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29 あなたの責任は、あなたのもの
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29 あなたの責任は、あなたのもの
礼拝堂でカトリーヌと別れたあと、フィオレッタは馬車の中で長いこと何も話せなかった。
エマもまた、こちらの顔色を窺うばかりで口を開かない。
王都の石畳を進む車輪の音だけが、やけに規則正しく耳へ残る。窓の外では、薄曇りの午後の街並みがゆっくり流れていく。見慣れたはずの通りだ。けれど今は、どこか遠く見えた。
カトリーヌは変わっていた。
変わり果てていた、と言ったほうが正しいかもしれない。
あれほど“可憐で守られる妹”であることに執着していた女が、いまや自分の弱さもみっともなさも隠しきれず、ただ生き延びるための手を探していた。
哀れだった。
だが、哀れだからといって、すべてが帳消しになるわけではない。
フィオレッタは膝の上で指先を組んだ。
胸の内は静かなようでいて、実際にはずっとざわついている。
助けられない。
いや、助けてはならない。
そう言い聞かせた自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「お嬢様」
やがてエマがそっと言う。
「お加減は……」
「大丈夫ではないわね」
フィオレッタは正直に答えた。
その返事に、エマは少しだけ目を伏せる。
「でも、会ってよかったとも思っているの」
「そうでございますか」
「ええ。会わずに出立していたら、私はずっと想像だけであの子を見ていたでしょうから」
今のカトリーヌは、単なる“因果応報の結果”ではなかった。
たしかに自分で選んだ地獄だ。けれど、その地獄に飲み込まれかけながらも、告発し、逃げ、そして最後に姉へ手紙を書いた。
その事実が、フィオレッタの中で単純な憎しみだけでは済まない場所を作ってしまっている。
「お嬢様は、お優しすぎます」
エマが小さく言う。
フィオレッタは、少しだけ口元をゆるめた。
「優しいのかしら。だとしたら、もっと簡単に助けると言えているでしょうね」
その言葉は、自分自身にも向けた皮肉だった。
屋敷へ戻ると、父はすでに書斎で待っていた。
当然だろう。会いに行くことを許した以上、何が話されたのか確認しないわけがない。
「どうだった」
単刀直入な問いだった。
フィオレッタは父の前へ座り、ひとつ息を整えてから答えた。
「やつれていました。かなり」
父の眉がわずかに寄る。
「それで」
「ロシュフォール家へ戻る気はないようです」
「当然だろうな」
「ですが、実家も頼れないとわかっています」
父は黙った。
自分が送った文がどう受け取られたか、理解しているのだろう。
フィオレッタは続ける。
「それでも、最後の望みとして私に縋ってきました」
その一言に、父の目が細くなる。
「アルディシアへ連れて行けと?」
「ええ」
書斎の空気がひどく静かになった。
父はしばらく何も言わなかったが、やがて低く息を吐く。
「……断ったのだな」
「もちろんです」
フィオレッタはきっぱりと答えた。
「私一人の情で、あちらへ火種を持ち込むことはできません」
父は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
安堵しているのだろう。
当主としては当然だ。
けれどその安堵が、フィオレッタには少しだけ冷たく見えた。
「ただし」
彼女は続ける。
「完全に見捨てるとも言っていません」
父の表情がまた引き締まる。
「どういう意味だ」
「司法官の保護下で選べる道――修道院か、女性だけの保護施設か、王都から離れた場所での静養か。そういう現実的な道を調べる手助けくらいなら、できるかもしれないと伝えました」
父はすぐには答えなかった。
しばらく机上の紙束へ視線を落としたまま、考えるように指先を動かす。
「それは……」
低く呟く。
「最も穏当かもしれんな」
穏当。
その言葉に、フィオレッタは胸の内でひどく静かな苛立ちを覚えた。
この人にとっては結局、娘の行き先まで“穏当かどうか”で測られるのだ。
だが口にはしない。
いま父とぶつかったところで、何も前へ進まないことも知っていた。
「お前は、まだあの娘に情があるのだな」
ふいに父がそう言った。
その問いは少し意外だった。
責めるようでも、試すようでもない。むしろ、本当に確認しているような口調だった。
フィオレッタは少し考えてから答える。
「情だけではありません」
「では」
「怒りもあります。呆れもあります。たぶん、軽蔑も」
