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1巻
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別れ際に百花のイメージでオーダーしたと言っていたが、いったいいつからこの指輪を用意していたのだろう。オーダーなら時間もかかるし、昨夜思い立ってすぐというわけにはいかない。
透は一体いつから自分のことをそういう目で見るようになったのだろう。というか、婚約者の権利とは何なのか。そもそも嘘の婚約に権利などあるのだろうか?
しかし、冗談でこんなに立派な指輪を用意するはずはないと思えて、百花は透の言葉の意味を真剣に考えるしかなかった。
すると急に兄のような存在だった透が家族の枠から外れて、一人の男性に見えてきてドキドキしてしまう。
透は昔から格好よかったし、社内では女子社員にも人気がある。そのうえ仕事もできて社長の息子、御曹司とくればモテないはずがない。
そんな彼とすでに婚約しているのだから、婚約者の権利など主張されたら次に来るのは結婚だ。
手を繋いだのなんて婚約が決まったときだけで、それ以上の身体的接触はない。そんな関係で結婚なんてできるのかわからないというのが本音だ。
こうして透のことばかり考えていると、何だか胸が苦しくなってくる。
それは嬉しくて胸が高鳴るというよりは、これから何が変わっていくのかがわからず、不安で胸がキュッと締めつけられる感じだ。
そういえばこんなに素敵な指輪をもらったのにお礼も言っていないことに気づく。
百花は改めて薬指の指輪を見つめて、さすがに会社にはしていけないな、と意外にも冷静に考えている自分に驚いた。
翌日の日曜日はブライダルフェアの手伝いで忙しく過ごし、さらに翌日の月曜日も通常通りに出社をした。
透にいきなり婚約指輪を渡されてどうすればいいのか悩んでいたが、あれ以来透から返事を促されることもなく、いつもの日常が始まっていた。
百花が働くウエディング事業部広報室は本社の一角にある女性中心の職場で、名前の通り自社の宣伝が業務の中心だ。打ち合わせやフェアのときは式場に出向くが、普段はオフィス業務がメインとなる。
テレビや雑誌の取材を受けたり、広告代理店を通じてイベントを企画したり、ウエディングフェアの助っ人にも行くマルチな職場だ。
「おはようございます!」
百花がオフィスに入っていくと、すでに出社していた数人が挨拶を返してくれる。
「百花ちゃん、おはよう。昨日はご苦労様」
隣のデスクからにっこり笑いかけてきたのは先輩の大場翠で、左の薬指には結婚指輪が光っている。女性の多い職場ということもあり、先輩には既婚女性が多く、出産後に職場復帰する人がほとんどだ。
「昨日はお子さんの保育園の運動会どうでした? お天気が良くてよかったですね~」
「フェアの日なのにお休みいただいてごめんね。久しぶりにじーじとばーばに会えて、娘も嬉しそうだったわ。それより当日ご成約数はどうだった? 百花ちゃんの初企画だったから、もう気になって気になって」
翠の言葉に、百花はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげさまで目標数達成できました!」
「やったじゃん! 大丈夫だとは思ってたけど、やっぱり目標達成は嬉しいわよね」
「翠さんが過去のご来場者様でご成約いただいていない方に積極的にご案内を送ってくれたからです。ありがとうございました!」
ブライダルフェアはすでにご成約のお客様にプランを見ていただく以外にも、フリーの来場者から当日成約や次回の相談予約をいかに取るかが大切で、広報はフェアのたびに色々な提案を行っている。
今回は百花が初めて企画したアフタヌーンティーが目玉になっていて、翠はそれを心配してくれていたらしい。
企画は平日の式の予約がない時間帯に、式場をアフタヌーンティーで解放するというものだった。
アフタヌーンティーなら結婚の予定がない一般のお客様でも足を運んでくれるし、式場内は写真映えするスポットが多いから、自由に撮影してSNSで紹介してもらえれば式場としての認知も高まる。
今回は当日ご成約のお客様にはペアでアフタヌーンティーにご招待という特典を用意したのだ。
SNSで話題になり始めていたこともあり特典は好評で、式場のスタッフからも季節によってアフタヌーンティーのイベントをやってはどうかなど、積極的な提案も出たほどだった。
「これからどんどん次の企画を仕込んでいかないとね。アフタヌーンティーはグルメ系雑誌からの取材申し込みもきてるし、上も推してくれると思うよ」
勤続十年の翠がそう言ってくれるなら安心だ。
「そうだ。百花ちゃん頑張り屋だから、関西のニューオープンのスタッフに応募してみたら?」
「何ですか、それ?」
初めて聞く話に、百花は首を傾げた。
「さっき社内メールで回ってきてたんだけど、いよいよ我が社も本格的に関西に進出だから気合い入ってるのね」
翠の言葉に、百花はパソコンの電源を入れてメールチェックをする。件のメールはすぐに見つかり、百花はざっと内容に目を通した。
