13 / 202
第一章〈幼なじみ主従〉編
1.11 史上最悪の王妃イザボー・ド・バヴィエール
しおりを挟む
幼いころに、誰かから聞いた寝物語だったのだろうか。
聖ラドゴンドの言い伝えを知ってから、私は記憶にない母妃の姿を聖女に投影してあこがれた。
「私の母上はフランス王妃なんだって。ラドゴンド様みたいな人かもしれないよ」
幸か不幸か、父王も母妃も末っ子王子の存在を忘れていた。
私もまた、王家の堕落と宮廷の退廃ぶりを知らずに育てられた。
***
母妃イザボー・ド・バヴィエールはバイエルン公の令嬢で、神聖ローマ皇帝の曾孫だった。
14歳のときにフランス王家に輿入れして王妃となった。
翌年には長女イザベル王女を出産する。私の一番上の姉である。
父王シャルル六世は生まれつき心の弱い人であったが、美しい王妃を得て、かわいい子をもうけ、次第に安定するかに見えた。
結婚して五年目には、みずから親政を開始した。
王の乱心と王家の崩壊は突然だった。
王の居室へつづく回廊には、非常時に備えて装飾を兼ねた武具をいくつか設置している。
ある日、寝室から飛び出してきた父王はいきなり武具を取り上げた。
由緒ある剣や槍がいくつも転げ落ちた。武具の刃に触れたのか、父王の手から血が流れた。
父王は錯乱し、傷も痛みも忘れてなにごとかを叫んだ。
ただならぬ父王の様子に、護衛役の近衛騎士たちが集まってきた。
王の血を見て、みなが止めに入った。
父王は手ごろな剣を抜き払うと、今しがた飛び出して来た自室に向かって叫んだ。
「殺してやる!!」
選りすぐりの屈強な騎士たちに羽交い締めにされ、それでもなお父王は暴れた。
王の居室へ続く回廊には、各所の見張り役と王を護衛する近衛騎士たちが何人も控えている。
厳重な監視の目をかいくぐって何者かが侵入することは考えにくい。
だが、父王の言動は明らかに異常だった。近衛騎士たちは暴れる王が負傷しないよう押さえながら、即座に警戒態勢を敷いた。
ただちに王の居室を調べなければならない。
父王が再び「殺してやる!」と叫んだ。
近衛騎士のひとりが王の居室にいる何者かに呼びかけた。
「そこに誰かいるのか」
返答はなかったが、父王は気が触れたように暴れながら喚いた。
「誰も入るな。誰も見るな! 余が手づから殺してくれよう!!」
近衛騎士たちは視線を交わしながらうなずき、数人で突入しようとしたその時。
居室の内側から扉が開いた。あらわれたのは、透けるように薄い肌着をまとった王妃イザボーと王弟オルレアン公だった。
王の憎悪は、妻である王妃と実弟に向けられていた。
「よくも、おめおめと……!」
王の居室へ自由に出入りする者は限られる。親子、夫婦、兄弟姉妹たち近親者だけだ。
近衛騎士たちはある予感を抱きながら、おそるおそる王の居室を点検した。
やはり侵入者はなく、不審な様子も見当たらなかった。ただひとつ、寝具が乱れていたことを除いて。
父王は、血走った目で王妃と弟を睨みつけながら何度も叫んだ。
「恥知らずめ! 二人とも殺してやる! 必ず殺してやる!!」
父王は興奮して何度も「殺す」と喚き散らした。
その一方で、王妃イザボーと王弟オルレアン公は責められているのに悪びれるどころか平然と沈黙していた。
ついに父王が近衛騎士の静止を振り切ろうとした時、王妃は怯えたように後ずさり、王弟は利き手で細剣を構え、空いた手で王妃をかばった。
父王が力任せに突いた抜き身の大剣を、王弟は鞘に納めたままの細剣でたたき落とした。
勝負は一瞬だった。
ぶざまな姿で床に転がった父王に、王弟は手を差し伸べた。
「兄上、お静かに。騒ぎすぎです。子供たちが起きてしまいます」
王子や王女は、養育専用の離宮サン・ポール邸にいる。騒ぎが聞こえるはずがない。
それでも、王弟のささやきは父王の生まれつき不安定な心を大きく揺さぶった。
妻の不貞と弟の裏切りを目撃して、王は反射的に怒りをぶちまけたが、今度は恐ろしい推測が脳裏によぎったのだろう。
「一体、いつから……」
「何も問題ありません。兄上の御子たちは全員『王家の血を引く子』ですから」
父王の言葉にならない絶叫がこだました。
王妃イザボーは一言も発することなく、夫とその弟を見下ろしていた。
***
母妃と王弟の情事を目撃したから、父王は狂ったのか。
それとも、父王が狂っていたから、母妃は王弟にすがったのか。
どちらが先だったのか、私には分からない。
以来、父王は発狂して政治の場から遠ざかった。
代わりに、王弟オルレアン公が宮廷の実権を握った。
しかし、母妃イザボーの愛人は王弟だけではなく、名のある貴族と見境なく関係を持った。
王妃と取り巻きたちの醜聞は民衆の耳に入るほど知れ渡り、いつしか「淫乱王妃」と呼ばれるようになった。
王弟オルレアン公の暗殺は、権力闘争だったとも、痴情のもつれだったとも言われている。
父王は、犯人を捕まえることも処罰することもしなかった。
王妃の愛人・ブルゴーニュ公が王弟を殺害し、宮廷で権力を振るった。
王家も宮廷も、根底から腐っていた。
王国は、手の施しようがないほどに傾いていた。
野心家のイングランド王ヘンリーは虎視眈々と、フランス王国の没落を見守っていた。
聖ラドゴンドの言い伝えを知ってから、私は記憶にない母妃の姿を聖女に投影してあこがれた。
「私の母上はフランス王妃なんだって。ラドゴンド様みたいな人かもしれないよ」
幸か不幸か、父王も母妃も末っ子王子の存在を忘れていた。
私もまた、王家の堕落と宮廷の退廃ぶりを知らずに育てられた。
***
母妃イザボー・ド・バヴィエールはバイエルン公の令嬢で、神聖ローマ皇帝の曾孫だった。
14歳のときにフランス王家に輿入れして王妃となった。
翌年には長女イザベル王女を出産する。私の一番上の姉である。
父王シャルル六世は生まれつき心の弱い人であったが、美しい王妃を得て、かわいい子をもうけ、次第に安定するかに見えた。
結婚して五年目には、みずから親政を開始した。
王の乱心と王家の崩壊は突然だった。
王の居室へつづく回廊には、非常時に備えて装飾を兼ねた武具をいくつか設置している。
ある日、寝室から飛び出してきた父王はいきなり武具を取り上げた。
由緒ある剣や槍がいくつも転げ落ちた。武具の刃に触れたのか、父王の手から血が流れた。
父王は錯乱し、傷も痛みも忘れてなにごとかを叫んだ。
ただならぬ父王の様子に、護衛役の近衛騎士たちが集まってきた。
王の血を見て、みなが止めに入った。
父王は手ごろな剣を抜き払うと、今しがた飛び出して来た自室に向かって叫んだ。
「殺してやる!!」
選りすぐりの屈強な騎士たちに羽交い締めにされ、それでもなお父王は暴れた。
王の居室へ続く回廊には、各所の見張り役と王を護衛する近衛騎士たちが何人も控えている。
厳重な監視の目をかいくぐって何者かが侵入することは考えにくい。
だが、父王の言動は明らかに異常だった。近衛騎士たちは暴れる王が負傷しないよう押さえながら、即座に警戒態勢を敷いた。
ただちに王の居室を調べなければならない。
父王が再び「殺してやる!」と叫んだ。
近衛騎士のひとりが王の居室にいる何者かに呼びかけた。
「そこに誰かいるのか」
返答はなかったが、父王は気が触れたように暴れながら喚いた。
「誰も入るな。誰も見るな! 余が手づから殺してくれよう!!」
近衛騎士たちは視線を交わしながらうなずき、数人で突入しようとしたその時。
居室の内側から扉が開いた。あらわれたのは、透けるように薄い肌着をまとった王妃イザボーと王弟オルレアン公だった。
王の憎悪は、妻である王妃と実弟に向けられていた。
「よくも、おめおめと……!」
王の居室へ自由に出入りする者は限られる。親子、夫婦、兄弟姉妹たち近親者だけだ。
近衛騎士たちはある予感を抱きながら、おそるおそる王の居室を点検した。
やはり侵入者はなく、不審な様子も見当たらなかった。ただひとつ、寝具が乱れていたことを除いて。
父王は、血走った目で王妃と弟を睨みつけながら何度も叫んだ。
「恥知らずめ! 二人とも殺してやる! 必ず殺してやる!!」
父王は興奮して何度も「殺す」と喚き散らした。
その一方で、王妃イザボーと王弟オルレアン公は責められているのに悪びれるどころか平然と沈黙していた。
ついに父王が近衛騎士の静止を振り切ろうとした時、王妃は怯えたように後ずさり、王弟は利き手で細剣を構え、空いた手で王妃をかばった。
父王が力任せに突いた抜き身の大剣を、王弟は鞘に納めたままの細剣でたたき落とした。
勝負は一瞬だった。
ぶざまな姿で床に転がった父王に、王弟は手を差し伸べた。
「兄上、お静かに。騒ぎすぎです。子供たちが起きてしまいます」
王子や王女は、養育専用の離宮サン・ポール邸にいる。騒ぎが聞こえるはずがない。
それでも、王弟のささやきは父王の生まれつき不安定な心を大きく揺さぶった。
妻の不貞と弟の裏切りを目撃して、王は反射的に怒りをぶちまけたが、今度は恐ろしい推測が脳裏によぎったのだろう。
「一体、いつから……」
「何も問題ありません。兄上の御子たちは全員『王家の血を引く子』ですから」
父王の言葉にならない絶叫がこだました。
王妃イザボーは一言も発することなく、夫とその弟を見下ろしていた。
***
母妃と王弟の情事を目撃したから、父王は狂ったのか。
それとも、父王が狂っていたから、母妃は王弟にすがったのか。
どちらが先だったのか、私には分からない。
以来、父王は発狂して政治の場から遠ざかった。
代わりに、王弟オルレアン公が宮廷の実権を握った。
しかし、母妃イザボーの愛人は王弟だけではなく、名のある貴族と見境なく関係を持った。
王妃と取り巻きたちの醜聞は民衆の耳に入るほど知れ渡り、いつしか「淫乱王妃」と呼ばれるようになった。
王弟オルレアン公の暗殺は、権力闘争だったとも、痴情のもつれだったとも言われている。
父王は、犯人を捕まえることも処罰することもしなかった。
王妃の愛人・ブルゴーニュ公が王弟を殺害し、宮廷で権力を振るった。
王家も宮廷も、根底から腐っていた。
王国は、手の施しようがないほどに傾いていた。
野心家のイングランド王ヘンリーは虎視眈々と、フランス王国の没落を見守っていた。
11
あなたにおすすめの小説
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜
くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。
味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。
――けれど、彼らは知らなかった。
彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。
すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、
復讐ではなく「関わらない」という選択。
だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
地味な薬草師だった俺が、実は村の生命線でした
有賀冬馬
ファンタジー
恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる