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第九章〈正義の目覚め〉編
9.4 不名誉よりも死を(3)屠殺者と豪胆公
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歴史と人生は似ている。
ささいな出来事がきっかけとなり、大きな流れを変えてしまうことがままある。
イングランド王ヘンリー四世とブルターニュ公未亡人による「新ブルターニュ公兄弟を連れ去る陰謀」は、オリヴィエ・ド・クリッソンの尽力で阻止された。
クリッソンは、百年戦争におけるフランス三大名将のひとりに数えられている。
ひとりはベルトラン・デュ・ゲクラン、もうひとりはリッシュモンである。
このとき、クリッソンがブルターニュ公兄弟をフランスに引き留めなければリッシュモンは渡英してヘンリー四世の継子となり、ゆくゆくはイングランドの名将になっていたかもしれず、百年戦争の経緯も結末もかなり違っていただろう。
運命の分岐点にいるとき、当事者は未来のことなど知る由もない。
クリッソンとリッシュモンしかり、勝利王と正義公しかり。宿縁というものだろうか。
クリッソンはブルターニュ公兄弟の後見人として義務を果たしたが、娘の嫁ぎ先パンティエーヴル家から陰謀を持ちかけられ、板挟みになっていた。
「後見人の立場を利用して、子供たちを殺せ」
リッシュモンの兄はブルターニュ公を継承し、兄弟はフランスに残ったが、それゆえに命の危険にさらされていた。
パンティエーヴル家は、リッシュモンの祖父から父の時代にかけてブルターニュ公継承戦争で戦った因縁の相手だ。
すでに勝敗は決まっていたが、パンティエーヴル家はまだ諦めていなかった。
特に、女傑と恐れられた老女伯ジャンヌ・ド・パンティエーヴルは、幼いブルターニュ公とリッシュモン兄弟を謀殺しようと企んでいた。
クリッソンは「屠殺者」と呼ばれていたが、良識ある人格者でもあった。
パンティエーヴルからの誘いを断ると、ブルターニュ公兄弟を王都パリへ連れて行った。
表向きの理由は、フランス王シャルル六世に臣従するため。
本当の理由は、子供たちの身辺の安全を図るため。
「貴公が新たなブルターニュ公か。遠路はるばるよくぞ参られた」
狂王シャルル六世は、ブルターニュ公と弟リッシュモンをあたたかく迎えた。
「父君の不幸は残念なことであった。余の父、先代フランス王シャルル五世が崩御したとき、余は12歳足らずで弟のオルレアン公はまだ8歳だった。貴公ら兄弟の心痛は察するに余りある」
フランス王シャルル六世とブルターニュ公の臣従儀礼はつつがなく終わった。
「陛下の心遣いに感謝を申し上げます。これでブルターニュは安泰です」
「遠慮はいらぬ。貴公は余の息子も同然なのだから」
「恐れ多いことです」
「遠慮はいらぬと申したであろう。余の娘、ジャンヌ王女をやる」
「……はっ?」
フランス王への臣従と同時に、ブルターニュ公と第二王女ジャンヌの結婚が決まった。
フランス王家の親戚になれば、イングランドもブルターニュ諸侯もうかつに手出しができなくなる。ブルターニュ公兄弟の安全とブルターニュ地域の安定のため、ひいてはフランスのために計画された政略結婚だった。
「兄上は結婚するのですか?」
「うん、そうみたいだ」
連れてこられた花嫁、ジャンヌ王女はわずか8歳だった。
「あの子はジャンヌ王女。私の妻になるからアルテュールの義姉上になる」
「王女さまが兄上と結婚して、私の義姉上に……?」
「はは、アルテュールにはまだ難しいかな」
国王夫妻と王女が別れるとき、母妃イザボー・ド・バヴィエールはとりわけ悲しんでいたという。
これより前、第一王女イザベルは7歳のときに英仏和平の証としてイングランド王リチャード二世と結婚した。しかし、クーデターが起きてリチャード二世はロンドン塔に幽閉・餓死させられると、イザベル王女は11歳で未亡人となってフランスに帰国した。
私が知る母妃イザボーは享楽的な快楽主義者で、人の気持ちを顧みない人だった。
だが、政略のために何度も我が子と引き裂かれ、その後の不幸を見るにつけて、ついに子供に愛情を抱くことをやめてしまったのかもしれない。
「フランスとブルターニュのために、ジャンヌ王女は父君や母君とお別れしてうちに来るんだ」
父と死別し、母と生き別れたブルターニュ公兄弟にとって、ジャンヌ王女の境遇は他人事ではなかった。
「ブルターニュに帰ったら楽しいことをたくさんしよう。あの子が笑ってくれるように」
「はい! 兄上からもらった剣を、王女様に見せてあげます」
ブルターニュ公とリッシュモンはパリ滞在中に、フランス王に臣従する有力貴族たちに挨拶してまわった。
みな、ブルターニュの状況はそれとなく知っていたため、けなげな兄弟に同情的だった。
だが中には、悪気はなくとも傲慢で失礼な人間もいる。
「陛下じきじきに王女をいただけるとは。花婿殿は幸せ者だな」
「はい」
「妻は幼いほどいい。好きなように妃教育ができるからな」
「……陛下に叱られないように、ジャンヌ王女を幸せにします」
男は、明らかにブルターニュ公兄弟を値踏みしていた。
「くっくっく、花婿はずいぶんと優しい人柄のようだ。ジャンヌ王女も幸せ者よ」
「そう思ってもらえるように努力します」
「歳のわりに大人びているな。ふむ、よく見れば、幼いながら顔も整っている。美形だ」
男は、フランス最大勢力の貴族ブルゴーニュ公その人だった。
当時のブルゴーニュ公はあの無怖公の父で、二つ名「豪胆公」と呼ばれていた。
「容姿は美しいほどいい。男女や身分に関係なく、美しいものは見ているだけで心が洗われる。神から与えられた恩寵だ」
豪胆公はブルターニュ公を気に入ったようで、王女との結婚を大いに祝福した。
「そっちの小さいのは弟か」
「アルテュール・ド・リッシュモン伯と申します」
「ふむ、兄に比べると顔はそれほど美しくないな。だが……」
高みから見下ろされ、リッシュモンは何も答えずに淡々と見返していた。
母と別れるときに一度だけ泣いたが、物怖じしない子供で、豪胆公の無遠慮な物言いと眼差しに晒されても、まったくひるまなかった。
「……歳のわりに眼力がある小僧だ」
しばらくすると、豪胆公はリッシュモンを引き取りたいと王に申し出た。
ブルターニュ公兄弟が成人するまで守り、身分にふさわしい教育をするには、後見人クリッソンひとりでは荷が重すぎるが、「ブルターニュ公とその弟」に家格が釣り合う貴族は限られる。それに加えて、豪胆公の嫡孫フィリップ・ド・ブルゴーニュは、リッシュモンと同じ年頃で、教育環境は申し分ない。
今後は、豪胆公に引き取られてフランス東部の内陸部ブルゴーニュ領で養育を受ける。
故郷ブルターニュはフランス西部にあり、海に囲まれた半島に位置する。
地名は似ているが、位置も環境も正反対だ。
リッシュモンは父と死別し、母と生き別れ、ついに兄とも別れることとなった。
「そんな、アルテュールはまだ小さいのに」
兄のブルターニュ公は聡明で心の優しい人物だったから、弟の身を案じた。
その一方で、弟のリッシュモンは気丈で物分かりが良く、何より兄思いだった。
「兄上、私は平気です」
「平気なものか!」
「不名誉よりも死を、でしょう?」
弟は、兄から教わったブルターニュの家訓を口にした。
感情に流されて取り乱すのは不名誉な振る舞いだ。ブルターニュ公としては万死に値する。
「ああ……、そうだったね」
「どこにいても兄上とブルターニュのことを想っています。兄上も私を忘れないでください」
「もちろんだ、もちろんだとも!」
「兄上は優しい。だから、私の分まで義姉上に優しくしてあげてください」
リッシュモンはもう泣かなかった。
最愛の兄と別れると、養父・豪胆公の手を取った。
「その剣は?」
「兄上からいただきました。これで戦えるようになりたい」
「くっくっく、気丈な子だ。気に入ったぞ」
豪胆公の手はしわだらけだったが、触ってみると剣だこだらけで硬かった。
しかし、あたたかくもあった。
(ブルゴーニュ公はフランスで王様の次に力のある貴族だ。早く一人前の騎士になろう。たくさん戦果をあげたらブルターニュに戻って兄上と故郷のために働こう)
小さな胸に大きな決意を秘めて、リッシュモンはひとりブルゴーニュへ旅立った。
