌味たらしく囁けば、焦点の合っていない目が漸く苑子を捉えた。
ぼうっと雪子達の姿を少し離れた距離から見つめていた春斗は苑子の手首を掴んだままだということにも今まで気づいていなかったらしい。
振り解くようにして乱暴に苑子から手を放す春斗は嫌悪も露に憎らし気に苑子を睨んだ。
「残念だったね。今回はいいところまで行ったっぽいのに」
もったいない。
そのまま押し倒しちゃえばいいのにと苑子は口の中で呟いた。
恋愛というか、自分に向けられる好意に残酷なまでに鈍感な雪子が一瞬でもあんな表情を浮かべたのだ。
さっきの激怒だってどう考えても春斗の存在があったから表に吐き出せたのだろう。
春斗の長年の献身が漸く報われたのかと思った。
「ふん。乗り換えられたてめぇに言われたくねぇよ」
「春斗が余計なことさえしなきゃ、今も秋くんとラブラブできてたのに」
やっといつもの調子が戻ったのか、吐き捨てる春斗に苑子は特に怒ることもなく笑った。
ふざけた苑子の態度に、春斗は無関心を貫く。
その目はただ一途に、こちらの存在などとっくに忘れ、幸せそうに笑う雪子に注がれていた。
「あーあー…… 振られちゃったなぁ」
どこか虚しい苑子の言葉に返事を返す者はいなかった。
* *
「お腹がへった……」
売店で昼食を買おうと思ったが、碌なものがなかった。
カラカラになった紙パックのストローを齧りつつ、苑子は一人音楽室でぼうっとピアノの鍵盤を眺める。
ピアノの椅子に片膝抱えたまま座り、目を瞑る。
腹の虫が微かに聞こえた。
友人達に連絡して何か分けてもらおうか。
学校を抜け出してコンビニに行くか。
そんなことをうつらうつらと考えている間に昼休みはどんどん過ぎていく。
くだらない茶番に付き合わされた時点で今日の昼休みは散々といえた。
なんだかとても疲れた。
教室にそのまま戻ればより煩わしくなると思い、こうして一人寂しく時間を潰している。
「悔しいなぁ……」
誰もいない音楽室。
誰もいないからこそ、苑子は口を尖らせて足をじたばたさせた。
子供っぽい仕草を笑う者はいない。
「あーっ! 悔しいっ!」
ばんっと怒りのまま鍵盤を叩くと嫌な音が静かな音楽室に虚しく響いた。
「ムカつく…… 雪子の奴ぅ……!」
美味しいところを全部攫って行きやがった。
「あー……! イライラする……!」
センスも何もない、破壊衝動に任せたまま鍵盤に八つ当たりをする。
こんな姿をかつてのピアノの先生に見られたら相当怒られるだろう。
心なしか肖像画達の視線も険しい。
「そもそも春斗が邪魔さえしなきゃ…… なんなのあいつ? 余計なお節介しやがって…… あのむっつりスケベが。 大人しく雪子でマスでもかいてろ、くそ早漏野郎!」
久しぶりに我慢できないほどのストレスが溜まっていたらしい。
こんなのは本当に久しぶりだ。
元から切り替えが早いというか、ストレス耐性が高いのかムカつくことがあっても怒ることをすぐに諦めるタイプの苑子には珍しい。
頭に過ぎるのは今朝の馬鹿みたいに嬉しそうな秋の顔。
次いで雪子とのなんだか甘酸っぱい感じのやりとり。
よくよく考えればちょうど昨日の今ぐらいに苑子はあそこで秋に告白されたのだ。
確かに苑子も悪いが、秋の切り替えの早さ、薄情さ、いや気の多さも相当ではないのか。
「昨日まで童貞だったくせに……」
その脱童貞の手助けをしたのは苑子だ。
秋だって十分いい思いをした。
苑子の仕打ちもそれでノーカンになるのではないか。
「秋くんの、ばかっ」
無意識に口から出そうになった浮気者という罵りが苑子の滅茶苦茶な今の心境を表している。
別にすぐに捨てられる程度のものだと思っていた。
だが、意図しない第三者のせいで、おまけにあの雪子に奪われたと思うと、気分が悪い。
「ばかぁ、もう秋くんのばかぁ……」
