公爵夫人はいつもぼんやり ―こっそり内助の功で勇者やってます―

しおしお

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第5章

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第5章-1 救援の報せ

 濃紺の夜がわずかに薄まり、東の稜線が鈍い灰に染まったころ──
 峠の前線に、第一声のラッパが鳴り渡った。兵たちは半ば夢のなかで飛び起きる。夜襲の警戒かと剣を掴む者もいたが、角笛を吹く斥候は狼煙も上げず、高台の見張り台で両腕を振って叫んだ。

「南西街道に王家の旗! 救援軍だ――救援が来たぞ!」

 瞬間、野営地の空気が一変した。
 疲弊しきった歩哨たちの顔に光が戻り、負傷者を抱える衛生幕でも歓声が漏れる。薄暗い雪雲の下、王家の双頭鷲を染め抜く金糸の旗が、確かに街道を進んでいた。

 レイフォード公爵は帷幕を払い、外気を吸い込む。
 救援――その言葉が胸を打ち、こわばった肩がわずかに緩む。
 「ようやく、陛下が後詰めを寄こしてくださったか」
 副官トラヴィスは安堵と高揚を隠しきれず、頬の埃を乱暴に拭った。

 「総員整列、迎撃陣を礼装へ! 直ちに道を確保せよ!」
 号令が飛び、傷兵までもが松葉杖にすがりながら整列を手伝う。
 気温ほど冷え込んでいた士気は、久方ぶりに炎を得たようだった。

     ◆  ◆  ◆

 やがて雪煙をまとい、鉄輪の響きを轟かせながら、救援軍の先頭が峠口へ姿を現した。
 深紅に染めた外套、黄金のタッセルを揺らす近衛騎兵。
 そして中央で濃紫のマントをひるがえす指揮官──アクノ公爵カーティス・フォン・アクノである。

 鎧の鏡面仕上げが曙光を弾き、周囲を耀かす。
 彼は高く馬上に立ち、朗々と宣言した。

「レイフォード公爵殿! 国王陛下より正規の救援命を拝し、この峠を援護すべく馳せ参じました!」

 その声量は寒空を突き抜け、砦跡の残壁で反響する。
 公爵軍の兵たちはどよめき、誰からともなく歓呼が上がった。
 ──援軍の規模は千。弩兵と治療班を中心に編成された、まさしく疲弊した前線が欲してやまなかった戦力だ。

 レイフォード公爵は胸甲に手を当て、礼を返した。
 「アクノ公爵殿、これほどの兵を……かたじけない!」
 その言葉に偽りはない。敵の鋭い包囲が迫るいま、後方補給まで掌握するアクノ家の増援はまさに救いの水だ。
 しかし、ほんの一拍だけ、公爵の脳裏をよぎった。──なぜこれほど早く? なぜ王都の兵より先にアクノ公爵直率の部隊が?

 疑念を押し隠すかのように、雪を踏み鳴らし救援軍が陣へ入り始めた。
 弩兵は坑道上の胸壁に散開し、治療班は傷兵のテントへまっすぐ向かう。赤と金の帳面を携えた軍吏が、補給物資の目録を読み上げ、食糧と矢弾の箱が次々と降ろされる。
 兵たちは目を丸くした。焼きたての黒麦パンに保存蜜、温石で保温された煮込みスープ──数日まともな食餌にありつけなかった者たちにとって天恵に等しい。

 アクノは馬を下り、レイフォード公爵の元へ歩み寄った。
 「閣下の奮戦の報は王都へ届いております。陛下は深く憂慮なされ、私に“貴殿を必ず援けよ”と厳命を。……遅れた非礼、どうかお許しを」

 公爵は深く頭を垂れた。
 「いや、貴殿の忠節に感謝する。これで兵も息をつける」
 アクノは慈父のような笑みを浮かべ、そっと肩へ手を置く。
 「傷まれた背を預けられよ。我が軍が後方を固める間、閣下は堂々と前線を指揮されたし。峠の勝利は、貴殿の名誉となるであろう」