(※)おおよその年齢は、ブルターニュ公(のちの賢明公)10歳、ジャンヌ王女8歳、リッシュモン6歳。シャルル七世はまだ生まれてません。
ささいな出来事がきっかけとなり、大きな流れを変えてしまうことがままある。
イングランド王ヘンリー四世とブルターニュ公未亡人による「新ブルターニュ公兄弟を連れ去る陰謀」は、オリヴィエ・ド・クリッソンの尽力で阻止された。
クリッソンは、百年戦争におけるフランス三大名将のひとりに数えられている。
ひとりはベルトラン・デュ・ゲクラン、もうひとりはリッシュモンである。
このとき、クリッソンがブルターニュ公兄弟をフランスに引き留めなければリッシュモンは渡英してヘンリー四世の継子となり、ゆくゆくはイングランドの名将になっていたかもしれず、百年戦争の経緯も結末もかなり違っていただろう。
運命の分岐点にいるとき、当事者は未来のことなど知る由もない。
クリッソンとリッシュモンしかり、勝利王と正義公しかり。宿縁というものだろうか。
クリッソンはブルターニュ公兄弟の後見人として義務を果たしたが、娘の嫁ぎ先パンティエーヴル家から陰謀を持ちかけられ、板挟みになっていた。
「後見人の立場を利用して、子供たちを殺せ」
リッシュモンの兄はブルターニュ公を継承し、兄弟はフランスに残ったが、それゆえに命の危険にさらされていた。
パンティエーヴル家は、リッシュモンの祖父から父の時代にかけてブルターニュ公継承戦争で戦った因縁の相手だ。
すでに勝敗は決まっていたが、パンティエーヴル家はまだ諦めていなかった。
特に、女傑と恐れられた老女伯ジャンヌ・ド・パンティエーヴルは、幼いブルターニュ公とリッシュモン兄弟を謀殺しようと企んでいた。
クリッソンは「屠殺者」と呼ばれていたが、良識ある人格者でもあった。
パンティエーヴルからの誘いを断ると、ブルターニュ公兄弟を王都パリへ連れて行った。
表向きの理由は、フランス王シャルル六世に臣従するため。
本当の理由は、子供たちの身辺の安全を図るため。
「貴公が新たなブルターニュ公か。遠路はるばるよくぞ参られた」
狂王シャルル六世は、ブルターニュ公と弟リッシュモンをあたたかく迎えた。
「父君の不幸は残念なことであった。余の父、先代フランス王シャルル五世が崩御したとき、余は12歳足らずで弟のオルレアン公はまだ8歳だった。貴公ら兄弟の心痛は察するに余りある」
フランス王シャルル六世とブルターニュ公の臣従儀礼はつつがなく終わった。
「陛下の心遣いに感謝を申し上げます。これでブルターニュは安泰です」
「遠慮はいらぬ。貴公は余の息子も同然なのだから」
「恐れ多いことです」
「遠慮はいらぬと申したであろう。余の娘、ジャンヌ王女をやる」
「……はっ?」
フランス王への臣従と同時に、ブルターニュ公と第二王女ジャンヌの結婚が決まった。
フランス王家の親戚になれば、イングランドもブルターニュ諸侯もうかつに手出しができなくなる。ブルターニュ公兄弟の安全とブルターニュ地域の安定のため、ひいてはフランスのために計画された政略結婚だった。
「兄上は結婚するのですか?」
「うん、そうみたいだ」
連れてこられた花嫁、ジャンヌ王女はわずか8歳だった。
「あの子はジャンヌ王女。私の妻になるからアルテュールの義姉上になる」
「王女さまが兄上と結婚して、私の義姉上に……?」
「はは、アルテュールにはまだ難しいかな」
国王夫妻と王女が別れるとき、母妃イザボー・ド・バヴィエールはとりわけ悲しんでいたという。
これより前、第一王女イザベルは7歳のときに英仏和平の証としてイングランド王リチャード二世と結婚した。しかし、クーデターが起きてリチャード二世はロンドン塔に幽閉・餓死させられると、イザベル王女は11歳で未亡人となってフランスに帰国した。
私が知る母妃イザボーは享楽的な快楽主義者で、人の気持ちを顧みない人だった。
だが、政略のために何度も我が子と引き裂かれ、その後の不幸を見るにつけて、ついに子供に愛情を抱くことをやめてしまったのかもしれない。
「フランスとブルターニュのために、ジャンヌ王女は父君や母君とお別れしてうちに来るんだ」
