私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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18 崖下の最期

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18 崖下の最期

 ギルベルト・ド・ロシュフォールが領地視察へ向かったのは、よく晴れた朝だったという。

 ロシュフォール公爵家の本領は王都からやや離れた丘陵地帯にあり、古くから葡萄と牧草地で富を築いてきた。王都の屋敷とは違い、本領では当主一族が定期的に顔を見せ、土地の管理や家臣の報告を受けるのが慣例だ。嫡男であるギルベルトも、婚約の頃からときおり視察には出ていたらしい。

 だから、その日も最初は何の変哲もない日程だった。

 何人かの護衛と家臣を連れ、朝のうちに館を出る。丘の北側にある放牧地の確認と、崖沿いの古い見張り道の視察。それだけの予定だったという。

 だが、昼を過ぎてもギルベルトは戻らなかった。

 護衛たちだけが青ざめた顔で戻ってきた時、ロシュフォール家の空気は一変した。

 彼らの報告は、最初はひどく曖昧だった。

 馬が驚いた。

 道が悪かった。

 一瞬、姿を見失った。

 崖沿いの視察路で、ギルベルトは先頭に出ていたらしい。誰よりも前で、自分が道を知っているとでも言わんばかりに。危険だという制止も聞かず、馬を進めたのだという。

 そして崖際の石が崩れた。

 馬が大きく体勢を乱し、ギルベルトは投げ出されるように斜面へ落ち、そのまま下の岩場へ転がっていった。

 すぐに追おうとしたが、そこは人がまともに降りられるような斜面ではなかった。崩れやすい土と鋭い岩が混じり、下へ回り込むには大きく迂回しなければならない。

 護衛たちは慌てて人を走らせた。

 だが、その時点でまだ誰も、本当に取り返しのつかないことになったとは思っていなかったのだろう。相手はロシュフォール公爵家の嫡男だ。多少の怪我はしても、すぐ見つかる。助かる。そう思いたかったに違いない。

 けれど、現実はそうならなかった。

 ギルベルトはすぐには見つからなかった。

 斜面の下は、思っていた以上に複雑な地形だったらしい。崩れた木々、草の茂み、入り組んだ岩棚。遠目には見通せても、人一人が転がり落ちたあとどこで止まったかは簡単にはわからない。

 最初の半日は、まだ家臣たちも必死だった。

 呼べば返事があるかもしれないと叫び続けた。下流へ向かったかもしれないと沢沿いを探した。血の跡、布の切れ端、馬具の破片、何でもいいから手がかりを探した。

 だが時間が過ぎるほど、捜索に混じる色が変わっていく。

 焦りから、恐れへ。

 恐れから、諦めの気配へ。

 そして三日目の朝になってようやく、崖の中腹よりさらに下、岩の裂け目のような場所で、ギルベルトは見つかった。

 すでに冷たくなっていた。

 第一報が王都へ届いた時、ロシュフォール公爵家は騒然となった。

 若き嫡男、事故死。

 しかも婚姻して間もない時期である。

 王都の貴族たちは一斉に顔色を変えた。突然の不幸に対する表向きの哀悼ももちろんあったが、それ以上に皆が思ったのは、公爵家の跡継ぎと相続の問題だった。

 ロシュフォール家ほどの大貴族で、嫡男が急死する意味は大きい。

 そしてその“公の問題”の裏で、一人の女の私的な地獄が別の形で深まっていった。

 カトリーヌである。

 ロシュフォール家から正式な訃報がランベール侯爵家へ届いたのは、午後の早い時間だった。

 父が書斎で封書を開き、数秒の沈黙ののち、重い声で義母を呼んだ。廊下にいた使用人たちがざわめき、やがてその空気は屋敷じゅうへ広がる。

 フィオレッタが呼ばれた時には、義母はすでに泣き崩れる寸前だった。

「ギルベルト様が……」

 義母は青ざめた顔で言葉を続けられない。

 父が代わりに告げる。

「領地視察中の事故死だ」

 その言葉は簡潔だった。

 簡潔すぎて、一瞬、意味が胸へ落ちるまでに時間がかかった。

 事故死。

 ギルベルトが。

 ついこの前まで社交界の真ん中で、自分こそが正しい選択をしたのだと宣言していた男が。

 フィオレッタは、驚きとともに、胸のどこかがひどく静かなことに気づいた。

 悲しみがないわけではない。長く婚約者だった相手だ。まったく無関心でいられるはずはない。だが同時に、激しく嘆くこともできなかった。

 あまりにも突然で、あまりにも皮肉だったからだ。

 人を支配する側にいるつもりだった男が、最後は誰の手も届かぬ崖の下で、一人きりで死んだ。

 父は厳しい顔のまま言った。

「遺体は本領で発見された。詳細はまだ詰められていないが、斜面で骨を折り、身動きも取れぬまま時間が経ったらしい」

 義母が口元を押さえる。

 レナールも顔色を失っていた。

 フィオレッタは、そこまで聞いてようやく、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 骨を折り、身動きも取れぬまま。

 つまり、即死ではなかったのだ。

「どれくらい……」

 自分でも意外なほど低い声で問いかけると、父はわずかに視線を伏せた。

「発見まで、三日近くかかった」

 三日。

 その数字が、部屋の空気をさらに重くした。

 崖下で、身動きも取れず、助けも来ず、どれだけ叫んでも届かず、ただ痛みと孤独の中にいる。

 フィオレッタは一瞬だけ目を閉じた。

 怖いと思った。

 そして同時に、あまりにも因果のようだとも思ってしまった。

 それが自分の中に生まれたことに、少しだけ嫌気も差した。人が死んだのだ。たとえ相手がどれほど傲慢な男でも、そこに因果応報のようなものを感じるのは冷酷かもしれない。

 けれど、どうしても思わずにはいられなかった。

 あの男は、最後まで自分の力と立場を信じていたのだろう。

 自分は落ちない。

 自分は助かる。

 自分には当然、誰かが手を差し伸べる。

 そう信じていたかもしれない男が、誰にも届かずに死んだ。

 訃報のあと、屋敷は急速に慌ただしくなった。

 義母は「カトリーヌを迎えに行かなくては」と半ば取り乱していたが、父はすぐにそれを制した。

「迎えには行けぬ」

「なぜですの!」

「まだロシュフォール家の若夫人だ。勝手に実家へ連れ戻すわけにはいかん」

 その言葉に義母は絶句した。

 娘の夫が死んだ。

 なのに、それでも娘はすぐには戻れない。

 この世界の婚姻は、それほど重い。

 義母の顔には、その現実への理解と拒絶が同時に浮かんでいた。

「では……あの子は」

「まずはあちらの判断を待つしかない」

 父は言った。

 冷たいが、それしかなかった。

 未亡人になった若い女が、即座に実家へ帰れるとは限らない。むしろ公爵家ほどの家格なら、喪の手続きも相続も内向きの整理も多く、花嫁一人の感情で動かせるものではない。

 ましてカトリーヌは、まだ子を成していない。

 つまり、ロシュフォール家にとって彼女は“嫡男の未亡人”ではあっても、“次代につながる母”ではない。

 その立場の弱さを思うと、フィオレッタは胸が重くなった。

 夕方近くになって、ようやくロシュフォール家から別の文が届いた。

 今度は簡潔な報告ではなく、形式ばった通知だ。

 嫡男ギルベルト・ド・ロシュフォール死去。
 遺体は本領にて安置。
 喪の儀礼につき、近親と縁戚のみ参列可。
 カトリーヌ夫人は心労により臥せっている。

 最後の一文を見た時、義母はもう耐えきれず泣いた。

「臥せっているって……あの子、一人で……」

「一人ではあるまい」

 父が低く言う。

「だが、実家の者はそばにおれぬ」

 その現実が、ひどく残酷だった。

 婚約を奪った妹。

 可憐で、欲しいものを泣いて手に入れた妹。

 その妹が今、夫の急死のあと、公爵家の中で一人きりで寝台に伏せている。

 そして、誰もすぐには助けに行けない。

 その夜、フィオレッタは眠れなかった。

 窓辺に立って夜の庭を見ていると、屋敷のあちこちに遅くまで灯りが点いているのが見える。父は書斎で何通も文を作らせているのだろう。義母は涙が止まらず、レナールもまたどこかで目を覚ましているかもしれない。

 フィオレッタは机へ戻り、そっと引き出しを開けた。

 そこには、カトリーヌから届いた過去の手紙が数通ある。

 幸せだと繰り返し、心配はいらないと整えられた手紙。

 そして、“鍵の音が嫌いになりました”と小さく書かれたあの手紙。

 フィオレッタはその一枚を取り出し、ゆっくり読み返した。

 鍵の音。

 ギルベルトはもう死んだ。

 ならば、鍵はどうなったのだろう。

 その瞬間、胸の奥にひどく嫌な予感が走る。

 まさか、と思う。

 だが、すぐにその“まさか”が現実味を帯びる。

 もし、あれが本当に自分たちの想像している通りのものなら。

 もし、鍵を持っていたのがギルベルト本人なら。

 死んだのは彼なのだ。

 そして遺体は三日後に見つかった。

 ならば――

「……まさか」

 声に出してから、フィオレッタは自分の指先が震えていることに気づいた。

 彼が閉じた檻は、彼が死んでもすぐには開かないのではないか。

 その考えはあまりにも醜悪で、口にすることさえ憚られた。

 けれど一度気づいてしまえば、もう頭から離れない。

 ギルベルトの最期は、彼自身の孤独な死で終わっていないのかもしれない。

 彼が残したものは、死後もなお妻を閉じ込め続ける檻かもしれないのだ。

 翌朝、フィオレッタはその考えを父へ告げた。

 最初、父は意味を理解できなかった。

「何を言っている」

「ギルベルト様が持っていた鍵です」

 その言葉で、父の顔色が変わる。

 レナールも傍で息を呑む。

「まさか……」

「私たちの想像通りのものであれば、です」

 フィオレッタの声は静かだった。

「でも、その可能性は高いと思います」

 父はしばらく絶句していたが、やがてすぐに執事を呼びつけた。

「ロシュフォール家へ確認を取れ。至急だ」

 その声音には、これまでとは別種の緊迫があった。

 夫が死んだだけではない。

 もし鍵が見つからなければ、カトリーヌは未亡人となったあともなお、檻の中にいることになる。

 その想像は、さすがの父にも耐えがたかったのだろう。

 昼過ぎに届いた返答は、簡潔だった。

 鍵の所在は、まだ確認できていない。

 その一文を見た時、義母はほとんど立っていられなかった。

 フィオレッタはその様子を見ながら、胸の奥に広がるものを言葉にできずにいた。

 義妹がかわいそうだ。

 それは本当だ。

 だが同時に、このあまりにも歪んだ地獄の始まりが、あの子自身の欲望から始まっていることもまた消えない。

 奪った婚約。

 欲しがった男。

 勝ち取ったと思っていた結婚。

 そのすべてが、今は檻へ変わっている。

 そして檻の鍵は、崖の下で死んだ男とともに行方を失った。

 夜、自室に戻ると、アルディシア公国からの便りが届いていた。

 フェリクスの筆跡はいつも通り整っている。

 ――こちらの迎えの準備は整いました。
 ――到着後すぐに大きな行事は入れません。
 ――まずは安心して眠れることを優先していただきたいと思っています。

 その最後の一文を読んだ瞬間、フィオレッタはゆっくりと目を閉じた。

 安心して眠れることを優先。

 あまりにも今のロシュフォール家と対照的で、胸が痛む。

 片方では、男は崖下で孤独に死んだ。
 片方では、その男が残した鍵のせいで、女は死後もなお檻から出られないかもしれない。
 そしてこちらには、最初に眠れることを考える男がいる。

 ギルベルトの最期は、彼一人で終わらなかった。

 その死は、残された者の地獄をさらに深くしたのだ。
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