 その口調には温かい励ましが漂い、周囲の兵たちは胸を打たれた。
 だがレイフォード公爵だけは、肩に置かれた手の重みから、微かに氷のような冷たさを感じ取る。
 (……気のせいか? いや、この期に及んで敵意を疑うとは、私の心が濁っているのかもしれん)

 それでも救援が事実である以上、疑念を抱く理由はない。
 公爵は気持ちを振り切るように剣帯を締め直し、兵の前へ立った。
 「諸君! 援軍は到着した。ここからは反攻の時だ。日の出までに各隊の再編を終え、夜明けとともに峠南面を奪還する!」

 鬨の声が谷にこだました。
 アクノはその様子を見届けると、指揮幕へ引き返しながら、小さく舌先で唇を舐めた。
 ──あと一手。獅子の逃げ場を塞ぎきる最後の罠は、すでに仕込み済み。
 雪上に残る足跡はきれいに整えられ、誰もその奥底に潜む闇の笑みを知らない。

     ◆  ◆  ◆

 闇の稜線、崖上の岩場で一人の女が無言のまま遠望していた。
 アイリーンは救援軍の到着を確認しつつ、胸を締め付けられる思いでアクノの振る舞いを見ていた。
 (やっぱり来たのね。しかも“完璧な味方”の衣を纏って……)

 強すぎる恩義は鎖に変わる。公爵が抱いた一瞬の違和感は、厚い歓喜の雪に埋もれていった。
 アイリーンは剣の柄を握り、息を吐く。
 (それでも、お館様の信頼は私が守る。貴方が傷つく前に、真実を暴く)

 曙光がはるか東で炎の筋を走らせる。新たな戦の幕開けを告げるように。
 白銀の戦乙女は闇を背に踵を返し、密やかに次の手を打つべく峠の陰へ溶け込んだ。

 救援の喜びが、やがて最大の罠となるとは誰も知らないまま──物語は静かに転がり始めていた。

第5章-2 魔王来臨

 朝焼けは峠の稜線を朱に染め、凍りついた雪面が血色を帯びた。
 再編を終えたレイフォード軍は、南面奪還の号令とともに斜面へ展開し始める。霜の上を滑るように進む弩兵、その背後で騎士たちが槍を地に突き立てた。救援に来たアクノ軍は後衛の防塁を固め、補給荷車の列が谷底の細道へ続く。

 緊張と高揚が交錯するなか、最前列にいた斥候騎が突然、馬首を返した。
 「――前方、黒霧!」

 瞬間、雪面がざわめく。谷あいの峡路から骨笛の音色が這いあがり、そこへ応えるように空がどす黒い雲で閉ざされた。
 次の刹那、暗雲の裂け目から影が降りる。穂先を逆さに並べたような袖刃を生やす漆黒の巨躯――魔王直属四天将の一角、“血濡れのベルゼ”である。

 彼の叫び声は雷鳴に似て、雪を跳ね上げた。
 「人の獣よ、骨の髄まで噛み砕けッ!」
 号令と同時に黒鎧の魔兵が津波のように押し寄せる。混ざり入るのは獣人・鬼人・屍兵、さらに氷鎚を振るう巨鬼。天幕を張ったばかりの後衛までが、はるか頭上から降る乱矢で瞬く間に穿たれた。

 「数が……多すぎる!」
 副官トラヴィスが悲鳴をあげる。レイフォード公爵は敵の先鋒を討ち崩さんと号令を飛ばすが、黒霧を纏う騎兵の突撃が陣形を寸断し、折り畳みの盾壁はさながら紙細工のように切り裂かれた。

 救援を買って出たアクノ軍は、しかし一向に前へ出ようとしない。
 弩兵たちは城壁裏に張り付き、矢をつがえぬまま沈黙し、後衛の騎馬は蹄を雪に踏み固めたまま微動だにしない。
 混乱の只中で、レイフォード公爵ははじめて背中に冷たい針を感じた。

 (――なぜ、貴様らは動かぬ?)

 問いただす暇もなく、ベルゼの巨槌が振り下ろされる。地面がえぐれ、爆ぜた雪塊と骸骨が宙を舞う。
 「撤退だ! 谷道へ下がる!」
 公爵が咆哮し、残兵をまとめて後方へ退く。負傷者が雪に爪痕を残しながら引きずられ、とどまる者を抱き起こす暇もない。

 南西へ退く途上、レイフォードは道を塞ぐ巨大な戦旗に凍った。
 赤地に金糸の双頭鷲――王家旗の真下で、アクノ公爵が馬上からひらりとマントを広げている。
 その口端が妖鬼のようにゆがんだ。

 「貴殿はここで“名誉の戦死”を遂げる。妻殿は余生、我が館で慈しもう」

 その宣告が氷より鋭く胸を刺す。
 「アクノ……貴様ッ!」
 自軍と敵軍──二つの軍旗に挟まれた谷道で、レイフォード公爵軍は退路を失った。前へ進めば魔王の軍勢、後ろへ戻れば同胞を語る裏切りの矢。矛盾の闇が兵士たちの心を折り、刃を握る手が震える。

 ベルゼの雄叫びが雪原を揺らす。
 「人間同士で喰い合うか。面白い」
 漆黒の三叉槍が振り上がり、魔兵の突撃陣が雪煙を巻き上げた。
 ――もはや万策尽きた。
 レイフォード公爵は目を閉じた。亡骸と化す兵の列、妻の泣き顔。すべてが脳裏に過ぎる。しかし次の瞬間、吹き荒れる風が奇妙な切れ目を生んだ。

 「……?」

 前進する魔兵の群れが、まるで目に見えぬ壁に弾かれたように吹き飛ぶ。雪煙が裂け、暗雲の下へ差し込んだ一条の銀光。
 ベルゼの巨体が初めて後ずさった。

 遠雷のような女の声が谷にこだまする。
 「お館様には──指一本触れさせませんわぁあああッ!」

 銀髪が閃光をまとう。魔法陣と剣閃が同時に踊り、雪と瘴気を切り裂く旋光の乱舞。
 戦場に降り立ったのは、白銀の戦乙女──女勇者アイリーン。
 その瞳は怒りに燃え、蒼雷と剣気が合流しながらベルゼとアクノの軍勢を二分する。

 「馬鹿な……まだ生きていたか、白銀の剣姫!」
 ベルゼが絶叫し槍を突き出すが、剣姫は一歩で間合いを詰め、剣を打ち上げた。金属の悲鳴の果てに、巨槍の刃が砕け散る。
 アクノは顔面を蒼白に染め、馬を回して逃げ道を探す。しかし女勇者の剣が稲妻のように伸び、地面に魔法で走らせた凍結壁が退路を封じた。

 レイフォード公爵はその背に言葉を失い、兵たちは喉奥で歓声の火を灯す。
 「まだ……終わらん!」
 ベルゼが膝をつきながら咆哮する。魔王軍とアクノ軍、二本の矢が合体しようとする刹那──銀の剣が稲妻を纏い、高く掲げられた。

 閃光が峠を覆い、夜明けは白く塗り直された。
 戦況は今、剣姫の怒りとともに新たな局面へ突入する。

第5章-3 裏切りの告白

 峠の空を引き裂いた銀の稲妻は、魔王軍と人間軍の境を焼き払った。
 雪煙が静かに落ち着くと、アクノ公爵の軍旗は折れ曲がり、金糸の双頭鷲は地面に伏していた。

 「アクノ公爵──もう観念なさい!」

 女勇者アイリーンが剣先を向ける。彼女を照らす冬陽は、鈍色の谷にたった一人の光柱を立てたかのようだ。
 ベルゼは砕けた三叉槍を握りしめながら後退し、重装魔兵たちは主の動揺を映して足を止めた。峠全体を包んでいた瘴気が、アイリーンの雷光に浄化されつつある。

 アクノは泥の雪を蹴り、剣姫と公爵の間に割って入った。
 「レイフォード公爵殿! 騙されてはならぬ。この女こそ魔王の手先――貴殿の軍を混乱させる妖術師だ!」

 レイフォード公爵は深く呼吸し、一歩踏み出す。
 「ならば証を示せ。なぜ貴殿は退路を塞いだ。なぜ弩兵は矢を番えなかった。なぜ重装兵は動かず我が兵だけが前に出た?」

 怒声は岩壁に木霊し、アクノの顔を白くさせた。それでもなお貴族の威を捨てず、馬上から書状の束を投げ落とす。
 「王命だ! 陛下の御名で認められた文だ!」

 アイリーンは素早く剣を納めると、片手で書状を拾い上げた。
 指先に光る小さな魔封符。彼女が剣気を沿わせて封蝋を切ると、赤い蝋が黒く焦げ、内側に隠されていた影文字が空気へ浮かんだ。

> 《魔王ベルゼとアクノ公爵、互いの利益を守護する》
《レイフォード軍壊滅の暁、北辺鉱脈を魔王側へ譲渡》
《アクノ家は王位簒奪の後援を受ける》



 硫黄の匂いとともに浮かび上がった契約文字に、兵士たちが呻き声を漏らす。
 アクノは顔を真っ赤にし、痙攣した唇からしわがれ声を絞り出した。

 「偽造だ! この女の妖術だ! 我が副坂印が……」

 「ならば魔力刻印を確かめればよい」
 アイリーンは静かに書状を返し、公爵軍の魔導士を呼んだ。
 検印術士が震える手で杖を振り、〈真贋視〉の魔法陣を展開する。紙片上に竜の紋様とアクノ家紋、そして魔王軍の契印が三方向から浮かび上がり、完全な三重共鳴を示した。

 「……まぎれもなく真文書……っ!」

 その宣言は雪崩のようにアクノ軍の隊列を飲み込む。矢筒を抱えた弩兵が顔を上げ、後方の騎兵が互いを見交わす。
 「俺たち、裏切りに加担していたのか……?」
 「王命と聞かされて従っただけだ!」
 混乱が騒めきとなり、整然としていた隊列が崩れていく。

 アクノは馬上で鋭く叫んだ。
 「黙れ! 従え! 上官命令だ!」
 しかし馬が嘶き、騎士が手綱を引く。動揺は止まらず、いくつかの部隊が半歩ずつ後退した。
 追い詰められたアクノの目が血走る。滑らかな貴族面が剥げ、言葉の刃を振りかざす。

 「良いだろう。ならば力ずくで従わせてやる!」

 瞬間、アクノのマントが裂け、背に隠していた魔符石が起動した。漆黒の魔力が奔流となり、騎士の鎧を包む。
 「魔王軍契約陣……ッ!」
 アイリーンが走り出る。剣を抜きざま、紋様を描く魔力の鎖を切り払うが、アクノは魔装鎧へ全身を飲まれ、目を赤く輝かせた。

 「白銀の剣姫よ、貴様だけは私の手で屠る!」
 槍ほど長い闇の剣が生成され、アイリーンへ振り下ろされた。轟く衝撃波を受け止め、アイリーンの魔装甲冑がきしむ。
 しかし剣姫は刃を滑らせるように力を逃がし、右手の短杖に光の魔法陣を重ねた。

 「《星閃・斬光の五》!」

 蒼白い斬撃が五条、流星を逆再生したように闇剣へ突き刺さる。雷撃と氷塊を帯びた連撃が闇鎧を割り、アクノの腹部へ亀裂が走った。
 「ぐっ……!」
 膝をついたアクノをかばうように、ベルゼが大槌を振り上げる。

 「小娘が……ッ!」

 だがその瞬間、谷の背後で巨弩が一斉射。ガウェイン率いる竜牙隊が補給路封鎖を終え、ベルゼの背中へ雨のように鋼矢を降らせた。
 魔王軍が悲鳴を上げ、隊列を乱す。ベルゼは三本の矢をもぎ取りながら振り返るが、後方から白銀の騎兵隊──竜牙の先鋒が雪煙を上げて突撃してくる。

 完全な挟撃。
 アイリーンは剣を構え、アクノの胸元に切っ先を突きつけた。

 「選びなさい、公爵。民を盾に逃げるか、罪を帯びてここで果てるか」

 アクノは荒い息を吐き、剣先に触れた。熱い血が滴る。
 「終わり……ではない……! 私と魔王が倒れても、王国の貴族どもは貴様を恐れ、“化け物”と叫ぶだろう!」
 「恐れに名を借りた裏切りは、光で照らせば消えてゆきます」
 アイリーンが囁く。その声は静かながら、峠の風より凛としていた。

 「私は魔物ではありません。誰かの背を守る――ただ、それだけの者です」

 その言葉に、レイフォード公爵は目を見開いた。
 戦塵越しでも見える蒼い瞳。あの慈愛を湛えた光。
 彼の胸を締めつけた矛盾の棘が、音もなく抜け落ちる感覚があった。

 「……背を、守る……?」

 呟いた公爵を、誰も気に留めぬ。戦場が新たな号令を欲しがっていた。
 ベルゼは最期の咆哮を上げ、竜牙隊とレイフォード軍の挟撃へ突進。
 さながら巨大な黒い彗星が、夜明けの空へ消える花火のように、峠の中心で爆ぜた。

 凄絶な光と衝撃が収まるころ、アクノ公爵は膝を折り、契約魔符が砕け散った。
 アイリーンは剣を納め、雪面へ落ちた王家旗を拾い上げる。
 「お館様。……兵を立て直してください。勝利は、ここからですわ」

 返された旗を受け取りながら、レイフォード公爵は深く頷いた。
 胸の奥で、まだ名を知らぬ銀の戦乙女への思いが形を変えていく。羨望ではない。敬意でもない。もっと身近な、温かいもの──しかし、その正体に気づくには、もう少し時間がかかった。

第5章-4 絶望の中で

 血濡れのベルゼが膝を折った瞬間――
 誰もが勝利を確信しかけた。しかし次の心拍で、峠全体を覆い尽くすほどの暗雲が渦を巻き、裂け目から墨のような魔素が噴き上がる。ベルゼの胸に食い込んでいた鋼矢が一斉に焼失し、巨体が赤黒い瘴気を吸い込むたび、裂けた肉がみるみる再生していった。

「まだ……終わらんッ!」

 魔王直属将の咆哮が谷を震わせる。
 折れた三叉槍がみずからの血肉を喰って再構成し、鈍色の刃へ変じた。刹那、地面でうめいていたアクノ公爵が狂気の笑みを浮かべ、その流血を魔符へ垂らす。

「ベルゼ! 契約を上書きだ……貴様と我が命を結び、王国ごと焼け落ちろッ!」

 契約式の起動――血と瘴気が重なった歪んだ魔法陣が、雪原いっぱいに黒い稲妻を走らせた。ベルゼとアクノの影が絡み合い、二つの身体が引き寄せられる。
 眩暈を覚える妖気が空を塞ぎ、兵たちの視界を奪った。

 「くっ……皆、頭を伏せろ!」
 レイフォード公爵が叫ぶが、音が霞む。空気が重金属の匂いを帯び、肺を焼くように熱い。ほどなく視界が開けたとき、そこに立っていたのは“単なる魔族”ではなかった。

 ベルゼとアクノ公爵が肉と甲冑を共有し、四腕の巨人へと変異している。顔半分はベルゼの仮面、もう半分はアクノの蒼白い人相。その胸骨に埋め込まれた契約核が、心臓の鼓動と同調して脈打っていた。

 「これが“混淆(コンフルエンス)”……!」
 副官トラヴィスが声を失う。混淆とは、人と魔族が生きたまま強制融合する禁忌。狂気と魔力が渦を巻き、周囲にいるだけで正気を削り取る。

 巨人の四腕が大槌と闇剣を同時に振るい、地形が抉れる。後衛の防塁が瓦解し、雪と石礫が人馬を呑んだ。逃げ遅れた弩兵の悲鳴が重なる。
 隊列が押し潰される中、アイリーンは最前線で剣を交差させて防御陣を張った。蒼雷の稲妻が斬撃を受け流し、氷壁が破砕を防いでもなお、衝撃は内臓を揺らす。

 「お館様、退いてください!」
 叫ぶが、公爵は首を振る。
 「いや、我が兵を置き去りにはせぬ!」
 それでも巨人の一撃で、レイフォード隊の前列は三度目の陣形崩壊。阿鼻叫喚と白刃が交錯し、兵の士気はついに折れかけた。

 ――そのとき、空気を断ち切るように高らかな角笛が鳴る。
 崖の上、竜牙隊を率いるガウェインが旗を掲げた。だが彼らの矢は尽き、突撃をかける残兵も百に満たない。谷底へ降りる迂回路は巨人の影響で崩壊。援軍は届かない。

 「ここまでなのか……」
 兵の誰かが呟いた。その絶望は凍った大地より冷たく、剣を握る手から熱を奪う。雪を蹴る音も、鬨の声も途切れ、ただ巨人の心臓の鼓動と共鳴する脈動だけが響いている。

 アイリーンは胸郭が潰れそうな圧迫感を噛み殺し、剣先をわずかに下げる。
 (魔力が急速に流出している……この規模の混淆を断ち切るには、あの契約核を破壊するしかない)

 しかし巨人の胸は二層の装甲で守られ、その表層を覆う瘴気は通常魔法を弾く。まともに近づけば四腕の剣戟に切り裂かれるだろう。
 背後で瓦解する防塁に、兵士の断末魔がこだます。焦りが微細な震えとなってアイリーンの指を厳しく締め上げた。

 「白銀の剣姫よ、終わりにしようか!」

 巨人の声はベルゼとアクノの声帯が重なり、怪鳥の悲鳴にも似た。
 重槌を頭上で回転させ、縦薙ぎに振り下ろす。大地が裂け、雪塊が跳ね、レイフォード軍の前衛が再び瓦礫の下敷きになる。しかし――
 粉塵が晴れると、前衛を守る氷晶の壁が残っていた。その中央で、アイリーンが肩で息をしながら踏みとどまっている。腕甲は割れ、唇の端に赤い痛みが滲む。

 「まだ……お館様に……指一本、触れさせません……!」

 かすれた宣言は、レイフォード公爵の胸を焼いた。
 剣姫の背中が、自分を守る盾となって砕けてゆく。その姿が、屋敷で毎朝「行ってらっしゃいませ」と微笑んでいた妻の顔と重なる。
 ありえぬはずの像が重なり、胸に刺さる。もし、もし本当に──。

 「兵を下げろ!」
 公爵はついに叫んだ。
 「残存部隊は竜牙隊と合流、負傷者を運び出せ! ここは私が……い、いや――」

 「わたくしが片づけます」
 アイリーンが振り返る。その瞳に宿る光は、もう眠たげな“ぼんやり”ではない。
 「ここから先は、勇者の領分ですわ」

 彼女の声が谷に染み渡る。折れかけた兵の心に火が灯る。
 しかし同時に、アイリーンは自覚していた。現在の魔力残量では、常法では契約核を砕けない。
 (ならば……使うしかない。あの禁忌の一撃を)

 胸の奥、封魔刻印が熱を帯びる。《星喰い》が飲み込んだ最終封印を解けば、剣は“対魔王戦仕様”の極限出力を取り戻す代わりに、使用者の生命を蝕む。
 十分間。それが限界。十年前の魔王戦役で彼女が決めた、己の命と引き換えの制約だ。

 背後で公爵が言葉を失っていることに気づきつつ、アイリーンは薄く微笑む。
 (お館様が無事なら、私の命など)

 剣の鍔を握り込んだ瞬間、岩場の上で焚き火の火柱が上がった。――竜牙隊が昼灯弾を撃ち上げたのだ。
 まばゆい白光下でガウェインの声が轟く。

 「白銀っ! 十年前と同じ合図だ! 俺たちの矢が尽きるまで持ちこたえろ!」

 応えるように峠裏の木霊が反射し、崩れた補給荷車の底から弩砲がせり上がる。残弾すべてを込めた一斉射。巨人の側面を鉄矢が穿ち、轟音が怯えた兵の耳に力を戻した。

 (……まだ、道はある)
 アイリーンは剣を水平に構え、蒼雷を集中させる。
 「勇者、最終展開準備完了──星閃、零式《ルミナ・アーク》」

 剣身に封印光が走り、雪面を白く染め上げた。その光は希望か、あるいは命を焦がす炬火か。

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