父と死別し、母と生き別れたブルターニュ公兄弟にとって、ジャンヌ王女の境遇は他人事ではなかった。
「ブルターニュに帰ったら楽しいことをたくさんしよう。あの子が笑ってくれるように」
「はい! 兄上からもらった剣を、王女様に見せてあげます」
ブルターニュ公とリッシュモンはパリ滞在中に、フランス王に臣従する有力貴族たちに挨拶してまわった。
みな、ブルターニュの状況はそれとなく知っていたため、けなげな兄弟に同情的だった。
だが中には、悪気はなくとも傲慢で失礼な人間もいる。
「陛下じきじきに王女をいただけるとは。花婿殿は幸せ者だな」
「はい」
「妻は幼いほどいい。好きなように妃教育ができるからな」
「……陛下に叱られないように、ジャンヌ王女を幸せにします」
男は、明らかにブルターニュ公兄弟を値踏みしていた。
「くっくっく、花婿はずいぶんと優しい人柄のようだ。ジャンヌ王女も幸せ者よ」
「そう思ってもらえるように努力します」
「歳のわりに大人びているな。ふむ、よく見れば、幼いながら顔も整っている。美形だ」
男は、フランス最大勢力の貴族ブルゴーニュ公その人だった。
当時のブルゴーニュ公はあの無怖公の父で、二つ名「豪胆公」と呼ばれていた。
「容姿は美しいほどいい。男女や身分に関係なく、美しいものは見ているだけで心が洗われる。神から与えられた恩寵だ」
豪胆公はブルターニュ公を気に入ったようで、王女との結婚を大いに祝福した。
「そっちの小さいのは弟か」
「アルテュール・ド・リッシュモン伯と申します」
「ふむ、兄に比べると顔はそれほど美しくないな。だが……」
高みから見下ろされ、リッシュモンは何も答えずに淡々と見返していた。
母と別れるときに一度だけ泣いたが、物怖じしない子供で、豪胆公の無遠慮な物言いと眼差しに晒されても、まったくひるまなかった。
「……歳のわりに眼力がある小僧だ」
しばらくすると、豪胆公はリッシュモンを引き取りたいと王に申し出た。
ブルターニュ公兄弟が成人するまで守り、身分にふさわしい教育をするには、後見人クリッソンひとりでは荷が重すぎるが、「ブルターニュ公とその弟」に家格が釣り合う貴族は限られる。それに加えて、豪胆公の嫡孫フィリップ・ド・ブルゴーニュは、リッシュモンと同じ年頃で、教育環境は申し分ない。
今後は、豪胆公に引き取られてフランス東部の内陸部ブルゴーニュ領で養育を受ける。
故郷ブルターニュはフランス西部にあり、海に囲まれた半島に位置する。
地名は似ているが、位置も環境も正反対だ。
リッシュモンは父と死別し、母と生き別れ、ついに兄とも別れることとなった。
「そんな、アルテュールはまだ小さいのに」
兄のブルターニュ公は聡明で心の優しい人物だったから、弟の身を案じた。
その一方で、弟のリッシュモンは気丈で物分かりが良く、何より兄思いだった。
「兄上、私は平気です」
「平気なものか!」
「不名誉よりも死を、でしょう?」
弟は、兄から教わったブルターニュの家訓を口にした。
感情に流されて取り乱すのは不名誉な振る舞いだ。ブルターニュ公としては万死に値する。
「ああ……、そうだったね」
「どこにいても兄上とブルターニュのことを想っています。兄上も私を忘れないでください」
「もちろんだ、もちろんだとも!」
「兄上は優しい。だから、私の分まで義姉上に優しくしてあげてください」
リッシュモンはもう泣かなかった。
最愛の兄と別れると、養父・豪胆公の手を取った。
「その剣は?」
「兄上からいただきました。これで戦えるようになりたい」
「くっくっく、気丈な子だ。気に入ったぞ」
豪胆公の手はしわだらけだったが、触ってみると剣だこだらけで硬かった。
しかし、あたたかくもあった。
(ブルゴーニュ公はフランスで王様の次に力のある貴族だ。早く一人前の騎士になろう。たくさん戦果をあげたらブルターニュに戻って兄上と故郷のために働こう)
小さな胸に大きな決意を秘めて、リッシュモンはひとりブルゴーニュへ旅立った。
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