公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第2章

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第2章‐1 不穏な来訪

 レイフォード邸の冬庭に、細かな霜が降りていた。
 夜のあいだに凍った芝は白絹のように輝き、澄んだ朝日を跳ね返す。だが、その静けさを破る重厚な鉄の車輪が、石畳を軋ませながら門前で止まった。

 ――ガコンッ。
 騎馬がいななき、深紅の馬車の扉が開く。
 そこから優雅に降り立った男は、真紅のマントと黒革の外套を揺らしながら、長身を伸ばした。艶やかな黒髪を肩で払う仕草は舞台俳優さながら。彼こそ王都一の策謀家と噂されるアクノ公爵カーティス・フォン・アクノである。

「いやぁ、朝から空気が冷たい。だが付き従う者の視線は熱いな。ふふ……」

 随行の家令が気味悪そうに目を逸らした。
 門番が身分証を確認し、慌てて門扉を開ける。豪奢な馬車は枯れ噴水の前に停まり、執事長ベアトリスが急ぎ出迎えた。

「ご足労いただき恐れ入ります、公爵殿。ご夫人へお取り次ぎいたしますゆえ――」

「いや、良い。突然の客人ほど艶やかなものはないだろう?」
 アクノはにこやかに微笑み、勝手知った様子で回廊へ足を踏み入れた。
 敷き込まれた絹の敷物に靴音が吸われ、彼の存在感だけが異様に膨らむ。

     ◆  ◆  ◆

 アイリーンは、東棟のサンルームで朝の紅茶を楽しんでいた。
 ショール越しの陽光が淡く頬を染め、湯気の向こうに柔らかな笑みを浮かべる。
 使用人がそっと告げた。

「ご夫人、アクノ公爵が……」

「あら?」

 眠たげな目が瞬きを一つ。
 アイリーンはゆっくり立ち上がり、テーブルの砂糖壺に蓋をした。ティースプーンがかちゃりと小さな音を立てる。

 程なくして、赤絨毯の廊下の向こうから、軽い口笛が近づいてきた。
 アクノは飄々と歩み寄り、礼儀より芝居じみた仰々しさで腰を折る。

「これはレイフォード公爵夫人。朝の光も霞むほどの麗しさですな」

「おはようございます、アクノ公爵さま。……まあ、うちの庭の霜、踏みにくくはありませんでした?」

 取り止めもない挨拶。だが、その空白にこそ相手の本性がにじむとアイリーンは知っている。
 アクノは自慢げに微笑む。

「御心配なく。私はどんな氷も割らずに歩く術を心得ている」
 ――人の心を割るのは得意だがな、と瞳が続けた。

 応接間へ案内され、二人きりの対面が始まる。
 アイリーンがカップを差し出すと、アクノはわざと指先を重ねた。ひやりとした接触。だが彼女は笑顔のまま手を離し、自席へ戻る。

「本日はどのようなご用件で……?」
「ご夫人、実は――昨晩、前線から急報が届きましてな」

 アクノは低く声を落とす。
 騎士団章をあしらった密封筒を懐から取り出し、卓上へ置いた。

「レイフォード公爵殿が、突発的な夜襲を受け、負傷されたと」

「……まあ」

 アイリーンは眉を下げるが、その動きはわずかに遅い。
 昨夜真実をこの目で見た自分は知っている――夫は無傷。つまり、この報せは虚か捏造。
 だが“ぼんやり夫人”は疑う術を持たないはずだ。

 アクノは掌を差し伸べる。
「ご不安でしょう? すぐにお連れします。馬車は準備万端、護衛も百騎ほど付けています」

「……はぁ? いえ、不安というほどでは……」

 言葉の先を噛み、視線を宙に泳がせる。
 アクノは挑発するように身を乗り出した。

「魔王軍との戦ですぞ。戦場を一度でも見れば、ご夫人のような繊細な方は――」

「……でも、私、夫を信じておりますので」
 ぽそりと。彼女は壁の花瓶に視線を落とし、淡く笑う。

 その隙だらけの態度に、アクノは舌打ちを飲み込んだ。
 ――効かない。見下せぬ壁のような鈍感さ。
 だが、ここで退くわけにはいかない。

「しかし正式な急使が届くには時がかかる。手遅れになってからでは――」

「正式な急使でなければ、私は動けませんわ」

 アイリーンが初めて真っ直ぐにアクノを見据えた。
 眠たげな瞳――その奥の深淵を一瞬覗いたアクノは、背筋に冷気を感じる。
 次の瞬間には、再びふにゃりとした笑みに戻っていたが、爪先ほど残った余韻が、彼の胸をざわつかせた。

「……承知しました。では、私は改めて正規の文書を携えて参りましょう」
 捨て台詞ぎりぎりの言葉を残し、彼は立ち上がる。

 去り際、アクノは卓上の密封筒を指で滑らせ、彼女の足元へ落とした。
 ぱさり、と宙を切る薄紙。
 アイリーンは拾い上げ、ゆっくりと封面を眺める。――王家の紋章。しかし蝋の色が暗い。

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。
 窓辺に立ったアイリーンは封筒を陽に透かす。革紙の繊維を這う光の筋――そこに魔素の不穏な揺らぎを捉えた。

「……毒文字封?」

 指先に淡く魔法陣を浮かべ、封面を軽く撫でると、蝋が溶けるように崩れ落ちる。内部から濃紫の煙が一筋立ちのぼり、壁の符持ちランプに吸い込まれた。
 魔封式が浄化を終えるまで数秒。煙は跡形もなく消え去り、封書は内容を失った空の紙片に変わっていた。

「ええと、これで――“急報”は無効ね」

 呟く声は相変わらずのんびりしていたが、瞳は研ぎ澄まされている。
 封筒をくるりと丸め、指先で小さくひねると、灰になって消えた。
 テーブルの上に残るのは、温んだ紅茶と、まだ揺れる砂糖壺の蓋だけ。

     ◆  ◆  ◆

 玄関前。馬車へ戻るアクノは、隣に立つ家令へ囁いた。
「次は“王命の正式文”を偽造しろ。最速でだ。あの女を連れ出せねば計画が狂う」
 家令が顔色を変えた。

「しかし…公爵、この邸には結界の痕跡が――」
「かまわん。裏口からでも、力ずくでも構わん。あの女は最期、私のものになるよう定められている」

 冬風が彼のマントを煽る。その陰に潜む野心と狂気を、まだ王都の誰も知らない。
 アクノの馬車が走り去る疾風のあと、霜を踏まぬ足跡が一本、庭を横切っていた。
 ――白銀の影。ぼんやり夫人の仮面の裏で、勇者の決意が静かに剣を抜いた証だった。

第2章‐2 鈍感な返し

 応接間に残った静寂は、置き去りにされた紅茶の湯気さえ凍らせた。
 アクノ公爵の足音が遠ざかったとたん、アイリーンはそっと指先を上げ、金縁カップの内側を時計回りに撫でた。淡い光輪が生まれ、カップの中に――先ほど彼女が飲まなかった紅茶が映し出す幻影の鏡面が揺らぎ始める。

 そこに浮かんだのは、玄関前で馬車に乗り込むアクノの姿。
 上から覗くかたちなので、彼の頭頂しか見えないが、鴉の羽を思わせる黒髪が不機嫌に揺れている。
 アイリーンは目を細め、呟いた。

