公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第3章

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第3章‐1 名もなき英雄

 薄明の霧が峠を漂う。夜半の寒気はまだ抜けきらず、霜を帯びた草が兵士たちの足音に微かに砕けた。
 レイフォード公爵直属の前衛小隊は、昨日の夜襲で半数近くを失いながらも辛くも防衛線を維持している。指揮を執る隊長ゾラは、砦跡の崩れた胸壁に身を伏せ、遠くの黒松林を睨んだ。

「……おかしい。奴ら、夜明け前にもう一度来るはずだった」
「隊長。斥候班が戻りません」
「また“影猟犬”か……?」

 魔王軍の猿狼混成偵察部隊は、重装の騎兵さえ食い破る敏捷さを誇る。鎧など飾りも同然、牙が触れれば骨ごと裂かれる。
 兵士たちは恐怖を抑えようと、声を潜めて武器を握りしめた。夜通しの哨戒でどの顔も土色にくすみ、鎧の継ぎ目には血と脂がこびりついている。

 ――ギャン、と甲高い悲鳴。
 黒松林の奥で、何かが切り裂かれた音がした。まるで布を裂くように軽い。だがその直後、木々を揺らす凄絶な衝撃が走った。
 霧が二つに裂ける。まばゆい銀の刃――否、刃というより閃光そのものが宙を舞い、夜の残滓を白く塗り替えた。

「……光線魔法か? こんな広範囲を一瞬で!?」

 ゾラは思わず身を乗り出す。視界の端で、猿狼の影がばらばらと崩れ落ちていた。焼け焦げ、氷結し、あるものは真っ二つに断たれて。
 霧が晴れ、そこに立つ人影を捉えた兵たちは息を呑んだ。

 長く波打つ銀髪が朝陽に煌めく。藍の戦装の上に真白のコートを羽織り、右手に細身の片刃剣、左手に蒼い魔石を埋め込んだ短杖。
 女は振り返りもしない。ただ静かに剣先を下げる仕草が、あたかも「掃除は済んだ」と告げるようだった。

「き、貴殿は何者だ!」
 兵士の一人が叫ぶ。だが女は答えない。
 僅かに顎を傾け、林の向こうを見やる。その視線の先で、黒甲冑の魔族数体がじりじりと距離を詰めていた。猿狼より遥かに重装、重魔力。小隊の消耗した兵では対処しきれない。
 女は無言のまま短杖を掲げる。魔法陣が三重に展開され、紫紺の稲妻が縦横に跳ねた。雷光は魔族の鎧を蒸発させ、肉を炭へ変えた。堅牢を誇る黒甲冑が、焼けた紙のように崩れ落ちる。

「……ひ、膝をついたまま詠唱すらしていない……」
 兵士が震える声で呟く。
 剣と魔法、それぞれが極限の域に達したときのみ成立する“同時双演”。歴史に名が残る魔法剣士でも数えるほどしか使えぬ奥義。
 しかし今、その女は軽い仕草で二度、三度と繰り返した。霧の帷は吹き飛び、峠の地形すら変えかねない威力を、必要最小限だけ切り取り放っている。

 やがて魔物の気配が完全に途絶えた。
 女は剣を軽く振り払うと、刃に纏った魔素を散らし、ひとつ深く息を吐いた。
 その後ろ姿には疲労の色さえ見えない。

「隊長……あれが噂の“銀の女勇者”?」

「わからん。だが、あれが公爵夫人だという噂もあるぞ」
「冗談やめてください。奥方様は紅茶をこぼすだけで泣きそうになるお方でしょう」
「そ、そうだな。はは……」

 怯えと安堵の笑いがこぼれる。
 だがゾラは視線を逸らせなかった。兵士たちの会話をよそに、彼女が去り際ふと振り向いた瞬間、月光のように冷たく澄んだ蒼い瞳が確かにこちらを見た気がした。

