私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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4 婚約者交換の提案

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4 婚約者交換の提案

 その日の夕刻、ランベール侯爵家の空気は、昼間よりさらに重くなっていた。

 ギルベルト・ド・ロシュフォールが帰ったあと、屋敷の使用人たちは皆、必要以上に静かに動いていた。銀器の触れ合う音も、廊下を行き交う足音も、どこか遠慮がちだ。誰もが察しているのだろう。侯爵家の長女の婚約が、ただならぬ形で揺らいでいることを。

 フィオレッタは自室でアルディシア公国の地図を広げていたが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。

 昼間、ギルベルトと向き合ったことで、むしろ気持ちは妙に澄んでいた。あの男に未練を抱く必要はないと、はっきり理解できたからだ。だが、理解と納得は別だった。

 奪われることへの悔しさ。

 軽く扱われたことへの怒り。

 家族に「お前なら耐えられる」と当然のように見なされていることへの、静かで深い失望。

 そうしたものが、胸の奥に沈殿している。

「お嬢様」

 エマが扉をノックして入ってくる。

「旦那様が、改めてお話があると……。大食堂ではなく、小応接間へとのことです」

 フィオレッタは地図から顔を上げた。

「お父様お一人?」

「いえ……奥様とカトリーヌ様も」

 やはり、と彼女は思った。

 今日のうちに決めるつもりなのだろう。昼間、ギルベルトが来たことで、もう外堀は埋まりつつある。父はおそらく、今夜のうちに侯爵家としての方針を固めたいのだ。

 フィオレッタは静かに立ち上がった。

「わかったわ。行きます」

 エマが彼女の髪を軽く整える。

「……お嬢様、どうかご無理は」

「無理をしないで済む家族なら、こんな呼ばれ方はしないでしょうね」

 少しだけ皮肉が混じったが、エマは何も言わなかった。ただ心配そうに目を伏せる。

 フィオレッタは自分でも驚くほど落ち着いていた。

 もう、何が来るのかおおよそ見えているからかもしれない。

 小応接間は、普段なら家族だけの相談に使う部屋だった。大応接間ほど格式ばってはいないが、それでも侯爵家らしい重みのある家具と調度が整っている。壁際には濃い木目の飾り棚、暖炉の上には祖先の肖像画、中央には四人掛けの丸テーブル。

 家族の話し合いにちょうどいい大きさだ。

 もっとも、今この部屋にあるのは家族の温もりではなく、決定事項を押しつけるための閉じた空気だった。

 父はすでに着席していた。義母はその斜め向かい、カトリーヌは少し父寄りに座っている。フィオレッタが入ると、三人の視線がいっせいに向いた。

「来たか」

 父が低く言う。

「座りなさい」

 フィオレッタは勧められた席に腰を下ろした。やはり、父の正面ではなく少し外れた位置だった。こういう小さなことが、ひどく癇に障る夜だった。

 しばしの沈黙ののち、父が口を開く。

「本日は、結論を出さねばならん」

 単刀直入だった。

「ロシュフォール家も、アルディシア公国側も、いつまでも曖昧な返答では済まぬ。侯爵家として、どうするかを決める」

 フィオレッタは父を見つめた。

「私に選ぶ余地はございますか」

 父の顔に苦い色が差す。

「そういう言い方をするな」

「では、どういう言い方をすればよろしいのでしょう。すでに皆様の中で答えが決まっているように見えます」

 義母が静かに息を吐いた。

「フィオレッタさん。あなた、少し刺々しすぎるわ」

「自分の婚約が他人の都合で入れ替えられようとしている時に、穏やかでいられる令嬢がそう多くいるとは思えませんわ」

 義母の眉がぴくりと動く。

 だが父が先に手を上げた。

「もうよい。感情の応酬をしたいのではない」

 では何をしたいのかしら。結論の宣告でしょうに。

 口には出さず、フィオレッタは黙った。

 父は重々しく言った。

「カトリーヌの婚約については、本人の不安が大きすぎる。アルディシア公国への嫁入りは、本人にとって過酷だ」

 フィオレッタは一瞬だけ目を閉じた。

 まずそこから始まるのね。

 義妹の不安。

 義妹の恐れ。

 義妹の負担。

 この家の話し合いで、最初に置かれるのはいつもそこだ。

「一方で」

 父が続ける。

「ロシュフォール公子は、カトリーヌを望んでいる。これはもう、無視できぬ」

「本人が望めば、婚約は取り替えてよいと?」

 フィオレッタが静かに返すと、父の表情が険しくなる。

「だから、そう単純な話ではないと言っているだろう」

「では、どう複雑なのでしょう」

 義母が口を挟む。

「家と家との釣り合いの問題です。ロシュフォール家との縁を失うわけにはいきませんし、アルディシア公国との関係も壊したくない。その両方を保つためには、最も穏便な形を探るしかないのです」

「穏便」

 フィオレッタはその言葉を繰り返した。

「私の婚約を義妹へ差し出し、私はその代わりに異国へ送られる。ずいぶん都合のよい穏便さですこと」

「お姉様……」

 カトリーヌが、今にも泣きそうな顔で口を開く。

「私は、お姉様を追い出したいわけではないのです。ただ……本当に怖くて……」

「怖いから、私が行けばいい?」

「お姉様ならきっと、うまくやっていけますわ」

 フィオレッタは、義妹の顔をじっと見た。

 薄い色の瞳が潤み、頬は青白く、唇もわずかに震えている。守ってやりたくなるような表情だ。だがフィオレッタにはもう、それが善良さの証には見えなかった。

 怖いのだろう。たぶん本当に。

 だがその恐怖は、他人の人生を踏み台にしてよい免罪符ではない。

「カトリーヌ」

 フィオレッタは静かに言った。

「ひとつだけ、はっきりさせたいわ」

 義妹が怯えたように肩を縮める。

「あなたは、アルディシア公国へ嫁ぐのが嫌なのね」

「……はい」

「だから、私と婚約者を交換したい」

「そ、それは……」

「違うの?」

 カトリーヌは父と義母をちらりと見た。それだけで十分だった。自分一人では何も言い切れない。いつも誰かの庇護の中でしか願いを口にできない。

「私は……」

 義妹はか細い声で言った。

「ギルベルト様のおそばなら、安心できると思ったのです」

「そう」

「お姉様だって、フェリクス様のようなお方のほうがお似合いですわ。立派で、冷静で、お姉様みたいな方ならきっと……」

「似合うかどうかの話ではないでしょう」

 フィオレッタは遮った。

「あなたは自分が嫌だから、私へ押しつけたいのよ」

 カトリーヌの目にまた涙が浮かぶ。

「そんな言い方……」

「では、どう言えばいいの?」

「お姉様は、どうしてそんなに……」

 義母がすぐに娘の背を撫でる。

「もういいのよ、カトリーヌ。無理に答えなくてよいわ」

 その光景に、フィオレッタはかえって冷静になった。

 結局こうなるのだ。自分が問いを投げれば、義妹は泣く。義母が庇う。父は面倒そうに沈黙する。そして話は「傷ついた妹をこれ以上追い詰めるな」という方向へ転がっていく。

 いつも同じ。

 ずっと同じ。

「お父様」

 フィオレッタは父に向き直った。

「つまり、侯爵家としては婚約者交換をお考えなのですね」

 父はしばらく黙っていたが、やがて重くうなずいた。

「……現実的には、それが最善だ」

 はっきり言われると、不思議と胸は静かだった。

 やはりそうだったのだと、どこかで納得している自分がいた。

「最善」

 フィオレッタはその言葉を噛みしめた。

「誰にとっての、ですか」

「家にとってだ」

「私ではなく」

「お前も侯爵家の一員だ」

 そう返されて、フィオレッタは少し笑った。

 自嘲に近い笑みだった。

「便利ですのね。“家”という言葉は」

「フィオレッタ!」

「だってそうでしょう? 私個人の意思は問わない。けれど従わないなら、“家の一員としての務め”を果たさぬことになる。ずいぶん使い勝手のよい言葉ですこと」

 父は眉間を押さえた。

「お前は、なぜそう言葉を尖らせる」

「尖らせているのではありません。ようやく正直に申し上げているだけです」

 フィオレッタは背筋を伸ばしたまま言った。

「これまで私は、長女として、侯爵家の娘として、ずっと“耐える側”でした。母を亡くした時も、婚約が決まった時も、ギルベルト様が冷たくても、家のためだと飲み込んできました。でも今回は、その果てに婚約者まで差し出せと仰るのですね」

 義母が、わずかに顔をしかめる。

「差し出すだなんて、大げさよ。あなたにはあなたで、より良い縁談があるではありませんか。フェリクス・アルディシア公爵など、身分も実力も申し分ないお方でしょう」

「ええ。立派なお方だと伺っています」

 フィオレッタは認めた。

「ですがそれは、“余り物ではない交換先があるから我慢しなさい”という話でしかありません」

 義母の唇が引き結ばれる。

 カトリーヌはもう、泣き顔のままほとんど口を挟まない。いや、挟む必要がないのだろう。自分はただ怯えていればいい。あとは母と父がなんとかしてくれるのだから。

 父が低く言った。

「お前にも、不満はあるだろう」

「ございます」

「だが、感情だけでは済まぬ。ロシュフォール家もアルディシア公国も、相手は大きい。侯爵家一つの意地でどうにかなるものではない」

「ですから私が呑み込め、と」

「お前ならできる」

 その一言に、フィオレッタの目がほんのわずかに細くなった。

 またそれだ。

 できる。

 耐えられる。

 しっかりしている。

 だから押しつけてもよい。

「お父様」

 彼女は穏やかに言った。

「私は“できるから差し出してよいもの”ではありません」

 父が何か言おうとした、その時だった。

 カトリーヌが、ぽろぽろと涙をこぼしながら立ち上がった。

「私が悪いのですわ……!」

 かすれた悲鳴のような声だった。

「私が、弱いから……お姉様を困らせて……でも、本当に怖いのですもの……! あんな遠い国へ行って、知らない人たちの中で、もし愛されなかったらと思うと……」

 その言葉に、フィオレッタはふと引っかかった。

 愛されなかったら。

 そこなのね、と彼女は思った。

 カトリーヌは異国が怖いのではない。自分がちやほやされず、庇われず、甘やかされない場所へ行くのが怖いのだ。だから、甘く守ってくれそうな男のほうへ縋ろうとしている。

「お姉様は違うでしょう?」

 カトリーヌが泣きながら言う。

「お姉様は立派で、何でもおできになって、誰にだって認められる。だから私みたいな気持ちなんて、わからないのですわ……!」

 フィオレッタは、義妹を見た。

 その顔には哀れさと狡さが同居していた。

「ええ、わからないわ」

 静かに答える。

「少なくとも私は、自分が怖いからといって人の婚約を欲しがったことはないもの」

 カトリーヌが息を呑んだ。

 義母が鋭く立ち上がる。

「フィオレッタさん!」

「違いますか」

「あなた、妹がここまで苦しんでいるのに……!」

「苦しんでいるから何をしても許されるのですか?」

 義母の顔色が変わる。父も厳しい顔をした。

 だが、もう止まれなかった。

「私は何度も申し上げました。怖いことと、間違ったことは別です。カトリーヌは怖いのでしょう。けれど、だからといって私を悪者にし、ギルベルト様へ泣きつき、婚約者交換を望んでよい理由にはなりません」

「私は……!」

 カトリーヌが震える。

「私は、そこまで大それたことをしたつもりでは……」

「そうでしょうね」

 フィオレッタは言った。

「あなたはいつも、“自分はかわいそうなだけ”という顔をしているもの。でも、その顔のまま、人の立場も未来も奪えるのよ」

 ぱちん、と乾いた音がした。

 義母が、テーブルに手をついて立ち上がっていた。

「もう結構です!」

 その声は、珍しく感情を露わにしていた。

「あなたは昔からカトリーヌに厳しすぎるのです。あの子が可憐で守られる子だから、妬んでいるのではなくて?」

 その言葉に、部屋の空気が凍りつく。

 父でさえ、さすがに顔をしかめた。

 だがフィオレッタは驚かなかった。

 ああ、とうとうそこまで言うのね、と思っただけだった。

「妬んでいる」

 ゆっくり繰り返す。

「ええ」

 義母は息を荒くしながら言った。

「あなたは完璧であろうとしてきた。でも女として愛されるのは、必ずしもそういう子ではないのです。カトリーヌのように、やわらかく、か弱く、守ってあげたくなる子を男は選ぶものなのよ」

 なるほど、とフィオレッタは思った。

 それがこの人の本音だったのだ。

 正しい長女より、可憐な娘。

 耐える姉より、泣く妹。

 そして男に選ばれるのは後者。だから奪われても仕方がない、と。

 フィオレッタはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「でしたら、お義母様のお望み通りになさいませ」

