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第1章 婚約破棄と隠居の決意
1-4 隠居生活開始
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1-4 隠居生活開始
婚約破棄の翌日。
アメリアは早朝から最低限の荷物をまとめていた。
といっても、公爵家の娘の荷物は、そもそも膨大だ。
だがアメリアが別邸へ持ち出すつもりのものは、驚くほど少ない。
・お気に入りのティーセット
・読みかけの書物と蔵書の一部
・父の形見である古びた懐中時計
・動きやすい簡素な衣服数着
・裁縫道具と、隠居中に使うつもりの調合器具
そして、もうひとつ。
「……さて、これは置いていきましょうか」
目の前の美しい宝石箱に触れ、アメリアは微笑んだ。
中身は――婚約指輪。
もはや必要のないものだ。
「さようなら。私の人生には、もう出番はありませんわね」
そう呟き、指輪をそっと閉じた箱ごと机の奥にしまった。
◆◆◆
出立の準備を整えていると、廊下の向こうから駆け足の音が響いた。
「姉上っ!!」
弟ジークである。
彼は、まだ公爵としての正装がぎこちないながらも、それでも立派に見えた。
「どうしたんですの、そんなに慌てて」
アメリアが苦笑すると、ジークは何か言いたげに彼女の手を握った。
「本当に……行ってしまわれるのですか?」
「ええ。もう決めたことですわ」
「で、でも……!
姉上がいなければ、僕は……!」
「ジーク」
アメリアは優しい声で遮った。
「あなたは、すでに一人前です。
私がそばにいなくても、領地を守れるだけの力と器を持っていますわ」
「そんな……姉上のようには……」
「誰もあなたに、私のようになることを望んでいません。
あなたは、“あなたのまま”で立派な公爵になればよいのです」
ジークは何度も言葉を飲み込んだ。
「でも……でも……!」
兄妹の間に沈黙が落ちる。
アメリアは歩み寄ると、弟の額にそっと手を置いた。
「……甘えてはいけませんよ、ジーク。
誰かに頼らず、自分で考え、自分で決める。
失敗しても、その責任を受け止める。
それが『公爵』なのです」
「……姉上」
「それに」
アメリアは柔らかく微笑んだ。
「私は、あなたが一人で立てるようになる日を、ずっと待っていましたわ」
ジークの目に、悔しさとも悲しさともつかない光が揺れる。
「……はい。
姉上は……いつも僕の道を照らしてくれました。
僕も……その期待に応えたい」
「ええ。
あなたなら、どんな困難も越えられますわ」
ジークはしっかりと頷いた。
アメリアはその頭を軽く撫で、背を向ける。
「準備を整えますわね」
「……姉上。
……どうか、お体に気をつけて」
「あなたこそ。無理をなさらずに」
◆◆◆
午前十時――
アメリアは、公爵家から南へ二里ほど離れた森の別邸へ向かうため、馬車に乗り込んだ。
別邸は父が若い頃、一人で籠りたい時に使っていた場所だ。
静かな森に囲まれ、空気も澄んでいる。
政治の喧噪から離れ、誰にも邪魔されない。
――まさに隠居にふさわしい場所。
馬車がゆっくりと動き出す。
その振動に揺られながら、アメリアは窓の外を眺めた。
(……自由ですわね)
胸の奥から、ふわりと軽い空気が広がる。
これまで背負ってきた公爵令嬢としての責務、婚約者としての役割、
そして“期待”という名の重荷。
すべてを降ろして、今ようやく自分の人生を歩き始めるのだ。
「……ふふ。何をしようかしら」
お茶を淹れ、読書をし、気が向いたら昼寝をする。
それだけの単純な生活が、どれほど恋しかったことか。
「スコーンでも焼きましょうか。
それとも、ハーブ園を作り直すのも楽しそうですわね」
小さな計画を思い描くだけで、胸が満たされる。
◆◆◆
