22 / 31
第二十三話 濡れた床
しおりを挟む
第二十三話 濡れた床
壺が割れた翌日。
屋敷は何事もなかったかのように静かだった。
誰も壺のことを話題にしない。
誰も廊下の破片を覚えていないふりをする。
エルマは今日も掃除をしている。
今日は階段下の長い廊下。
磨き上げられた床は、光を映すほどに滑らかだ。
「ぴかぴかです」
満足げに呟く。
だが満足した瞬間に限って、何かが起こる。
雑巾を絞ったはずのバケツが、ほんの少し傾いていた。
ぽと。
水が一滴。
もう一滴。
そして。
ばしゃ。
バケツが横倒しになった。
「あ」
床に水が広がる。
静かに。
だが確実に。
エルマは慌てて雑巾を落とす。
「いま拭きます」
しゃがみ込んだそのとき。
背後で、足音。
重い靴音。
レオンハルト侯爵ではない。
別の家人だ。
だがエルマは振り向かない。
目の前の水を優先する。
つる。
足音の主が滑る。
どさ。
鈍い音。
廊下に響く。
エルマが振り向くと、床に転倒した使用人が呆然と天井を見上げている。
「すべりました」
「見ればわかる」
低い声。
使用人は自力で起き上がる。
怪我はないらしい。
だが顔色は悪い。
「水は、危険です」
「ええ」
エルマは真剣に頷く。
「いま拭きます」
慌てて床を拭き上げる。
その様子を、廊下の端からヴィオレッタが静かに見ていた。
何も言わない。
ただ観察する。
水。
滑る床。
偶然の転倒。
壺。
額縁。
そして今日。
「……本当に」
小さく呟く。
エルマは水を拭き終え、ほっと息をつく。
「これで大丈夫です」
転倒した使用人は無言で去っていく。
廊下は再び静かになる。
ヴィオレッタが歩み寄る。
「怪我は?」
「ありません」
「あなたではなく、あちらよ」
「大丈夫そうでした」
「そう」
短いやり取り。
ヴィオレッタは床を見る。
わずかに残る湿り。
光を反射している。
「水は、形を変えるわね」
「はい?」
「こぼれると、広がる」
エルマは意味を考えるが、理解はできない。
「こぼさないようにします」
「それは難しいでしょうね」
淡く微笑む。
エルマが触れれば、何かが起きる。
大事故ではない。
だが小さな綻びが、確実に増えている。
使用人の間に、わずかな緊張が漂い始めているのも事実だ。
「エルマ」
「はい」
「今日は、床はもう触らなくていいわ」
「触りません」
「本当に」
「はい」
エルマは真面目に頷く。
ヴィオレッタは廊下の先を見つめる。
静かだ。
だが、どこか不安定。
壺は割れた。
額縁は外れた。
水は広がった。
まだ小さい。
けれど、偶然が続きすぎている。
「……面白いですわね」
ほとんど聞こえない声。
エルマは気づかない。
屋敷の床は再び乾き、何事もなかった顔をしている。
だが、水が通った場所は、ほんの少しだけ、冷たく残っていた。
壺が割れた翌日。
屋敷は何事もなかったかのように静かだった。
誰も壺のことを話題にしない。
誰も廊下の破片を覚えていないふりをする。
エルマは今日も掃除をしている。
今日は階段下の長い廊下。
磨き上げられた床は、光を映すほどに滑らかだ。
「ぴかぴかです」
満足げに呟く。
だが満足した瞬間に限って、何かが起こる。
雑巾を絞ったはずのバケツが、ほんの少し傾いていた。
ぽと。
水が一滴。
もう一滴。
そして。
ばしゃ。
バケツが横倒しになった。
「あ」
床に水が広がる。
静かに。
だが確実に。
エルマは慌てて雑巾を落とす。
「いま拭きます」
しゃがみ込んだそのとき。
背後で、足音。
重い靴音。
レオンハルト侯爵ではない。
別の家人だ。
だがエルマは振り向かない。
目の前の水を優先する。
つる。
足音の主が滑る。
どさ。
鈍い音。
廊下に響く。
エルマが振り向くと、床に転倒した使用人が呆然と天井を見上げている。
「すべりました」
「見ればわかる」
低い声。
使用人は自力で起き上がる。
怪我はないらしい。
だが顔色は悪い。
「水は、危険です」
「ええ」
エルマは真剣に頷く。
「いま拭きます」
慌てて床を拭き上げる。
その様子を、廊下の端からヴィオレッタが静かに見ていた。
何も言わない。
ただ観察する。
水。
滑る床。
偶然の転倒。
壺。
額縁。
そして今日。
「……本当に」
小さく呟く。
エルマは水を拭き終え、ほっと息をつく。
「これで大丈夫です」
転倒した使用人は無言で去っていく。
廊下は再び静かになる。
ヴィオレッタが歩み寄る。
「怪我は?」
「ありません」
「あなたではなく、あちらよ」
「大丈夫そうでした」
「そう」
短いやり取り。
ヴィオレッタは床を見る。
わずかに残る湿り。
光を反射している。
「水は、形を変えるわね」
「はい?」
「こぼれると、広がる」
エルマは意味を考えるが、理解はできない。
「こぼさないようにします」
「それは難しいでしょうね」
淡く微笑む。
エルマが触れれば、何かが起きる。
大事故ではない。
だが小さな綻びが、確実に増えている。
使用人の間に、わずかな緊張が漂い始めているのも事実だ。
「エルマ」
「はい」
「今日は、床はもう触らなくていいわ」
「触りません」
「本当に」
「はい」
エルマは真面目に頷く。
ヴィオレッタは廊下の先を見つめる。
静かだ。
だが、どこか不安定。
壺は割れた。
額縁は外れた。
水は広がった。
まだ小さい。
けれど、偶然が続きすぎている。
「……面白いですわね」
ほとんど聞こえない声。
エルマは気づかない。
屋敷の床は再び乾き、何事もなかった顔をしている。
だが、水が通った場所は、ほんの少しだけ、冷たく残っていた。
0
あなたにおすすめの小説
王子様への置き手紙
あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
小説家になろうにも掲載しています。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?
ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。
「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
婚約者が私のことをゴリラと言っていたので、距離を置くことにしました
相馬香子
恋愛
ある日、クローネは婚約者であるレアルと彼の友人たちの会話を盗み聞きしてしまう。
――男らしい? ゴリラ?
クローネに対するレアルの言葉にショックを受けた彼女は、レアルに絶交を突きつけるのだった。
デリカシーゼロ男と男装女子の織り成す、勘違い系ラブコメディです。
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる