公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第一章

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第1章-1 勅命の波紋

 王都セレヴェルドの黎明は、まだ冷え込む。緋色に染まりはじめた東の空を背に、王城の尖塔が黒い影を引いていた。
 石畳の中庭に集められた旗本たちの鎧は、蒸せるほどの息を孕みながらも規律正しく並ぶ。鳴り響くラッパの音が余韻を残した瞬間、大広間の重い扉がゆっくりと開いた。

 王太鼓の連打。
 王位に就いてまだ三年──若き国王アドルフ十二世が、黄金のマントを引き、玉座の前に立つ。
 その脇に侍立するのは、濡羽色の長髪を切りそろえた宰相と、深紅の礼装に身を包むアクノ公爵であった。アクノは人差し指で口角を撫で、わずかに笑みを浮かべる。その表情を見逃した者はいない。だが誰も、場の緊張を破る勇気は持ち合わせていなかった。

「諸卿、よく参った」
 朗々たる王の声が高天井に反響し、広間全体を震わせる。
「北東辺境にて、魔王配下の“黒狼将”が軍を整え、ついに我が国境を越えたとの急報が届いた。よって、討伐軍を編制する」

 ざわめきが走った。
 魔王軍──歴史書の中でしか語られなかった名前が、現実の脅威として再び姿を現したのだ。侍従が羊皮紙を開き、重々しく読み上げる。

「勅命──レイフォード公爵フェルディナンド・フォン・レイフォードに、第一討伐軍の総司令を命ずる」

 瞬間、蒼藍の軍装を纏った一人の壮年が列から進み出た。背筋を矢のように伸ばし、剣の柄に手を置いたまま片膝をつく。
「恐れ多くも、陛下の大義、御意のままに」
 それがレイフォード公爵である。武骨にして剛直の誉れ高く、周囲からは“鋼鉄の獅子”と畏敬される男だ。

 公爵の宣誓を聞き流すかのように、アクノ公爵は小さく拍手を打った。だがその瞳の奥で、火焔のような野望が揺らいでいる。
 王は続けた。
「後詰および軍備の補給はアクノ公爵が指揮せよ」

「ははっ」
 アクノは深く頭を垂れる。その動きのなめらかさは舞踏のようで、悪意を包み隠す絹の手触りを思わせた。
 列の貴族たちが息を呑む。二大公爵家の片翼が正面から軍を率い、もう一方が後方支援を掌握する──それは盤石に見えながらも、一歩間違えればどちらかを欠いた途端に瓦解する危うい布陣でもあった。

 朝靄のなか、儀式は粛々と進む。レイフォード公爵は陛下への忠誠の証として、家宝たる白銀のサーベルを高々と掲げた。
 しかしその胸の裡には、奇妙な引っ掛かりが残っていた。
 ──魔王軍がこのタイミングで国境を越えた?偵察網を掻い潜るほどの軍勢が、なぜ事前に探知できなかったのだ。
 公爵は視線をわずかに横へずらす。そこに立つアクノ公爵は、ただ慈父のような笑みを貼り付けている。
 ──いや、考えすぎか。
 己を納得させるように息を吐き、剣を下ろした。

 一方、列の最後方で参列していた若き騎士団長トラヴィスは、隣の副官へ囁いた。
「裏で糸を引くのは誰だ、という目つきだな、公爵殿は」
「察しはついても口にはできまい。敵は魔王軍、表向きはな」
 二人は声を潜めながらも、内心では同じ人物の名を思い浮かべていた。

 玉座の間の空気を支配する緊張は、まるで氷雨のように鋭く冷たい。それでも儀式は終わり、軍議の日程が決められ、貴族たちは順番に退出していった。
 石畳の外へ出ると、強い朝日が差し込んでくる。レイフォード公爵は長い息を吐き、その光を睨むように眩しげに目を細めた。

「……アイリーンは、どんな顔でこの報せを受け取るか」
 ふと思い浮かべた妻の名。その顔には、今日もとろんとした無害の笑みが浮かんでいるのだろう。
「まあ、あの者に出来ることは家で祈るくらいか」

 公爵は自嘲するように笑い、愛馬の黒毛を撫でた。その背に跳び乗ると、軍議へ向かう護衛兵の列に合流する。

 その頃──王座の背後に隠し扉があり、アクノ公爵は宰相と密談していた。
「陛下は扱いやすい。あとは“獅子”が魔王軍に喰われれば、道は開ける」
「だが奥方が問題だ。あのぼんやり面の裏が読めん」
「所詮、無能な飾り物。心配には及びませんよ」
 アクノは唇を吊り上げ、紅玉の指輪をそっと撫でた。
 その指先には、まだ知られざる暗い炎が灯っている。
 勅命の波紋は、王都を静かに、しかし確実に揺さぶり始めていた。

第1章-2 夫婦の朝――ぼんやり公爵夫人

 レイフォード領本邸の朝は早い。東庭に面した回廊を切り裂くように、冬の冷気が流れ込み、揃いの制服を着た従僕たちが忙しなく行き交う。出陣の日となればなおさらだった。
 従僕長ベアトリスは、給仕頭に目配せしながらテーブルクロスの皺を伸ばし、銀の魔力燭台に火を灯す。揺れる炎がクリスタルの皿に反射し、食卓一面に朝焼けのような光を降らせた。

「……ご夫人、そろそろお食事の時刻でございます」

 控えめに声を掛けると、窓辺のロッキングチェアがわずかに軋んだ。
 ぶかぶかのカシミヤショールにすっぽり包まれた女性が、のそのそと立ち上がる。
 栗色の髪をゆるく結い、前髪で半ば隠れた瞳は眠たげにとろんとしている。ドレスは質素な藤色で、袖口には控えめなレース。宝石どころかブローチ一つ見当たらず、足取りもふわふわと頼りない。これが王都社交界で“ぼんやり夫人”とあだ名されるレイフォード公爵夫人――アイリーンその人であった。

「おはようございます、ベアトリス。いつも、ありがとうございます……」

 ハミングのように間延びした声。だがその内奥に秘めた芯の強さを、今ここで知る者は誰もいない。
 彼女は窓辺に寄り、薄紅色に染まる空を見上げた。
 夫が出立する朝――それだけのことなのに、胸の奥がざわめいている。だが顔に出すわけにはいかない。うっすら笑って、ただ“ぼんやり”と見せる。それが何より彼の心を軽くする、と知っているから。

 やがて扉の向こうで長靴の拍車が鳴った。
 鎧を簡略化した藍鋼の軍装に身を包むレイフォード公爵が姿を現す。背は高く、鋭い鷲のような目が大広間を一瞥で制した。従僕たちが直立不動で最敬礼する中、彼は歩みを緩めず妻へ近づく。

「支度は整った。私は国境へ向かう。屋敷は任せた」

「……はい。お気をつけて」

 アイリーンは深くお辞儀をし、胸元をそっと押さえる。
 その仕草は愛情深い妻のそれでありながら、どこか遠い場所を見つめる夢見る乙女のようでもあった。
 レイフォードは逡巡するように眉を寄せ――が、結局何も言わず踵を返す。口にはしないが、“何もできぬ妻”への落胆が僅かに滲む。

 廊下に去る背を見送りながら、アイリーンはほうっと息を吐いた。
(信じているわ。あなたは強い。だけど……背後の矢は私が払わなければね)

 彼女の脳裏に浮かぶのは、玉座の間でアクノ公爵が浮かべていた薄笑い。勅命の裏に潜む毒――その匂いに、かつての戦場で鍛えられた勘がざわついていた。
 だが表情には一切出さず、椅子に腰を下ろすと銀のティーポットを手にとる。

「今朝のお茶は……キームン、でしょうか? 香りが甘いです」

 侍女がカップへ注ぐと、柔らかな蒸気が立ちのぼる。
 両手で包む湯気の向こうで、アイリーンの瞳だけが一瞬鋭く光った。
 白磁の縁に揺れる琥珀色。その奥に映る自らの顔は、眠たげなまま。けれど瞳の奥底には、凍てつく夜空の星のように澄んだ決意が宿る。

「……お館様は、きっとご無事。ええ、必ず」

 呟きは湯気に溶け、誰にも届かない。
 しかしその声音は、まるで祈りではなく未来への確信を宣言するようだった。

     ◆  ◆  ◆

 食堂を下がった従僕たちの間で、ひそひそ声が交わされる。

「公爵さま、討伐令だってな。帰れればよいが……」
「奥方さまは呑気なものよのう。心配で眠れぬはずが、朝からあくびとは」
「まぁ“ぼんやり夫人”ですから。戦のこともよくご存じないのでしょう」

 交わされる憶測と苦笑。
 その裏で、一人の若い下女だけが口を噤んでいた。以前、夜半に廊下で見かけた“夫人そっくりの、けれど別人のように美しい影”のことを思い出している。あの秘密を胸に伏せてからというもの、彼女は誰よりも夫人を畏れ敬うようになっていた。

     ◆  ◆  ◆

 出立の準備を終えた騎馬隊が、西門へ集結した。
 レイフォード公爵は愛馬ランディールの鬣を撫で、鐙に足を掛ける。
 一斉に掲げられる青銀の旗。甲冑が朝陽を反射し、鋼の川となって門外へ流れ出す。

 門楼の陰から、その行列を見送る小さな影がある。
 カシミヤショールを纏いながら、アイリーンは城壁にもたれ、ぽつりと微笑んだ。

「――行ってらっしゃいませ。お館様」

 その声は届かない。
 だが届かなくていい。彼が振り向きもしないと分かっていても、見送るのは妻の務めだと信じているから。
 列が角を曲がり、姿を消したのを確認すると、彼女は踵を返し、大理石の回廊をそよ風のように歩く。

 胸の奥で、静かに灯がともる。
 それは戦場の焔にも似ず、むしろ鮮烈な月光のように冷たく澄んだ――覚悟の光だった。
 やがて宵闇が訪れれば、その光は剣となり、魔法となり、夫の背を守る盾となる。

 けれど今はまだ、“ぼんやり夫人”でいなければならない。
 食堂に戻り、ぬるくなった紅茶をもう一口。まぶたを半分閉じ、柔らかく微笑む。誰もが油断し、侮る――その状況こそが、彼女の戦場への第一歩だから。

 彼女の静かな一日が明けた。
 その裏で、王都と前線を結ぶ見えない糸は、きりきりと張り詰め、やがて途方もない激動を呼び込む。
 しかしアイリーンは恐れない。
 かつて世界を救った勇者は、今も健在だ。ただ愛する人のために、その剣を抜く時を静かに待っている。

第1章‐3 陰謀の火種

 王城セレヴェルドの北側地階――地下文書庫へ続く秘密回廊は、石壁を這う常夜灯が赤黒く揺れ、昼なお闇が支配していた。
 その最奥、革張りの扉の前で、アクノ公爵カーティス・フォン・アクノは足を止める。白手袋の下に潜む指先で小さく二度、扉を叩いた。

 刹那、〈鍵呪〉の刻印が蒼く発光し、錠が外れる。
 アクノが中へ滑り込むと、書架を取り払った空間の中央に円卓が据えられ、その向かいには深紅の法衣をまとった宰相レムルスが座していた。蝋燭の灯を避けるように垂れた帽子の影から、鷲のような鷹眼が細く光る。

「ご苦労だったな、アクノ公爵」
「お互い様だ。王を動かす芝居は終わった。獅子は檻の外へ――後は“餌”を与えるだけだ」

 アクノは笑みを保ったまま、卓上の地図を指先で弾いた。
 地図には北東国境、グレイン峠――“黒狼将”カーティスが布陣すると噂される地点が赤で囲われている。しかしその印は巧妙にずらされていた。本来、魔王軍が潜む洞窟は、もっと南へ五十リーグ……王の偵察隊など辿り着けぬ秘匿の巣穴である。

「王が読み上げた急報は、そなたが偽造したのだったな?」
 宰相の声はひどく冷ややかだったが、アクノは意に介さない。
「真実を捻じ曲げるのではない。真実を“都合よく切り取った”だけだ。黒狼将が峠に出没したのは事実。だがあやつは囮に過ぎん。レイフォードが鼻面を突っ込むころ、峠の向こうで“本物”が動く」

 卓上の地図がひそやかに瞬く。魔法で嵌め込まれた幻灯が、谷間から這い出る巨大な影を明滅させた。黒い大鎌を携えた角付きの巨躯――魔王直属の軍団長“血濡れのベルゼ”。
 峠の地形は部隊の包囲には打ってつけだ。最初から突出させた獅子を屠り、功績を横取りする算段は整っている。

「だが公爵殿、レイフォードはただの武骨ではない。獅子には爪がある」
「爪など折ればよい。竜の頭を潰すに刃は要らん、毒を混ぜれば済む。私は王都から補給を掌握している。兵糧と矢弾に混ぜる“眠り砂”なら痕跡も残らぬ」

 アクノの笑みは更に深くなる。
 宰相は視線をわずかに伏せ、燭台の炎に映る書簡を指先で示した。
 羊皮紙に赤黒い封蝋。紋章は――異形の竜が心臓を貫く意匠。王国のいかなる貴族紋にも属さぬ、禁忌の印章。
「魔王側からの書簡だ。約束の通り、峠で“血濡れのベルゼ”を暴れさせる手はずになった。貴殿は後詰めとして『苦戦の末に英雄的救援を敢行し、魔王軍を撃退した』という美談を完成させる。……失敗は許されんぞ」

