「貴方に心ときめいて」

華南

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閑話12

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恋に陥る瞬間って、どう答えたらいいのだろう。

例えば、私が一柳さんを好きになった理由なんてとても些細な事で。

***

「ねえ、久保さん。
隣の企画部がお茶を欲しがっているのだけど、淹れて持っていってくれる?」

「え、あ、はいっ」

会社に派遣で入社し、数ヶ月後、同じ部署の上杉さんが寿退社した事で正社員になったのだけど、毎日、書類の処理と雑用に追われている。
それも自分の仕事だけでは無く、先輩方の仕事も振られているので、遅くまで残業し、終電に乗り遅れて帰宅する日々が続いている。

企画部のお茶を差し入れるのもそう。

本当は田川さんが頼まれたのだけど、事務処理が溜まっていてそれどころでは無いとバッサリ言われて私に押し付けてきた。

(わ、私だって今日中に処理しないといけない仕事があるのに)

と、思いつつ、給水室に向かってお茶を取り出す。
ふと、企画部が連日深夜まで残業を行なっていると小耳に挟んだので、お茶よりは珈琲の方が頭がスッキリするのでは無いかと思い、カップを先にお湯で温めドリップ珈琲をセットし淹れる。

(確か5人分用意すればいいのね)

と確認しながらトレイに置き企画部に運ぶ。

控えめにノックし、そっとドアを開き中に入ると、連日深夜残業が続いている所為か、殺気だっている企画部に思わず気後してしまって固まっていると私の肩を軽く触れる男性がいて。

「もしかして営業部の人かな?」

「は、はい」

「珈琲淹れてくれたんだ。
ありがとう。
助かったよ、丁度、飲みたかったんだ」

と、声をかけてくれたのが一柳さんで。

少し照れながら微笑む一柳さんに、思わずキュンとして。

(優しい人だな。
それに笑うと少し幼く見えて可愛らしい)

恋をした自覚なんて無かった。
ただ、心の中が温かくなって。

ほんわかとなんか心が擽ったい。

殺伐とした毎日に、こんな事があると何か特別に思えて。
その後一柳さんに珈琲が美味しかったと、お礼を言われて……。

(一柳さん)

自然と心の中で、名前を呟いていた。
これが恋の始まりなんだなって後で気付いて。

一柳さんと「貴方に心ときめいて」が自分の生活の中心となっていて。
モブである自分がヒロインの様な立場になるなんて無いけど、一柳さんに淡い想いを抱く事は許されるよね?と心の中で思った。

「貴方に心ときめいて」をプレイしている時は、現実ではモブであってもゲームの中ではヒロインとして愛される。
それで満たされると思っていた。

だけど、本当は違っていた。
私が願っていたのは……。

***

「紗雪」

シーツに身体を縫い留められ、身動きが取れない。
追い被さった保科さんが私の裸体を大きな手で弄り始める。

「いや、いや」

抵抗しても聞き入れられず保科さんが、私の胸に顔を埋め口に含む。
舌でなぶられ手で形を変える程、胸を執拗に愛撫する。

「ほ、保科さん!
や、やだ、お、お願い。
やめてっ!」

涙が溢れて止まらない。
足をジタバタさせ保科さんを退けようとしても力の差は歴然で。

どうしてこうなってしまったの?
最初から逃げる事は出来なかったの?
こんな展開になるとは予測はつかなったの?

だって、誰がこんな展開になると思うの?

モブ人生で何の取り柄もない私が、何故、保科さんに愛を捧げられるの?
好きだ、愛しているって、何をどう考えたらそんな成り行きになるの?

多栄子さんの代わりに花壇の世話をする事が決まって、何かと保科さんに構われて。
冗談としか思えない。
揶揄われているとしか思えない。

自分が一人の女として男性に欲望の対象と思われるなんて、どうして思えるの?
今まで誰かに好かれた事も告白された事も無い。

だから、保科さんにキスされても現実味なんて無かった。
舞い上がる事なんて絶対に無い。
有り得ない展開に思考が追い付かなくて。
身の危険を思っても、でもだからって。

本当に身体を奪われるとは思えなかったから……。

気持ちの中で警告音が鳴っても、それが確かな事とは信じ難くって。

一柳さんに初めてを捧げたかったと思いながらも、でも、そんな事なんて起きる事なんて無いから。
一柳さんに淡い想いを抱いても、勇気を出して告白しようと迄は思わなかった。
振られる事が怖くて、バッサリと気持ちを否定され失恋したら立ち直れないと思ってずっと躊躇っていた。

だから今になって、思うの。

失恋しても、いい。

一度位、自分の気持ちに正直に動いて、告白したら良かった、と。

保科さんが嫌いとかでは、無い。
本当に素敵な男性だと思う。
彫りが深くて端正で、とてもハンサムで。
今、抱かれようとしている事は、夢の様な出来事で。
多分、こんな事はこれから先あるとは思えない。

だけど、心は保科さんを求めているのでは、無い。

ふわり、と優しい気持ちにさせてくれる一柳さんが、好き。

何度も会話なんてした事も無い。
ほんの数回の言葉を交わしただけ。

だけどそれだけで一柳さんの人柄を垣間見た。
優しい人だと。
心が温かい人だと。

それが恋する理由って言ったらおかしいのかな?

一柳さんを好きになった理由がそんな理由だなんておかしいのかな。

「一柳さ、ん」

「……」

「一柳さん、一柳さんっ」

無意識に叫んでいた。
一柳さんの名前をただ、ひたすら。

一瞬の静寂に包まれる。

すうと身体から重みが薄れていく。
保科さんが私の身体から退き、背を向ける。

「保科、さん」

「……。
気持ちが削がれた」

「……」

「そんなに好きなら、その男に告白しろ」

「保科さん……」

「告白して気持ちに決着つけろ」

そう言いながら部屋から出て行く。

呆然と保科さんの言葉を聞き入れる。

(一柳さんに告白する?)

「わたし、」

保科さんの言葉が脳裏に過り消し去る事が出来ない。

告白したら、もしかしたら……。
まさか有り得ないけど、でも、少しの希望を持ってもいいのかな?
勇気を持って告白したら。

(私は一歩前に進む事が出来のかしら)

淡い期待が心の中に灯る。

淡い想いが無惨に粉々に砕かれるとは、この時の私には知る由も無かった。
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