これまでウエディング事業は首都圏でしか展開されていなかったのだが、今回満を持して関西方面に進出するという話は去年から聞いていた。
メールでは、そのオープニングスタッフとして三ヶ月から半年現地へ行くメンバーを募っていて、社歴や年齢問わず応募してほしいという内容だった。
しかも本人が希望すればそのまま関西のスタッフとして働くことも可能で、そうなれば現地で重要なポジションが約束されたようなものだ。
社員の中に、できれば地元で就職したかったという人もいるから、関西に異動を機に地元で働けると喜ぶ人がいるかもしれない。期間限定の勤務も選べるのなら、誰にとっても興味深い仕事だろう。
その後の朝礼でも上司から同じ話があり、勉強にもなるから若手もどんどん応募してほしいとのことで、広報室からも人を出したいので百花も応募を勧められた。
入社二年目にしてやっと仕事が面白いと思えるようになってきた百花は、一から自分たちの手で式場作りに携わることができるのは面白いと思った。
ただこれに応募すると長期出張扱いになるから、実家の両親はともかく兄は寂しがりそうだと思いつつ、応募要項をプリントアウトした。
そのあとは通常業務で、その日の午前中はフェアで回収したアンケートの整理で終わってしまった。
以前は式場スタッフがアンケートのまとめを作成していたのだが、日々の作業が多い現場スタッフだとアンケート整理になかなか時間が割けずフィードバックが遅くなるので、ここ数年は広報室がデータ化して共有することになっている。
一般的な項目の集計をグラフ化し、目新しい意見やお客様の要望を抜き出して資料を作り、今後のフェアの参考にするのだ。
お昼になり翠と外でランチを取って戻ってくると、いつもならこんなところにいない人が広報室の入口に立っていた。
先に気づいたのは翠で、
「専務、お疲れさまです」
という声に、百花はやっと透の姿に気づきドキリとして足を止めてしまった。
一昨日の昼に家に送ってもらってから、透とは連絡を取っていない。まさかこんなところで顔を合わせると思っていなかった百花は、心の準備ができておらずその場で固まってしまう。
「百花ちゃん?」
隣を歩いていた翠が訝るように振り返ったけれど、百花の動揺には気づいていないのか、
「先に行ってるね」
そう言ってから透に会釈をしてオフィスに入っていった。
二人が子どもの頃から一緒に過ごした幼馴染みなのは社内でも知られているので、こんなところで透が待っていても不思議には思わなかったらしい。
「モモ」
名前を呼ばれただけで心臓が跳ねる。頭の中に、一気に一昨日の朝のことが押し寄せてきてどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「指輪、してないんだ」
透の言葉にギョッとする。もしかして透はそれを確認しに来たのだろうか。
「あ……っ」
悪いことをしているわけでもないのに左手をサッと背中に隠すと、頭上で透がクスリと笑いを漏らした。
「冗談。さすがにまだ会社にはして来られないだろ。わかってる」
からかわれたのだとわかりホッとしたけれど、一瞬透の目にがっかりしたような光が浮かんだので、何だか良心が咎めてしまったのだ。
「……もう」
唇を尖らせ上目遣いで睨むと、透がさらに笑みを深くした。
「でも、モモがこうやって罪悪感を持ってくれたのなら、指輪を渡してよかったかも」
どういう意味だろう。問うような百花の視線には答えず、透はさらりと話題を変えた。
「モモ、明日の夜は時間取れる?」
「あ、うん」
「久しぶりに一緒に食事に行こう。前にモモが行きたいって言ってたイギリスのマナーハウスみたいなレストラン。あそこの予約が取れたんだ」
「ホント!?」
透と会うことが気まずいと思っていたことも忘れて誘いに飛びついてしまう。
東京の郊外にあるレストランなのだがウエディングにも利用できるそうで、仕事の参考にもなるので一度行ってみたいと透に話したことがある。まさか覚えていてわざわざ予約を取ってくれるとは思わなかった。
「夕方車を頼んでおくから一緒に行こう」
「うん!」
百花が力一杯頷くと、透はなぜかホッとしたように溜息を漏らした。
「……どうしたの?」
「ん? 勝手に予約しちゃったから、断られたらどうしようかと思ってたんだ。だから良かったっていう溜息」
「……な、何それ」
とっさに茶化すように笑ったけれど、透の言葉一つひとつが、まるで蜂蜜のように甘く聞こえるのはなぜだろう。今まで何度食事に誘われても、こんなふうに感じたことなんてなかったのに。
この面映ゆいような、くすぐったい気持ちはなんなのだろう。
「わ、わざわざ言いに来てくれなくても、アプリでメッセージ送ってくれればよかったのに」
素っ気ない返事なのに、透は唇を優しく緩める。
「俺がモモの顔を見たいから来たの。じゃあね」
そう言うと手を伸ばして百花の頭を優しく撫でた。
「午後も頑張って」
わずかに前屈みになり、百花の瞳の中を覗き込み、形のいい唇が甘いカーブを描く。そんなふうに見つめられるのは初めてで、百花はカッと頭に血が上るのを感じてギュッと目を瞑ってしまう。
「……っ」
次に目を開いたとき、透はすでに背を向けて歩き出していて、百花はその背中が廊下の角を曲がるまでただ見つめ続けることしかできなかった。
