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23 逃亡
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23 逃亡
拘束が明るみに出てから、ロシュフォール公爵家の空気はさらに悪くなった。
表向きには何も変わらない。
屋敷の廊下は相変わらず磨き上げられ、女官たちは定められた時刻に頭を下げ、公爵は公の場では威厳ある当主として振る舞っている。若き嫡男の死を悼む空気も、まだ完全には薄れていない。
けれど、その内側では違った。
誰も口には出さない。だが、皆が知ってしまったのだ。
ギルベルト・ド・ロシュフォールは、死ぬまで妻を異常な形で支配していたこと。
その支配の痕跡が、死後になっても妻の身体に残されていたこと。
そして、その事実をいちばんよく知っているのが、いま北側の小さな部屋へ押し込められている若い未亡人だということを。
つまりカトリーヌは、哀れな女であると同時に、“家の恥を知る女”にもなってしまった。
それがどれほど危うい立場かを、カトリーヌ自身もようやく理解し始めていた。
女官たちの目が変わった。
以前は遠巻きに哀れみ、あるいは面倒な未亡人として扱っていた視線の中に、今はあからさまな避ける気配が混じっている。誰も意地悪な言葉を直接口にするわけではない。だが、部屋に入ってくる回数が減る。必要以上に話しかけない。衣服を整える手つきまで、どこか“触れたくない”ものを扱うようにぎこちない。
それがたまらなく屈辱だった。
しかも、そうした空気の一方で、公爵だけはなお静かに距離を詰めてくる。
露骨な言葉は減った。
さすがに、拘束の件が内部で広がった今、以前のように悠然と“家のためだ”と言い募るのは難しいのだろう。けれど、その代わりにもっと厄介なやり方へ変わった。
逃げ場を削るのだ。
「夫人、今日は南の物置の確認を」
「この帳面は一度目を通しておいてください」
「女官が足りませんので、そのくらいはご自身で」
最初は雑用だった。
未亡人として慎ましくあるべきだという名目のもとに、小さな仕事が次々と回される。もちろん、公爵家の未亡人なのだから、露骨に雑巾を持たされたり、下働きと同じ列に並ばされたりするわけではない。
だが、誰かが当然のように引き受けていた雑事を、じわじわと押しつけられる。
贅沢な衣装の整理。
使われなくなった応接間の布の確認。
香油や燭台の在庫の帳面。
喪中であることを理由に、華やかな客間から遠ざけられた代わりに、奥向きの裏側ばかり歩かされる。
そして気づけば、彼女の靴の裾はいつも少しだけ埃を含み、指先は以前より荒れていた。
花嫁として迎えられた時の、あの甘い夢の名残はもうどこにもなかった。
それでもカトリーヌは、まだ完全には壊れていなかった。
壊れずにいられたのは、たぶん一つだけ、まだ希望めいたものがあったからだ。
実家だ。
ランベール侯爵家が、自分を見捨てるはずがない。
少なくとも母は、何かあれば助けてくれる。
そう思いたかった。
だから彼女は、次の手紙を書いた。
今度はこれまでのような整いすぎた文ではなく、もう少しだけ、自分にしかわからない言葉を混ぜて。
母が前に返してきた手紙には、幼い頃に転んで膝を擦りむいた日のことが書かれていた。白い犬のぬいぐるみを抱いて泣いたこと。庭の噴水の縁に座って、なかなか泣き止まなかったこと。
それは確かに、自分に向けた手紙だった。
だからカトリーヌも、返事の中に少しだけ滲ませてみた。
――お母様
――昔の犬のぬいぐるみのお話を読んで、あの日のことを思い出しました。
――私は、今もとても臆病なままなのかもしれません。
――こちらでは、物音に驚くことが増えました。