 ――それは、兵の誰よりも深い憂慮と慈愛を湛えた眼差し。

 気づけば女の姿は霧の切れ間に掻き消えていた。剣と雷光の余韻だけが風に溶け、早朝の空へ薄い蒸気を昇らせる。

     ◆  ◆  ◆

 その日の午後、救援小隊が峠の前線に到着したときには戦闘痕が完璧に凍結封印されていた。
 敵の死骸どころか血の一滴さえ残らない。残っていたのは、黒松の幹に薄く残る焦げ跡と、雪面に押し花のように散らばる霜結晶。
 連隊本部で聞き取りを受けたゾラは、報告書にこう残した。

> 〝夜明けの霧を裂いて現れた女勇者が、魔物を瞬時に殲滅。
 白銀の剣閃と蒼雷が同時に展開され、魔族の将校クラスも抵抗できず。
 名も身分も告げず、礼も受けずに去る。
 兵の間では「銀月の剣姫」の異名が囁かれ始めている。〟



 だが本部の将校たちは首を捻るばかりだった。
 王国軍の名簿に該当する剣士も魔導士もいない。かつての“英雄譚”に記録された勇者の特徴と合致するが、十年前に消息を絶ったはず……。
 謎は謎を呼び、噂は尾ひれを付けて大きくなった。

「公爵軍を陰で支える守護天使だ」
「いや、魔王軍から逃げ出した裏切りの戦乙女だ」
「実は王家の隠し剣だ」

 喜々として語る兵士たちに、ゾラはあえて口を挟まなかった。ただ胸の奥でそっと告げる。

(名なんて要らない。あの眼差しを思い出すだけで十分だ)

 そして夜。
 遠征本隊の陣営で、レイフォード公爵は兵の報告を受けていた。
 公爵は剣を磨く手を止め、帳面に「銀髪の女勇者――詳細不明」と書きつける。
 胸の奥に小さな針が刺さるような焦燥。それが何かはまだ分からない。ただ視界の隅に、銀色の残像が離れなかった。

 名もなき英雄の物語は、こうして前線を駆け巡り、やがて王都へ――そして“ぼんやり夫人”の耳にも届くことになる。
 だが今はまだ、銀の剣姫は夜の霧の向こう。
 夫を見守りながら、次の闘いへ静かに剣を研いでいた。

第3章‐2 偽りの報告

 レイフォード邸の門扉が、昼下がりの冷たい風にきしりと鳴いた。
 先刻まで降っていた粉雪がようやく止み、薄日が白い庭石をわずかに温めはじめた頃である。門兵が長槍を構えつつ覗き込むと、王都儀礼局の制服を纏った若い herald〈伝令官〉が一人、重厚な栗毛馬を引きながら立っていた。胸には王家の双頭鷲紋章。さらに後方には、赤と金の房を飾った馬車がゆっくりと続く。御者台の紋章は――アクノ家。

 伝令官は威儀正しく名乗り上げた。
「王命を奉じ、レイフォード公爵夫人へ急報を届けに参上いたしました!」
 細身ながら真面目そうな面差し。だが門兵は眉を寄せる。王都からここへ最速で届くはずの公用早馬は明け方に一度来ており、ふたたびこの時間帯に到着するのは腑に落ちないのだ。しかし伝令は短剣の柄で脇差しを叩き、横合いの馬車を示す。

 紅い帷の奥で扉が開き、アクノ公爵が悠然と降り立った。
「門兵殿、急かさずとも良い。命令文は正式なものだ。さあ通せ」

 嫌な汗が門兵の背を伝う。王命とアクノ家――二重の圧力の前に、彼は結局門扉を開けるしかなかった。
 ほどなく、サンルームへ案内された伝令官とアクノ公爵の前に、アイリーンが姿を現した。
 今日は淡い苔色のドレス。胸元に小さなレースを重ねただけの、ごく控えめな装いである。だがその姿を見たアクノは仰々しく手を取った。

「奥方、ご無事で何より。――だがご主人は重傷だ。陛下の印璽を携えた正式文を持参した。すぐに同行願いたい」

 アイリーンは瞬きを一つ。まるで半分夢を見ているような鈍い反応を見せる。
「まあ……重傷、ですの? そんな……朝の書状では『冬営地にて小休』と伺ったばかり……」

 アクノは芝居がかった嘆息を漏らし、伝令官へ視線で合図を送った。
 伝令官は肩掛け鞄から黒い革筒を取り出し、封蝋の付いた羊皮紙を恭しく差し出す。蝋は真紅、中央に王冠と双頭鷲――確かに王家の封印だ。

