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前編

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「マリーニ・ベレングリデ公爵令嬢。

 今日を限りにお前との婚約は破棄させてもらう」

 僕、ことドンファルク王国王太子クリステンは国王主催の舞踏会にて、衆目を前に大きな声でそう宣言した。

 そんな僕の宣告を受け、マリーニの美しい顔が徐々に青ざめ、苦悶の表情へと変わっていくのが分かった。

「ど……どうし……て。

 何故でございますか?

 クリステン様!!

 ……どうして私が?」

 マリーニの声は震えていた。

 僕の心はキリキリと音を立てていたが、ここでやめるわけにはいかなかった。

 僕は、僕の隣で勝ち誇ったような笑みを浮かべている女性……ユングリング男爵令嬢ヘレナの腰に手をまわし、自分の方へと引き寄せる。

 周囲の目は僕たち3人に集中していて、事の成り行きをじっと見つめていた。

 だけど突然こんな公の場で婚約破棄を言い渡すなんて、マリーニはもちろん貴族の誰一人として、思いもしなかっただろう。

 それにこの半年というもの、ヘレナに急接近していた僕に対して不安を口にするようになったマリーニに、「ちょっとした考えがあるんだ。心配しなくても彼女のことを本気で好きな訳じゃないんだ。僕を信じて待っていてほしい」と嘘と本音の混じった言葉を繰り返し伝え、彼女が軽はずみな行動を起こさないようにしていたその同じ口で言うのだから、僕は本当に最低な男だ。

 マリーニのショックは計り知れない。

 公爵令嬢として何不自由なく育ち、こんな不幸が待ち受けているなんて思いもしなかったはずだ。

 しかし僕は攻め立てるように、さらなる通告を彼女に告げた。

「どうしてだと?

 自分の胸に聞くと言い!!

 ご自慢の取り巻きたちを使って、ヘレナを虐めていただろう!

 私が知らないと思っていたのか!!」

「そんな……わたくしは誓ってそのようなことは……それに殿下は私に……」

「ええい!

 黙れ!!!

 お前はこの愛しいヘレナが嘘を付いているとでもいうつもりか?

 犯した罪を逃れようとするとは情けない!!

 ……二度と!!!

 二度と僕の前に顔を見せるな。

 マリーニ・ベレングリデ!!!!」

 僕はそう言って、醜悪極まりないヘレナの体をかばう様に抱きしめた。

 視界の隅でマリーニが貧血を起こして倒れるのが見えた。

 幸いにも近くに居た者が抱きとめていたけれど。

 ああ……マリーニ。

 僕のマリー。

 君がそうして倒れてしまっても、僕は駆け寄ることも、助けることもできない。

 僕にはもう、その資格がない。

 だから僕は、ヘレナとともにまだざわめきの残る舞踏会の会場を後にした。

 遠くの方で、国王陛下がじっと僕の所業を見つめていた。

 もしかしたら陛下は、僕が約束通りにマリーニとの婚約を解消するかどうかを疑っていたのかもしれない。

 それほど僕は陛下の信頼を失っているのだな、と、ヘレナに気付かれないように小さく息を吐いた。

 僕はもうすぐ、陛下によって公爵令嬢を確たる証拠もなく断罪した罪で王太子の地位を失うことになるだろう。

 それが一年前に僕と陛下との約束の結末だから、仕方がない。

 おそらくは、これが僕の出席する最後の舞踏会になる。

 舞踏会だけじゃない。

 僕は王太子という地位をはく奪され、王位継承権を失い、王宮も追いだされ、辺鄙な田舎へと蟄居させられるのだ。

 それは来週?

 それとも来月?