やっぱりいつもの透じゃない。優しいのはいつも通りだが、言葉の一つひとつに甘さが滲んでいて、その声を聞くと背中がざわりとして落ち着かない気持ちになる。
これが透の本気の婚約者モードだというのなら、身が持ちそうにない。
これまでも優しくしてもらったし、甘やかされてきた自覚もある。でも本気宣言の後からの透は何かが違うのだ。身の危険を感じると言ったら透は怒るだろうか。
その感想はあながち間違っていなかったと気づくのは、そう先のことではなかった。
***
お目当てのレストランは東京の郊外、武蔵野エリアに位置していて、都心からなら車で一時間もかからない。都心に近いのに自然豊かな大きな公園も多く、そのレストランも公園のような広い敷地の奥に隠れていた。
イギリスのマナーハウス、つまり貴族の邸宅を模したレストランで最近人気のカジュアルなレストランウエディングやガーデンウエディングに対応していて、テレビやSNSで取り上げられ注目が集まっていた。
百花は店の前で車を降りると、優美な建物を見上げて溜息を吐いた。
「素敵。ここだけイギリスみたい」
大学生のとき三週間ほど語学研修でイギリスに行ったときに目にした郊外のホテルを思い出すような建物だ。ここまで本格的なら、海外ウエディングの雰囲気で挙式することもできそうだった。
「資料用に写真とか撮ってもいいのかな?」
思わずそう口にすると、透が小さく笑う。
「仕事熱心だね。店を下見に来たカップルって設定ならお店の人も喜んで対応してくれると思うよ」
「えっ」
確かにカップルだが、改めて言われると急に恥ずかしくなる。
「婚約してるんだから嘘をつくわけじゃないだろ。まあここで結婚式となったら周りがうるさそうだけどね。モモがここで式を挙げたいって言うなら、俺が親父を説得するけど」
「……べ、別にここじゃなくても……」
冗談なのか本気なのかわからない口調に、百花はモゴモゴと口の中で呟いた。
これまで透と結婚式をすることなど考えたことがなかったが、自社でウエディング事業に力を入れているのだから、今後のことも考えればその施設で盛大にやるのが普通だろう。
透と結婚することが公になれば仕事がしづらくなりそうだ。というか、結婚したら仕事は辞めなくてはいけないのだろうか。
「モモはどんな結婚式がいいの? ウエディングの仕事をしてたら、こだわりも出てくるんじゃない?」
今すぐにでも結婚式の打ち合わせが始まりそうな雰囲気に、百花が言葉を詰まらせたときだった。
「ようこそいらっしゃいました」
タイミングよくかけられた店員の出迎えの声に遮られて、ありがたいことに返事はうやむやになる。百花は内心ホッと胸を撫で下ろした。
案内されたのは個室で、初めての来店だと知るとスタッフがあれこれと店の説明をしてくれる。昼はランチタイム以外に英国式アフタヌーンティーも行っているそうで、自分の企画と重なる部分があり、是非、昼の時間帯にも来店してみたいと思った。
後でSNSを検索してどれぐらい注目されているかチェックしてみよう。オーダーを終え店員が部屋を出て行くのを見送りながら、そんなことを考える。
「そういえば、今展開している広報の企画もアフタヌーンティーだったね。あれってモモの企画なんだって?」
透の言葉に目を丸くする。
「え? 知ってたの?」
「もちろん。顧客獲得にも繋がっているし、評判がいいって情報も上がってきてるよ。SNSでもかなり投稿が増えていて、注目されてるって聞いた」
その言葉を聞き嬉しくなる。翠や上司からはいい企画だと褒められていたけれど、透のところまで話が届いているのなら、お世辞ではなかったということだ。
「あのね、今回のアフタヌーンティーはSNS映えにこだわったの! レストランスタッフと何度も試食会をしたり、撮影をしたり大変だったんだ」
「うん」
「日曜日のブライダルフェアで当日のご成約特典でアフタヌーンティーのご招待をつけたから、きっとまたそのお客様たちがSNSで紹介してくれると思うんだよね。季節によってメニューも変えたいし、モニターを募集して試食会をしてもいいかも」
「じゃあ他のアフタヌーンティーも参考のために見に行った方がいいね。モモが行きたいお店に一緒に行こうか」
「本当!? 行きたい!」
褒められたことが嬉しくてつい饒舌になってしまったけれど、透がニコニコしながら耳を傾けてくれるから、もっと聞いてほしいと思ってしまう。
考えてみればかなり年が離れていることもあり、子どもの頃からこうして話をするのはいつも百花で、透はもっぱら聞き役だった。
おしゃべりの間に料理が順番に運ばれてきて、前菜にはイギリスの代表的なオードブルの盛り合わせ、スープに冷製サラダ、メインはビーフウェリントンという牛フィレ肉のパイ包みと、話をしながら次々に平らげていく。
昨日食事に誘われたときは婚約のことや指輪のことが気になって不安だったけれど、いつの間にかいつも通りの二人に戻った気がしてホッとする。
これぐらいの距離感が自分たちにはちょうどよかったと思うのに、透はそうではないのだろうか。
上目遣いで様子を伺うと、百花の視線に気づいて透が眉を上げた。
「美味しくない?」
「ううん。お、美味しい。イギリス風のレストランってあまり行ったことないし」
そう美味しい料理を楽しめばいい。せっかくいつもの調子に戻ったと思っていたのに、気づくと透のことを意識している自分がいるのだ。
「何か言いたそうだね。言ってごらん」
もう一度問いかけられて、百花は思いきって口を開いた。
「あの、今日って……デートなのかなって」
口にしてみるとなんだかくだらないことを尋ねてしまった気がして、自然と頬が熱くなる。
「なるほど。モモは一応俺のこと意識してくれてるんだ」
「ちが……」
「そしてデートの気分を味わっている、と」
「違うってば!」
透が嬉しそうに微笑むのを見て、さらに恥ずかしくなる。まるで子どもの成長を喜ぶ父親みたいな顔だ。
そこに店員がデザートを運んでくる。生クリームがたっぷり添えられたチョコレートケーキにはナッツやドライフルーツがたっぷり入っていて、一瞬ワクワクしたがすぐに先ほどの緊張感が戻ってくる。
すると透が苦笑いを漏らした。
「そんなに緊張しなくていいよ。さっきまでいい感じで仕事の話をしてただろ。いつもの食事と一緒だよ」
「そうだけど……」
「まあモモが俺を男として見てくれているのは嬉しいけどね。今まではどう頑張っても拓哉と同じ兄貴ポジションだったから、そんなにすぐにモモの意識が変わるとは思ってない」
そうなのだ。兄のように慕っていた人をいきなり結婚相手として見ることに無理がある。というかどうしても戸惑ってしまうのだ。
透のことは大好きだし、男性としても格好良いと思う。でもそれが恋とか愛かと聞かれるとよくわからなかった。
「……今まで通りじゃだめなの?」
思わずそう口にしてしまったが、透は曖昧な笑みを浮かべただけで話題を変えてしまう。
「ほら、モモ、チョコレートケーキ好きだろ。食べな」
「……う、うん」
「帰りは少し歩こうか。いつもなら店にタクシーを呼んでもらうところだけど、せっかくだから大通りまで散歩するのも悪くないだろ」
デザートと食後の紅茶をいただいて店を出ると、透が腕を伸ばし百花の小さな手を自分の手の中に収めてしまった。
自分の体温なのか、それとも透の体温なのかわからないが、キュッと握りしめられた手は少し熱い。
二人で手を繋いだことなんて子どもの頃から何度もあるのに、今日は今までとは違う不思議な擽ったさがある。いっそ振りほどいてしまえばいいのに、それをするのはもったいないような気がしてしまうのは、自分の感情がおかしくなっているとしか思えなかった。
来るときは車だったので気づかなかったが、店の敷地は大きな公園に隣接していて、大通りまでは公園を抜けていけば近道だという。
土地勘のない百花は、外灯に照らされた遊歩道を透に手を引かれながら歩くしかなかった。
「そういえば、ウエディング事業部、大阪のオープニングスタッフの募集始めただろ。モモは応募するの?」
夜の公園の雰囲気に飲まれていた百花は、いつもの声音で仕事の話を振られホッとして頷いた。
「うーん、考え中なんだよね。上司や先輩には応募したらって勧められてるんだけど、半年も東京を離れるとなるとお兄ちゃんが寂しがるかなって」
「はははっ。でも拓哉は寂しくなったら、大阪まで会いに行くだろ」
「……た、たしかに」
兄ならやりかねない。百花が思わず顔を顰めると、透が繋いでいた手にギュッと力を込めて立ち止まった。
「ちなみに」
誘われるように見上げると、瞳の中をジッと覗き込まれる。
「俺も寂しい」
「……っ」
たったそれだけの言葉なのに、重なった視線から色々なものが流れ込んでくるようで胸が苦しい。言葉ではないのに、本当に透が自分と結婚しようとしていることを感じてしまった。
でも自分の心はまだ決まっていない。透は予め指輪を用意するぐらい前から考えてくれていたと言うが、百花が透の本気を知らされたのはつい先日なのだ。
「モモ」
心臓がどうしようもなく騒いでいて、名前を呼ばれるだけで息ができなくなる。顔が火照って、何と答えればいいのかわからなかった。
「も、もぉ! そういう……思わせぶりな目で見ないで!」
照れ隠しに早口で言うと、これ以上赤い顔を見られたくなくてプイッと顔を背ける。
「モモにはそう見えるんだ?」
嬉しそうな透の声がして、その笑いを含んだ声音を聞けば、百花が彼のことを意識していることに気づかれているのが伝わってくる。
「モモが少しでも俺のことを意識してくれているなら嬉しいんだけどな」
「い、意識なんてしてない、もん……っ」
俯いたまま否定すると、透はクスクスと笑いながら大きな手で百花の頭を撫でた。
「でもまあ、モモが本当に行きたいのならチャレンジしてみたら?」
意外な言葉に、百花は恥ずかしがっていたことも忘れて顔を上げた。
「え? いいの?」
もしかしたら婚約のことがあるから反対されるのではないかと思っていたのだ。
「だって、モモは今が一番仕事が楽しいときだろ。色々経験してみるのはいいことだと思うよ」
「う、うん」
「あ。もしかして俺が反対すると思った?」
その通りなので素直に頷いた。さっき寂しいと言われたとき、ドキリとしたあとに嬉しいとも思ってしまったのだ。
透は一体いつから自分のことをそういう目で見るようになったのだろう。というか、婚約者の権利とは何なのか。そもそも嘘の婚約に権利などあるのだろうか?