 しかしアイリーンは受け取らず、扉脇の侍女長ベアトリスに目配せした。
「失礼ですが、蝋印を検めてもらえるかしら。わたくし、不勉強で」

 ベアトリスは訝しみながら蝋封を指で撫で、光に透かす。
 ――微かな魔素の歪み。王家文書管理局が用いる純白の封蝋には、本来混ざらないはずの妖気の靄。侍女長は言葉を失ったが、アクノが肩をすくめる。

「ご夫人、無用な検分です。それに時間が惜しい――」

「まあまあ公爵さま。わたくし緊張すると、お腹を壊してしまいますの。お手洗いへ行って参ります。少しお待ちを」
 ふにゃりと笑ってアイリーンは奥へ引っ込み、アクノは仕方なく椅子に腰を下ろした。
 だが次の瞬間、奥の廊下から乾いた破裂音が轟く。黒煙が立ち昇り、使用人たちの悲鳴が連なる。

 アクノが立ち上がるより早く、扉が開いた。
 白煙の向こうに現れたアイリーンは、袖に煤をつけながらも平然としている。

「失礼……導火線の線香が倒れてしまったのです。お騒がせしました」

 しかし彼女の掌には、蝋封の割れた王命文書――そして中から取り出した二葉の紙片があった。
 一枚目は確かに公爵負傷の急報。しかし裏面にもう一つ、王家の極秘暗号が隠されている。蝋を剥がし火を当てたことで現れた文面を、アイリーンは朗読した。

> 『此の急報は贋書なり。第五式偽印の可能性。受領者は調査のうえ魔術検査局へ届け出よ』



 伝令官の顔色が失われる。アクノは歯噛みし、袖の下で拳を握った。
「……その暗号は旧式だ。偽装されている恐れも――」
「ですが公爵さま、お怪我の夫を案じる書付に“偽印の疑い”をわざわざ裏書する必要があるのでしょうか?」

 アイリーンはほわんと首を傾げたが、瞳だけが抉るように鋭い。
 アクノは強引に視線を逸らし、伝令官へ怒号を浴びせた。

「小僧! お前、誰に命じられた⁉」

 その威圧に、伝令官は膝から崩れ落ちた。
「……ア、アクノ家の執務官様から、“王家の至急文書”だと……まさか偽とは!」

 アイリーンはそっと息を吐き、侍女長へ目配せする。
「ベアトリス。この方を応接間へお通しして温かいハーブ茶を。――凍えたでしょう?」

 柔らかな指示。しかし対応命令権限が交じる声音に、侍女長は即座に伝令官を連れて退室した。
 残ったのはアクノとアイリーン。緋色の敷物の上で、二人の影が絡み合う。

「……公爵さま。あなたは善意でご配慮くださっただけなのかしら。それとも――」

「おや、疑うのか? 私はただ夫人を案じ――」

 アイリーンはふるふると首を振る。今も笑みは眠たげだが、その頬に浮かぶ色は冷たい月の光。
「わたくし、夫を信じております。だから正式な王命が届かない限り、屋敷を離れませんわ」