 三人が一斉に彼女を見た。

 父の目には警戒が、義母の目には一瞬の勝利の色が、カトリーヌの目には涙と不安が入り混じっている。

 フィオレッタは背筋を崩さないまま続けた。

「婚約者交換を、侯爵家として望むのでしょう? ならばそのように進めればよろしいではありませんか」

「フィオレッタ」

 父が低く名を呼ぶ。

「……承諾するというのか」

「承諾も何も、最初から私に拒否権はありませんでしたでしょう」

「そんなことは」

「ございます」

 父の言葉をきっぱりと断ち切る。

「私が嫌だと言って、この話が止まりますか? カトリーヌが泣き、ロシュフォール家が望み、侯爵家が穏便な形を求めている。そこに私の意思を通す余地があるなら、最初からここまで進んでいませんわ」

 父は黙る。

 その沈黙こそが答えだった。

 フィオレッタはそのまま、まっすぐカトリーヌを見た。

 義妹は怯えたように目を揺らしている。

「ただし、勘違いしないでちょうだい」

 静かな声だった。

「私はあなたのために譲るのではありません。家が、そうせよと決めたから従うだけです」

「お姉様……」

「感謝もいりませんわ。あなたはただ、自分で望んだものを受け取りなさい。そしてその先に何があっても、それはあなたが選んだ結果です」

 カトリーヌの唇が震える。

 たぶん、こういう言葉を想像していなかったのだろう。泣いて謝れば、曖昧に許されると思っていたのかもしれない。

 義母が不満そうに言う。

「ずいぶん冷たいこと」

「冷たいのではなく、線引きです」

 フィオレッタは立ち上がった。

「この件について、私から申し上げることは以上です」

「待ちなさい」

 父が呼び止める。

「まだアルディシア公国側への正式な返答も、ロシュフォール家との細部も残っている」

「承知しております」

 フィオレッタは父を見た。

「ですが、お父様。どうかお忘れなく。これは侯爵家が選んだことです。私が望んだことではありません」

 父の顔に、苦い影が差す。

 フィオレッタはそれ以上何も言わず、一礼して部屋を出た。

 廊下に出た瞬間、張りつめていたものが少しだけ揺らいだ。

 奪われた。

 とうとう、はっきりと。

 まだ正式な手続きは残っているとしても、侯爵家の中では決まったのだ。自分の婚約者は義妹へ渡り、自分はその代わりとして異国へ嫁ぐ。

 代わり。

 その言葉が、ひどく胸に刺さった。

「お嬢様!」

 廊下の先で待っていたエマが駆け寄る。

「いかがでしたか」

 フィオレッタは少しだけ目を閉じ、それから小さく笑った。

「決まったわ」

 エマの顔が青ざめる。

「……そんな」

「ええ。侯爵家としては、婚約者交換が最善なのですって」

 エマが唇を噛む。

「ご無礼を承知で申し上げます。皆様、あまりに勝手でございます」

「本当にそうね」

 フィオレッタは窓辺まで歩き、夜の庭を見た。もう日が落ちて、薔薇の若い葉も暗がりに沈んでいる。

「でも、決まったのなら仕方がないわ」

「お嬢様……」

「ただ」

 彼女は夜の窓に映る自分の顔を見た。

 泣いていない。崩れてもいない。驚くほど静かな顔だった。

「私は、この家の都合でそうなるのだということを、忘れない」

 エマは何も言わなかった。ただ、そっと頭を下げる。

 フィオレッタはゆっくり息を吐いた。

 ギルベルトを失うことよりも、家にこうして扱われたことのほうが、今はよほど痛かった。

 けれどその痛みの奥で、別の感情も芽生えていた。

 もう、この家に期待してはいけない。

 もう、誰かが自分のために立ってくれると考えてはいけない。

 ならばせめて、自分だけは自分を見捨てないことだ。

「エマ」

「はい」

「アルディシア公国の資料、明日からさらに増やしてちょうだい。言葉だけでなく、社交界の派閥も、宮廷の慣習も、全部」

 エマは目を潤ませながらも、しっかりとうなずいた。

「かしこまりました」

 フィオレッタは夜空を見上げた。

 遠い異国。

 義妹が嫌がった場所。

 自分の意志とは無関係に差し出される未来。

 それでも――ただ捨てられるために行くのではない。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに固まった。

 奪われたままで終わるつもりはない。

 たとえすべての始まりが、他人の身勝手だったとしても。
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