しかし、冗談でこんなに立派な指輪を用意するはずはないと思えて、百花は透の言葉の意味を真剣に考えるしかなかった。
すると急に兄のような存在だった透が家族の枠から外れて、一人の男性に見えてきてドキドキしてしまう。
透は昔から格好よかったし、社内では女子社員にも人気がある。そのうえ仕事もできて社長の息子、御曹司とくればモテないはずがない。
そんな彼とすでに婚約しているのだから、婚約者の権利など主張されたら次に来るのは結婚だ。
手を繋いだのなんて婚約が決まったときだけで、それ以上の身体的接触はない。そんな関係で結婚なんてできるのかわからないというのが本音だ。
こうして透のことばかり考えていると、何だか胸が苦しくなってくる。
それは嬉しくて胸が高鳴るというよりは、これから何が変わっていくのかがわからず、不安で胸がキュッと締めつけられる感じだ。
そういえばこんなに素敵な指輪をもらったのにお礼も言っていないことに気づく。
百花は改めて薬指の指輪を見つめて、さすがに会社にはしていけないな、と意外にも冷静に考えている自分に驚いた。
翌日の日曜日はブライダルフェアの手伝いで忙しく過ごし、さらに翌日の月曜日も通常通りに出社をした。
透にいきなり婚約指輪を渡されてどうすればいいのか悩んでいたが、あれ以来透から返事を促されることもなく、いつもの日常が始まっていた。
百花が働くウエディング事業部広報室は本社の一角にある女性中心の職場で、名前の通り自社の宣伝が業務の中心だ。打ち合わせやフェアのときは式場に出向くが、普段はオフィス業務がメインとなる。
テレビや雑誌の取材を受けたり、広告代理店を通じてイベントを企画したり、ウエディングフェアの助っ人にも行くマルチな職場だ。
「おはようございます!」
百花がオフィスに入っていくと、すでに出社していた数人が挨拶を返してくれる。
「百花ちゃん、おはよう。昨日はご苦労様」
隣のデスクからにっこり笑いかけてきたのは先輩の大場翠で、左の薬指には結婚指輪が光っている。女性の多い職場ということもあり、先輩には既婚女性が多く、出産後に職場復帰する人がほとんどだ。
「昨日はお子さんの保育園の運動会どうでした? お天気が良くてよかったですね~」
「フェアの日なのにお休みいただいてごめんね。久しぶりにじーじとばーばに会えて、娘も嬉しそうだったわ。それより当日ご成約数はどうだった? 百花ちゃんの初企画だったから、もう気になって気になって」
翠の言葉に、百花はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげさまで目標数達成できました!」
「やったじゃん! 大丈夫だとは思ってたけど、やっぱり目標達成は嬉しいわよね」
「翠さんが過去のご来場者様でご成約いただいていない方に積極的にご案内を送ってくれたからです。ありがとうございました!」
ブライダルフェアはすでにご成約のお客様にプランを見ていただく以外にも、フリーの来場者から当日成約や次回の相談予約をいかに取るかが大切で、広報はフェアのたびに色々な提案を行っている。
今回は百花が初めて企画したアフタヌーンティーが目玉になっていて、翠はそれを心配してくれていたらしい。
企画は平日の式の予約がない時間帯に、式場をアフタヌーンティーで解放するというものだった。
アフタヌーンティーなら結婚の予定がない一般のお客様でも足を運んでくれるし、式場内は写真映えするスポットが多いから、自由に撮影してSNSで紹介してもらえれば式場としての認知も高まる。
今回は当日ご成約のお客様にはペアでアフタヌーンティーにご招待という特典を用意したのだ。
SNSで話題になり始めていたこともあり特典は好評で、式場のスタッフからも季節によってアフタヌーンティーのイベントをやってはどうかなど、積極的な提案も出たほどだった。
「これからどんどん次の企画を仕込んでいかないとね。アフタヌーンティーはグルメ系雑誌からの取材申し込みもきてるし、上も推してくれると思うよ」
勤続十年の翠がそう言ってくれるなら安心だ。
「そうだ。百花ちゃん頑張り屋だから、関西のニューオープンのスタッフに応募してみたら?」
「何ですか、それ?」
初めて聞く話に、百花は首を傾げた。
「さっき社内メールで回ってきてたんだけど、いよいよ我が社も本格的に関西に進出だから気合い入ってるのね」
翠の言葉に、百花はパソコンの電源を入れてメールチェックをする。件のメールはすぐに見つかり、百花はざっと内容に目を通した。
これまでウエディング事業は首都圏でしか展開されていなかったのだが、今回満を持して関西方面に進出するという話は去年から聞いていた。
メールでは、そのオープニングスタッフとして三ヶ月から半年現地へ行くメンバーを募っていて、社歴や年齢問わず応募してほしいという内容だった。
しかも本人が希望すればそのまま関西のスタッフとして働くことも可能で、そうなれば現地で重要なポジションが約束されたようなものだ。
