7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)

文字の大きさ
159 / 202
第九章〈正義の目覚め〉編

9.16 ヘンリー五世崩御(1)

しおりを挟む
 1422年5月10日、モー陥落。
 王太子が派遣した傭兵は、イングランド・ブルゴーニュ連合軍と交戦しながら包囲網を脱出、その中にライルとザントライユもいた。
 逃げきれずに捕われた者は、身分に関係なく全員処刑された。

 イングランド王ヘンリー五世は戦後処理を見届けると、ようやく帰路についた。

「早くロンドンへ帰って、息子を抱いてやらねばな」

 イングランド王太子——のちのヘンリー六世——が生まれて半年近く経っているというのに、ヘンリーは初めての我が子を抱くどころか、まだ一目たりとも見ていない。
 気持ちばかりが先走り、帰還の行軍はなかなか進まなかった。

「陛下!」
「おお、我が弟よ。待っていたぞ」

 ヘンリー五世の弟ベッドフォード公が駆けつけたとき、ヘンリーは自力で馬に乗ることさえできなくなっていた。

「体調を崩したと聞きましたが……」
「少々腹を下していてな。見苦しくてすまん」

 ヘンリー五世の侍医は優れた医師で、昔、戦場でヘンリーの頬に貫通した矢をきれいに抜き取って以来、絶大な信頼を置かれていた。
 その侍医の見立てによると、ヘンリーは赤痢を発症していた。

「くっくっく、どうやら私にはフランスの水が合わないようだ」

 赤痢とは、黒死病とともに恐れられた伝染病である。
 重症化すると、四十度近い高熱が出て、激しい腹痛と出血性の下痢に苦しみ、さまざまな合併症を引き起こしながら死に至る。

「来てくれて助かる。けいれんが止まらなくてな、文書に署名もできないありさまだ」

 いつもヘンリーのご機嫌を窺っていた悪友の側近たちは姿を消していた。

「これは傑作な病だぞ。腹がねじれるように痛んでな、ときどき意識が飛ぶ……」
「なぜ、こんなに悪くなるまで放っておいたのですか!」
「こんなに悪くなるとは思わなかったのだ」
「養生するように進言する者はいなかったのですか? 取り巻き連中は何をしていたんだ……!」
「モー陥落を見届けるまで帰らないと私が駄々をこねたのだよ。あまり怒らないでやってくれ」

 多量の膿と下血を垂れ流しているせいでひどい貧血状態だったが、かろうじて意識を保っていた。

「すぐにイングランドへ帰りましょう。キャサリン妃と王太子が待っています」
「キャサリン……?」
「カトリーヌ王女ですよ。カトリーヌ・ド・ヴァロワ」
「ああ、そうだった。王妃と息子のことはおまえに任せる」
「任せる? 笑えない冗談はやめてください」
「時間がない。意識があるうちに手短に話す」

 ヘンリー五世には年子の弟が三人いた。
 上から、クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリー。
 男ばかりの四兄弟だが、クラレンス公は一年前にボージェの戦いで戦死している。

「イングランドでもフランスでも我ら兄弟を『王位簒奪者だ』とののしるが、おまえは兄弟の中で一番まじめだった。腹心と呼べるのはおまえだけだ、ジョン」
「あぁ、陛下……兄上……何を言ってるんですか……」
「息子が成長するまで守ってやってくれ。この父の代わりに支えてやってほしい」

 ヘンリーの死後、ベッドフォード公ジョンは摂政としてフランスに残り、グロスター公ハンフリーは護国卿としてイングランド安定に努めることが定められた。

「フランスは広い。全土征服は簡単ではないだろうが、ジョンならば……」
「はっ、御意のままに」

 ヘンリーは腹心の弟に遺言を託すと、弟を遠ざけようとした。

「もう良い。行け……」

 感染を避けるため、医師と看護人以外の者が付き添うことはできない。
 遺言を託された身内ならなおさらそうだ。
 しかし、理屈では分かっていても、情に絆されてしまうのが人間というものだ。

「兄上……」

 今生の別れになるかもしれないのに、おいそれと離れることは難しい。

「兄上から見て、私はまじめでしたか?」
「何の話だ……」
「確かに、兄上は王太子時代から遊び人でした。軽薄と言っていいくらい明るくて、いつも前向きで、人生を謳歌しているように見えました。ですが本当は……」
「よく聞こえない。何を、言っているんだ……」

 侍医から「これ以上は病人の負担になるから」と促され、ベッドフォード公は後ろ髪を引かれる思いで退席した。入れ替わりで、司祭とすれ違った。

「冗談でしょう?」

 キリスト教徒は死ぬ前に「死の秘蹟」を受けなければならない。生前の罪を告白・贖罪し、司祭から赦しを得て、ようやく神の元へ召されるのだ。
 司祭が病室へ呼ばれた。それはすなわち、ヘンリーの臨終が近いことを意味する。

「だって、兄上の栄光はこれからではありませんか。去年クラレンス公が戦死したばかりで、二年続けて兄を二人も失くすなんて嫌ですよ……」

 ベッドフォード公は、司祭の背中を絶望的な気分で見送った。

「兄弟の中で一番自分勝手で、それなのに一番まじめだったのは兄上じゃないですか。簒奪者の息子とののしられながら王位を継承して、理不尽な嫌がらせがたくさんあったのにいつも自信たっぷりで……それに、いまだにイザベル王女の面影を追い求めている……」


***


 私の姉でシャルル六世の長女イザベルは、休戦協定の証しとしてイングランド国王リチャード二世と政略結婚した。リチャードは30歳、王妃となったイザベル王女は7歳である。

 当時のヘンリー五世は「リチャード二世のいとこの息子」という立場で10歳の少年だった。
 ヘンリーたち四兄弟はイザベル王女と歳が近かったため、遊び相手、話し相手を務める日もあった。
 この時、ヘンリーは幼い恋心を抱いていたと言われる。

 結婚から二年後、ヘンリーの父——ヘンリー四世がクーデターを起こして、リチャード二世を廃位・餓死させ、イングランド王位を簒奪した。

 ヘンリー四世は当初、未亡人となったイザベル王女をフランスへ帰さずに、長男ヘンリーと結婚させようと考えていたらしい。
 二人の年齢を考慮するならば、リチャードとの政略結婚よりよほど人道的だ。
 だが、イザベル王女は——

「夫を裏切った王位簒奪者の言いなりにはなりません。ましてや、簒奪者の息子と結婚なんて絶対に嫌です」

 幼いながらも、毅然と拒否したと伝わっている。
 初恋は実らないといわれるが、ヘンリーはどのような思いでこの政変を見ていたのだろう。
 このときの傷心と、屈折した恋心が、フランス侵攻の原動力だったのだろうか。

 王太子時代のヘンリーは享楽的な遊び人で、父王ヘンリー四世をずいぶん悩ませていたらしい。
 イングランド王に即位した後も、あらゆる縁談を断り続け、「ヴァロワ家の王女を妃にしたい」と執着して三十路過ぎまで独身だったのは事実だ。


***


 1422年8月31日。
 イングランド王国ランカスター王朝第二代国王ヘンリー五世は、モー包囲戦から帰還する途中、パリ郊外のヴァンセンヌの森で息を引き取った。享年34歳であった。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます

綾月百花   
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

処理中です...