父は黙って聞いている。
「でも、それでも今のあの子を見たら、全部なかったことにはできなくても、完全に無視もできませんでした」
その答えに、父はしばらく視線を上げなかった。
やがて低い声で言う。
「お前のほうが……私より強いな」
その一言に、フィオレッタはわずかに目を見開いた。
父がそんなふうに言うとは思わなかった。
けれどその顔を見ると、誇らしさよりも疲労のほうが濃い。まるで、自分ではできないことを娘がやったと認める代わりに、その重さから逃げているようだった。
「強いのではありません」
フィオレッタは静かに言う。
「ただ、もう“家のため”だけでは息ができないだけです」
父は何も返さなかった。
返せなかったのだろう。
その夜、義母もまたフィオレッタのもとを訪ねてきた。
目は赤かったが、昼間よりは少しだけ整っている。きっと“母親として取り乱しすぎてはいけない”と、必死で自分を押し戻してきたのだ。
「会ったのね」
「ええ」
「……どうだった?」
その問いは、昼間の父のものとは違っていた。
事実確認ではない。
ただ娘の様子を知りたい、という母親の声だった。
「とても痩せていました」
フィオレッタは答える。
「でも、まだ壊れてはいません」
義母が息を呑む。
「まだ、って……」
「ええ。まだです」
少し間を置いてから続ける。
「だからこそ、今どこへ行くのかを自分で決めなければならないと思います」
義母は椅子の肘掛けをぎゅっと握った。
「あなたは……連れて行ってはくれないのね」
その言葉に、フィオレッタはまっすぐ義母を見た。
「お義母様」
「ええ、わかっているわ」
義母は自分で自分を遮るように言った。
「わかっているの。そんなことをお願いできる立場ではないことも、あなた一人の判断でどうにかなる話ではないことも」
それでも、と続けようとして、言葉が詰まる。
その姿を見て、フィオレッタはようやく、自分の中にある言葉をそのまま口にした。
「私は、あなたが婚約を拒んだ家の人間になるのです」
義母が顔を上げる。
フィオレッタは、礼拝堂でカトリーヌに言った言葉を、今度はその母へ向けて静かに告げた。
「私は、あなたが拒んだ婚約の相手方の家に嫁ぐ身です。この家に従わなければ、私は地位を失う。――あなたのように」
最後の一言は、カトリーヌへ向けた時とは少し意味が違っていた。
義母もまた、母としての情だけで動けば、侯爵夫人としての立場を失う人なのだ。
だから弱い。
だから沈黙する。
だから娘を救えない。
義母の唇が震える。
「……ええ」
細い声で、そう答えた。
もう反論はなかった。
フィオレッタは、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
冷たいと言われてもいい。
だが、自分の人生までまた誰かの尻拭いに差し出すつもりはない。
それだけは、今度こそ譲れなかった。
義母が帰ったあと、フィオレッタは一人で長く机に向かった。
窓の外は静かだった。夏の前の夜は、春よりも音が少ない気がする。庭木の葉が濃くなったせいかもしれない。
机の上には、礼拝堂で会ったカトリーヌの姿がまだ残っているようだった。
やつれた頬。
怯えた目。
それでも最後に、姉へ「幸せになってください」と言った声。
あれは本心だったのだろうか。
たぶん本心なのだろう。
だからこそ、余計に重い。
そしてその重さの中で、フィオレッタは一つはっきりと理解した。
あの子の責任は、あの子のものだ。
自分が背負うべきではない。
けれど、自分が完全に無関係でもいられない。
その中途半端さが、いまの関係のすべてだった。
机の端に置かれた封書へ、自然と手が伸びる。
アルディシア公国から届いた、フェリクスの手紙だ。
開く。
――出立の日が近いので、最後の確認だけしておきます。
――こちらへ来た後、何かを決める前に、まず休んでください。
――疲れている時にした判断は、たいてい正しくありませんから。
その一文を読んだ瞬間、フィオレッタは思わず小さく笑ってしまった。
疲れている時にした判断は、たいてい正しくない。
その通りだ。
この数ヶ月、周囲では疲れたまま、追い詰められたまま、何人もの人間が判断を重ねてきた。
カトリーヌは恐怖のまま婚約を奪った。
義母は可愛い娘を守りたいまま後押しした。
父は家のためと自分に言い聞かせたまま切り捨てた。
ロシュフォール公爵は家を絶やすまいと狂った。
そしてギルベルトは、欲しいものを欲しいままに手に入れようとして死んだ。
誰一人、落ち着いていなかったのかもしれない。
だからこそ今、フィオレッタはその一文に深く救われた。
急がなくていい。
休んでから決めればいい。