社員の中に、できれば地元で就職したかったという人もいるから、関西に異動を機に地元で働けると喜ぶ人がいるかもしれない。期間限定の勤務も選べるのなら、誰にとっても興味深い仕事だろう。
その後の朝礼でも上司から同じ話があり、勉強にもなるから若手もどんどん応募してほしいとのことで、広報室からも人を出したいので百花も応募を勧められた。
入社二年目にしてやっと仕事が面白いと思えるようになってきた百花は、一から自分たちの手で式場作りに携わることができるのは面白いと思った。
ただこれに応募すると長期出張扱いになるから、実家の両親はともかく兄は寂しがりそうだと思いつつ、応募要項をプリントアウトした。
そのあとは通常業務で、その日の午前中はフェアで回収したアンケートの整理で終わってしまった。
以前は式場スタッフがアンケートのまとめを作成していたのだが、日々の作業が多い現場スタッフだとアンケート整理になかなか時間が割けずフィードバックが遅くなるので、ここ数年は広報室がデータ化して共有することになっている。
一般的な項目の集計をグラフ化し、目新しい意見やお客様の要望を抜き出して資料を作り、今後のフェアの参考にするのだ。
お昼になり翠と外でランチを取って戻ってくると、いつもならこんなところにいない人が広報室の入口に立っていた。
先に気づいたのは翠で、
「専務、お疲れさまです」
という声に、百花はやっと透の姿に気づきドキリとして足を止めてしまった。
一昨日の昼に家に送ってもらってから、透とは連絡を取っていない。まさかこんなところで顔を合わせると思っていなかった百花は、心の準備ができておらずその場で固まってしまう。
「百花ちゃん?」
隣を歩いていた翠が訝るように振り返ったけれど、百花の動揺には気づいていないのか、
「先に行ってるね」
そう言ってから透に会釈をしてオフィスに入っていった。
二人が子どもの頃から一緒に過ごした幼馴染みなのは社内でも知られているので、こんなところで透が待っていても不思議には思わなかったらしい。
「モモ」
名前を呼ばれただけで心臓が跳ねる。頭の中に、一気に一昨日の朝のことが押し寄せてきてどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「指輪、してないんだ」
透の言葉にギョッとする。もしかして透はそれを確認しに来たのだろうか。
「あ……っ」
悪いことをしているわけでもないのに左手をサッと背中に隠すと、頭上で透がクスリと笑いを漏らした。
「冗談。さすがにまだ会社にはして来られないだろ。わかってる」
からかわれたのだとわかりホッとしたけれど、一瞬透の目にがっかりしたような光が浮かんだので、何だか良心が咎めてしまったのだ。
「……もう」
唇を尖らせ上目遣いで睨むと、透がさらに笑みを深くした。
「でも、モモがこうやって罪悪感を持ってくれたのなら、指輪を渡してよかったかも」
どういう意味だろう。問うような百花の視線には答えず、透はさらりと話題を変えた。
「モモ、明日の夜は時間取れる?」
「あ、うん」
「久しぶりに一緒に食事に行こう。前にモモが行きたいって言ってたイギリスのマナーハウスみたいなレストラン。あそこの予約が取れたんだ」
「ホント!?」
透と会うことが気まずいと思っていたことも忘れて誘いに飛びついてしまう。
東京の郊外にあるレストランなのだがウエディングにも利用できるそうで、仕事の参考にもなるので一度行ってみたいと透に話したことがある。まさか覚えていてわざわざ予約を取ってくれるとは思わなかった。
「夕方車を頼んでおくから一緒に行こう」
「うん!」
百花が力一杯頷くと、透はなぜかホッとしたように溜息を漏らした。
「……どうしたの?」
「ん? 勝手に予約しちゃったから、断られたらどうしようかと思ってたんだ。だから良かったっていう溜息」
「……な、何それ」
とっさに茶化すように笑ったけれど、透の言葉一つひとつが、まるで蜂蜜のように甘く聞こえるのはなぜだろう。今まで何度食事に誘われても、こんなふうに感じたことなんてなかったのに。
この面映ゆいような、くすぐったい気持ちはなんなのだろう。
「わ、わざわざ言いに来てくれなくても、アプリでメッセージ送ってくれればよかったのに」
素っ気ない返事なのに、透は唇を優しく緩める。
「俺がモモの顔を見たいから来たの。じゃあね」
そう言うと手を伸ばして百花の頭を優しく撫でた。
「午後も頑張って」
わずかに前屈みになり、百花の瞳の中を覗き込み、形のいい唇が甘いカーブを描く。そんなふうに見つめられるのは初めてで、百花はカッと頭に血が上るのを感じてギュッと目を瞑ってしまう。
「……っ」
次に目を開いたとき、透はすでに背を向けて歩き出していて、百花はその背中が廊下の角を曲がるまでただ見つめ続けることしかできなかった。
やっぱりいつもの透じゃない。優しいのはいつも通りだが、言葉の一つひとつに甘さが滲んでいて、その声を聞くと背中がざわりとして落ち着かない気持ちになる。
これが透の本気の婚約者モードだというのなら、身が持ちそうにない。