――でも、私はまだ大丈夫だと思いたいのです。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
本当は違う。
大丈夫ではない。
怖い。苦しい。逃げたい。
そう書ければどれだけよかっただろう。
けれど、書けなかった。
なぜならこの手紙を誰が読むかわからなかったからだ。実際、封をする前に女官がちらりと目を落としたのを、カトリーヌは見てしまっていた。
だから結局、そのあとにまたいつもの文を足した。
心配はいりません。
お体を大切になさってください。
私は静養しております。
そうしてしまう自分が情けなかった。
だが、それでも“物音に驚くことが増えました”の一文だけは残した。あれだけが、いまの自分にできる精一杯だった。
返事が来るより早く、公爵はまた部屋へ入ってきた。
昼下がりだった。
窓は開いていたが風は弱く、空気は重い。カトリーヌは机で帳面を見ていたが、扉が開く音で身体が強張った。
「公爵様」
公爵は彼女の前まで歩み寄り、机上の帳面へ視線を落とした。
「少しは役に立つことを覚えたようだな」
言い方は穏やかだ。
だが、その穏やかさの裏にあるものを、カトリーヌはもう知っている。
「……命じられたことをしているだけです」
「それでよい。従順であることは、美点だ」
その言葉に、喉の奥が冷える。
公爵は帳面の紙を指先でめくり、それから不意に言った。
「お前も、いつまでも怯えていては立場を失うぞ」
カトリーヌは顔を上げた。
「立場……」
「そうだ。若い未亡人が、ただ泣いているだけで守られるほど、この家は甘くない」
公爵の目が、静かに細まる。
「役に立たねば、生き残れん」
その一言に、胃の奥がひっくり返るようだった。
役に立たねば、生き残れない。
それは脅しだった。
だが同時に、ロシュフォール家という家の論理でもあるのだろう。だからこそ厄介だった。
公爵はそれ以上何も言わずに去っていったが、その日以降、カトリーヌの中で何かが決定的に変わった。
このままでは、本当に取り込まれる。
家のため、立場のため、生き残るため、そう言われ続けるうちに、いずれ自分の嫌悪や恐怖のほうが間違いだと思わされる。
その前に逃げなければならない。
そう考えた瞬間、胸の内に初めて明確な形を持った言葉が生まれた。
逃げる。
実家でも、社交界でもなく、とにかくこの屋敷の外へ。
計画らしい計画は立てられなかった。
そんな余裕はなかったのだ。
ただ、いくつかの小さな偶然が重なった。
喪中につき出入りする業者は少ない。だが庭師と洗濯場の者だけは定期的に裏門を使う。
北棟から裏の渡り廊下へ抜ける小扉の鍵は、夜半過ぎにだけ外される。朝の仕事へ出る者のためだ。
女官の一人が、最近ずっと夜番に立っていて、明け方には眠気で注意が鈍る。
そういう断片を、カトリーヌは必死で繋ぎ合わせた。
逃げた先のことはほとんど考えられなかった。
王都までたどり着けるかもわからない。
途中で捕まるかもしれない。
だが、それでもこの屋敷にいるよりはましだった。
雨上がりの夜だった。
空気は湿っていたが、雲は切れ始め、月が薄く滲んでいる。
カトリーヌは寝台の上に人の形に布を盛り、灯りを落としたあと、黒に近い地味な外套をかぶった。喪服の上からそれを羽織るだけでも息苦しい。だが、花嫁の頃のような軽やかな衣装を着て逃げられるはずもない。
扉を少しだけ開ける。
廊下は暗かった。
足音を殺して進む。心臓の音だけがやけに大きい。
途中、曲がり角の向こうで女官が欠伸をした気配がした。カトリーヌは息を止め、壁に張りつく。やり過ごす数秒が、永遠のように長い。
ようやく渡り廊下へ出た時、膝が少し震えた。
裏門まではあと少し。