そんな当たり前のことを、真正面から言ってくれる人がいる。
その事実が、彼女の胸の内に静かに根を張り始めていた。
礼拝堂でカトリーヌと別れたあと、フィオレッタは馬車の中で長いこと何も話せなかった。
エマもまた、こちらの顔色を窺うばかりで口を開かない。
王都の石畳を進む車輪の音だけが、やけに規則正しく耳へ残る。窓の外では、薄曇りの午後の街並みがゆっくり流れていく。見慣れたはずの通りだ。けれど今は、どこか遠く見えた。
カトリーヌは変わっていた。
変わり果てていた、と言ったほうが正しいかもしれない。
あれほど“可憐で守られる妹”であることに執着していた女が、いまや自分の弱さもみっともなさも隠しきれず、ただ生き延びるための手を探していた。
哀れだった。
だが、哀れだからといって、すべてが帳消しになるわけではない。
フィオレッタは膝の上で指先を組んだ。
胸の内は静かなようでいて、実際にはずっとざわついている。
助けられない。
いや、助けてはならない。
そう言い聞かせた自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「お嬢様」
やがてエマがそっと言う。
「お加減は……」
「大丈夫ではないわね」
フィオレッタは正直に答えた。
その返事に、エマは少しだけ目を伏せる。
「でも、会ってよかったとも思っているの」
「そうでございますか」
「ええ。会わずに出立していたら、私はずっと想像だけであの子を見ていたでしょうから」
今のカトリーヌは、単なる“因果応報の結果”ではなかった。
たしかに自分で選んだ地獄だ。けれど、その地獄に飲み込まれかけながらも、告発し、逃げ、そして最後に姉へ手紙を書いた。
その事実が、フィオレッタの中で単純な憎しみだけでは済まない場所を作ってしまっている。
「お嬢様は、お優しすぎます」
エマが小さく言う。
フィオレッタは、少しだけ口元をゆるめた。
「優しいのかしら。だとしたら、もっと簡単に助けると言えているでしょうね」
その言葉は、自分自身にも向けた皮肉だった。
屋敷へ戻ると、父はすでに書斎で待っていた。
当然だろう。会いに行くことを許した以上、何が話されたのか確認しないわけがない。
「どうだった」
単刀直入な問いだった。
フィオレッタは父の前へ座り、ひとつ息を整えてから答えた。
「やつれていました。かなり」
父の眉がわずかに寄る。
「それで」
「ロシュフォール家へ戻る気はないようです」
「当然だろうな」
「ですが、実家も頼れないとわかっています」
父は黙った。
自分が送った文がどう受け取られたか、理解しているのだろう。
フィオレッタは続ける。
「それでも、最後の望みとして私に縋ってきました」
その一言に、父の目が細くなる。
「アルディシアへ連れて行けと?」
「ええ」
書斎の空気がひどく静かになった。
父はしばらく何も言わなかったが、やがて低く息を吐く。
「……断ったのだな」
「もちろんです」
フィオレッタはきっぱりと答えた。
「私一人の情で、あちらへ火種を持ち込むことはできません」
父は、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
安堵しているのだろう。
当主としては当然だ。
けれどその安堵が、フィオレッタには少しだけ冷たく見えた。
「ただし」
彼女は続ける。
「完全に見捨てるとも言っていません」
父の表情がまた引き締まる。
「どういう意味だ」
「司法官の保護下で選べる道――修道院か、女性だけの保護施設か、王都から離れた場所での静養か。そういう現実的な道を調べる手助けくらいなら、できるかもしれないと伝えました」
父はすぐには答えなかった。
しばらく机上の紙束へ視線を落としたまま、考えるように指先を動かす。
「それは……」
低く呟く。
「最も穏当かもしれんな」
穏当。
その言葉に、フィオレッタは胸の内でひどく静かな苛立ちを覚えた。
この人にとっては結局、娘の行き先まで“穏当かどうか”で測られるのだ。
だが口にはしない。
いま父とぶつかったところで、何も前へ進まないことも知っていた。
「お前は、まだあの娘に情があるのだな」
ふいに父がそう言った。
その問いは少し意外だった。
責めるようでも、試すようでもない。むしろ、本当に確認しているような口調だった。
フィオレッタは少し考えてから答える。
「情だけではありません」
「では」
「怒りもあります。呆れもあります。たぶん、軽蔑も」
父は黙って聞いている。
「でも、それでも今のあの子を見たら、全部なかったことにはできなくても、完全に無視もできませんでした」
その答えに、父はしばらく視線を上げなかった。
やがて低い声で言う。
「お前のほうが……私より強いな」
その一言に、フィオレッタはわずかに目を見開いた。
父がそんなふうに言うとは思わなかった。
けれどその顔を見ると、誇らしさよりも疲労のほうが濃い。まるで、自分ではできないことを娘がやったと認める代わりに、その重さから逃げているようだった。
「強いのではありません」
フィオレッタは静かに言う。
「ただ、もう“家のため”だけでは息ができないだけです」
父は何も返さなかった。
返せなかったのだろう。
その夜、義母もまたフィオレッタのもとを訪ねてきた。
目は赤かったが、昼間よりは少しだけ整っている。きっと“母親として取り乱しすぎてはいけない”と、必死で自分を押し戻してきたのだ。
「会ったのね」
「ええ」
「……どうだった?」
その問いは、昼間の父のものとは違っていた。
事実確認ではない。
ただ娘の様子を知りたい、という母親の声だった。
「とても痩せていました」
フィオレッタは答える。
「でも、まだ壊れてはいません」
義母が息を呑む。
「まだ、って……」
「ええ。まだです」
少し間を置いてから続ける。
「だからこそ、今どこへ行くのかを自分で決めなければならないと思います」
義母は椅子の肘掛けをぎゅっと握った。
「あなたは……連れて行ってはくれないのね」
その言葉に、フィオレッタはまっすぐ義母を見た。
「お義母様」
「ええ、わかっているわ」
義母は自分で自分を遮るように言った。
「わかっているの。そんなことをお願いできる立場ではないことも、あなた一人の判断でどうにかなる話ではないことも」
それでも、と続けようとして、言葉が詰まる。
その姿を見て、フィオレッタはようやく、自分の中にある言葉をそのまま口にした。
「私は、あなたが婚約を拒んだ家の人間になるのです」
義母が顔を上げる。
フィオレッタは、礼拝堂でカトリーヌに言った言葉を、今度はその母へ向けて静かに告げた。
「私は、あなたが拒んだ婚約の相手方の家に嫁ぐ身です。この家に従わなければ、私は地位を失う。――あなたのように」
最後の一言は、カトリーヌへ向けた時とは少し意味が違っていた。
義母もまた、母としての情だけで動けば、侯爵夫人としての立場を失う人なのだ。
だから弱い。
だから沈黙する。
だから娘を救えない。
義母の唇が震える。
「……ええ」
細い声で、そう答えた。
もう反論はなかった。
フィオレッタは、そこでようやく少しだけ肩の力を抜いた。
冷たいと言われてもいい。
だが、自分の人生までまた誰かの尻拭いに差し出すつもりはない。
それだけは、今度こそ譲れなかった。
義母が帰ったあと、フィオレッタは一人で長く机に向かった。
窓の外は静かだった。夏の前の夜は、春よりも音が少ない気がする。庭木の葉が濃くなったせいかもしれない。
机の上には、礼拝堂で会ったカトリーヌの姿がまだ残っているようだった。
やつれた頬。
怯えた目。
それでも最後に、姉へ「幸せになってください」と言った声。
あれは本心だったのだろうか。
たぶん本心なのだろう。
だからこそ、余計に重い。
そしてその重さの中で、フィオレッタは一つはっきりと理解した。
あの子の責任は、あの子のものだ。
自分が背負うべきではない。
けれど、自分が完全に無関係でもいられない。
その中途半端さが、いまの関係のすべてだった。
机の端に置かれた封書へ、自然と手が伸びる。
アルディシア公国から届いた、フェリクスの手紙だ。
開く。
――出立の日が近いので、最後の確認だけしておきます。
――こちらへ来た後、何かを決める前に、まず休んでください。
――疲れている時にした判断は、たいてい正しくありませんから。
その一文を読んだ瞬間、フィオレッタは思わず小さく笑ってしまった。
疲れている時にした判断は、たいてい正しくない。
その通りだ。
この数ヶ月、周囲では疲れたまま、追い詰められたまま、何人もの人間が判断を重ねてきた。
カトリーヌは恐怖のまま婚約を奪った。
義母は可愛い娘を守りたいまま後押しした。
父は家のためと自分に言い聞かせたまま切り捨てた。
ロシュフォール公爵は家を絶やすまいと狂った。
そしてギルベルトは、欲しいものを欲しいままに手に入れようとして死んだ。
誰一人、落ち着いていなかったのかもしれない。
だからこそ今、フィオレッタはその一文に深く救われた。
急がなくていい。
休んでから決めればいい。
そんな当たり前のことを、真正面から言ってくれる人がいる。
その事実が、彼女の胸の内に静かに根を張り始めていた。
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