これまでも優しくしてもらったし、甘やかされてきた自覚もある。でも本気宣言の後からの透は何かが違うのだ。身の危険を感じると言ったら透は怒るだろうか。
その感想はあながち間違っていなかったと気づくのは、そう先のことではなかった。
***
お目当てのレストランは東京の郊外、武蔵野エリアに位置していて、都心からなら車で一時間もかからない。都心に近いのに自然豊かな大きな公園も多く、そのレストランも公園のような広い敷地の奥に隠れていた。
イギリスのマナーハウス、つまり貴族の邸宅を模したレストランで最近人気のカジュアルなレストランウエディングやガーデンウエディングに対応していて、テレビやSNSで取り上げられ注目が集まっていた。
百花は店の前で車を降りると、優美な建物を見上げて溜息を吐いた。
「素敵。ここだけイギリスみたい」
大学生のとき三週間ほど語学研修でイギリスに行ったときに目にした郊外のホテルを思い出すような建物だ。ここまで本格的なら、海外ウエディングの雰囲気で挙式することもできそうだった。
「資料用に写真とか撮ってもいいのかな?」
思わずそう口にすると、透が小さく笑う。
「仕事熱心だね。店を下見に来たカップルって設定ならお店の人も喜んで対応してくれると思うよ」
「えっ」
確かにカップルだが、改めて言われると急に恥ずかしくなる。
「婚約してるんだから嘘をつくわけじゃないだろ。まあここで結婚式となったら周りがうるさそうだけどね。モモがここで式を挙げたいって言うなら、俺が親父を説得するけど」
「……べ、別にここじゃなくても……」
冗談なのか本気なのかわからない口調に、百花はモゴモゴと口の中で呟いた。
これまで透と結婚式をすることなど考えたことがなかったが、自社でウエディング事業に力を入れているのだから、今後のことも考えればその施設で盛大にやるのが普通だろう。
透と結婚することが公になれば仕事がしづらくなりそうだ。というか、結婚したら仕事は辞めなくてはいけないのだろうか。
「モモはどんな結婚式がいいの? ウエディングの仕事をしてたら、こだわりも出てくるんじゃない?」
今すぐにでも結婚式の打ち合わせが始まりそうな雰囲気に、百花が言葉を詰まらせたときだった。
「ようこそいらっしゃいました」
タイミングよくかけられた店員の出迎えの声に遮られて、ありがたいことに返事はうやむやになる。百花は内心ホッと胸を撫で下ろした。
案内されたのは個室で、初めての来店だと知るとスタッフがあれこれと店の説明をしてくれる。昼はランチタイム以外に英国式アフタヌーンティーも行っているそうで、自分の企画と重なる部分があり、是非、昼の時間帯にも来店してみたいと思った。
後でSNSを検索してどれぐらい注目されているかチェックしてみよう。オーダーを終え店員が部屋を出て行くのを見送りながら、そんなことを考える。
「そういえば、今展開している広報の企画もアフタヌーンティーだったね。あれってモモの企画なんだって?」
透の言葉に目を丸くする。
「え? 知ってたの?」
「もちろん。顧客獲得にも繋がっているし、評判がいいって情報も上がってきてるよ。SNSでもかなり投稿が増えていて、注目されてるって聞いた」
その言葉を聞き嬉しくなる。翠や上司からはいい企画だと褒められていたけれど、透のところまで話が届いているのなら、お世辞ではなかったということだ。
「あのね、今回のアフタヌーンティーはSNS映えにこだわったの! レストランスタッフと何度も試食会をしたり、撮影をしたり大変だったんだ」
「うん」
「日曜日のブライダルフェアで当日のご成約特典でアフタヌーンティーのご招待をつけたから、きっとまたそのお客様たちがSNSで紹介してくれると思うんだよね。季節によってメニューも変えたいし、モニターを募集して試食会をしてもいいかも」
「じゃあ他のアフタヌーンティーも参考のために見に行った方がいいね。モモが行きたいお店に一緒に行こうか」
「本当!? 行きたい!」
褒められたことが嬉しくてつい饒舌になってしまったけれど、透がニコニコしながら耳を傾けてくれるから、もっと聞いてほしいと思ってしまう。
考えてみればかなり年が離れていることもあり、子どもの頃からこうして話をするのはいつも百花で、透はもっぱら聞き役だった。
おしゃべりの間に料理が順番に運ばれてきて、前菜にはイギリスの代表的なオードブルの盛り合わせ、スープに冷製サラダ、メインはビーフウェリントンという牛フィレ肉のパイ包みと、話をしながら次々に平らげていく。
昨日食事に誘われたときは婚約のことや指輪のことが気になって不安だったけれど、いつの間にかいつも通りの二人に戻った気がしてホッとする。
これぐらいの距離感が自分たちにはちょうどよかったと思うのに、透はそうではないのだろうか。
上目遣いで様子を伺うと、百花の視線に気づいて透が眉を上げた。
「美味しくない?」
「ううん。お、美味しい。イギリス風のレストランってあまり行ったことないし」
そう美味しい料理を楽しめばいい。せっかくいつもの調子に戻ったと思っていたのに、気づくと透のことを意識している自分がいるのだ。
