私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした

しおしお

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22 明るみに出た拘束

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22 明るみに出た拘束

 ロシュフォール公爵がカトリーヌへ向ける視線の質が変わったことは、もう誰の目にも明らかだった。

 最初は、息子を失った父が、その未亡人を気にかけているだけのようにも見えた。

 そう見ようとすれば、見られた。

 だが人間は、見たくないものほど、最初はそうやって別の名前で呼ぶ。

 配慮。

 同情。

 家の秩序を保つための気遣い。

 けれど、それがただの気遣いでないことは、日を追うごとに露骨になっていった。

 公爵は用もないのにカトリーヌの部屋の前を通るようになった。

 体調はどうだと訊く。

 食事は取れているのかと訊く。

 眠れているのか、痛むところはないのかと訊く。

 その言葉だけを聞けば親身に思える。だが、実際に向けられる視線は、病人を労わるそれではなかった。

 もっと湿っていて、もっと値踏みするようで、そして何より、逃げ道を塞ぐような重さがあった。

 カトリーヌはその視線を浴びるたびに、背中へ冷たいものが這い上がるのを感じた。

 ギルベルトが生きていた時の支配は、暴力と監視だった。

 公爵のそれは違う。

 静かで、老獪で、正面から拒みにくい。

 しかも相手は家の当主だ。未亡人でしかない自分に、真正面から逆らう力などない。そういう前提の上で、じりじり距離を詰めてくる。

 ある晩、公爵はついにカトリーヌの部屋へ一人で入ってきた。

 女官はすでに下げられていた。夜の支度も最低限しか手伝われないようになって久しい。寝台の脇には灯りが一つ、机には飲みかけの薬湯、外では風が雨戸をかすかに鳴らしている。

「……公爵様」

 カトリーヌは立ち上がろうとしたが、公爵は手でそれを制した。

「よい。無理に立たずとも」

 その口調は穏やかだった。

 だからこそ余計に怖い。

 公爵は部屋の中を見回し、それから当然のように椅子へ腰を下ろした。自分の屋敷なのだからどこへ座ろうと構わぬ、という顔だった。

「少し痩せたな」

 カトリーヌは答えない。

 答えたくなかったというより、喉がうまく開かなかった。

「無理もない。夫を失ったばかりだ」

 公爵は続ける。

「だが、いつまでも悲しみに沈んでいるわけにはいかん。家は続いていく。人が死んでも、家はな」

 その言葉に、カトリーヌはゆっくり顔を上げた。

 来る。

 何かが来るとわかった。

「お前ももう少し、現実を見ねばならん」

「……現実」

「そうだ」

 公爵の目が、静かに彼女を舐めるように見た。

「ギルベルトは死んだ。だがロシュフォール家は残る。嫡男を失った今、この家をどう支えるかは大事なことだ」

 カトリーヌの指先が冷えていく。

「私は……女です」

 やっとのことでそう言うと、公爵は小さく笑った。

「だから何だ」

「家のことなど、私には……」

「できることはある」

 その言い方が、あまりにも自然で、あまりにも嫌だった。

 公爵は肘掛けに手を置いたまま、穏やかに言う。

「お前はまだ若い。身体も悪くない。子を成せぬわけではあるまい」

 カトリーヌの呼吸が止まる。

 あの日、扉越しに聞いた言葉と同じだった。

 幻ではなかったのだと、改めて思い知らされる。

「お、おやめください……」

 声はひどく小さかった。

 公爵は眉一つ動かさない。

「何を怯える」

「そんなこと……」

「そんなこと、ではない」

 その瞬間、声音だけが少し硬くなった。

「家のためだ」

 家のため。

 その言葉は、この国の貴族女を黙らせるには十分だった。

 カトリーヌも、かつてはその言葉を盾に姉の婚約を奪った。自分が怖いから。自分は他国へ行きたくないから。家のためという形へ整えれば、どんな身勝手も通ると、どこかで思っていた。

 だから今、その同じ言葉が自分へ刃のように向けられていることが、余計に恐ろしかった。

「私は……ギルベルト様の妻でした」

 震える声でそう言うと、公爵はゆっくりうなずいた。

「そうだ。だからこそだ」

 意味がわからないふりをしたかった。

 けれど、できなかった。

「その血を残すのが、お前の最後の役目になるかもしれん」

 最後の役目。

 その言葉で、カトリーヌの中で何かが切れた。

「嫌です!」

 叫んでいた。

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 公爵の目がわずかに細まる。

「嫌です……! そんなこと……、私は……!」

「声を落とせ」

「嫌です!」

 今さら遅いとわかっていた。

 この屋敷で大声を出せば、誰が聞くかわからない。聞かれたところで、誰が助けてくれるかもわからない。

 それでも、叫ばずにはいられなかった。

 公爵はゆっくり立ち上がった。

 怒鳴り返しはしない。ただその静けさが、かえって圧だった。

「……まだ、時間が必要らしいな」

 そう言って扉へ向かう。

 だが出ていく前に、一度だけ振り返った。

「だが忘れるな。お前はロシュフォール家の未亡人だ。好きに生きられる身ではない」

 扉が閉まる。

 その瞬間、カトリーヌは膝から崩れ落ちた。

 胃の奥がひっくり返るようで、喉は痛いほど締まっている。叫んだせいか、胸も焼けるようだった。けれどそれ以上に恐ろしかったのは、公爵があれを“まだ話し合えること”として扱っていたことだ。

 脅しではない。

 気の迷いでもない。

 本当にそのつもりなのだ。

 そして、自分が拒み続ければ、それを“聞き分けのない未亡人”として処理する準備もあるのだろう。

 翌日から、カトリーヌへの扱いはさらに変わった。

 いや、正確には“揺さぶり”が増えた。

 部屋の外で公爵と行き会う回数が不自然に増える。

 食事の時刻が微妙にずらされる。

 女官が「お体が冷えてはいけませんから」と言って寝衣の布地を勝手に変える。

 医師が脈を取る時間が長くなる。

 どれも一つひとつは、小さなことだ。

 だが全部合わせると、身体を家の管理下へ戻されていくようで、気が狂いそうだった。

 そしてついに、その“身体”そのものの問題が、別の形で表へ出ることになった。

 きっかけは、医師だった。

 鍵のない拘束具について、ロシュフォール家はようやく本格的に対応せざるを得なくなったのだ。ギルベルトの遺品をいくら探しても鍵は見つからず、鍛冶師を呼んで外すしかない、という話になったらしい。

 当然、それは秘密裏に行われるはずだった。

 だが完全な秘密など、そう長くは保たない。

 女官が一人、顔色を変えて部屋を出た。

 呼ばれた鍛冶職人が、通常では奥向きに入らぬ裏門から通された。

 医師が二人に増えた。

 そういう小さな綻びが積み重なれば、事情を知る者は知る。

 そしてその日、女官たちのあいだで、とうとう言葉になった。

「本当に、着けられていたのね」

 それは囁きだった。

 だが十分だった。

 拘束が、明るみに出たのだ。

 ロシュフォール家の内部ではもちろん、表向きには“治療の一環”だとか“特殊な医療器具”だとか、苦しい言い換えが試みられたらしい。けれどそんな言い訳で収まるほど、現場を見た者たちの顔色は平静ではいられない。

 若い未亡人が、死んだ夫の残した鍵のない拘束具に閉じ込められていた。

 その事実は、上品な言葉で覆っても、あまりにも醜悪だった。

 カトリーヌ自身は、その処置の最中、ほとんど気を失うようにしていた。

 羞恥も恐怖も限界を越えれば、かえって感覚が遠のくのだと、その時初めて知った。医師の冷たい声、女官たちの押し殺した息、金属に工具が当たる硬い音。それらが全部、遠くの出来事のように聞こえた。

 終わったあと、誰も彼女の目をまともに見なかった。

 それがいちばん辛かった。

 哀れまれているのでもない。

 責められているのでもない。

 ただ、“見てはいけないものを見た”という空気で避けられている。

 あの瞬間、カトリーヌは悟った。

 ギルベルトは死んだ。

 だが彼の支配は、こうして最後の最後まで自分を傷つけきったのだと。

 その知らせは、数日後にはランベール侯爵家にも届いた。

 もちろん正式な報告ではない。そんなことを公爵家がわざわざ伝えるはずがない。

 けれど女官筋、医師筋、鍛冶職人の口を経て、断片がつながれば十分だった。

 義母は最初、話を聞いた瞬間に椅子から立てなくなった。

「そんな……そんなこと……」

 声にならぬ声で繰り返すばかりだった。

 父でさえ顔色を変えた。

 レナールは拳を握りしめ、何も言えなかった。

 フィオレッタは、その場で静かに呼吸を整えた。

 やはりそうだったのだ。

 予感はしていた。鍵のない未亡人、という時点で想像はついていた。けれど実際に“外された”と知ると、ただ醜悪さだけが強く残る。

 義母が半ば泣きながら言う。

「もう無理ですわ……もう、あの子をあそこに置いては……」

 だが父はすぐにはうなずかなかった。

 それが彼の冷酷さでもあり、この世界の現実でもある。

「ここで実家が激しく動けば、逆にロシュフォール家は体面のために閉じる」

「でも!」

「わかっている」

 父の声も荒れていた。

「だが、いま必要なのは取り乱すことではない」

 そのやり取りを聞きながら、フィオレッタは静かに思う。

 遅い。

 全部が遅い。

 けれど遅いからといって、いま何もしないわけにもいかない。

 義妹はもう、ただの若い未亡人ですらない。公爵家の中で、ひどく都合の悪いものを体現する存在になってしまったのだ。

 死んだ嫡男の異常な支配。

 家の恥。

 そして、その恥を知る女。

 そんな者を、あの家がこのまま穏便に遇するはずがない。

 その夜、フィオレッタは一人で長く眠れなかった。

 窓の外は風が強く、木々がざわざわと音を立てている。机の上には、今日届いたアルディシア公国からの封書が置かれていた。

 開く。

 フェリクスの文字は、いつも通り整っていた。

 ――到着後の数日は、医師にも顔を見せてもらうつもりです。
 ――長旅のあとは、本人が大丈夫だと思っていても疲れが遅れて出ることがあります。
 ――無理を我慢だと思わせたくないので、先に整えておきます。

 フィオレッタは、その文面にしばらく視線を落としたまま動けなかった。

 無理を我慢だと思わせたくない。

 その一文が、今のロシュフォール家のすべてと正反対だったからだ。

 片方では、支配が死後も女の身体に傷を残した。
 片方では、まだ来てもいない婚約者が無理を無理と認識できるよう、先に道を整えている。

 同じ貴族の男で、同じ婚姻の先に立つ者なのに、こうも違う。

 フィオレッタは便箋をそっと閉じる。

 拘束は明るみに出た。

 だが、明るみに出たからといって、それだけで檻が壊れるわけではない。

 むしろここから先、義妹はさらに危うい立場へ追い込まれていくのかもしれなかった。
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