 アクノの瞳に一閃、奸智の光が走る。
「ならば証人を連れて来よう。負傷兵を呼び、奥方に傷を見せれば――」

「負傷兵まで偽装? まぁ、物好きな」

 ひそりと囁いた声に、アクノは拳を震わせたが、すぐに薄笑いに変えた。
「ではまた改めて。次は誰にも疑われぬ王命を用意しよう。……夫人が後悔しないうちに」

 マントを翻し、部屋を出る。扉が閉まる音が遠ざかり、廊下に靴音が消えると、アイリーンは一人きりの応接間で小さく肩を落とした。

 ――危ない橋を渡るわね、アクノ公爵。

 テーブルに残った偽文書を手のひらで擦り、浄化術式を唱えると文字は白光に解けた。灰を集め、錬香壺に落とす。淡い香が立ちのぼり、部屋を満たす。

 その香りは、“戦気”を鎮めるための自作ハーブ香。
 彼女の中で沸き立つ怒りと焦りを沈めるように、薫煙が静かに揺れた。

     ◆  ◆  ◆

 夜、侍女長ベアトリスが寝室へ茶を運ぶと、アイリーンは窓辺の肘掛けに座り、帳面に細かな文字を書きつけていた。
 ベアトリスが訝しむと、彼女は眠たげに目を上げる。

「これ? 明日、魔術検査局へ届ける書状ですの。 ‘偽印蝋’の調査を要請しようと思って」
「ですがアクノ公爵様を敵に回すと……」
 アイリーンはふわ、と欠伸を作り、ペンを置いて微笑んだ。

「敵――? いいえ。私はただ国王陛下のお手を煩わせたくないだけ。偽の王命が増えては、皆が困りますもの」

 ベアトリスは彼女の無邪気さと裏腹の強靭さにぞっとし、言葉を失った。
 アイリーンはベッドへ向かいながら、ふと唇だけで呟く。

(あの人の背中を狙う矢は私が折る。それだけ)

 蝋燭の火をひと吹きで消すと、部屋は闇に沈んだ。
 しかし闇の奥、鏡台の影では銀の剣が淡く脈打ち、峠の夜明けを待っていた。

第3章‐3 妻の静かな拒絶

 アクノ公爵が去って半日。
 レイフォード邸は一見いつも通りの優雅な時を刻んでいた。正面玄関の黒い鉄扉は磨かれ、広間の大理石床には午後の陽光が斜めの筋を描く。だが屋敷を支える使用人たちは皆、言いようのない緊張を抱えていた。
 ――来る。
 そう確信できるほどに、次の“押し寄せ”は早いと直感していたのだ。

 夕刻。
 冬空が朱に染まるころ、門番の警鐘が鳴り響いた。二度、三度。緊急来訪を知らせる回数である。
 西門に現れたのは、前回よりも大仰な護衛とともに戻ったアクノ公爵だった。今度は王宮事務局の偽造しようのない紫紐公印を掲げ、さらに負傷した兵士を二十騎随伴させている。馬車は二台。後ろの騎乗馬には戸板に括りつけられた包帯姿の兵士が乗り、呻き声を上げる様子は痛々しい。

「奥方にお伝え願いたい!」
 公爵は門番を制し、高らかに宣言した。
「国王陛下より討伐軍後方支援隊へ下賜された重篤負傷兵である。己の血で公爵殿の危機を証すものだ。奥方が看取る義務がある!」

 そんな剣幕で迫られれば断る理由などない。門は開いた。
 だが出迎えに降り立ったアイリーンは、前回と変わらぬ眠たげな微笑をそのままに、青磁の盆と素焼き水差しを抱えていた。豪奢な応接間ではなく、玄関脇の手当て部屋を指示し、負傷兵たちを入れるよう促す。

「まあまあ、ご苦労さま。まずは喉を潤されて。温かい粥を用意いたしましょうね」
 氷を削り生姜を溶かした特製湯が、盆の上で白く煙った。
 兵士たちは空気が抜けるように安堵し、痛みを堪えながらカップへ手を伸ばす。水差しごと手渡された粉薬は、魔術治療師の調合による鎮痛粉。香り高い甘味が疲労した舌に沁み渡り、呼吸が落ち着いていく。

 一方でアクノは奥の間へ招かれると思っていたが、夫人は一向に進めようとしない。負傷兵の手当てが終わるのを待つ間、玄関ホールで立ち尽くす形になった。周囲には無言の近衛が控え、侍女長ベアトリスが物差しのように背筋を伸ばして見張る。

 やがて兵士の痛みが小康に向かったころ、アイリーンは盆を片付け、ふわりとスカートの裾を揺らす。彼女の視線がアクノに注がれた。眠たげなまま、しかし芯が凍るほど静謐な光を帯びている。

「公爵さま。お急ぎならどうぞお発ちくださいませ。負傷兵の皆さまは屋敷でお預かりします。回復し次第、後方治療所へ護送いたしますわ」

「な……! いや奥方、私は貴女をお連れするために――」
「夫はお強い方です。この方々が重傷を負っても帰還できたのなら……きっと夫もご無事でしょう」
 アイリーンは目を細め、軽く会釈した。
「それに――正式な王命の“副坂印”がございませんでしょう? わたくし、それがない文書は、いくら公印があっても屋敷を動けない決まりでして」

 副坂印――王命を部外持ち出しする際、監査局職員が二重封蝋する“真印”だ。貴族の妻でそこまで知る者は稀である。アクノは顔面の筋肉を引き攣らせ、懐の封筒を再確認した。たしかに副坂印はない。彼は口角を吊り上げ、嘲うしかなかった。

「知恵をおつけになったな。だが副坂印ならすぐにでも――」
「ではお取りになってから、また参られるとよろしいかと」
 アイリーンの声は柔らかい。しかし削ぎ落とした刃のように鋭い退去勧告だった。

 アクノは瞬間的に腕を伸ばし、彼女の手首を掴もうとする。
 ――ぱしん。
 弾かれたのは彼の指の方だった。侍女長の竹尺が寸分狂わず手首を叩き、その痛みにアクノは唸った。

「公爵殿、無礼をお控えください。当邸は現在、ご夫人の御裁定により臨時軍医療施設指定を受けております。王都治療局の監督官も間もなく到着の予定」
 ベアトリスの凛然たる声。
 そう、アイリーンは先ほど兵士たちを搬入させる際に“重傷兵を受け入れた私邸”として王都の治療局へ報せを飛ばしていた。役人が来れば偽書状は白日の下にさらされ、アクノの横領行為も洗い出される。彼にはもう引き返すしかない。

「……今日のところは引くとしよう。だが、勅命を携え必ず迎えに来る」
 アクノが吐き捨てると、アイリーンは問いかけるように首を傾げた。
「“迎え”? まぁ、夫は戦場ですのに……。わたくし一人をどこへお連れに?」
「……妻となる方を崇め守るのは、騎士として当然の――」
「わたくしの“騎士”は夫だけですわ。それではお気をつけて」

 にこり。
 ほんのり欠伸混じりの笑顔に、アクノは息を呑むしかなかった。
 その瞳は水面の氷より冷え、しかし溶け込むほどに静か。踏み入れた者を深みに引きずり込む、底知れぬ美しさを宿していた。

 馬車の去ったあとの玄関ホール。
 使用人の誰もが安堵の息を漏らし、負傷兵たちは口々に「命を救われた」と感謝した。
 だがアイリーンは首を横に振り、お盆を抱えて台所へ歩きながら呟く。

「まだ序章……。あの方、次は副坂印どころか、王命そのものを手に入れて来るでしょうね」

 廊下灯が揺れ、彼女の影が静かに伸びる。
 ぼんやりと見える横顔に宿るのは、闇の中で研ぎ澄まされる剣の光。
 ――静かな拒絶。それは盾ではなく、矢を跳ね返す鏡。
 そして夜が深まるほどに、その鏡は星明かりを鋭く反射し始めていた。

第3章-4 思考の裏側

 馬車の窓を打つ冬風が、赤いカーテンの裾をはためかせていた。
 アクノ公爵カーティスは深々とシートにもたれかかり、手袋を外して拳を握る。緊張で蒼白になった指関節が、かすかに震えた。

(副坂印を盾に断るとは……あのぼんやり女、いつの間に王家文書の慣例を学んだ?)

 舌打ちが漏れる。夜半の灯籠が揺れ、窓硝子に映る自らの顔は歪んで見えた。
 だが怒りはすぐに算段へ転じる。公爵は顎を撫で、黒革鞄から紫紺の晶石封筒を取り出す。魔王軍の密約文書――「峠でレイフォードを討ち取る」と約した証。
 アクノは慎重に印璽を確認し、唇を吊り上げる。

「副坂印が欲しいのなら……王命ごとすげ替えればよい。
 宰相レムルスに贖いを渡し、文書局の秘蔵印を“借りる”。それで二重封蝋を作り直せば、誰にも偽とはわかるまい」

 金と脅迫、そして魔王軍の裏口――三つの手段を束ねれば、王都の文書管理局など紙細工。
 あの女がどれほど“知恵”をつけようと、最終的に従わせる。そう信じ込ませるほどの確信が、彼の胸を再び熱くした。

     ◆  ◆  ◆

 一方その頃、レイフォード邸では、灯を落とした回廊に淡い結界が張られていた。
 アイリーンは書斎の机に薬草ランプをともして座る。羊皮紙には、峠の状況を綿密に記した地図と、魔王軍の将“血濡れのベルゼ”の紋章。
 鋭い羽根ペンがさらさらと走り、魔術符号と作戦線が重ねられていく。

(兵の負傷は“黒狼将”ではない。封印呪《アドマスタ》の痕。……本命はあの魔族将校。確かに図上までは峠に現れていない)

 冷静に推論を重ねる一方で、心は焦っていた。クォーツの砂時計が淡く光を揺らし、北東の戦線へ刻一刻と時間が削られていく。
 ――夫はまだ、重大な罠の存在に気づけていない。

 アイリーンは深く息を吐き、背後の鏡を見やる。
 そこにはぼんやりと微笑む“公爵夫人”の仮面が揺れていた。昼間の拒絶劇を思い返せば、侍女たちは驚き、近衛たちは感嘆したが、当の本人は何にも感じぬ振りでやりきった。
 しかし仮面の裏の精神は、研ぎ澄まされた剣より張りつめていた。

「……次は副坂印つきの王命。間違いなく来るわ」

 指先で小さな魔法陣を起動し、掌に映し出す。
 それは魔術連絡網《アークライン》の簡易端末――王都魔術検査局の首席官と直接連絡できる符。彼女は低く詠唱し、午前三時の面会を取りつけた。
 目的はただ一つ。アクノが持ち込むであろう偽王命を公爵家の名で告発し、王都側から動かせぬ証拠を突き付けるため。

 しかし書類戦だけで夫の命は救えない。
 峠の戦局は今夜にも激変する。真の危機は“血濡れのベルゼ”が動くその瞬間――

 アイリーンは椅子を立ち、隠し扉へ向かった。
 星喰い(アステリア)の鍔が月光を受け、微かに鳴った。
 剣と短杖、そして《白銀の走竜》と呼ばれる愛馬セレーネ――全ての準備は整えてある。一度峠へ戻り、夫の本隊と合流しなければならない。

 そこへ侍女長ベアトリスがノックもなく飛び込んできた。
「ご、ご夫人! 王都の街道で“副坂印保管庫”が襲撃に遭ったとの報せが――」
「やはり……」

 アイリーンは小さく目を伏せる。
 その襲撃は、アクノ公爵が副坂印を手にするための布石。彼が次に邸へ来るときは、公式文書の“正しい形”で彼女を拘束しに現れるだろう。
 ――だがその時、屋敷に自分がいなければ。

「ベアトリス、邸の守りをあなたに任せます。無理はしないで。
 私、少し夜風に当たって参りますわ」
 侍女長は理解し、唇を強く噛んで頷いた。

     ◆  ◆  ◆

 深夜零時。
 月を背に、白銀の走竜セレーネが石垣を跳び越えた。
 鞍上のアイリーンは、風を裂きながら峠へ向かう。防寒用の白マントが尾のように流れ、雪面に影の矢を描く。

 馬上で彼女はそっと呟く。
「お館様。あなたが前だけを向けるよう、今夜も背を護ります。――だから必ず、生きて帰って来て」

 祈りではない。決意の言葉。
 月光の下、ぼんやり夫人の面影など欠片も残さず、女勇者だけが夜を駆けた。
 その剣先が、魔王の闇と人の陰謀を同時に断ち切るまで――あと十三刻と少し。

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