「貴方に心ときめいて」

華南

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閑話6

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保科さんの依頼で花壇の手入れをし始めて、丁度2週間が経過した。
毎日が驚きの連続であるが、身体は凄く楽になった。
午前中だけ、今の会社で働いて午後は花壇の手入れ。
お日様を浴びながらの手入れは殊の外楽しくて。
人の目を気にしなくてもいい環境は、職場独特の人間関係でのストレスは確かに無い。

無いのだけど……。

その分、雇用主である保科さんとの接触が半端無い。
あんな美形を毎日拝めて何で文句が出るの、全くもって羨ましいと思われても。

私が好きなのは一柳さんなので保科さんが飛び抜けてハンサムで大金持ちであっても、気持ちは揺れないし、靡かない。

……、だって怖んだもの、無言の圧が。
逆らうと微笑みながら圧を掛けてくるし、やたらと揶揄ってくるし、気安いし、それに……。

たまに何とも言えない気分になる……。

あのバリトンで耳元で囁かれるとぞわりと背筋が。

もしかして確信犯?
まさか、ね。
こんなモブ以下の私に欲情するなんてある訳無いでしょう?
特別美人でもなく、至って平凡な容姿だし。
自惚れるのも甚だしい。

(しかし、いつまでこの状況が続くのかしら。
長くても一ヶ月、若しくは2ヶ月後には多栄子さんも復帰するだろう。
そうなると私も以前の如く今の仕事で、再度常勤として戻る事が出来るのかしら。
一度パートになった場合、常勤に復帰する確率は極めて低そう。
こんな不景気なご時世に私の希望が叶うとは到底思えない。

それに定時に帰宅するのを体験している今の状況で、あの時間まで仕事をするのは、精神的にも体力的にも正直、厳しい。

ああ、贅沢に馴染んできたこの身が恨めしい。
そんな事言える立場では無いのに。

仕事がある事がどれだけ有難い事か、身に染みる程、解っている。
でも、気が重いな……)

午後は会社に関わる事が無いから、人間関係のストレスは無いけど、その分、午前中は……。
最近、周りの当たりがキツい。
私の勤務が午前中だけになったが為に自分達の仕事が増えたと周りから密やかれて。
嫌味がちくちくちく、と。
逆に午前中だけの勤務となったのなら辞めたら?とまで言われる始末。
私を解雇して新たに正社員を雇って欲しいと上司に直談判する強者までいる。
自分達の仕事が増えた事がお気に召さないらしい。

みんな定時に帰る為に残った仕事や雑用を、全部、私に押し付けていたのが出来なくなった事が不満らしい。

そ、そんなの言われても……。

私は私の仕事だけでは無い仕事まで毎日、終電を乗り遅れる程していてもそれが当たり前と思われたら。

(やだ、涙が出る……。
人を何だと思っているんだろう。
私は便利屋では無いのよ。
毎日、毎日、どうして……)

保科さんは私の事を、どう、会社に言ったのだろう。
会社での自分の立場が悪くなっているのは正直、辛い。

でも……。

(今日は、保科さんも接待されて会食があるとぶつぶつ言ってたから。仕事が終わったらこのまま退社出来る。
帰ったら何作って食べよう)

と、思って保科さんのビルを後にし、てくてくと歩いていたら。

(え……)

まさか、こんな偶然って有りなの?
直ぐ近くに一柳さんが、居る。

(やだ、心臓がバクバクと音を立てて騒がしい。
ど、どんな態度で一柳さんに)

あたふたと考える一方で、ふと、現実に戻る。
一柳さんと言葉を交わした事があるのは、あの事だけ。
企画部に珈琲を淹れて持っていった、あの時だけ。

(私の事なんて覚えている訳、無いでしょう?
何、自惚れているの。
本当に最近の私って少し自意識過剰となっていない?
保科さんの事だって、凄く意識して……)

ぽおお、と頬が赤く染まる。
今の私を鏡で見たらきっと真っ赤に相違無い。

で、でも、こんなハプニングに冷静になれる訳無いもの。
憧れの一柳さんが側にいる。
ううん、もう直ぐ真正面に。

(え、真正面って……)

「あ、あの、久保さん」

一柳さんが私の名前を呼んでいる。
空耳よね、きっと。

「久保紗雪、さん」

そ、空耳では無い、ほ、本当に一柳さんが私の名前を呼んでいる。

「あ、は、はい」

「良かった。
やっと、久保さんに声を掛ける事が出来た」

「え?」

「この前のお礼を渡したくって、ずっと、久保さんに声を掛けるチャンスを狙っていた。
美味しい珈琲を淹れてくれて有難う。
これはほんの気持ち。
受け取って欲しい」

と、一柳さんに言われ手渡される。

余りの出来事に固まっている私に、目を細めふっと微笑んでいる。
少し耳朶が赤い?
て、照れている?

ま、まさか……。

(で、でも、こんな事って、ど、どうしよう!
涙が出るくらい、う、嬉しい)

手に渡された紙袋。
あ、ここの焼き菓子って美味しいので有名で。
でも、ちょっと高くって買うのに勇気がいる。

「あ、あの、私、こんな……」

「是非、食べてね。
俺もここの焼き菓子が好きでたまに買うんだ」

「……」

「じゃあ、また。
……。
ま、また機会があったら、珈琲を淹れて差し入れて欲しいな」

そう言いながら去っていく一柳さんを、私はそのまま呆然としながら見詰めていた。

今まで、一番幸せだと思った瞬間。
そう。
一瞬の出来事であってもキラキラと大切な宝物の様なひと時。

そんな夢の様な出来事に、心を奪われていた私は気付かなかった。

この出来事を保科さんがずっと見ていた事に。
冷ややかな目で私と一柳さんを射抜いていた事に。

私は気付いていなかった。
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