 わからないけれど、そう遠いことではないだろう。

 僕は慣れ親しんだ王宮と仕えてくれた臣下、そして何より敬愛する国王陛下と弟のアンドレアス、そして元婚約者のマリーニ、そんな近しい者たちとの別離を思い、心が締め付けられる思いがした。

 しかし僕のことを微塵も疑わずもうすぐ王太子妃になれると信じている愚かな娘が、そんな僕の心情など気付きもしないで小さな笑い声を立てた。

 僕は不謹慎なその態度に思わず眉を顰めそうになっていたがどうにかそれを押しとどめ、彼女と同じように唇に笑みを乗せた。

「殿下。

 本当にうれしいですわ。

 ヘレナが殿下のお妃さまになれるのも、もうすぐですわね?」

 そう言うとヘレナは、僕にその体を摺り寄せた。

 彼女の柔らかい胸が僕の体に触れ、むっとした香水の香りが鼻をついた。

 偶然を装いさり気無く体に触れたり、自分の身体を押し付けたりするのが彼女のやり方だ。

 少なくとも未婚の女性が取るような行動ではないし、こんなことを不特定多数の男性に行っているのだから、まったく始末に負えないと思うのだが、まだ女性の怖さを知らない成人前の初心な青年たちは、いとも簡単に彼女に篭絡された。

 僕が知る限り6人の男が彼女に誘惑され、その身を持ち崩している。

 あるものは彼女に全財産をつぎこみ、ある者は彼女のために爵位すら捨てた。

 そうしてそんな彼らを足掛かりにのし上がった彼女は、最終的にアンドレアス王子に目を付けた。

 ……そう。

 品位のかけらもないこの女性のどこが良かったのか僕にははなはだ理解できないが、彼女は半年前まで僕の弟で第二王子のアンドレアスの恋人だった。

 ああ、本当にアンドレアスはどうしてこんな女に引っかかったのか。

 頭もよく素直なアンドレアス。

 婚約者のヴァンガンヘルド侯爵令嬢と仲睦まじく過ごしていたのに。

 僕が気が付かないうちに、アンドレアスはヘレナによって搦めとられていた。

 そして気付いた時には、二人の関係は公然の秘密になっていたのだ。

 あのままの関係が続いていればアンドレアスはこの女性の本性に気付かぬまま、妃としていたかもしれない。

 僕はゾクリとした悪寒を感じながら、僕に体を擦りよせたヘレナの顔を、注意深く覗き込んだ。

 エキゾチックな瞳。

 スッと通った鼻筋。

 ふっくらとした唇。

 確かに彼女は、顔だけを見れば美しい部類に入るだろう。

 だけどよく見れば、そこかしこに彼女の醜さが表れている。

 執念にも似た野心の籠った瞳。

 笑みのようでいて、歪められた唇。

 こんな女のくだらない野心ためにアンドレアスが利用されたのだと思うと、はらわたが煮えくり返る思いがした。

 思春期を迎えたばかりの子供のような青年アンドレアスを、まだ少女ともいうべき年齢で、大人の手管を使って陥落したこの娘に、僕は嫌悪感しか感じない。

 だけど。

「ああ、ヘレナ。

 もうすぐ。

 すべてはもうすぐだ」

 僕はそう言いながら、ヘレナの唇に自分のそれを重ね合わせた。

 美しいマリーニに口付けた同じ唇でヘレナに口付けるなんて、正直虫酸が走る。

 だけどヘレナに、疑われる訳にはいかない。

 もし彼女がアンドレアスにその毒牙を再び向けるようなことになれば、僕の計画が破綻してしまう。

 マリーニにアンドレアスの傷ついた心を慰めるように頼んでいたから、アンドレアスは無事にヘレナの裏切りと失恋の痛手から立ち直ろうとしているが、今またヘレナが矛先をアンドレアスに向けることがあれば、どんなことが起きるか想像もつかなかった。

 簡単に僕に乗りかえたヘレナを見て、アンドレアスの目が覚めていてくれればいいが、人の色恋ばかりは人知を超える。

 だからヘレナ………このおろかな娘には、今はまだ、王太子妃という叶わぬ夢の世界で踊っていてもらわなければならない。

 何故なら弟アンドレアスには、いずれは僕の代わりにこの国の次の王に、つまりは王太子になってもらわなくちゃならないからだ。

 だけど人を欺き、男を誘惑するしか能がない女性が、王太子妃、ましてやこの国の国母たる王妃になるなんて、僕はもちろん、陛下にとっても到底許せないことだ。

 だから君には、僕と道連れになってもらうよ?