その時だった。
「誰だ」
低い男の声が飛んだ。
庭師ではない。夜回りの男だ。
カトリーヌは振り返りもしなかった。
走った。
喪服の裾が絡み、外套の端が濡れた石へ引っかかる。足元は重く、息はすぐに上がった。それでも走った。もう止まったら終わりだと思った。
裏門は半分だけ開いていた。
そこへ身体を滑り込ませ、庭の外れの細い道へ飛び出す。
背後で誰かが叫んでいる。
追ってくる足音もする。
だが月明かりの薄い路地へ入り込むと、夜の王都外れは一気に無数の影を持った。屋敷の周囲しか知らぬ男たちが、そのまま迷わず追えるような場所ではない。
カトリーヌは走った。
息が切れ、喉が痛く、肺が焼けるようでも、ただ走った。
どれほど時間が経ったのか、もうわからない。
気づいた時には、石畳の段差へつまずいて膝を打ち、そのまま汚れた路地の壁際へ倒れ込んでいた。
喪服の裾は泥まみれだった。
手のひらも擦りむけ、頬には髪が貼りついている。
それでも、屋敷の中ではなかった。
それだけで、少しだけ呼吸ができた。
その夜のうちに、カトリーヌは王都の下町にある小さな礼拝堂へ転がり込んだ。
貴族の身なりをしていても、今の彼女はみすぼらしく、雨と泥にまみれ、目だけが異様に怯えていたのだろう。年老いた修道女は最初こそ警戒したが、それでも中へ入れてくれた。
「追われているのかい」
そう問われた時、カトリーヌは初めて、小さくうなずいた。
そこでようやく、自分が本当に逃げたのだと実感した。
逃げた。
ロシュフォール公爵家から。
義父の手から。
家の論理から。
ただし、それは終わりではなく始まりだった。
翌朝には、ロシュフォール家の若い未亡人が姿を消したという報せが広がった。公爵家はもちろん表向きには穏便な言い方をした。心労のあまり気が動転し、無断で出たのだろう、と。
だが、そんな言い方で済むはずもない。
行方をくらませた若い未亡人。
子のない嫡男の妻。
しかも拘束の噂が流れたばかりの女。
社交界がそれを静かに見ているはずがなかった。
ランベール侯爵家へ知らせが届いたのは、朝の執務が始まって間もなくのことだった。
義母は声を失い、父は即座に扉を閉めて関係者だけを残した。レナールも、フィオレッタも呼ばれた。
「逃げた、ですって……?」
義母の声は掠れていた。
使いの者が告げる。
「はい。昨夜、奥方様のお姿が見えぬことが判明し、いま捜索中とのことです」
父の顔色は険しい。
「どこへ向かったかは」
「不明にございます」
不明。
けれどフィオレッタには、なんとなくわかった。
義妹はもう、実家へ向かうか、あるいは公の場へ駆け込むしかないのだ。
隠れて生きるには、あの子はあまりにも貴族の娘で、あまりにも世間を知らない。
ならば最後に縋るのは、自分を知る場所か、自分の話を聞かざるを得ない場所だけだ。
「お父様」
フィオレッタは静かに言った。
「カトリーヌは、たぶん逃げて終わるつもりではありません」
「どういう意味だ」
「義父のことを、言うつもりです」
部屋の空気がぴんと張る。
父の目が細くなる。
義母は顔を青ざめさせた。
「そんなことをしたら……!」
「ええ」
フィオレッタは答える。
「ロシュフォール家も、カトリーヌ自身も、もう引き返せなくなる」
けれど、もうそこまで追い込まれているのだろう。
逃亡は、ただの逃亡では終わらない。
あの子はきっと、逃げた先で口を開く。
そしてその瞬間、公爵家の恥も、義妹自身の恥も、すべてが表へ出る。
それでもなお、逃げたのだ。
ならば、よほどだったのだ。
その日の午後、王都の一角にある司法官詰所へ、泥まみれの若い女が駆け込んだという報せが入った。
名乗った名は、カトリーヌ・ド・ロシュフォール。
訴えたい相手は、ロシュフォール公爵本人。
