公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第4章

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第4章-1 懐かしい再会

 峠への街道をおおう夜霧は、月明かりを吸い込み銀灰に揺れていた。
 アイリーンは白銀の走竜〈セレーネ〉を林道へ滑り込ませ、馬蹄音を抑えるように手綱を絞る。木々の隙間から灯火が瞬いた。山腹をくり抜いて造られた前線補給所――“アストラ第七洞営”だ。

 ここは十年前、魔王戦役時に彼女がたびたび出入りした隠密拠点でもある。当時の仲間は各地へ散ったが、補給所を束ねるのは変わらずあの人――

 耳に届く低い口笛。
 アイリーンはマントを翻し、岩壁の影へ降り立った。暗がりで待っていた男が兜を外し、灰銀の短髪をくしゃりと掻く。

「やれやれ。白銀の姫が直々に来るとは、月に兎が降るよりびっくりだ」
 低くしわがれた声。その主、ガウェイン・ザカリアス。かつて王国第一騎士団を率いた猛将であり、今は補給路を裏から支える“影の大隊長”だ。銀縁の眼帯が夜光を弾き、片目がなお鋭さを失わない。

「お久しぶりです、ガウェイン隊長」
 アイリーンは兜に見立てた革帽を取る。銀髪が月光に瞬き、ガウェインは片眉を上げた。

「その呼び方はやめろと十年言ったろうに。――で? 今日はただの懐古談か、それとも」

「峠が危ないわ。“血濡れのベルゼ”が動く。夫の本隊は罠に気づいていない」
 囁きは風より低く、それでいて戦鼓のように強い。
 ガウェインは短く息を呑んだ。

「ベルゼだと……魔王直轄のあの狂犬が、囮を捨てて表へ? 情報筋は確かか」
「確かよ。魔族刻印の封蝋と、眠り砂を積んだ補給車両。全部、王都を出る前に抑えたわ。裏で操るのはアクノ公爵。王命を偽造して私を屋敷から排除し、夫を“名誉の戦死”に追い込む筋書き」

 ガウェインは渋面をつくり、岩壁を拳で叩いた。
「相変わらず王都貴族の陰謀は嗅ぎたくもねえ匂いだ。だがお前さん一人でベルゼを抑えるのは骨が折れる」
「だから来たの。あなたの“竜牙隊”に力を借りたい」
 アイリーンは短杖を引き抜き、紋章を露わにした。七芒星の中央に凍る聖獣――かつて勇者一党だけが帯びた証。「白銀の剣姫」の真標。

 眼帯の奥でガウェインの片眼が燃える。
「……あの頃の俺たちは“国の狗”じゃなく“人の盾”だった。いいだろう。峠前線に先回りし、補給隘路に伏兵を置く。お前は本隊へ潜り込み、レイフォード公爵を動かせ」

 アイリーンの唇が淡く弧を描く。
「感謝を」
「感謝など要らん。――ただ、無理はするな」
 巨大な手が彼女の肩をぽんと叩く。その重みは友情の鎧のように温かい。

     ◆  ◆  ◆

 洞営深部。火槌を打つ音と乾いた号令が交差する。竜牙隊の兵たちは影の補給を担う熟練揃いだ。アイリーンが姿を現すと、はっと直立した若兵が声を漏らす。

「あ、あの方が噂の……!」
「静かに。今は“白銀”の名を伏せる時だ」

 ガウェインの一喝に空気が引き締まる。
 アイリーンは食料木箱の間を縫うように歩き、鉄製の長箱を見つけた。蓋を開ける。中には深藍の鏡鱗甲冑――十年前、彼女が魔王の心臓を貫いた時の装備が眠っていた。刃を弾き、炎を透す希少金属“ミスリオル”製。
 指で触れると鎧は小さく歌い、主を懐かしむようにブルーグレーの光を散らす。

「覚えていてくれたのね」
「縁起物は捨てられなくてな」
 ガウェインははにかむ。獅子が仔猫に頭を撫でられたような不器用な照れ笑い。

 闇を裂く遠雷が轟いた。峠方面。
 アイリーンは鎧を抱え、決然と振り向く。

「時が来たわ。竜牙隊を動かして」
「応っ!」
 号令が洞営にこだまし、兵たちが一斉に立ち上がる。箱に蓋が戻され、荷駄に括りつけられた。
 アイリーンは愛馬セレーネの鞍に鎧をくくり、鞭打つように舌を鳴らす。馬の瞳が星光を映し、力強く嘶いた。

 見送りに立つガウェインが片手を挙げる。
「十年前と同じ合図でいいか、白銀!」
「もちろん。月が雲を裂く時――蒼光三度」
「了解! 必ず峠を死地にさせてやる!」

 アイリーンは頷き、セレーネの背に軽やかに跳び乗った。
 洞窟を抜け出た瞬間、山風が銀髪を大きく逸らす。
 夜空の月がちょうど雲間から姿を覗かせ、剣姫の笑みを照らした。

 ――懐かしい絆はまだ折れていない。
 その確信が胸を満たし、少女の頃のように心が澄む。
 そして次の瞬間、彼女は戦乙女としての自分へ鋼と化した。

 丘陵を駆け降りる足音が雪面に火花を刻む。
 峠まで残り三リーグ。
 魔王軍の牙と人の奸計が交差する前に、白銀の刃は再び歴史に灼光を刻むだろう。

第4章-2 夫の誤解(約2,300字)

 峠の臨時本営は黄昏とともに沈黙した。
 裂けた雲のあいだから覗く夕陽が、剥き出しの岩肌を血のように染め上げる。
 レイフォード公爵フェルディナンドは帷幕の外で甲冑を解き、薄い湯煙に紛れるように肩を回した。昼の一斉突撃――敵の牙城を退けたとはいえ、兵の損耗は重い。周囲では衛生兵が黙々と止血や縫合に当たり、重い呻き声が風に流れていく。

 その凄惨な光景を前にしてなお、公爵の胸には燠火のような奇妙な高揚が燻っていた。
 昼の激戦で、彼らを救った銀閃。あの“女勇者”の姿が網膜に焼き付いて離れないのだ。

 ――銀の髪が翻り、剣に纏った蒼雷が魔物の群れを一刀両断。
 ――まるで天上の星が落ち、地を灼き払うような威容。
 彼女が駆け抜けた後には血の臭いすら残らず、ただ冷たい風だけが澄んでいた。

「公爵閣下」

 副官トラヴィスがそっと声を掛けた。目の下の隈が深く、疲労を隠せない。
 「負傷者の整理が終わりました。死傷総計、今朝の報告より一割減です」
 「……うむ。女勇者のおかげだな」
 「はい。あの方がいなければ、我らは峠の麓で壊走していたでしょう」

 公爵は頷きつつテント裏の高台へ歩き、夕焼けに浸る峡谷を見下ろした。
 胸に去来するのは感謝、畏敬、そして――嫉妬にも似た感情だ。
 己の軍を救った英雄に抱くべきは純粋な敬意のはず。だが心の底で何かがざらつく。
 (もし、妻があのような力を持っていたなら……)
 唐突に浮かんだ想像を、彼は苦い笑みで打ち消した。

 「公爵、あの方にお礼の使いを出しましょうか?」
 トラヴィスの提案に、公爵は逡巡の末、首を横に振った。
 「名乗りを拒む者に過度な探索は無礼だ。それに……いつ現れるかわからぬ。礼は次に会った時で構わん」

 内心では“ぜひ対面したい”という思いが募る。しかしあれほどの戦功を示す人物に比肩し得るものを、平凡な妻は持たない――そう悟ると同時に、どこかで安堵している自分がいた。妻の無力を嘆いてきたはずなのに、強すぎる女は手に余ると恐れている。そんな矛盾が胃を突き上げる。

 「……閣下?」

 副官の呼びかけに我に返り、公爵は声を潜めた。
 「おまえは、あの女勇者の顔をはっきり見たか?」
 「一瞬だけですが。蒼い瞳でした。吸い込まれそうなほどに……美しかった」
 「……そうか」

 目の前に、紅茶を淹れるたびに手元を震わせる妻のぼんやり顔が浮かぶ。
 公爵は拳を固めた。“謎の英雄”と“無能な妻”――両極端の女性像が頭の中でせめぎ合い、やがて奇妙な妄念を生む。もし自分の伴侶が英雄であったなら、家も領民も、もっと輝いていたのではないか、と。

 そのとき遠方で狼煙が上がり、警鐘が連打された。
 斥候の合図――敵の再襲来だ。
 公爵はすべての雑念を剣とともに鞘へ収め、兜を被り直した。

 「副官! 全隊に配置を!」

 脳裏に残った女勇者の残像だけが、闇を裂く灯のように彼を奮い立たせた。

     ◆  ◆  ◆

 一方その頃。
 峠裏手の斜面を駆け下りる白い影があった。アイリーンだ。
 月影を焼くような剣勢で魔物の斥候を屠り、岩陰に身を滑り込ませる。遠方には夫の指揮幕営。その帳の中で彼が悩みを滲ませることなど知る由もない。
 彼女の耳に届くのは兵たちの苦悶と剣戟の金属音、そして自らの心臓の鼓動だけ。

(お館様……いまも私を“頼りない妻”と思っているでしょう。でもいいの)

 剣を杖に持ち替え、霧を裂く雷光をふた筋走らせる。敵の後衛が沈黙し、本陣へ迫る脅威が一つ減った。
 息を整えながら、彼女は遠い帷幕を見やり口の中でだけ呟く。

(あなたが前だけを見ること。そのために私は背を斬る。
 いつか、あなたが真実に辿りつく日まで)

 夜風が髪を揺らす。蒼い瞳に宿る光は、決して届かぬ場所へ投げた静かな祈りだった。

第4章-3 名もなき忠義

 雪煙をかき分けて峠に吹き込む夜風は、常よりも生暖かく感じられた。
 魔王軍が放つ〈瘴気〉が空気を濁し、雪の結晶を鈍い灰色へ変えているのだ。
 アイリーンは岩陰にしゃがみ込み、指先でその灰の粒をそっと弾いた。じゅっ、と焦げる音。微量の魔力が篭っている証拠だった。

 (……瘴気濃度が上がっている。ベルゼが近い)

 遠く、本営の方角を示す狼煙が再び上がる。
 しかし今夜は救援など望めない。竜牙隊は峠裏の補給道を封鎖するため分散し、公爵本軍も再襲に備え張り付いた。
 夫の背に届く矢を折るのは、今は自分ただ一人――そう言い聞かせ、銀の髪を結い直す。

 「……さて」

 短杖を拾い上げると、杖先の蒼石が月光に呼応して淡く脈動した。
 アイリーンはそっと瞳を閉じ、意識を戦場の地脈へ沈める。
 ――土中に潜む魔族歩兵三十七、樹上の猿狼八頭、後衛の呪術師が二。
 そして谷底を進軍中の重装騎兵。嗤うような血臭が風に混じる。

 (まず阻むべきは後衛。呪術師を残せば瘴気は濃くなる)

 口に出さず計算を終えると、身をひるがえし雪面を蹴った。
 滑るような斜行で魔族の警戒網を抜け、樹上の猿狼へ跳躍。
 瞬間、剣を振り抜く。凍気の刃が三体の首を刈り、残りの群れが悲鳴とともに散開した。
 地表に降りるより速く、アイリーンは杖を逆手に掲げ、三重の魔法陣を展開する。

 「──《雷牙穿》」

 閃光が夜空を引き裂き、呪術師の詠唱陣を直撃した。
 凄まじい爆風が巻き起こり、瘴気を帯びた霧が一息に浄化される。
 だが雷鳴が収まる間もなく、谷底から金属の咆哮が返った。重装騎兵が一直線に駆け上がって来る。

 アイリーンは剣を深く構え直した。
 ──だが次の瞬間、奇妙なことが起こる。重装兵たちがいきなり馬を止め、一斉に視線を別の方向へ向けたのだ。
 夜闇にかすかに揺らめく蒼光。峠裏の補給道から、巨弩の矢が雨のように降り注いで来た。
 竜牙隊が伏兵を完了させた合図――蒼光三度。
 ガウェインとの取り決めが、寸分違わず実行された証だった。

 (……頼もしいわ)

 アイリーンは胸の奥で礼を言い、剣先を返す。動揺した魔族兵を瞬時に切り崩し、谷底へ追い落とす。
 やがて瘴気がほとんど消えたと判断すると、剣を腰へ収め、再び本営を振り返った。

     ◆  ◆  ◆

 本営では、負傷兵を寝かせた衛生幕の中が慌ただしかった。
 レイフォード公爵は鎧を脱ぐ間もなく、次の配陣を決めるため地図の前に立っている。
 しかし兵が持ち込む最新戦況は、不思議とこちらに有利なものばかりだった。

「猿狼斥候部隊、全滅を確認!」
「敵呪術師の魔力反応、消失!」
「谷底からの騎兵は補給道で殲滅!」

 副官トラヴィスが驚愕を隠せない。
 「閣下、これは……いったい誰が」
 「……“彼女”だろう」
 そう呟きながらも、公爵の心は複雑だった。
 自軍が苦戦しているあいだ、妻は屋敷でぼんやりと紅茶を啜っているはず――その光景を打ち消すかのように、銀の英雄の姿が輝く。
 「くそ……戦場ではかくも役立たずな自分に苛立つのか」
 思わずつぶやき、拳を握り締める。その指先が白くなるほど力がこもっていた。

     ◆  ◆  ◆

 月が天頂を越える頃。
 アイリーンは峠の背後に取り付いた最後の猿狼を斬り伏せ、剣を収めた。
 鎧に跳ねた魔血を拭いながら、深い息をつく。
 これで夫の帷幕を急襲できる敵はいない。奴らが再編する前に、公爵軍は態勢を立て直せるはずだ。

 (……もう少しだけ近くで様子を)

 そう考え、本営の灯火を遠目に見守っていたとき。
 陣の外れで、ふいに人影が倒れ込むのを視界の端が捉えた。
 斥候兵。肩から流れる血が雪を黒く染めている。

 アイリーンは遮蔽物の陰に剣と杖を置き、“妻”の顔に戻るため髪と頬を魔法でぼんやり整えた。
 そのまま走り寄り、兵の背を支える。
 「大丈夫、しっかり」
 声色を限界まで柔らかく落とす。兵は虚ろな目で彼女を見た。

 「……ど、どちら様……?」
 「ただの旅の療術師ですわ。ほら、痛み止め」
 サッシュから小瓶を取り出し、複合鎮痛薬を飲ませる。
 兵の呼吸がやや整ったのを確認すると、彼女は軽く微笑んだ。

 「隊へ戻って。あなたの上官が待っているでしょう?」
 「は……はい……!」

 兵が歩き去る後ろ姿を見届けるまで、アイリーンは立ち尽くしていた。
 自分が戦場へ現れたことを悟らせぬよう、救護ですら影に徹する――それが名もなき忠義の条件だ。

     ◆  ◆  ◆

 深夜。
 本営の高台で、公爵は遠くの闇に向けて無意識に頭を垂れた。
 誰に、と問われれば答えに窮する。それでも礼を言わずにはいられない。
 その姿は、闇に潜むアイリーンの眼に映り、胸をじんと温めた。

 (お館様……あなたが“ありがとう”と呟いた声、ちゃんと届きましたわ)

 涙ではなく、静かな笑みがこぼれる。
 彼女は剣を背に回し、踵を返した。
 名を告げる必要などない。ただ守る。それこそが、自分にとって何より甘美な報酬だから。

 薄雲に月が隠れ、夜はさらに深くなる。
 星の瞬きの下、ぼんやりした公爵夫人の忠義は、今日も光より速く夫の背へ届いていた。

第4章-4 すれ違う想い

 峠を包んだ深夜の静寂は、何より雄弁だった。
 雪の反射光が消え、雲間に沈んだ月が闇の色を濃くする。残ったのは焚き火のかすかな煌めきと、折れた矢柄が時折ぱきりと弾ける音──それだけだ。

 帷幕の内側で、レイフォード公爵フェルディナンドは粗末な折り畳み椅子に腰掛けていた。鎧の継ぎ目には乾ききらぬ血がこびりつき、剣帯は幾度も締め直した跡で裂けそうになっている。
 提灯の灯は弱く、紙障子に投げた影はやつれた己を誇張していた。副官トラヴィスが昼の戦果を読み上げたが、公爵はほとんど耳に入っていない。
 ──いま、峠の外に立っているであろう銀の女勇者は、どんな面持ちで夜を切り抜けているのか。
 想像は夜気のように胸を冷やし、同時に熱した鉄のように心を焦がす。

 「……閣下、ご休息を。まだ仮眠を一刻しか取られておりません」
 「構わん。うたた寝などしていられる状況ではない」
 副官が下がると、帷幕は再び静けさに閉ざされた。
 公爵は顎に手を当て、視線を俯く。脳裏に浮かぶのは、屋敷で紅茶をこぼしながら慌ててハンカチで拭く妻アイリーンの姿。長年連れ添ってなお、彼女は剣どころか包丁の扱いすら覚束ない。
 ──いや、覚束ない“ふり”をしているのかもしれない。
 その刹那、昼間見た女勇者の蒼い瞳が重なった。あの深さ、あの情熱。何かをひたむきに守ろうとする者だけが持つ光。

 「……ばかな」
 否定の声が漏れる。それでも思考は勝手に巡る。
 もしあの女勇者がアイリーンと同一人物だったなら──。頭のどこかで囁く甘い妄想。しかし現実を思い返せば、屋敷での彼女に剣技も魔術も見たことはない。鼻緒を踏み外して転ぶ彼女の姿しか、記憶にないのだ。

 「嗚呼、私の妻があのような力を……」
 言いかけて、言葉を噛み殺した。
 “力”を望む心と、“変わらぬ平凡さ”を願う心。その矛盾が胸を刺し続ける。もし妻が強すぎる者だったなら、畏れと距離が生まれ、自分は彼女を守る側でなくなるのではないか──それもまた、武骨な男の小さな臆病だった。

     ◆  ◆  ◆

 そして同時刻。
 本営を見下ろす断崖の途中に、風と同化した影があった。
 アイリーンは岩肌に膝をつき、帷幕を照らす灯火を静かに見守っている。
 瘴気が払われた後も小競り合いは続き、彼女は何度も本営へ迫る敵影を斬り伏せた。それでも夫が無事だと確信できるまでは、近寄ることも正体を明かすことも出来ない。

 (お館様……あなたの背中はまだ一点の翳りもないわ)

 思わず微笑みが漏れた。
 だが次の瞬間、夫のテントから洩れた独白が耳に届く。風に乗った微かな声。
 ──私の妻があのような力を。
 アイリーンの胸が小さく震えた。夫の苦悩も羨望も、その全てが痛いほど伝わる。だが彼の中に芽生える“英雄に対する憧れ”は、まだ自分へ向いていない。
 遠い距離を埋めるには、真実を告げることが最も速い。しかし今その行為は、夫から“自分で戦う機会”を奪うかもしれない。彼は一人の武人として、峠の戦いを勝ち抜かねばならないのだ。

 (知っているの。あなたは表も裏も強くあってほしい)

 アイリーンは胸元のペンダントを握りしめる。
 それは夫が結婚祝いに贈った瑠璃石の首飾り。ぼんやり顔の彼女が落とさないよう丈夫な革紐を通した、質素なものだ。それでもアイリーンにとっては世界の宝冠より重い。

 (私はあなたを信じている。だからあなたも、いつかなにも疑わず私を信じて)

     ◆  ◆  ◆

 帷幕の中。
 公爵は立ち上がり、剣を抜いた。刃に映る己の目は躊躇と決意の狭間で揺れている。
 「私は剣で道を切り開く。それが、己の妻を守る唯一の証明だ」
 そう呟いた時、テント入口の布が捲れ、副官が飛び込んだ。

 「緊急報告! 南東尾根で敵重装部隊の動き。斥候によると“血濡れのベルゼ”が自ら指揮を──」
 「来たか……! 全軍、迎撃陣形へ移行。私が前に出る!」
 公爵は兜を深く被り、剣を掲げた。胸のざらつきは、戦場の熱量へ押し流す。
 ──英雄の背中を追う自分ではない。自分が英雄になるのだ、と。

     ◆  ◆  ◆

 崖上で見送るアイリーンの頬を、冷たい風が撫でた。
 茸雲のように立ちのぼる狼煙。遠雷のような鬨の声。
 彼女は瞳を閉じ、静かに剣に手を添える。

 (さあ、行ってらっしゃいませ。お館様。あなたが輝く舞台を、私が影から守ります)

 月が再び雲を割き、銀光が剣の峰を照らす。
 ぼんやり夫人の面影は欠片もなく、そこに立つのはただ一人の“護りの戦乙女”。
 夫の誤解はまだ解けない。けれど、すれ違いの軌道は必ず交差する。
 ──その瞬間を信じて、今はまだ名を告げず、ただ剣を研ぐ。

 峠の闇が、一段と深く沈んだ。

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