 僕は心の中で、ヘレナへと話しかけた。

 その代わりといってはなんだけど、君の罪は見逃してあげる。

 男爵を欺き、誘拐され生き別れた娘に成り済ました罪。

 純情なアンドレアスを誘惑した罪。

 身分をわきまえるようにヘレナに忠告したアンドレアスの婚約者を陥れ、他の男に純潔を奪わせた罪。

 マリーニに虐められたなどと虚偽を述べた罪。

 万死に値する君だけど、命だけは助けよう。

 それほど贅沢をしなければ、食べるに困ることのないほどの金銭も与えるつもりだ。

 君がいなけりゃ、未曽有のスキャンダルから国を守ることが出来なかったのだから、それは僕からの感謝の気持ちだ。

 なにせ君は、僕が不義の子供で、陛下の血をこれぽっちも引いていないことを隠ぺいするために仕組まれた三文芝居のヒロインに選ばれた気の毒な女性なのだから。

 一年前、いまわの際に罪を告白した王妃たるわが母。

 たった一度の、隣国の大使との過ち。

 その結果として生まれた僕。

 否定しようにも僕にはその大使と同じ場所に、特徴的なあざがあったのだ。

 王妃は……僕の母は、罪の意識を覚えながらも、犯した罪のあまりの大きな罪に、死ぬ直前まで誰にもそのことを話さなかった。

 だから幸いにもその事を聞いていたのは、僕と、その直前まで父と信じていた国王陛下のみ。

 その場ですぐに廃太子を申し出た僕だったけど、それには大きな問題があった。

 その頃二人しかいない王子の一人である弟のアンドレアスとヘレナの醜聞が社交界に吹き荒れていて、王家の権威はこれ以上なく落ちていた。

 これに加えて僕のことが分かれば、この国の根幹が揺らぐだろう。

 かといって、父の血をひいていない僕があとを継ぐなんて、とても許されることではない。

 処刑されても仕方のない僕の命を助けれてくれた陛下は、本当に慈悲深い。

 結局僕と陛下は話し合いの末、一年をかけてアンドレアスの名誉を回復すると同時に、僕の名声をおとしめる策を練った。

 要するに僕はヘレノを騙してアンドレアスと別れさせ、この多情な女性の虜のようにふるまったのだ。

 もちろんそんな中、忠義をつくしてヘレナに気を付けるように僕に忠告した者もいた。

 だけど僕は彼らを手酷く罵り、僕のもとから去るように仕向けた。

 いまや僕の回りにいるのは僕に取り入り私服を肥やそうとする、蛭のような汚らわしい取り巻きばかり。

 この者たちは僕の寵愛に合わせ傍若無人な態度を取り始めていることを考えると、きっと僕の失脚と共に社交界から姿を消すはめになるだろう。

 そうして、もうすぐ約束の一年。

 少しずつ僕の悪行が噂されるにつれ、ヘレナを奪われ傷心のアンドレアスには少なからず同情が寄せられている。

 もう大丈夫と、時が来たことを知った僕は、まさに今日、マリーニに婚約破棄を申し渡した。

 マリーニは王妃になるために生まれてきたような、美しく気高い女性だ。

 できることなら彼女と共に生き、彼女を幸せにしたかった。

 ……今となっては僕にはかなわぬことだけど、どうか彼女には幸せになってほしい。

 そしてできればアンドレアスと手を取り合い、この国の礎になってほしい。

 だからこの婚約破棄は、陛下の子供のままで生きることを許された僕のせめてもの恩返しだ。

 そして僕は、優しくヘレナに口付ける。

「愛しているよ? ヘレナ」

 僕はそう囁きながら、ヘレナ嬢を逃がさぬようにぎゅっと抱きしめるのだった。 
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