こんなふてくされた苑子を見た者は未だかつて一人もいない。
プライドの高い苑子が自分のこんな情けない姿を人に見せるはずもなかった。
「あの……」
そんなめそめそした苑子に、秋は恐る恐る声をかけた。
「苑子、先輩?」
* * *
最初、それは幻聴かと思った。
そうであればどれだけ良かったことか。
「あ、あの…… 苑子先輩いきなりいなくなって、俺連絡とかいっぱいしたんですけど繋がらなくて…… 教室に行ったら、苑子先輩のお友達の、あゆちゃん? 先輩が、たぶん、ここにいるだろうって……」
「……」
あゆの奴め。
スマホを確認すれば確かに秋から怒涛の連絡が来ていた。
「……いつからいたの?」
「……昨日まで、ど、童貞だったくせに……、からです」
苑子は一気に頭の中が冷静になるのが分かった。
先ほどまでの荒れ狂う嵐のような激情は鳴りを潜め、代わりにどうしようもない脱力感に見舞われた。
今まで誰にも見せたことがない苑子の駄々をこねる姿。
むずがる赤ん坊なら可愛いが、苑子がやったら滑稽なだけだろう。
実際に秋はあちらこちら視線を彷徨わせて苑子の顔を見ようとしない。
「何しに来たのさ……」
もう、勘弁して欲しい。
嫌味や皮肉を言う気力もない。
「昼飯を、その一緒に……」
「……雪子と食べれば?」
何言ってんだこいつとばかりに、恥ずかしいところを見られたという羞恥すら忘れ、苑子は不愉快気に秋を見た。
「え、だって約束したじゃないですか」
「……したけど。もうそれナシでいいよ」
これでも一応親切心で言ったのだ。
もう既に雪子に惹かれたであろう秋を思って。
だが、良くも悪くも秋は初めて出会ったときと何一つ変わらない。
苑子の機嫌を損ねないように、恐る恐ると近づき、片膝立てた姿勢の苑子から絶妙に視線を逸らしつつ、下手に出て話しかけて来るのだ。
「嫌ですか? 俺と昼飯食べるの…… 俺の事、嫌いになっちゃったんですか?」
「……ん?」
なんだろう、この違和感は。
「俺の事、もう飽きちゃいましたか?」
「……?」
苑子はこのとき思った。
何言ってんだこいつ、と。
目をうるうる潤ませて見つめて来る年下の元カレ。
体格の良い秋にそんな目で見られても苑子には気持ち悪いとしか思えなかったが、なんとなくこの訳の分からない男がまだ苑子に対して好意を抱いていることだけは分かった。
男の本能かもしれないが、思いつめた顔をしているくせにその目は苑子のスカートの奥に集中している。
誰もいないと思って片膝を立てたままのせいで苑子のパンツは丸見えとまではいかないが男心を誑かすには十分なほど見えていた。
「……何回も聞くけどさ、秋くんはもう知ってるんだよね? 聞いちゃったんだよね? 私が、君と付き合った理由」
「……はい」
しょんぼりと見えない耳を伏せる秋。
うん。
まともな反応だと苑子はほっとした。
「じゃあ、普通に怒っていいんだよ? このやろーって」
「なんで、怒らないといけないんですか?」
「……」
逆になんでとこっちが聞きたい。
「え。怒ってないの?」
くりっと目を瞬かせて問う苑子に、薄っすらと頬を染めながら秋は首を傾げた。
このとき秋が驚きのあまりどこか幼げな反応を返す苑子に内心で可愛いと悶えていたことを知らない。
イメージに合わない先ほどのじたばたぶりも秋は可愛いとしか思わなかった。
「なんか怒るようなこと、あります?」
「……」
「苑子先輩?」
何か変なことを言ってしまったのかと、苑子の反応に慌てる秋はどこから見ても秋のままだ。
「……秋くんさぁ、本当にあのとき全部聞いてたの?」
おかげですっかりといつもの調子を取り戻した苑子はいつものように若干偉そうな態度で頭をかく。
先ほどまでの情けない姿から一転、清々しいほどの変わりようだ。
「聞いてましたけど……?」
「じゃあ、怒ってるよね? てか、怒っていいんだよ?」
