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しおりを挟む次に意識が浮上した時は、病院のベッドの上だった。
「ストレス性の胃潰瘍ですね。ああ、教師は多いんですよ。特に30代からは発症しやすいですね。先生ストレス溜め込みすぎです。一ヶ月は入院してくださいね」
医者にあっさりとそう言われた。
胃潰瘍だと。一ヶ月も入院だと。
「おいまて、なんとかならないのか。この大事な時期に入院などありえん」
思わず医者の胸ぐらをグイと掴みあげる。
俺の行動に医者が青い顔でワタワタと隣を見上げた。
「ちょっ、先生吐血までしておいて何言ってるんですか。ちょっと同僚の方もなんとか言ってくださいっ」
「――すみませんでした。大人しくさせますのでもう行って下さい」
「なんだと神谷っ」
逃げるように医者が病室を去り、神谷に落ち着いて下さいと宥められる。
仕方なく息を吐き出してベッドに戻る。
「しかし胃潰瘍で本当に良かったですよ。他に何か重い病気だったらともう寿命が縮まりました」
「…迷惑を掛けた。胃潰瘍と貧血が同時に発症するなんてな。日頃の体調管理が甘かった」
「そういう問題でしょうか。ともかくゆっくりと今はお休みなさってください。こちらの仕事は何も気にしなくて大丈夫ですので」
「ふざけるな。そういうわけにはいかない」
「いつまでもそう気にしていると早く治るものも治りませんよ」
神谷に言われ、うっと言葉を詰まらせる。
とはいえ一ヶ月も休んでられるか。
絶対に一週間で帰ってやる。
納得していない俺の態度に、神谷が一つ息を吐き出した。
「お願いですからゆっくりなさって下さい。大好きな数学がいつまで経っても出来ませんよ」
「…それは困る」
「ね、ですから早く治しましょう。何か必要なものはありますか?入り用でしたらご自宅まで取りに行きますよ」
「お前を部屋に入れたらどこにカメラを仕掛けられるか分からない」
「……」
何か言え。なぜ無言なんだ。
やはりコイツには頼めない。
「必要なものは売店で揃えるから問題ない。それより忙しい所わざわざ病院までついてきてくれてすまなかった」
「いえ。ではお休みの邪魔になってはいけませんし、俺は学校に戻ります。本当に余計なことはせずゆっくりと休んでくださいね。それから医者も脅さないように」
「わ、分かっている」
そう言ってベッド脇の椅子から神谷は立ち上がったが、慌ててその服の裾をぐいと引く。
顔は上げられなかった。
「…あ、えっと…その」
言葉が出てこない。
ドクドクと心音が上がっていく。
聞きたい事があるが、聞くのが怖い。
言い淀んでいると、不意に神谷の手が俺の髪をゆるりと撫でた。
安心させるような仕草に、心がじわりと緩む。
「…あなたを救急車まで運んだのは七海ですよ。ついてくると言ったのですが、すぐに紺野先生の立場を考えたのか俺にお願いしますと頭を下げて授業へ戻りました。ただの胃潰瘍だと携帯に連絡もいれましたし、心配には及びません。…まああの分だと学校が終わったら飛んで来そうですが」
「…そうか。ありがとう」
七海の前で吐血だとか倒れるだとか、高校生には見たくないものを見せてしまっただろう。
余計な心配をすることで、受験勉強の邪魔にならないといいのだが。
「紺野先生、今はあなたが心を休めるのが一番ですよ。それでないと我々も安心出来ません。ご自分のことだけを考えて下さい」
「…ああ」
「また来ますね。何かあったら遠慮なく俺に仰って下さい」
そう言って神谷は学校へと戻っていった。
ぐるりと室内を見回す。
簡素な部屋だが、一人部屋らしく安心する。
特に俺は相部屋などでは気が散ってゆっくり休めないし、神谷が気を使ってくれたんだろうか。
考えたいことは山積みだったが、確かにこれ以上悪化するわけにもいかず俺は素直に身体をベッドへと落とした。
ダダダッと廊下を勢いよく走る音がした。
うつらうつらと寝ていたが、騒々しい音に意識が浮上する。
ここは病院内だというのにどこのどいつだ、と思ったら扉が壊れんばかりの音を立てて開いた。
「――みーちゃんっ」
「ちょっと、静かにして下さい。それからお見舞いを希望される方はこちらにお名前を――」
後ろから看護師数人を引き連れてきたのは七海だった。
七海は看護師には全く目をくれず、俺のところまで真っ直ぐに来るとそのまま俺を抱きしめた。
看護師が明らかに好気の目でキャーッと騒いだが、お前らも静かにしろ。ここは病院内だ。
じとっと目を細めると、俺の視線に気付いたのか慌てて看護師は病室から出ていった。
二人きりになった個室で、俺を抱きしめたままの七海にそっと声を掛ける。
「…心配かけたな。ただの胃潰瘍だから何も問題はない」
俺を抱きしめる大きな背を、そっと擦ってやる。
病室に入り込んできたときとは打って変わり、珍しく七海は黙り込んだまま何も言わなかった。
ただ俺を強く抱きしめたまま、微動だにしない。
「もう大丈夫だから。…その、見たくないものを見せてしまってすまなかった」
さすがに吐血は高校生には厳しかっただろう。
自分でも反省しつつその背をゆるゆると撫でてやるが、七海はまだ俺を離そうとはしない。
「…あー、そうだ。神谷に聞いた。お前ちゃんと授業に戻ったんだってな。偉かったな。俺もそれを聞いて安心した」
大きな体が何も言わずに震える。
覚えのないその感覚に、ドキリと心臓が跳ねた。
何も言わないんじゃなく、言えないのか。
そう気付いて、堪らなく愛しさが込み上げてきてしまう。
不謹慎だと思いつつも、嬉しいと思ってしまった。
「…バカだな。お前、泣いてるのか?」
七海は俺を抱きしめたまま、ただ身体を震わせていた。
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