「貴方に心ときめいて」

華南

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閑話2

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***

「全く、自分のアパートなのに何故、出ないといけないの!」

怒りが沸々と湧いて抑える事が出来ない。
今、自分のアパートには義姉の藍子がいる。

不倫相手と一緒に。

(何故、私のアパートが藍子姉さんと不倫相手に勝手に使用されないといけないのよ。
そんな権利なんて無いのに、ただ、私が……)

それ以上の言葉を噤んでしまう。
そう、仮にも義理の両親と姉である。
ずっと世話になった。

今、こうして生きているのも伯母夫婦の慈悲で……。

慈悲で……。

(ああ、気持ちが重い。
自分の城とも言えるアパートが穢れてしまう。
不倫相手の逢い引き部屋として使われるなんて!
ホテル代が勿体無いからあんたの部屋を貸しなさいと言い放った、藍子姉さんのあの、言い振り。
あんたが、今こうして真っ当に生きているのは誰のお蔭だと思っていると言われたら言い返せないじゃ無いの。
実際、生活の面では慈悲は被っていないと言っても、通用しない相手に何言っても)

物心ついた時から常に働いていた。
家事に、アルバイトが許される年齢になった途端、新聞配達にコンビニのバイトやら、居酒屋の……。

数え切れないバイトの数々。
器用と言えない性格で、それでも必死になって仕事した。

その甲斐あって、家事一般は難なくこなす事が出来る。
人よりも優れているかと言えば微妙であるが……。

(はあ……)

久々の休日だからゆっくりと部屋の片付けやら、惣菜の作り置きをしたかった。
薄給なんだから節約と言えば、日々の食事に、光熱費に。

(はあ……)

考えたら余計に落ち込んでしまう。
毎日、終電に降り遅れる状態で無かったら少しは、ううん、かなり節約できる。
正社員になった途端、派遣の時よりも仕事量が更に増えて、毎日こなすのに精一杯。
何の為に仕事しているんだろう?

生きていく為に、少しでも心に潤いを生活にゆとりが欲しくて正社員になった筈なのに、自分をこんなに追い込んで。

一体、何が楽しいのだろう……。

(あ、楽しみがあるじゃ無い。
「貴方に心ときめいて」があるのだから、紗雪。
今日だって、部屋を掃除して洗濯して、作り置きをしたらその後はプレイする予定だったのに、全部狂ってしまった)

と、思いながら歩いていると見知った人物と出会う。

(あの人は……)

相手も私に気付いた様子で近付いてくる。
周りがひそひそと囁いていく。

自分の今日の装いを見て、近付く男性を見ているのだろう。
そりゃそうだ。

こんな平凡で、モブ以下の存在とも言える私に、彼は眩し過ぎる。
一瞬にしてその場の空気を変える男性。

(保科祥吾、さん……)

確かに、あの時そう言った男性だった。

***

「ああ、遠慮なく好きなモノを注文して」

場違いの場所に案内されて、今、私は保科さんと向かい合ってお茶している。

ホテルのラウンジに案内されて、今までの29年間、口にした事も無い薫り高いアールグレイを口にして。
含んで時に鼻腔を擽る薫りについ、うっとりしてしまう。
上品で華やかで。

私には縁遠い世界の飲み物である。

この場所も、そして、今、目の前にいる男性も。
超一流と言えるスーツを着こなしている。
肌触りの良さそうな質の良い。

私が勤めている会社のビルも、保科さん所有の不動産であると聞いて膝がガクガクと震えた。
そんな雲の上の人と今、私はお茶している。

カタカタと指が震えてしまう。
現実を急に突き詰められて、一気に己の立場を認識させられて。

(どうして私を誘ったのかしら。
保科さんの周りには居ないタイプの女だから興味を持った。
そんな訳ないか……。
自惚れも甚だしいと思わないの、紗雪。
今も自分の姿を見て不釣り合いと思うでしょう。
美人でも無い、職場でも華々しい活躍をしている訳でも無い。
唯の、モブで……)

やだ、落ち込む為にこの場にいるの?私は……。

「どうした?
何、思い悩んでいる」

少し低いバリトンの男らしい声。
憧れの一柳さんとは違う、男性。

「いえ、別に……」

言える訳ないじゃ無いの。
貴方にここに誘われて、自分の立場を思い知らされたなんて口が裂けても言えない。
目に映るティーカップ。
多分、ウェッジウットかな?
綺麗なティーカップ。
私には不釣り合い……。

奇妙な沈黙が続く。
私の気の抜けた返事がお気に召さなかったのだろうか。
そう取られても仕方が無い。
だってそうだから。

誘われて、のこのこついて行って現実を見せ付けられて。
なんでこう馬鹿なんだろう。

私は……。

「……、君を誘ったのは他でも無い。
多栄子さんの代わりに、あの花壇の世話をしてくれないか」

「え……」

一瞬、言われた言葉に呆けてしまう。

「実は2日前に多栄子さんの母親が急遽、入院して実家に帰っている。
当分、お休みしたいと言われて、な」

「はあ……」

多栄子さんが休むからと言って、どうして私に?
部外者だし、代理の人を雇う事くらい難なく出来るのでは?
それに私は、一応、会社勤めだし。
バイトの掛け持ちは禁止されていて。

確かに多栄子さんの手助けはしたいけど、出来る時間て限られているし。

どうも合点がいかない。
何故?

「そのくるくると表情が変わる様は、面白いな」

くつくつと楽しそうに笑う保科さんに、少しむっとする。
だ、だって、おかしいとしか思えない言動にどう対処すれば良いのよ。

「君が真面目にあの花壇の草むしりやら水やりをする姿を見て、君しか任せられないと思って。
あの花壇は思い入れの深い花壇でね……。
気持ちの優しい君にお願いしたい」

すっと目を細めて私を見詰める。

とくん。

とくんとくん……。

「え……」

気持ちの優しい私にって……。
この人は何を言っているの?

私がそんな。

耳朶が赤くなる。
頬が上気して真っ赤になる自分を自覚する。

そんな言葉、言われた事ない。
どうしてこの人が私の事を、そう評価するの?

「私は……」

ドキドキが止まらない。
こんな事って。

じっと見てしまう。
一柳さんとは違う、男性。

そして、当然ながら「貴方に心ときめいて」のキャラクター達とは全然違う、現実の。

自然と頷いてしまう。
どうしてあの時、頷いてしまったのだろう。

自分を苦しめる要因を何故、あの時、選択してしまったのだろう。

私はあの時、確かに向かっては行けない道を選んでしまった。
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