6 / 27
第2章「影の騎士との盟約」
2-1 騎士団の訓練場
しおりを挟む
2-1 騎士団の訓練場
朝焼けが雪原を黄金に染めていた。
辺境の空気は王都のそれとは違う――冷たくも澄んでいて、息を吸い込むたび胸が洗われるようだった。
「……ふぅ」
ルナリエは吐く息を見つめながら、木製のバケツを両手に抱えた。
中にはまだ温かい湯が揺れている。
今朝の仕事は、騎士たちの訓練場の準備。馬の世話、水汲み、剣の整備――どれも貴族令嬢の手が触れたことのない仕事ばかりだ。
「王女様が水汲みとはな。夢でも見てる気分だ」
訓練場の一角で剣を振っていた若い騎士が、冗談めかして笑った。
ルナリエは笑みを返す。
「王女ではなく、ただのルナリエですわ。夢ではなく、現実です」
「ははっ、肝の据わったお嬢さんだ」
軽口を交わす騎士の笑顔に、ほんの少し勇気をもらう。
かつて王宮で“氷の姫”と呼ばれていた頃は、笑い返すことすらできなかった。
今は――少しだけ、違う。
そこへ、低い声が響いた。
「雑談はそこまでにしておけ」
振り向くと、オルヴィンが立っていた。
朝の光を背に受け、その姿は影のように引き締まっている。
彼の存在だけで、場の空気が自然と引き締まった。
「オルヴィン様、おはようございます」
「……様はやめろ。俺はただの辺境の騎士だ」
「では、“団長”とお呼びしますわ」
「それもやめろ」
「では……オルヴィン」
その名を呼んだ瞬間、彼の眉がわずかに動く。
火のように照れてはいない。だが、その沈黙がどこか心地よかった。
オルヴィンは訓練場を一巡してから、ルナリエの手元に視線を落とした。
「その手、赤くなっているな」
「……え?」
見下ろすと、冷たい水で皮膚がひび割れ、指先が赤く染まっていた。
ルナリエは慌てて隠す。
「大丈夫ですわ。これくらい」
「“これくらい”を放っておくのが一番危ない」
彼は小瓶を取り出し、無言で差し出す。
「薬草の軟膏だ。塗っておけ」
「……ありがとうございます」
「感謝はいい。仕事を覚える方が先だ」
冷たい口調のくせに、手当てだけは抜け目がない。
その不器用さが、なんだか少し嬉しかった。
訓練場では木剣の音が響いている。
騎士たちが剣を振り、互いに打ち合い、汗を飛ばす。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな衝動が芽生えた。
(わたくしも……いつか、誰かを守る力を)
その瞬間、オルヴィンの声が響く。
「ルナリエ。お前もやってみるか?」
「……え?」
「木剣だ。重さを知っておくのも悪くない」
彼が差し出した木剣を、両手で受け取る。
ずっしりとした重みが腕に伝わる。
「……想像以上に、重いですわ」
「その重さを軽く感じられるようになるのが、戦う者だ」
オルヴィンは彼女の背後に立ち、そっと手を添える。
「腰を落とせ。力は腕じゃなく、足と背で支える」
「こ、こうですの?」
「違う。肩の力を抜け」
彼の手が腰に触れた瞬間、ルナリエの心臓が跳ねた。
「ちょ、ちょっと……近いですわ!」
「手本を見せているだけだ」
「“だけ”とおっしゃいますけど……っ!」
頬が熱くなっているのを隠せない。
けれど、教え方は真剣そのものだ。
指先一つの角度まで、正確に導かれる。
「……はい、今の姿勢でいい」
「こ、こうですの?」
「そうだ。そのまま一度、振ってみろ」
――ヒュッ。
木剣が風を切り、わずかに雪を散らした。
初めてにしては形になっている。
オルヴィンが小さく頷く。
「悪くない。だが、まだ心が揺れている」
「心、ですか?」
「剣は鏡だ。迷いがあれば、軌道がぶれる」
ルナリエは深く息を吸い、目を閉じた。
浮かんだのは、王宮の嘲笑でも、夜会の屈辱でもなく――
焚き火の夜に誓った自分自身の言葉。
(もう、他人に決められた人生は歩まない)
再び目を開け、木剣を振る。
風が鳴った。雪が舞い上がる。
その音を聞いたオルヴィンの瞳に、一瞬だけ微かな光が宿る。
「……今のは悪くない」
「ありがとうございます」
ルナリエは微笑んだ。
氷の姫ではなく、ひとりの“見習い”として笑えた気がした。
夕暮れ時、訓練を終えた彼女の手のひらには、小さな豆ができていた。
痛みよりも、その証が嬉しかった。
「明日もやるのか?」
「ええ。明日も」
「無理はするな」
「あなたが言うと、少しだけ安心しますわ」
「……そうか」
オルヴィンが短く答え、背を向ける。
雪がまた降り始めていた。
その白い中で、ルナリエは心の中で静かに呟く。
――この人となら、わたくしはきっと変われる。
そして、まだ知らなかった。
この日が、“氷の王女”としてではなく“ルナ”として生きる最初の朝だったことを。
-
朝焼けが雪原を黄金に染めていた。
辺境の空気は王都のそれとは違う――冷たくも澄んでいて、息を吸い込むたび胸が洗われるようだった。
「……ふぅ」
ルナリエは吐く息を見つめながら、木製のバケツを両手に抱えた。
中にはまだ温かい湯が揺れている。
今朝の仕事は、騎士たちの訓練場の準備。馬の世話、水汲み、剣の整備――どれも貴族令嬢の手が触れたことのない仕事ばかりだ。
「王女様が水汲みとはな。夢でも見てる気分だ」
訓練場の一角で剣を振っていた若い騎士が、冗談めかして笑った。
ルナリエは笑みを返す。
「王女ではなく、ただのルナリエですわ。夢ではなく、現実です」
「ははっ、肝の据わったお嬢さんだ」
軽口を交わす騎士の笑顔に、ほんの少し勇気をもらう。
かつて王宮で“氷の姫”と呼ばれていた頃は、笑い返すことすらできなかった。
今は――少しだけ、違う。
そこへ、低い声が響いた。
「雑談はそこまでにしておけ」
振り向くと、オルヴィンが立っていた。
朝の光を背に受け、その姿は影のように引き締まっている。
彼の存在だけで、場の空気が自然と引き締まった。
「オルヴィン様、おはようございます」
「……様はやめろ。俺はただの辺境の騎士だ」
「では、“団長”とお呼びしますわ」
「それもやめろ」
「では……オルヴィン」
その名を呼んだ瞬間、彼の眉がわずかに動く。
火のように照れてはいない。だが、その沈黙がどこか心地よかった。
オルヴィンは訓練場を一巡してから、ルナリエの手元に視線を落とした。
「その手、赤くなっているな」
「……え?」
見下ろすと、冷たい水で皮膚がひび割れ、指先が赤く染まっていた。
ルナリエは慌てて隠す。
「大丈夫ですわ。これくらい」
「“これくらい”を放っておくのが一番危ない」
彼は小瓶を取り出し、無言で差し出す。
「薬草の軟膏だ。塗っておけ」
「……ありがとうございます」
「感謝はいい。仕事を覚える方が先だ」
冷たい口調のくせに、手当てだけは抜け目がない。
その不器用さが、なんだか少し嬉しかった。
訓練場では木剣の音が響いている。
騎士たちが剣を振り、互いに打ち合い、汗を飛ばす。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな衝動が芽生えた。
(わたくしも……いつか、誰かを守る力を)
その瞬間、オルヴィンの声が響く。
「ルナリエ。お前もやってみるか?」
「……え?」
「木剣だ。重さを知っておくのも悪くない」
彼が差し出した木剣を、両手で受け取る。
ずっしりとした重みが腕に伝わる。
「……想像以上に、重いですわ」
「その重さを軽く感じられるようになるのが、戦う者だ」
オルヴィンは彼女の背後に立ち、そっと手を添える。
「腰を落とせ。力は腕じゃなく、足と背で支える」
「こ、こうですの?」
「違う。肩の力を抜け」
彼の手が腰に触れた瞬間、ルナリエの心臓が跳ねた。
「ちょ、ちょっと……近いですわ!」
「手本を見せているだけだ」
「“だけ”とおっしゃいますけど……っ!」
頬が熱くなっているのを隠せない。
けれど、教え方は真剣そのものだ。
指先一つの角度まで、正確に導かれる。
「……はい、今の姿勢でいい」
「こ、こうですの?」
「そうだ。そのまま一度、振ってみろ」
――ヒュッ。
木剣が風を切り、わずかに雪を散らした。
初めてにしては形になっている。
オルヴィンが小さく頷く。
「悪くない。だが、まだ心が揺れている」
「心、ですか?」
「剣は鏡だ。迷いがあれば、軌道がぶれる」
ルナリエは深く息を吸い、目を閉じた。
浮かんだのは、王宮の嘲笑でも、夜会の屈辱でもなく――
焚き火の夜に誓った自分自身の言葉。
(もう、他人に決められた人生は歩まない)
再び目を開け、木剣を振る。
風が鳴った。雪が舞い上がる。
その音を聞いたオルヴィンの瞳に、一瞬だけ微かな光が宿る。
「……今のは悪くない」