その瞬間、すべては次の段階へ進んだ。
逃亡は、告発へ変わったのだ。
拘束が明るみに出てから、ロシュフォール公爵家の空気はさらに悪くなった。
表向きには何も変わらない。
屋敷の廊下は相変わらず磨き上げられ、女官たちは定められた時刻に頭を下げ、公爵は公の場では威厳ある当主として振る舞っている。若き嫡男の死を悼む空気も、まだ完全には薄れていない。
けれど、その内側では違った。
誰も口には出さない。だが、皆が知ってしまったのだ。
ギルベルト・ド・ロシュフォールは、死ぬまで妻を異常な形で支配していたこと。
その支配の痕跡が、死後になっても妻の身体に残されていたこと。
そして、その事実をいちばんよく知っているのが、いま北側の小さな部屋へ押し込められている若い未亡人だということを。
つまりカトリーヌは、哀れな女であると同時に、“家の恥を知る女”にもなってしまった。
それがどれほど危うい立場かを、カトリーヌ自身もようやく理解し始めていた。
女官たちの目が変わった。
以前は遠巻きに哀れみ、あるいは面倒な未亡人として扱っていた視線の中に、今はあからさまな避ける気配が混じっている。誰も意地悪な言葉を直接口にするわけではない。だが、部屋に入ってくる回数が減る。必要以上に話しかけない。衣服を整える手つきまで、どこか“触れたくない”ものを扱うようにぎこちない。
それがたまらなく屈辱だった。
しかも、そうした空気の一方で、公爵だけはなお静かに距離を詰めてくる。
露骨な言葉は減った。
さすがに、拘束の件が内部で広がった今、以前のように悠然と“家のためだ”と言い募るのは難しいのだろう。けれど、その代わりにもっと厄介なやり方へ変わった。
逃げ場を削るのだ。
「夫人、今日は南の物置の確認を」
「この帳面は一度目を通しておいてください」
「女官が足りませんので、そのくらいはご自身で」
最初は雑用だった。
未亡人として慎ましくあるべきだという名目のもとに、小さな仕事が次々と回される。もちろん、公爵家の未亡人なのだから、露骨に雑巾を持たされたり、下働きと同じ列に並ばされたりするわけではない。
だが、誰かが当然のように引き受けていた雑事を、じわじわと押しつけられる。
贅沢な衣装の整理。
使われなくなった応接間の布の確認。
香油や燭台の在庫の帳面。
喪中であることを理由に、華やかな客間から遠ざけられた代わりに、奥向きの裏側ばかり歩かされる。
そして気づけば、彼女の靴の裾はいつも少しだけ埃を含み、指先は以前より荒れていた。
花嫁として迎えられた時の、あの甘い夢の名残はもうどこにもなかった。
それでもカトリーヌは、まだ完全には壊れていなかった。
壊れずにいられたのは、たぶん一つだけ、まだ希望めいたものがあったからだ。
実家だ。
ランベール侯爵家が、自分を見捨てるはずがない。
少なくとも母は、何かあれば助けてくれる。
そう思いたかった。
だから彼女は、次の手紙を書いた。
今度はこれまでのような整いすぎた文ではなく、もう少しだけ、自分にしかわからない言葉を混ぜて。
母が前に返してきた手紙には、幼い頃に転んで膝を擦りむいた日のことが書かれていた。白い犬のぬいぐるみを抱いて泣いたこと。庭の噴水の縁に座って、なかなか泣き止まなかったこと。
それは確かに、自分に向けた手紙だった。
だからカトリーヌも、返事の中に少しだけ滲ませてみた。
――お母様
――昔の犬のぬいぐるみのお話を読んで、あの日のことを思い出しました。
――私は、今もとても臆病なままなのかもしれません。
――こちらでは、物音に驚くことが増えました。
――でも、私はまだ大丈夫だと思いたいのです。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
本当は違う。
大丈夫ではない。
怖い。苦しい。逃げたい。
そう書ければどれだけよかっただろう。
けれど、書けなかった。
なぜならこの手紙を誰が読むかわからなかったからだ。実際、封をする前に女官がちらりと目を落としたのを、カトリーヌは見てしまっていた。
だから結局、そのあとにまたいつもの文を足した。
心配はいりません。
お体を大切になさってください。
私は静養しております。
そうしてしまう自分が情けなかった。
だが、それでも“物音に驚くことが増えました”の一文だけは残した。あれだけが、いまの自分にできる精一杯だった。
返事が来るより早く、公爵はまた部屋へ入ってきた。
昼下がりだった。
窓は開いていたが風は弱く、空気は重い。カトリーヌは机で帳面を見ていたが、扉が開く音で身体が強張った。
「公爵様」
公爵は彼女の前まで歩み寄り、机上の帳面へ視線を落とした。
「少しは役に立つことを覚えたようだな」
言い方は穏やかだ。
だが、その穏やかさの裏にあるものを、カトリーヌはもう知っている。
「……命じられたことをしているだけです」
「それでよい。従順であることは、美点だ」
その言葉に、喉の奥が冷える。
公爵は帳面の紙を指先でめくり、それから不意に言った。
「お前も、いつまでも怯えていては立場を失うぞ」
カトリーヌは顔を上げた。
「立場……」
「そうだ。若い未亡人が、ただ泣いているだけで守られるほど、この家は甘くない」
公爵の目が、静かに細まる。
「役に立たねば、生き残れん」
その一言に、胃の奥がひっくり返るようだった。
役に立たねば、生き残れない。
それは脅しだった。
だが同時に、ロシュフォール家という家の論理でもあるのだろう。だからこそ厄介だった。
公爵はそれ以上何も言わずに去っていったが、その日以降、カトリーヌの中で何かが決定的に変わった。
このままでは、本当に取り込まれる。
家のため、立場のため、生き残るため、そう言われ続けるうちに、いずれ自分の嫌悪や恐怖のほうが間違いだと思わされる。
その前に逃げなければならない。
そう考えた瞬間、胸の内に初めて明確な形を持った言葉が生まれた。
逃げる。
実家でも、社交界でもなく、とにかくこの屋敷の外へ。
計画らしい計画は立てられなかった。
そんな余裕はなかったのだ。
ただ、いくつかの小さな偶然が重なった。
喪中につき出入りする業者は少ない。だが庭師と洗濯場の者だけは定期的に裏門を使う。
北棟から裏の渡り廊下へ抜ける小扉の鍵は、夜半過ぎにだけ外される。朝の仕事へ出る者のためだ。
女官の一人が、最近ずっと夜番に立っていて、明け方には眠気で注意が鈍る。
そういう断片を、カトリーヌは必死で繋ぎ合わせた。
逃げた先のことはほとんど考えられなかった。
王都までたどり着けるかもわからない。
途中で捕まるかもしれない。
だが、それでもこの屋敷にいるよりはましだった。
雨上がりの夜だった。
空気は湿っていたが、雲は切れ始め、月が薄く滲んでいる。
カトリーヌは寝台の上に人の形に布を盛り、灯りを落としたあと、黒に近い地味な外套をかぶった。喪服の上からそれを羽織るだけでも息苦しい。だが、花嫁の頃のような軽やかな衣装を着て逃げられるはずもない。
扉を少しだけ開ける。
廊下は暗かった。
足音を殺して進む。心臓の音だけがやけに大きい。
途中、曲がり角の向こうで女官が欠伸をした気配がした。カトリーヌは息を止め、壁に張りつく。やり過ごす数秒が、永遠のように長い。
ようやく渡り廊下へ出た時、膝が少し震えた。
裏門まではあと少し。
その時だった。
「誰だ」
低い男の声が飛んだ。
庭師ではない。夜回りの男だ。
カトリーヌは振り返りもしなかった。
走った。