「何か言いたそうだね。言ってごらん」
もう一度問いかけられて、百花は思いきって口を開いた。
「あの、今日って……デートなのかなって」
口にしてみるとなんだかくだらないことを尋ねてしまった気がして、自然と頬が熱くなる。
「なるほど。モモは一応俺のこと意識してくれてるんだ」
「ちが……」
「そしてデートの気分を味わっている、と」
「違うってば!」
透が嬉しそうに微笑むのを見て、さらに恥ずかしくなる。まるで子どもの成長を喜ぶ父親みたいな顔だ。
そこに店員がデザートを運んでくる。生クリームがたっぷり添えられたチョコレートケーキにはナッツやドライフルーツがたっぷり入っていて、一瞬ワクワクしたがすぐに先ほどの緊張感が戻ってくる。
すると透が苦笑いを漏らした。
「そんなに緊張しなくていいよ。さっきまでいい感じで仕事の話をしてただろ。いつもの食事と一緒だよ」
「そうだけど……」
「まあモモが俺を男として見てくれているのは嬉しいけどね。今まではどう頑張っても拓哉と同じ兄貴ポジションだったから、そんなにすぐにモモの意識が変わるとは思ってない」
そうなのだ。兄のように慕っていた人をいきなり結婚相手として見ることに無理がある。というかどうしても戸惑ってしまうのだ。
透のことは大好きだし、男性としても格好良いと思う。でもそれが恋とか愛かと聞かれるとよくわからなかった。
「……今まで通りじゃだめなの?」
思わずそう口にしてしまったが、透は曖昧な笑みを浮かべただけで話題を変えてしまう。
「ほら、モモ、チョコレートケーキ好きだろ。食べな」
「……う、うん」
「帰りは少し歩こうか。いつもなら店にタクシーを呼んでもらうところだけど、せっかくだから大通りまで散歩するのも悪くないだろ」
デザートと食後の紅茶をいただいて店を出ると、透が腕を伸ばし百花の小さな手を自分の手の中に収めてしまった。
自分の体温なのか、それとも透の体温なのかわからないが、キュッと握りしめられた手は少し熱い。
二人で手を繋いだことなんて子どもの頃から何度もあるのに、今日は今までとは違う不思議な擽ったさがある。いっそ振りほどいてしまえばいいのに、それをするのはもったいないような気がしてしまうのは、自分の感情がおかしくなっているとしか思えなかった。
来るときは車だったので気づかなかったが、店の敷地は大きな公園に隣接していて、大通りまでは公園を抜けていけば近道だという。
土地勘のない百花は、外灯に照らされた遊歩道を透に手を引かれながら歩くしかなかった。
「そういえば、ウエディング事業部、大阪のオープニングスタッフの募集始めただろ。モモは応募するの?」
夜の公園の雰囲気に飲まれていた百花は、いつもの声音で仕事の話を振られホッとして頷いた。
「うーん、考え中なんだよね。上司や先輩には応募したらって勧められてるんだけど、半年も東京を離れるとなるとお兄ちゃんが寂しがるかなって」
「はははっ。でも拓哉は寂しくなったら、大阪まで会いに行くだろ」
「……た、たしかに」
兄ならやりかねない。百花が思わず顔を顰めると、透が繋いでいた手にギュッと力を込めて立ち止まった。
「ちなみに」
誘われるように見上げると、瞳の中をジッと覗き込まれる。
「俺も寂しい」
「……っ」
たったそれだけの言葉なのに、重なった視線から色々なものが流れ込んでくるようで胸が苦しい。言葉ではないのに、本当に透が自分と結婚しようとしていることを感じてしまった。
でも自分の心はまだ決まっていない。透は予め指輪を用意するぐらい前から考えてくれていたと言うが、百花が透の本気を知らされたのはつい先日なのだ。
「モモ」
心臓がどうしようもなく騒いでいて、名前を呼ばれるだけで息ができなくなる。顔が火照って、何と答えればいいのかわからなかった。
「も、もぉ! そういう……思わせぶりな目で見ないで!」
照れ隠しに早口で言うと、これ以上赤い顔を見られたくなくてプイッと顔を背ける。
「モモにはそう見えるんだ?」
嬉しそうな透の声がして、その笑いを含んだ声音を聞けば、百花が彼のことを意識していることに気づかれているのが伝わってくる。
「モモが少しでも俺のことを意識してくれているなら嬉しいんだけどな」
「い、意識なんてしてない、もん……っ」
俯いたまま否定すると、透はクスクスと笑いながら大きな手で百花の頭を撫でた。
「でもまあ、モモが本当に行きたいのならチャレンジしてみたら?」
意外な言葉に、百花は恥ずかしがっていたことも忘れて顔を上げた。
「え? いいの?」
もしかしたら婚約のことがあるから反対されるのではないかと思っていたのだ。
「だって、モモは今が一番仕事が楽しいときだろ。色々経験してみるのはいいことだと思うよ」
「う、うん」
「あ。もしかして俺が反対すると思った?」
その通りなので素直に頷いた。さっき寂しいと言われたとき、ドキリとしたあとに嬉しいとも思ってしまったのだ。
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