森に囲まれた別邸は、ひっそりと佇んでいた。
以前は父の使用人が数人いたが、今は管理人が掃除を続けているだけで、ほぼ空きの状態だ。
アメリアが降り立つと、管理人が深く頭を下げた。
「アメリア様、ようこそお戻りくださいました。
必要な部屋は整えております」
「ありがとうございます。しばらくこちらで過ごしますので、よろしくお願いいたします」
「はっ」
別邸は石造りで、木々の間から差し込む光で外壁が淡く輝いていた。
内部は手入れが行き届いており、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「やはり……落ち着きますわね」
アメリアは深く息を吸った。
庭には淡い薔薇が咲き、風がそよぐたび甘い香りを運んでくる。
鳥のさえずり、木々の揺れる音。
街の喧騒とは遥かに違う、静かな――まるで時間が止まったような空間だ。
(これこそ……私の求めていた生活)
◆◆◆
その日の午後、アメリアは簡素なエプロン姿でキッチンに立っていた。
「ふふ……こんな格好、見られたら驚かれるかしらね」
昔から料理やお菓子作りは好きだった。
公爵家では侍女が作ることが多かったが、隠居先では自由にできる。
今日はハーブティーとスコーンを準備することにした。
生地を捏ね、香草を混ぜ、オーブンに入れる。
焼ける香りが部屋いっぱいに広がると、アメリアの心は自然とほころんだ。
(……幸せですわ)
紅茶を淹れ、窓辺の椅子に座る。
森の緑が風に揺れ、光がきらめく。
アメリアは本を開き、カップへゆっくりと口を寄せる。
「最高のひととき、ですわね……」
ようやく訪れた静寂。
ようやく手に入れた自由。
この瞬間、アメリアは心から思った。
(このまま……ずっと暮らしていけたらいいのに)
本気でそう考えていた。
――この幸せが、永遠に続くと信じて。
◆◆◆
だが、その幸せは翌日、あっさりと破られる。
森の道を行き交う商人たちが、ある噂話を口にしていたのだ。
「この先の領地で、男爵様が村人を搾り取ってるってよ」
「娘を無理やり屋敷に連れていったとか……本当かねぇ」
「このままじゃ死人が出るんじゃないか、とも……」
アメリアはスコーンを食べかけのまま固まった。
(……は?)
耳を疑った。
(搾取? 娘を連れ去る? 死人が出る!?)
これがただの噂であればいい。
だが、アメリアの直感は――嫌な方へと告げていた。
「……事実だったら、貴族の風上にも置けませんわ」
静かな隠居は、一瞬で霧散した。
アメリアの目が、わずかに鋭く光る。
(……さすがに、見過ごせませんわね)
こうして、後に“仮面の令嬢”と呼ばれる女の影が生まれたのである。
婚約破棄の翌日。
アメリアは早朝から最低限の荷物をまとめていた。
といっても、公爵家の娘の荷物は、そもそも膨大だ。
だがアメリアが別邸へ持ち出すつもりのものは、驚くほど少ない。
・お気に入りのティーセット
・読みかけの書物と蔵書の一部
・父の形見である古びた懐中時計
・動きやすい簡素な衣服数着
・裁縫道具と、隠居中に使うつもりの調合器具
そして、もうひとつ。
「……さて、これは置いていきましょうか」
目の前の美しい宝石箱に触れ、アメリアは微笑んだ。
中身は――婚約指輪。
もはや必要のないものだ。
「さようなら。私の人生には、もう出番はありませんわね」
そう呟き、指輪をそっと閉じた箱ごと机の奥にしまった。
◆◆◆
出立の準備を整えていると、廊下の向こうから駆け足の音が響いた。
「姉上っ!!」
弟ジークである。
彼は、まだ公爵としての正装がぎこちないながらも、それでも立派に見えた。
「どうしたんですの、そんなに慌てて」
アメリアが苦笑すると、ジークは何か言いたげに彼女の手を握った。
「本当に……行ってしまわれるのですか?」
「ええ。もう決めたことですわ」
「で、でも……!
