悪役令嬢の天然メイドは壺といっしょに婚約者の侯爵家を壊してしまいました

しおしお

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第十三話 水たまりの罠

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第十三話 水たまりの罠

 午前の廊下は明るい。

 磨き上げられた窓から光が差し込み、床が淡く輝いている。

「今日は床を拭きます」

 エルマは真剣な顔で言った。

 両手に雑巾。

 横には水の入ったバケツ。

「慎重にね」

 ヴィオレッタが言う。

「はい、落としません」

 その言葉が、ほんの少しだけ不安を呼ぶ。

 廊下の奥から、レオンハルトが歩いてくる。

 客人との打ち合わせを終え、機嫌は悪くない。

 視界に入る、エルマ。

 だが、まだ進路変更するほどではない。

(何も起きていない)

 自分に言い聞かせる。

 その瞬間。

 エルマの手から、雑巾がぽとりと落ちた。

「あ」

 拾おうと屈む。

 その拍子に、肘がバケツに当たる。

 ころん。

 ゆっくりと転がる。

 水が、広がる。

 廊下に、薄い水たまり。

 レオンハルトの一歩。

 つるり。

「――っ」

 滑る。

 派手ではない。

 だが確実に足を取られ、片膝をつく。

 書類が、ぱさりと床に落ちる。

 水が染みる。

 沈黙。

 エルマが青ざめる。

「申し訳ありません!」

 レオンハルトはゆっくり立ち上がる。

「……問題ない」

 声は冷静。

 膝が、少し濡れている。

「床が濡れていただけだ」

「はい……床が濡れていました」

 エルマは真顔でうなずく。

 ヴィオレッタが近づく。

「お怪我は?」

「ない」

 短い返事。

 使用人たちが慌てて布を持ってくる。

 水を拭く。

 レオンハルトは濡れた書類を見下ろす。

 怒れない。

 怒るほどのことではない。

 事故だ。

 ただの事故。

 ヴィオレッタは静かに言う。

「エルマ、次はバケツを壁際に置きなさい」

「はい」

 素直に返事。

 レオンハルトはその場を去る。

 歩き方はいつも通り。

 だが、ほんの少しだけ慎重。

 自室に戻ったヴィオレッタ。

 扉が閉まる。

 一瞬、沈黙。

「……ふ」

 肩が揺れる。

「膝……濡れていらっしゃいましたわ」

 小さく笑う。

 爆笑ではない。

 まだそこまでではない。

「滑っただけ……」

 くすくすと笑いながら椅子に腰掛ける。

「まだ軽症ですわね」

 ノック。

「お嬢様、わたしやっぱり危ないですか?」

「いいえ」

 ヴィオレッタは即答する。

「あなたは、ただ落としただけ」

「はい」

「でもね」

 一拍。

「屋敷は、落ちたものを拾うのが少し下手なの」

 エルマは意味がわからないまま頷く。

 廊下では、使用人たちがひそひそ話す。

「また滑った」

「今度は水」

「怪我はない」

 まだ、笑い話の範囲。

 まだ、威厳は保たれている。

 だが。

 足元を気にするようになった侯爵。

 それが、最初の変化だった。

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