怒りよりも哀しみが強いのかとも思ったが、秋は相変わらずさばさばしている。
湿っぽい苑子と違い、爽やかだ。
調子が狂うなとばかりに困ったように眉を寄せて、どこか不満気に秋を見上げる苑子に秋もまた意味が分からないとばかりに困ったような顔で頬をかく。
困った顔の下で秋は苑子のどこかふてくされたような表情に内心で激しく心を揺さぶられていた。
常に余裕な表情を浮かべ、年上らしく落ち着いた態度で接して来る苑子。
初心な秋を揶揄うような仕草さえも様になる苑子が初めて見せる素の表情は意外なほど幼い。
「えー…… なんで怒んないのさぁ?」
率直にいえば惚れた欲目を抜きにしても大変可愛らしかった。
「殴られるのは、さすがに嫌だけど……」
「な、殴る!? いや、俺、絶対にしないっすよ!? そ、苑子先輩に暴力なんて……っ!」
どっからそんな話になるんだと慌てる秋だが、苑子はどうしても納得がいかなかった。
「本当に! 俺、全然、まったく! これぽっちも怒ってませんって!」
「なんでもするって言っても……?」
あまりにも秋の反応があれすぎて、ほんの少し、つまらない。
詰られたり、泣かれたり、怒られたりしたらしたで面倒だと思うのに、こんな風にまるでなんてことのないような反応を返されると逆に自分が大した存在ではないように思えてちょっとムカついてしまう。
「いや、本当に、本当に、気にしてないんで……」
苑子の不満に気づかないのか、秋はひたすら誤解を解こうと必死に首を横に振る。
苑子が爆弾を放り投げるまで。
「……エッチなことでも?」
「えっ……!? えっち!?」
エッチって、エッチなことって……
顔を沸騰させながら目を泳がせる。
そしてちらちらちらちらと苑子の顔を見て、唇を凝視し、次いで襟に隠れた首筋をチラ見し、胸を見てから臍へ下へと視線を下す秋はひどく正直であった。
そんないかにもスケベな秋に何故だか苑子はほっとした。
「したくないの?」
こてんっと自分的に一番可愛い角度で首を傾げてみせる。
「し、し…… しっ、し、した、い…… ですっ! 苑子先輩と、えっちしたいっす!」
「よし」
葛藤の末、観念したらしい秋は耳まで赤くして項垂れている。
だが、その情けない姿こそ苑子の求めていたものだ。
今までのやりとりすら忘れて苑子は満足気に頷く。
「あっ! でも、あの、その前に……」
漸く見れた苑子の笑顔に秋はほっとすると同時に期待する自身を抑えておずおずと手に持っていた袋を差し出した。
「これ、あゆちゃん先輩達から」
コンビニのビニール袋の中には苑子の好きなゼリーや菓子パンが入っている。
「おすそ分けだ、そうです」
後であゆ達を褒めてやろうと思った。
* * * *
「苑子先輩はゼリーが好きなんですか?」
大き目のスプーンで一口一口味わう苑子にもうとっくに弁当箱を空にした秋が問いかける。
「すきー」
何も考えずに答えると、秋はどこか緊張した面持ちで、苑子の横顔を凝視した。
ぷるんとしたゼリーが苑子の口の中に吸い込まれていくのを、唾を呑み込んで見守る。
「お、俺は…… どうですか?」
ドキドキと不安と少しの期待を込めて、縋るように苑子を見る秋は初めは冗談っぽく聞くつもりだった。
だが、その声はひどく擦れ、上擦っているし、顔は下手くそに歪んでいる。
ありありと緊張が見える秋に、苑子はちらっと視線を向ける。
「秋くんって、まだ私のことが好きなの?」
若干話を逸らす苑子に秋は真剣な顔で告げる。
「好きです」
秋はなんの疑問も躊躇もなく真っ直ぐ苑子を見て答えた。
照れなどもなく、何回でも苑子が望むと望まないと自分の気持ちを伝えたいとすら思っている。
そうやって吐き出さないとどうにかなってしまいそうなほど、秋は苑子が好きなのだ。
秋からの強すぎる視線は苦手なはずなのに、このときだけは心地良いと苑子は思った。
現金なものだと自覚している。
今の苑子の胸を満たすのは果てしない優越感である。
だが、それにずっと浸れるほど苑子は単純ではなかった。
「雪子はどうなの? 二人でいい雰囲気だったじゃん」
がりっとプラスチックのスプーンを齧りつつ、苑子は顔を真っ赤にして幸せそうに秋を見る雪子の顔を思い出していた。
「……あの後、どうしたのさ? 雪子の気持ちが分かったあと、二人っきりで何話してたの? 何、してたの?」
あ、今の自分ちょっと彼女っぽいかもと、腹が落ち着いた分、心にゆとりを持ったまま苑子は秋を追及する。
気分はさながら彼氏の浮気を問い詰める彼女だ。
「あの後ですか……? 特に何もしてないですけど……?」
そして納得のいかない苑子のために、秋は素直に少し前までの雪子とのやりとりを一から話し出す。
* * * * *
苑子が音楽室で不貞腐れる少し前のこと。
桜の花びらがまるで雪子と秋の未来を祝福するように舞い落ちる裏庭で。
苑子がいつの間にかいなくなったことに気づいた秋が慌てていた。
「ごめん、俺、苑子先輩と昼飯の約束してるんだ」
「え……」
意味が分からないとばかりに当惑する雪子に秋はその足元に転がったままの弁当箱を拾い渡す。
「中身無事だといいな。じゃっ!」
きらめくような爽やかな笑みを浮かべる秋。
そのまま立ち去ろうとする秋の服を咄嗟に雪子は掴んだ。
自分の大胆な行動に慌てながらも、特に怒ることもなく首を傾げる秋に理由の分からない焦燥が募る。
「ん? 何?」
「ま、待って! どうして…… お姉ちゃんのこと……」
まだ姉のことが好きなのかという問いを雪子は呑み込む
そんなはずはないと、必死に嫌な予感を振り解き、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「もう、いいんだよ? 秋くんはその、優しいから…… でも、もうお姉ちゃんのことは、忘れた方がいいよ…… きっと、苦しむのは秋くんだもん……」
秋が傷つかないことを願い、雪子は祈る様にその顔を見上げた。
だが、雪子の想像を裏切って秋はなんてことのない顔で笑った。
「ああ。そういうことか」
苑子のことになると途端に視野が狭くなる秋だが、別に特別鈍いわけではない。
雪子の話も納得しながら聞いていた。
「ありがとう、心配してくれて」
「そ、そんな……! ありがとう、だなんて……」
耳まで赤くして俯く雪子に秋はにこにこと感謝の気持ちを伝える。
早く苑子を探しに行きたい気持ちはあったが、雪子に対する感謝の気持ちもきちんと伝えたかった。
感謝といっても、きっと雪子は嬉しくないだろうが。
「俺、本当に雪子さんには感謝してるんだ。こんなこと言うのは変だけど、本当に嬉しかったんだ。雪子さんに好かれてたことが」
「……っ」
長い前髪や眼鏡が本当に邪魔だと思うぐらい雪子は可愛らしかった。
目を潤ませながら上目遣いで見られた秋は内心で感嘆したほどだ。
以前苑子にも言ったが、雪子は容姿が整っている。
そして今はどこか清廉な色気すらあり、こんな顔で見られたらどんな男でもイチコロだろうなと秋は思った。
そんな雪子に好かれていたことを秋はまったく知らなかった。
それなりにモテていたが、奥ゆかしい雪子は秋の周りにはいないタイプだ。
見るからに大人しそうな雪子が勇気を振り絞って必死に苑子に噛みつき、また見ただけで心が痛むような表情で罪悪感を口にする姿には一種の感動すら覚えた。
雪子がそこまで強く秋を想っていることに興奮したのだ。
「……わ、私、秋くんのこと、好きなままでも、いいの…………?」
だからこそ、雪子のその言葉に秋は驚き、その細い肩を掴みながら強く肯定した。
「当たり前だろ! むしろ俺はもっと雪子さんに好かれたい」
好きな人が真剣な目で自分を見ている。
そのことに雪子はじんわりと身体の中心から熱くなるのが分かった。
「め、迷惑じゃ、ない……?」
「ない」
「っぅ……」
秋の言葉に雪子はまた泣いてしまった。
一体どれぐらい泣いたら涙が涸れるのかと不思議に思うほど。
泣いた雪子に慌てる秋を見て、雪子は泣き笑いを浮かべた。
「ふ、ふふ…… ごめんなさい…… 嬉しくて……」
嬉しすぎて、涙が止まらない。
慰めて来る秋の手の温もりを堪能しながら、雪子は幸せいっぱいに泣いた。
一層このまま秋の温もりを感じながら死にたいと思うほど幸せだ。
「……俺も泣きそうなぐらい嬉しかったよ」
秋の落ち着いた声が耳を擽る。
次に秋は何を言うのだろうかと、雪子の胸が期待で高鳴った。
幸せに酔い痴れる雪子に、秋は愛し気に囁く。
秋もまた、自身の幸福に、「幸運」に酔っていた。
「雪子さんが俺を見つけてくれたことが、俺を好きになってくれたことが、嬉しくて仕方がないんだ」
あまりにも擽ったい秋の熱の籠った告白に雪子はうっとりとその顔を見上げる。
恋しい男を見る雪子の視界に、秋の精悍な顔が映った。
秋もまたうっとりと恋に溺れるような目で雪子を見つめていた。
「雪子さんのおかげだ。ありがとう、本当にありがとう!」
ただ、
「雪子さんのおかげで、俺は苑子先輩と付き合えた」
その視界に雪子は映っていなかった。
「……え?」
そのことに気づいたとき、雪子の涙は止まった。
拍子抜けするぐらいあっさりと。
呆然とする雪子に構わず、秋は照れたように語り続ける。
「俺、最初苑子先輩に告ったとき、正直無理だろうなって思ってた。あんな綺麗な人が、俺みたいな年下とか相手にしないだろうって」
秋は昨日の情景を思い浮かべながら、喋り続ける。
固まったままの雪子を放置して。
「でも、それはもう覚悟してた。とにかく俺の存在だけでも知って欲しくて、振られた後も何回でも何十回でも、しつこいぐらい告り続けようって決めてたんだ。持久戦なら勝ち目はあると思って」
実際に昨日の秋はもうとにかく必死だった。
自分から告白するのは初めてであり、いくら剛胆でマイペースなところがある秋でも色んな噂を抱える苑子はしょっぱなからレベルが高すぎた。
そもそも秋が苑子に惚れた経緯を考えればいかに自分が勝率の低い戦いに挑んだのか分かる。
鬱陶しがられて嫌われる可能性もあったが、何度も何度も押しかければ面倒くさがって一度はチャンスをくれるかもしれない。
ちょっとでも興味を持ってくれれば万々歳だと、自分に言い聞かせながら告白をしたのだ。
そんなことを怒涛の勢いで喜々として秋は雪子に語った。
雪子には酷な話かもしれないが、ずっと誰かに自分の決死の覚悟を聞かせたかった秋はもう止まらない。
「だから、なんで苑子先輩、俺と付き合ってくれたのかなってずっと考えてたんだよ。だって、苑子先輩年下は苦手だって噂だし…… 俺みたいなビジュアルも性格もタイプじゃないっぽいし……」
噂に聞く苑子の歴代彼氏の特徴を分析しても、秋が彼らと共通するのは「顔がいい」ぐらいだ。
そのときに春斗の名前も出たが、実際に付き合った形跡がなかったため秋はスルーしてしまった。
「いくら今が幸せでも、不安になるというか…… 苑子先輩が俺のどこを好きになったのか、気に入ったのか分からないと対策が立てられないだろう? いつ苑子先輩に捨てられるか、飽きられるかってずっと悩んでいるわけにもいかないし……」
そう。
苑子と付き合えたことは確かに嬉しい。
死ぬほど嬉しい。
だからこそ秋は心の片隅で不安を覚えていた。
一体苑子は秋のどこを好きになってくれたのか。
ただの暇つぶしならば、このチャンスを逃さずに積極的にアプローチができる。
でも、もしも苑子に明確な理由があった場合、どうにかそれを生かさなければならない。
そうしなければいつか苑子に捨てられてしまうだろうと漠然と秋は確信していた。
秋の知る苑子は、そういう女だからだ。
そんな苑子を承知で秋は告白をした。
「だから、さっきの苑子先輩の言っていることを聞いて、俺すっげぇ納得したの。むしろほっとしたぐらい」
心底安心したような、満面の笑みを浮かべて秋は語る。
「なんで苑子先輩が雪子さんに執着してるのか知らないけどさ…… ああそうなんだって思った。雪子さんが俺を好きだから、だから苑子先輩は俺と付き合うことにしたんだって分かったとき、滅茶苦茶安心した」
「……あ、き、くん?」
雪子の生気のない顔色を気遣いながらも、秋は止まらない。
目の前の雪子は秋にとって、まさに幸運の象徴だ。
どこか苑子の面影を見せる雪子に、秋は苑子がこの短期間で見せてくれた色んな表情を思い出していた。
最後に思い出したのは、あの日見たあの表情だ。
あのとき秋は、恋に堕ちた。
「全部、雪子さんのおかげだ! 雪子さんが俺に惚れてくれたから、苑子先輩が俺に興味を持ってくれた…… 俺と付き合う価値があるって思ってくれた」
今にも死にそうな顔で呆然と自分を見上げて来る雪子が愛しかった。
苑子が雪子を嫌う理由なんて知らないし、今は必要ない。
今、一番重要なのは、もっと別のことだ。
「ありがとう、俺を好きになってくれて」
雪子にとってはきっと酷い話だろうが。
それでも秋は雪子に感謝した。
残念ながら、とうの雪子は秋が何を言っているのか、まだよく分かっていなかったが。
「……雪子さんに、お願いしたいことがあるんだ」
涙すら枯れて、幸せから一転。
怯えるように秋から逃げようとする雪子の肩を強く掴む。
少しでも、長く、苑子の心を繋ぎとめるために秋は全力を尽くすと決めたのだ。
この幸運を、チャンスを逃す気はない。
「これからもさ、ずっと俺の事、好きでいて欲しいんだ」
「あ、きくん……?」
「なぁ、頼む! 好きだって言ってくれ…… 俺の事、まだ好きだって言ってくれよ」
もうこれ以上秋の声を、話を聞きたくないとばかりにいやいやする雪子に秋は容赦がなかった。
「雪子さんの気持ちには答えられない。でも、嬉しいし、出来ればずっとそのまま俺に惚れてて欲しい。すげぇ、我儘だって分かってる。酷いこと言ってるって。でも……」
「やぁ…… は、なして」
秋の言葉に熱が籠る度、興奮するたびにその身体が熱くなる。
その熱が怖ろしくて、悍ましくて仕方がない。
「苑子先輩に、俺と付き合う価値があるって思ってほしいんだ。ずっと」
俺も頑張って苑子先輩に惚れてもらえるようにするから。
「だから、しばらくはまだ…… 俺のこと好きでいてくれよ。なっ?」
好きならそれぐらい、できるよな?
* * * * * *
「という、話をしました」
苑子の言葉通りに律儀に全てを秋は語った。
「で、雪子さん固まったまま動かないんで、そのまま放置してあゆちゃん先輩達のところに行きました。あとは知らないです」
「……」
「……やっぱ、ちょっとまずかったですか?」
「…………」
あのときは興奮して本音を全部言ってしまったが、今振り返ると最低なこと言ってしまったなと秋は反省していた。
どうもあの日苑子に惚れた瞬間から秋の思考回路が少々残念になっている。
今だって自分を好きだと言う雪子に対する罪悪感を抱きながら、苑子はこの話を聞いてどう思ったのか、嫌われていないかとそっちのことばかり考えてしまう。
「…………」
当の苑子は無言のままだ。
このとき初めて苑子は雪子に同情した。
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72話で完結です。
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