姉上がいなければ、僕は……!」
「ジーク」
アメリアは優しい声で遮った。
「あなたは、すでに一人前です。
私がそばにいなくても、領地を守れるだけの力と器を持っていますわ」
「そんな……姉上のようには……」
「誰もあなたに、私のようになることを望んでいません。
あなたは、“あなたのまま”で立派な公爵になればよいのです」
ジークは何度も言葉を飲み込んだ。
「でも……でも……!」
兄妹の間に沈黙が落ちる。
アメリアは歩み寄ると、弟の額にそっと手を置いた。
「……甘えてはいけませんよ、ジーク。
誰かに頼らず、自分で考え、自分で決める。
失敗しても、その責任を受け止める。
それが『公爵』なのです」
「……姉上」
「それに」
アメリアは柔らかく微笑んだ。
「私は、あなたが一人で立てるようになる日を、ずっと待っていましたわ」
ジークの目に、悔しさとも悲しさともつかない光が揺れる。
「……はい。
姉上は……いつも僕の道を照らしてくれました。
僕も……その期待に応えたい」
「ええ。
あなたなら、どんな困難も越えられますわ」
ジークはしっかりと頷いた。
アメリアはその頭を軽く撫で、背を向ける。
「準備を整えますわね」
「……姉上。
……どうか、お体に気をつけて」
「あなたこそ。無理をなさらずに」
◆◆◆
午前十時――
アメリアは、公爵家から南へ二里ほど離れた森の別邸へ向かうため、馬車に乗り込んだ。
別邸は父が若い頃、一人で籠りたい時に使っていた場所だ。
静かな森に囲まれ、空気も澄んでいる。
政治の喧噪から離れ、誰にも邪魔されない。
――まさに隠居にふさわしい場所。
馬車がゆっくりと動き出す。
その振動に揺られながら、アメリアは窓の外を眺めた。
(……自由ですわね)
胸の奥から、ふわりと軽い空気が広がる。
これまで背負ってきた公爵令嬢としての責務、婚約者としての役割、
そして“期待”という名の重荷。
すべてを降ろして、今ようやく自分の人生を歩き始めるのだ。
「……ふふ。何をしようかしら」
お茶を淹れ、読書をし、気が向いたら昼寝をする。
それだけの単純な生活が、どれほど恋しかったことか。
「スコーンでも焼きましょうか。
それとも、ハーブ園を作り直すのも楽しそうですわね」
小さな計画を思い描くだけで、胸が満たされる。
◆◆◆
森に囲まれた別邸は、ひっそりと佇んでいた。
以前は父の使用人が数人いたが、今は管理人が掃除を続けているだけで、ほぼ空きの状態だ。
アメリアが降り立つと、管理人が深く頭を下げた。
「アメリア様、ようこそお戻りくださいました。
必要な部屋は整えております」
「ありがとうございます。しばらくこちらで過ごしますので、よろしくお願いいたします」
「はっ」
別邸は石造りで、木々の間から差し込む光で外壁が淡く輝いていた。
内部は手入れが行き届いており、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「やはり……落ち着きますわね」
アメリアは深く息を吸った。
庭には淡い薔薇が咲き、風がそよぐたび甘い香りを運んでくる。
鳥のさえずり、木々の揺れる音。
街の喧騒とは遥かに違う、静かな――まるで時間が止まったような空間だ。
(これこそ……私の求めていた生活)
◆◆◆
その日の午後、アメリアは簡素なエプロン姿でキッチンに立っていた。
「ふふ……こんな格好、見られたら驚かれるかしらね」
昔から料理やお菓子作りは好きだった。
公爵家では侍女が作ることが多かったが、隠居先では自由にできる。
今日はハーブティーとスコーンを準備することにした。
生地を捏ね、香草を混ぜ、オーブンに入れる。
焼ける香りが部屋いっぱいに広がると、アメリアの心は自然とほころんだ。
(……幸せですわ)
紅茶を淹れ、窓辺の椅子に座る。
森の緑が風に揺れ、光がきらめく。
アメリアは本を開き、カップへゆっくりと口を寄せる。
「最高のひととき、ですわね……」
ようやく訪れた静寂。
ようやく手に入れた自由。
この瞬間、アメリアは心から思った。
(このまま……ずっと暮らしていけたらいいのに)
本気でそう考えていた。
――この幸せが、永遠に続くと信じて。
◆◆◆
だが、その幸せは翌日、あっさりと破られる。
森の道を行き交う商人たちが、ある噂話を口にしていたのだ。
「この先の領地で、男爵様が村人を搾り取ってるってよ」
「娘を無理やり屋敷に連れていったとか……本当かねぇ」
「このままじゃ死人が出るんじゃないか、とも……」
アメリアはスコーンを食べかけのまま固まった。
(……は?)
耳を疑った。
(搾取? 娘を連れ去る? 死人が出る!?)
これがただの噂であればいい。
だが、アメリアの直感は――嫌な方へと告げていた。
「……事実だったら、貴族の風上にも置けませんわ」
静かな隠居は、一瞬で霧散した。
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