「やっぱり“間”が不自然……。本物の急使なら、私の反応を確かめる時間すら惜しむはず。うん……」

 しかし、そのつぶやきも途中で途切れた。
 背後の扉が、こん、こん、と控えめに叩かれたからである。
 振り返ると、侍女長ベアトリスがそわそわと立っていた。

「ご夫人、申し訳ございません。アクノ公爵様のお忘れ物かと……」

 彼女の掌には、葡萄酒色の小瓶。
 ガラス越しにとろりとした液体が光っている。刻印はアクノ家の双頭鷲。

「あら、さっき公爵様が落としていかれたのかしら」
 アイリーンは瓶を受け取り、陽に透かす。ベアトリスは言い淀みながら尋ねた。

「……毒では?」
「いいえ、もっと手の込んだ物。霊薬〈マーミッドの雫〉。飲めば一時的に感情の昂ぶりを誘発し、理性を緩める――恋や欲望の錯覚を引き起こす媚薬、ですわ」

 侍女長は目を剥き、慌てて距離を取った。
 アイリーンは瓶を軽く振り、栓を開けて香りを確かめると、肩をすくめる。

「普通のバラ水で希釈した粗悪品ね。こんなものに頼るだなんて、アクノ公爵も余裕がないのかしら」

 平然と言いながら、瓶の口を白布で包み、古花瓶の中へ落とす。腐食防止の封符をひと撫で貼り付けると、中から雨粒のような音を立てて液体が蒸散した。
 ベアトリスは安堵の息を吐いたが、すぐに困ったように眉を寄せる。

「ご夫人は……お連れしようという公爵様のお言葉を、なぜあんなにも軽く……?」
「ん? 軽かったかしら?」
「え、ええ、まるで緊急性を感じておられないように……」

 アイリーンは首を傾げる仕草のまま、わざと半拍置いて微笑む。
 ――“ぼんやり夫人”が見せる何気ない遅延反応。
 彼女の真意を知らぬ者には、それが天然の遅鈍にしか映らない。

「だって、あの方は言いましたでしょう? “公爵殿が怪我”と。
 でも、怪我をした夫が自筆の書状を送らず、辺境の伝令より先にアクノ家へ救援を求めるなんて、ちょっと不自然だと思いません? それに……」

 紅茶を一口含み、わざと話を途切れさせる。侍女長は続きが気になって身を乗り出した。
 アイリーンはゆるく笑って首を振る。

「……いえ、わたくし、またぼんやりしてしまいましたわ。お茶の香りが良すぎて、つい」

 ベアトリスは口を開いたまま絶句した。
 その沈黙を壊すように、廊下から若い下女の声が飛び込む。

「し、失礼いたします! ご夫人、王都からの早馬が――!」

 ドアを開けた少女は、息を切らして王封書を掲げた。
 アイリーンが受け取ると、蝋封は真紅で王家の銀印。正式な急報だ。だが切り開いてみれば中身は、物資配給路の調整報告だけ。夫の負傷など一行たりとも書かれていない。
 下女は不可思議そうに首をかしげるが、アイリーンは淡い笑みで包む。

「ええ。ご苦労さま。王都も慌ただしいのね」
 そう言うと、さらりと封書を折り畳み、袖の中にしまった。

 侍女長が小声で囁く。
「つまり……アクノ公爵は、偽の急報でご夫人を攫う気だったのですね?」
「攫う……? まぁ、どうかしら。わざわざ“百騎の護衛”ですもの。
 でも、わたくし鈍くてよく分かりませんの。ただ――」

 アイリーンは窓外の空を眺めた。青い冬空に、北東の黒雲が細く伸びる。
 その瞳はやはり鋭く光ったが、声だけは眠たげに続ける。

「夫を愛していて、不安なはずの妻を丁重に扱うと言いつつ、媚薬を落としていく方には、ちょっとだけ気をつけた方が良いと思いますわ」

 侍女長は青ざめ、下女は真っ赤になった。
 しかしアイリーンはすぐに柔らかな笑みを戻し、ティーポットに手を伸ばす。

「ベアトリス。次はダージリンをお願いしてもいいかしら? 霜の朝は、少しだけ華やかな香りを足さないと、頭がぼんやりしてしまいますの」

 侍女長が「……はい、すぐに」と応じる背で、アイリーンはそっとため息をついた。
 ――ぼんやり、ぼんやり。
 その単調な演技を守り抜くことが、いかに疲れるか。けれど彼女はやめない。やめられない。敵を欺き、夫を守る最短の方法が“鈍感な返し”だと知っているから。

 湯気の向こうで、彼女の微笑が少しだけ深くなった。
 紅茶の表面に映る銀色の瞳は、冬雲の奥で瞬く星のように冴えわたっていた。

第2章‐3 忍び寄る策略(約2,300字)

 レイフォード邸の西翼――台所と物置小屋をつなぐ細い通用口は、朝から香草や薪を運び入れるために頻繁に開閉していた。その出入りの混雑に紛れて、一人の見慣れぬ男が灰色の外套を翻し、屋敷の敷石を踏み越える。

 男の名はグアルド。アクノ家の私兵であり、裏稼業では“黒猫”の異名を持つ内通工作人だ。
 彼は厨房脇の棚に腰かけ、柘榴石の指輪を指で弾いて合図を送った。すると奥から若い下働きの少年がそろりと顔を出す。

「来たか。耳寄りな話だ」
 囁く声は低く湿っている。少年は不安げに周囲を見回し、ひしゃげた木箱の影に屈みこんだ。
 グアルドは懐から薄銀の小袋を取り出し、光を遮るように握り込む。袋の口を開くと、黄金ではなく深緑の粉末がこぼれた。

「これは“眠り砂”。パン生地に混ぜれば二刻で全身が痺れ、五刻で昏倒する。公爵夫人付きの侍女長に飲ませるのだ。報酬は八枚金貨」
「で、でも……奥方様は無害だと聞いてます。なぜ侍女長を……」
「奥方を監視する女をまず黙らせねばなるまい。金が欲しければ受け取れ。嫌なら家族へ“寝ない砂”を振りかけてやる」

 少年の眉が引きつり、震える指先が小袋へ伸びる。
 だが、その時――背後のドアが控えめに軋んだ。
 ふわりと花蜜の匂いが流れ込み、ぼんやりした声が届く。

「まあ……朝から大事な話かしら?」

 アイリーンである。薄藤のドレスに白いエプロンを重ね、袖をまくった姿は、家事見習いの娘のように質素だった。
 グアルドは一瞬で袋を袖口へ隠し、軽く帽子を取る。

「いえ奥方様、冬場の食料保存法を話しておりまして」
「まぁ、ご熱心ね。私、塩漬けよりハーブオイルが好みですわ」

 アイリーンはふにゃりと笑い、テーブル脇の壺からミントの枝を摘み取った。少年とグアルドが緊張に汗ばむ中、彼女は気にも留めず小枝で頬をくすぐり、くすりと笑う。
 そして棚の上へ目を移し、

「あら、粉砂糖が開けっ放しです。蟻が来たら大変」

 そう言って袋の口を緩く結び直すと、――何故か、棚の隙間にあった“眠り砂”の小袋と交換するように置いた。
 一瞬の手品。それを目で追ったのは少年だけだったが、彼は恐怖で口を開けられない。

「では、私はこれで。お菓子づくりの試作があるんですの」
 アイリーンはステップを踏むように去った。
 ドアが閉まるころ、グアルドはポケットを探った。……粉袋が、無い。代わりに入っていたのは、本物の粉砂糖の包み紙だけ。

「……なぜだ? あの女――気づいていたのか……!?」

 背筋に寒気が走った。少年を見ると、蒼白の顔で震えている。

「き、きっとバレてます。今すぐ出ましょう、お代は返します!」
「黙れ。奥方に渡るはずの袋は粉砂糖になった。では粉砂糖はどこへ行った? 料理に入れば味が――」

 言い終わるより早く、厨房の窯口が爆ぜるように開いた。
 中にいたパティシエ見習いが、粉まみれのまま叫んだ。

「大変です! 粉砂糖が全部消えてる! 誰か持っていきました!?」

 グアルドは暗罵を呑み込んだ。これは罠だ。
 慌てて通用口へ向かおうとした瞬間、廊下に衛兵の影が差した。

「アクノ家の者だな?」
 鎧の胸甲にはレイフォード家の蒼銀双剣。副長が冷えた声で続ける。
「不審な薬物持ち込みの報せがあり、調べさせてもらう」

 グアルドは舌打ちし、腰の短剣に手を伸ばす。だが背後で少年が悲鳴を上げ飛び退いた瞬間、床に転がった袋が破れ、不審な緑の粉が霧のように舞った。
 衛兵が剣を抜くより先に、グアルドは己の外套を振って戸口の衛兵へ粉を浴びせる。
 衛兵は咳き込み、膝をつく。……“眠り砂”は己の首を絞める鎖となった。

     ◆

 十五刻後。
 グアルドは王都衛兵隊詰所の地下牢で目を覚ました。両手に鉄枷。
 目の前には、眠たげな夫人――ではなく、軍司令部が恐れる“王国魔法管理局”の監察官がいた。
 彼女はグアルドへ麻痺毒使用の容疑を告げ、黙秘なら拷問を示唆した。
 彼の視界が暗転する刹那、通気格子の外に一瞬映った影は、淡い銀髪を揺らして冷やかに去った。

     ◆  ◆  ◆

 その夜、屋敷の中庭ではアイリーンがキャンドルランタンを手に、メイド頭の報告を受けていた。
 厨房での中毒騒ぎは粉砂糖紛失の誤解として処理され、眠り砂は“敵国由来の毒”として王都の魔術検査隊へ送られたという。
 報告を聞き終えたアイリーンは、ほっと息をつき、ぼんやり笑った。

「わたくし、また怪我の功名を立ててしまいましたわ。お菓子好きが役立つこともあるのですね」
 メイド頭は意味がわからず戸惑うが、アイリーンは気に留めずランタンを掲げる。
 揺れる炎がハーブ花壇に暖かい光輪を落とした。

(アクノ公爵……あの手この手で来るわね。でも夫の背中を射抜く矢は、全部、私が折る)

 その決意を胸に刻むと、アイリーンは再び柔らかな微笑みを浮かべた。
 ぼんやり――その仮面の下で、静かに鋼の剣が鍔鳴りを立てる。

第2章‐4 夜の目覚め(約2,200字)

 真夜中。レイフォード邸が深い眠りに沈むころ、東棟三階の私室だけが、蝋燭一本分のほの暗さを保っていた。
 暖炉の火は落とされ、窓外では凍てつく星が瞬いている。
 アイリーンは身じたくを終えると、壁のタペストリーの裏に隠された扉を押した。軋み一つ立てず開く薄板の奥――屋根裏へ続く細い階段が、闇の井戸のように口を開く。

 彼女は足音を殺しながら上り、梁下の古い収納箱を開く。
 剣と短杖、漆黒の防刃コート、魔力伝導糸を編み込んだ革手袋。
 装備を一つずつ纏うたび、胸の奥で“ぼんやり夫人”の殻が剥がれ、かつて嵐と呼ばれた女勇者が目覚めてゆく。

 最後に懐中鏡で顔を確かめる。
 夜目にも輝く銀の髪を緩く結い、前髪を上げるだけで、頬の輪郭がすっと鋭くなる。
 人払いの小魔法で頰の赤みを抑えると、眠たげだった瞳は氷晶のように澄んだ蒼へと戻った。

「行きましょうか。“お館様”の宵を護るために」

 絹靴の爪先が床を蹴る。
 一瞬で窓枠へ跳び、外壁の雨樋を滑るように降りた。夜気がコートをはためかせ、星明りをまとった影が庭木の間を走る。
 敷地を囲む石塀を越えた瞬間、彼女は低い口笛を吹いた。暗がりから二頭の黒馬が現れ、その鞍袋に仕込んだ“移動用転移石”が淡い光を放つ。

 ――氷混ざりの疾風が夜の草原を駆け抜けた。

     ◆  ◆  ◆

 北東へ二十リーグ。一帯を覆う木立の奥、哨戒中の第二近衛騎士分隊が野営していた。
 だが灯火の輪の外では、黒い影が蠢く。魔王軍の索敵部隊“影猟犬”――人語を解する猿狼が、鼻を鳴らしながら獲物の匂いを追っている。

 その嗅覚が、焚き火の煙に混じる人間の匂いを捉えた刹那。
 銀光が落ちた。

 地を斬り裂く半月状の魔法剣波が走り、前列の猿狼三体を一息で真っ二つにした。
 斜め上へ抜ける軌跡が月光を帯び――そこに立つ女の姿を浮かび上がらせる。

 長い銀髪、深藍の戦装。片手に剣、片手に短杖。
 女は何も言わない。ただ短杖を振り上げ、三重の魔法陣を重ね撃ちした。
 放たれた雷光は槍となり、暗林を貫く。雷鳴が轟き、影猟犬が次々に焦げ落ちる。

 残党が吠えた。
 その声に共鳴するように、さらに奥から甲冑の魔族が現れる。角の生えた将校クラス――短槍で一撃を狙うが、女はすでに懐へ潜り込んでいた。

 剣閃が走る。
 硬質な黒鎧が真横に裂け、魔族の巨体が膝を折る。
 女は表情を変えず、立ち去ろうとした。だが魔族が最後の力で腕を振り上げ、爪を伸ばす。

 ――ガインッ。

 金属質の衝撃音。
 女の剣が爪を受け止め、返す刃で首を斬り払う。飛び散る血飛沫すら、夜気が冷却して霧氷に変わり、月光に散った。

 静寂が戻る。
 焚き火の向こうで息を呑む近衛騎士たちの姿が揺れている。
 彼らは悲鳴も声も上げられず、ただその女の強さと美しさに呆然とした。

 女――アイリーンは振り返り、騎士たちへ微かに顎をしゃくる。
 「退路は開けたわ。公爵殿の本隊へ合流しなさい」
 言葉はなくとも、視線はそう告げていた。指揮官が我に返り、敬礼で応える。

 アイリーンは短杖を一振り。周囲の草木が光り、戦場の痕跡を凍結封印する。
 ――証拠隠滅。そして、正体隠匿。

 騎士たちが撤収を始める頃には、女勇者の姿は深い林に消えていた。

     ◆  ◆  ◆

 真夜中を回ったレイフォード邸。
 東棟の窓辺に灯る薄明かりの前で、アイリーンは静かにコートを脱ぎ、銀髪を栗色へ戻す。
 剣も短杖も隠し扉の奥へ仕舞い、うっすら汗ばんだ額を手の甲で拭う。

 ――無事は確認。補給隊も守った。
 夫の軍が次に進む峠路は、魔王軍の罠が潜む場所。
 明晩からが本番、と唇の内側で呟く。

 部屋に置いた砂時計が一粒鳴り、零時半を告げた。
 彼女はカーテンを閉め、暖炉に小さな薪を足す。燃え上がった火が寝室へ柔らかい橙を広げた。

「……ただいま、お館様」

 誰もいない部屋で、誰にも聞こえぬ声。
 ベッドサイドの額縁には、初夏の湖畔で撮った夫婦の肖像画。
 武骨な夫が照れくさそうに微笑み、アイリーンは控えめに肩を寄せている。今と同じ、眠たげな顔で。

 アイリーンはランプを落とし、シーツに潜り込む。
 剣を振るった筋肉の火照りを冷やすように、息を整え、ゆっくり瞼を閉じた。

 『ぼんやり夫人』の眠りは深い。
 けれど枕の下には、星喰い(アステリア)が静かに潜み、次の夜明けを待っている。

 そして窓外の星は知っていた。
 牙を研ぐ魔王軍も、裏切りを企むアクノ公爵も、すべてがこの“眠たげな妻”の剣先で粉々に砕ける運命を――。



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