「成功しか考えておらぬよ。王は私を讃え、レイフォード家は断絶。あの若い正妻と広大な北辺の鉱山利権は、すべて私のものとなる」

 才気と野心が脈打つ言葉。宰相は長い沈黙の末に小さく舌打ちした。
「――欲深は身を滅ぼす。忘れるな、我らの最終目的は“王位の摂取”だ。余計な感情は慎め」

 アクノは微笑を凍らせた。
「忠告、感謝する。しかし私にとっては感情こそが駆動力。王冠よりも甘い蜜があると知れば、指を伸ばさぬ男はいないだろう?」

 宰相が返答しようとした瞬間、天井の通気口で風鳴りが唸った。
 アクノが目を細める。地下に風など通るはずがない――“斥候”が潜んでいる合図だ。
「客人か?」
 宰相が杖の先端で床を叩くと、結界が張り巡らされた。二重三重の防音障壁。
 瞬時、背後の壁面が剥離し、人影が滑り込む。全身黒革で覆い、顔を隠す魔族の伝令だ。胸の刺繍――竜が心臓を貫く意匠――が闇の中で赤く光る。

「血濡れのベルゼ、すでに出陣。峠を挟み、二刻後に進軍開始……と伝達」
 濁声で告げると影は闇へ溶けた。
 アクノは椅子の背に腕を回し、長い吐息を洩らす。
「……よろしい。王都で私を止められる者はもういない。獅子が討たれれば、余は英雄――そして宰相殿、貴殿は玉座の影に立つ黒幕だ」

「私を影と呼ぶなら、お前は道化師よ。踊れ、踊りきれ。終幕のあと、道化師の首は使い捨てるのが芝居の常だ」
 レムルスは嗄れた声で笑った。
 しかしアクノ公爵は怯まない。むしろ紫水晶の瞳に妖しい光を宿し、挑むように言葉を返した。
「影に従う道化師など存在せぬ。光こそが影を生む。私は舞台の中央に立ち、喝采を浴びる。……影は、私を照らす火に怯えぬよう気をつけることだ」

 卓上の蝋燭がぱち、とはぜた。炎が一瞬伸び上がり、油を含んだ空気が焦げた匂いを放つ。
 ふたりの間に走る火花――それは王国をも呑み込むであろう巨大な暗雲の前触れだった。

            ◆  ◆  ◆

 同じ頃。
 王城南棟、女官長付き侍女ローザは手にした報告書を胸に抱え、足早に廊下を進んでいた。偶然、吹きさらしのテラスで立ち止まり、遠く北塔を見上げる。
 塔の尖端に、黒い鳥が一羽――不吉の象徴〈カラス〉が止まり、低く啼いた。
 ローザは報告書に目を落とす。“物資搬送路の配備をアクノ家軍属へ一任”という署名入り命令書。王の印、宰相の副署、そして――アクノ公爵の封蝋。

 彼女の背筋に、氷雨のような悪寒が走る。
「――嫌な風が吹く」
 だがその風の正体を知る者は、まだ王都に数えるほどしかいなかった。
 陰謀の火種は静かに燻り、やがて王国全土を包み込む炎へと変わろうとしている。

第1章‐4 妻の沈黙

 レイフォード軍が城門の陰へと消えてからまもなく、冬の曇天は早くも翳りを深め、屋敷の石壁に淡い橙の灯がともり始めた。
 アイリーンは客間で使用人たちへ簡潔な指示を終えると、誰にも悟られぬよう静かに私室へ戻った。

 深紅のカーテンで隔絶された一室――壁一面の鏡台の前に立ち、首元のリボンを解く。
 淡い藤色のドレス、地味な襟元のブローチ、眠たげに垂らした前髪。
 そのすべてが、彼女が“ぼんやり夫人”を演じるための仮面にすぎない。
 針金で作った簡素なヘアピンを抜くと、栗色の髪が波打つように肩へ落ちた。指先を滑らせるたび、髪は淡い銀光へと色を変え、まるで星屑を編み込んだような煌きを放ち始める。

「……ふう」

 軽く息を吐き、鏡の奥へ視線を重ねる。
 そこに映るのは、ほんの数刻前まで誰も気づかなかった“もう一人の自分”――かつて魔王を退けた女勇者、アイリーン=アーデルハイトの姿だった。
 睫は黒曜石のようにくっきりと際立ち、薄桃色の唇は凛と結ぶだけで気高い弧を描く。
 わざと隠していた頬のそばかすは姿を消し、透きとおる陶磁の肌に生まれ変わる。

 鏡台の天板を持ち上げる。内部は意匠を凝らした隠し棚になっていた。
 緋色のベルベットを剥いだ奥から現れたのは、細身の片刃剣と蒼い魔石の埋め込まれた短杖。
 剣の鍔を親指で弾くと、薄闇の中で蒼白い雷光が踊り、指先から半月形の光波が走った。埃一つ舞わぬ静かな空気。その切れ味は十年前と変わらない。

「久しぶりね、“星喰い(アステリア)”……」

 剣の名を囁くと、柄の魔道刻印が淡く脈動した。
 続けて短杖にも触れ、内部魔力の循環を確かめる。血潮と共鳴する清冽な震動が掌へ伝わり、心臓の鼓動を早める。

 そのまま床へ膝をつき、祈りの姿勢を取った。
 ――聖堂ではなく、誰もいない私室で。
 対象は神ではなく、ただ一人遠征の途にある夫。だが祈りの内容は祈願でも加護でもない。
 “彼が前だけを見て戦えるよう、背後の闇を自分が裁つ”
 それを己に言い聞かせる儀式だった。

 祈りを終えると、アイリーンは再び鏡台を閉じ、剣と杖を専用の収納鞘へ納める。
 付け睫を外し、銀の髪を再び栗色へ封じ込めるための変色粉を軽く振りかけた。
 魔力を抑える転写式の封符を首筋へ貼り、呼気を整える。
 一度煌めいた美貌は、たちまち眠たげな眉目に戻り、くぐもった雰囲気が肌へ降り積もる。

 ──演技は完璧。

 誰もが侮り、誰もが疑わぬ、あの“ぼんやり夫人”が鏡の向こうから帰ってくる。
 だが瞳の奥だけは変わらない。魔王軍との数え切れぬ戦場で育まれた冷徹と気高さ――それは、どんな化粧にも隠せぬ真実として静かに輝き続けている。

 衣擦れの気配を殺しながら扉を開ける。
 廊下には夜番へ交代する侍女が二人。アイリーンが近づくと、二人は緊張した面持ちで会釈した。

「お夜食のパンを温めさせましょうか、ご夫人?」
「ありがとう。でも大丈夫。少し眠れそうな気がしませんの」

 ふわりと微笑む。それだけで侍女たちは肩の力を抜き、また仕事へ戻って行った。
 彼女たちが角を曲がった瞬間、アイリーンは窓へ歩み寄り、外を見下ろす。
 屋敷の灯が連なる庭園、その先の闇の向こうで、夫の軍は夜営の準備に追われている頃だろう。

 (あの人はきっと勝つ。けれど勝利に至るまでの代価は、私が減らせる)
 頬に当たる夜気がひやりと冷たい。
 風の匂いに焚き木の煙が混じる。北東から漂う淡い焦げ臭――魔王軍が動いている証だ。嗅ぎ慣れた戦の匂いに、芯の奥の熱が静かに昂る。

 「……出番ね」

 声にならぬ独り言が唇を離れ、闇へ消えた。
 屋根裏の小窓から夜空を見上げる。雲間に沈む月が薄銀の刃のようだ。
 アイリーンは二本指でそっと額の前髪を整えた。

 姿を変え、剣を携えれば、かつての名を知る者たちは彼女を“白銀の星(シルヴァスター)”と呼んだ。だが今その名前を知る者はほとんどいない。
 それでいい。名誉も称賛も望んではいない。
 ──ただ一人の、信じて待つ人のために剣を振るうだけ。

 階下から、時を告げる古時計の針がひとつ打った。
 深夜零時。
 アイリーンは踵を返し、足音を立てずに階段を降りていく。
 翼を隠した天使が、夜の帳へ溶けていく――

 屋敷の灯はかわらず暖かくともり、そこにいる夫人は相変わらずぼんやりとした笑顔のまま、朝を待っている。
 けれど夜の大地には、もう一つの影が駆け出していた。
 剣が呼び、魔力がざわめき、遠い戦場で密やかに火花が生まれる。

 アイリーンの沈黙は、嵐の序章。
 やがて、その穏やかな微笑みが王国の運命を根底から覆すことになると、まだ誰も気づいていなかった。

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