公爵令嬢、爵位を弟に譲って隠居したのにどうして悪党狩りなんてしているのでしょう?

しおしお

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第1章 婚約破棄と隠居の決意

1-2 婚約者の本性

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1-2 婚約者の本性

 アメリアが、父の死と公爵位継承について落ち着いて整理をつけた翌日のこと――
 彼女は自室の机に向かい、簡潔にまとめた文書を封筒に収めた。

『グレイス公爵位を弟ジークに譲る意思について』

 それは、婚約者であるライナルトに伝えるための報告書である。

(……この内容をどう受け止められるかしら)

 アメリアは深く息を吸った。
 ライナルトとは婚約して二年になる。
 政治的な繋がりを強めるための政略婚ではあったが、彼は温和で落ち着いた人柄だと評判だった。
 アメリア自身も、彼に対して大きく期待していたわけではないものの、
 “誠実な人物”という印象を抱いていた。

 ――その時までは、確かにそう信じていた。

◆◆◆

 昼下がりのサロン。
 アメリアは約束の時間より少し早く到着し、従者に頼んで香りの良い紅茶を準備してもらっていた。

 しばらくして、重厚な扉が開く。

「ライナルト様がお見えです」

「通して」

 彼はいつも通りの優しい笑みを浮かべて入室してきた。
 黒に近い濃紺の髪、端正な顔立ち、抑えた物腰。
 どこからどう見ても、貴族の若き後継者にふさわしい姿である。

「アメリア、急に呼び出すから驚いたよ。体調は大丈夫かい?」

「お気遣いありがとうございます。……どうぞお掛けになって」

 アメリアは丁寧に微笑み、用意していた封筒を彼の前にそっと置いた。

 ライナルトは不思議そうに眉をひそめ、封を開く。
 そして、数秒――。

「…………なんだ、これは?」

 声が低く、濁っていた。
 アメリアは眉を上げる。

「そのままの意味ですわ。公爵位は弟が継ぎます。
 私は引退し、少し静かな生活を送りたいのです」

「静かな生活……?」

 ライナルトは紙を握りしめ、ぎり、と歯を噛みしめた。

「アメリア。これは冗談にしては、悪質だぞ?」

「冗談ではありませんわ。すでに家族とも相談済みです」

 静かな返答に、彼の表情が一気に険しくなる。

「……待て。君は、グレイス家の長女で、“次期公爵”として扱われてきた。
 それを全部投げ捨てるというのか?」

「投げ捨てるわけではありません。弟に継いでもらうだけですわ。
 領地の将来を考えれば、最も良い選択だと思っています」

「では……私の立場はどうなる?」

 ようやく、本音が漏れる。
 アメリアは、目を細めた。

「ライナルト様の立場、ですか?」

「そうだ! 私は“グレイス公爵家の未来の夫”として、どれだけの期待と視線を浴びてきたと思っている!
 公爵家との婚姻は、ハイドラー家にとっても重要なはずだ!」

 アメリアの胸に冷たいものが流れる。

(ああ……やはり、こう来ましたのね)

「申し訳ありませんが、私は“公爵”であることを望んでおりませんわ。
 ライナルト様がどれほど期待されていようと、それは私の人生と関係ありません」

「……ふざけるな!」

 その瞬間、彼がテーブルを叩いた。
 アメリアは驚くどころか、逆に冷静になっていく。

「ふざけてなどいませんわ」

「……じゃあ何だ?
 公爵位がいらないというなら、いっそ――」

「いっそ、何と?」

 アメリアの声は落ち着いていた。
 ライナルトはぐっと唇を噛み、吐き捨てるように言った。

「俺に、公爵位を譲ることもできるだろう!」

「…………………………」

 一瞬、時が止まったようだった。

 アメリアは笑ってしまいそうになるのを堪えた。
 けれど、どうしても表情が引きつるのを止められない。

「……ライナルト様。
 それは、つまり――あなたは私の“夫”としてではなく、“公爵位”が欲しいのだと?」

「当然だろう!?
 領地も権限も財政も持たない――そんなもの、ただの飾りだ!
 公爵位こそ価値なのだ!」

「……なるほど」

 アメリアは静かに紅茶を口に運んだ。
 心は驚くほど冷えている。

 かつては穏やかで誠実に見えたこの人物が、
 こうして醜く本性をさらけ出している。

(……お父様、見えておりますかしら。
 この方は、こういう人だったのですよ)

「あなたの求めているものが、よく分かりましたわ」

 アメリアはスッと立ち上がった。

「ですが――」

 目の前の男を真っ直ぐに見据え、言葉を紡ぐ。

「公爵位は、譲りません。
 “あなたには”」

「アメリア……!」

「私は弟に譲ると、すでに決めております。
 あなたに渡すなど、あり得ませんわ」

 ライナルトの顔色が、怒りに染まる。

「考え直せ! これは家同士の問題だぞ!?
 お前がそんな勝手をしたら、周囲はどう思う!?
 誰もお前の味方など――」

「味方は必要ありませんわ」

 アメリアはきっぱりと告げた。

「私は隠居するからです」

「…………隠居?」

「ええ。私は公爵として生きる気はありません。
 だから、あなたに私を利用する理由はなくなりますわね?」

「ふざけるなっ!!」

 怒声がサロンに響く。

「婚約者としての義務を放棄しておいて、黙って隠居だと!?
 そんな勝手が許されると思うな!
 俺と結婚すれば、ハイドラー家の後ろ盾で公爵の地位を保ちながら――」

「申し訳ありませんが」

 アメリアの声は淡々としていた。

「あなたの“妻”になるつもりは、もう毛ほどもございませんので」

 その瞬間、ライナルトの顔に驚愕と怒りが混じる。

「……なんだと!?
 それは……婚約破棄を望むということか!?」

 アメリアは、静かに微笑んだ。

「ええ。
 あなたのような方と婚約を続ける理由は、もうありませんもの」

 ライナルトは、しばらく口を開けたまま固まっていた。
 そして、吐き捨てる。

「そんなことをしても……お前の将来など終わりだ!
 公爵位を持たず婚約破棄された女など、誰が欲しがるか!」

「誰にも求められなくて結構。
 私は“誰も求めるつもりがありません”ので」

「アメリア……!」

「では、これで失礼しますわ」

 アメリアは優雅に一礼し、侍従に扉を開かせて部屋を去った。

◆◆◆

 サロンを出た瞬間、アメリアは深く息を吸った。

「……はぁ」

 ため息というより、重荷を下ろした感覚だった。

(ああ……良かった。これで、もう悩む必要はありませんわね)

 先ほどのライナルトの言葉が、頭の中で反芻される。

――爵位を持たないお前に価値はない
――俺に公爵位を譲れ
――誰がお前の味方をする

(あの様子では、お父様が亡くなった直後でさえ、“公爵位”しか見えていなかったのでしょうね)

 婚約して二年。
 アメリアは、彼に対して好意こそ持たなかったものの、
 尊重し合える関係にはなれると信じていた。

 しかし――現実はこれである。

「むしろ……本性を見れて良かったですわ」

 アメリアは廊下の窓から差し込む陽光を見上げた。
 その光は、まるで新しい人生の幕開けを告げているようだった。

「明日、正式に婚約破棄の報告を出しましょう。
 そして、弟に公爵位を譲り……」

 静かに、穏やかに笑う。

「私の隠居生活を始めますわ」

 このとき、まだアメリアは知らない。
 この婚約破棄が、未来で“悪党貴族討伐”へと繋がることを――。


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