喪服の裾が絡み、外套の端が濡れた石へ引っかかる。足元は重く、息はすぐに上がった。それでも走った。もう止まったら終わりだと思った。
裏門は半分だけ開いていた。
そこへ身体を滑り込ませ、庭の外れの細い道へ飛び出す。
背後で誰かが叫んでいる。
追ってくる足音もする。
だが月明かりの薄い路地へ入り込むと、夜の王都外れは一気に無数の影を持った。屋敷の周囲しか知らぬ男たちが、そのまま迷わず追えるような場所ではない。
カトリーヌは走った。
息が切れ、喉が痛く、肺が焼けるようでも、ただ走った。
どれほど時間が経ったのか、もうわからない。
気づいた時には、石畳の段差へつまずいて膝を打ち、そのまま汚れた路地の壁際へ倒れ込んでいた。
喪服の裾は泥まみれだった。
手のひらも擦りむけ、頬には髪が貼りついている。
それでも、屋敷の中ではなかった。
それだけで、少しだけ呼吸ができた。
その夜のうちに、カトリーヌは王都の下町にある小さな礼拝堂へ転がり込んだ。
貴族の身なりをしていても、今の彼女はみすぼらしく、雨と泥にまみれ、目だけが異様に怯えていたのだろう。年老いた修道女は最初こそ警戒したが、それでも中へ入れてくれた。
「追われているのかい」
そう問われた時、カトリーヌは初めて、小さくうなずいた。
そこでようやく、自分が本当に逃げたのだと実感した。
逃げた。
ロシュフォール公爵家から。
義父の手から。
家の論理から。
ただし、それは終わりではなく始まりだった。
翌朝には、ロシュフォール家の若い未亡人が姿を消したという報せが広がった。公爵家はもちろん表向きには穏便な言い方をした。心労のあまり気が動転し、無断で出たのだろう、と。
だが、そんな言い方で済むはずもない。
行方をくらませた若い未亡人。
子のない嫡男の妻。
しかも拘束の噂が流れたばかりの女。
社交界がそれを静かに見ているはずがなかった。
ランベール侯爵家へ知らせが届いたのは、朝の執務が始まって間もなくのことだった。
義母は声を失い、父は即座に扉を閉めて関係者だけを残した。レナールも、フィオレッタも呼ばれた。
「逃げた、ですって……?」
義母の声は掠れていた。
使いの者が告げる。
「はい。昨夜、奥方様のお姿が見えぬことが判明し、いま捜索中とのことです」
父の顔色は険しい。
「どこへ向かったかは」
「不明にございます」
不明。
けれどフィオレッタには、なんとなくわかった。
義妹はもう、実家へ向かうか、あるいは公の場へ駆け込むしかないのだ。
隠れて生きるには、あの子はあまりにも貴族の娘で、あまりにも世間を知らない。
ならば最後に縋るのは、自分を知る場所か、自分の話を聞かざるを得ない場所だけだ。
「お父様」
フィオレッタは静かに言った。
「カトリーヌは、たぶん逃げて終わるつもりではありません」
「どういう意味だ」
「義父のことを、言うつもりです」
部屋の空気がぴんと張る。
父の目が細くなる。
義母は顔を青ざめさせた。
「そんなことをしたら……!」
「ええ」
フィオレッタは答える。
「ロシュフォール家も、カトリーヌ自身も、もう引き返せなくなる」
けれど、もうそこまで追い込まれているのだろう。
逃亡は、ただの逃亡では終わらない。
あの子はきっと、逃げた先で口を開く。
そしてその瞬間、公爵家の恥も、義妹自身の恥も、すべてが表へ出る。
それでもなお、逃げたのだ。
ならば、よほどだったのだ。
その日の午後、王都の一角にある司法官詰所へ、泥まみれの若い女が駆け込んだという報せが入った。
名乗った名は、カトリーヌ・ド・ロシュフォール。
訴えたい相手は、ロシュフォール公爵本人。
その瞬間、すべては次の段階へ進んだ。
逃亡は、告発へ変わったのだ。
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