「ありがとうございます」
ルナリエは微笑んだ。
氷の姫ではなく、ひとりの“見習い”として笑えた気がした。
夕暮れ時、訓練を終えた彼女の手のひらには、小さな豆ができていた。
痛みよりも、その証が嬉しかった。
「明日もやるのか?」
「ええ。明日も」
「無理はするな」
「あなたが言うと、少しだけ安心しますわ」
「……そうか」
オルヴィンが短く答え、背を向ける。
雪がまた降り始めていた。
その白い中で、ルナリエは心の中で静かに呟く。
――この人となら、わたくしはきっと変われる。
そして、まだ知らなかった。
この日が、“氷の王女”としてではなく“ルナ”として生きる最初の朝だったことを。
-
0
あなたにおすすめの小説
借りてきたカレ
しじましろ
恋愛
都合の良い存在であるはずのレンタル彼氏に振り回されて……
あらすじ
システムエンジニアの萩野みさをは、仕事中毒でゾンビのような見た目になるほど働いている。
人の良さにつけ込まれ、面倒な仕事を押しつけられたり、必要のない物を買わされたり、損ばかりしているが、本人は好きでやっていることとあまり気にしていない。
人並みに結婚願望はあるものの、三十歳過ぎても男性経験はゼロ。
しかし、レンタル彼氏・キキとの出会いが、そんな色の無いみさをの日常を大きく変えていく。
基本的にはカラッと明るいラブコメですが、生き馬の目を抜くIT企業のお仕事ものでもあるので、癖のあるサブキャラや意外な展開もお楽しみください!
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
「わざわざ始まるまでまたないで、今のうちに手を打ったってよくない?」
イチイ アキラ
恋愛
アスター公爵令嬢エステルは、夢をみる。それは先を映す夢。
ある日、夢をみた。
この国の未来を。
それをアルフレッド王太子に相談する。彼女を愛して止まない婚約者に。
彼は言う。
愛する君とぼくの国のためなら、未来を変えるのも仕方なくない?
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
悪役令嬢まさかの『家出』
にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。
一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。
ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。
帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!
ぽっちゃり侯爵と大食い令嬢の甘い婚約生活
piyo
恋愛
女性秘書官として働きながら、“大食い令嬢”の異名を持つダニエラ。そんな彼女に、上司のガリウスがひとつの縁談を持ってくる。
相手は名門オウネル侯爵家の当主、キーレン・オウネル。
大変ふくよかな体形の彼は、自分と同じように食を楽しんでくれる相手を探していた。
一方のダニエラも、自分と同じくらいの食欲のある伴侶を求めていたため、お茶会を通じて二人は晴れて婚約者となる。
ゆっくりと距離を縮め、穏やかに愛を育んでいく二人だが、
結婚式の半年前、キーレンが交易交渉のため国外へ赴くことになり――
※なろうにも掲載しています
ギルド回収人は勇者をも背負う ~ボロ雑巾のようになった冒険者をおんぶしたら惚れられた~
水無月礼人
恋愛
私は冒険者ギルド職員ロックウィーナ。25歳の女で担当は回収役。冒険者の落し物、遺品、時には冒険者自体をも背負います!
素敵な恋愛に憧れているのに培われるのは筋肉だけ。
しかし無駄に顔が良い先輩と出動した先で、行き倒れた美形剣士を背負ってから私の人生は一変。初のモテ期が到来です!!
……とか思ってウハウハしていたら何やら不穏な空気。ええ!?
私の選択次第で世界がループして崩壊の危機!? そんな結末は認めない!!!!
※【エブリスタ】でも公開しています。
【エブリスタ小説大賞2023 講談社 女性コミック9誌合同マンガ原作賞】で優秀作品に選ばれました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる