氷の王女と影の騎士 ――誓いの逆転婚姻

しおしお

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第2章「影の騎士との盟約」

2-1 騎士団の訓練場

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2-1 騎士団の訓練場

朝焼けが雪原を黄金に染めていた。
辺境の空気は王都のそれとは違う――冷たくも澄んでいて、息を吸い込むたび胸が洗われるようだった。

「……ふぅ」
ルナリエは吐く息を見つめながら、木製のバケツを両手に抱えた。
中にはまだ温かい湯が揺れている。
今朝の仕事は、騎士たちの訓練場の準備。馬の世話、水汲み、剣の整備――どれも貴族令嬢の手が触れたことのない仕事ばかりだ。

「王女様が水汲みとはな。夢でも見てる気分だ」
訓練場の一角で剣を振っていた若い騎士が、冗談めかして笑った。
ルナリエは笑みを返す。
「王女ではなく、ただのルナリエですわ。夢ではなく、現実です」

「ははっ、肝の据わったお嬢さんだ」
軽口を交わす騎士の笑顔に、ほんの少し勇気をもらう。
かつて王宮で“氷の姫”と呼ばれていた頃は、笑い返すことすらできなかった。
今は――少しだけ、違う。

そこへ、低い声が響いた。
「雑談はそこまでにしておけ」

振り向くと、オルヴィンが立っていた。
朝の光を背に受け、その姿は影のように引き締まっている。
彼の存在だけで、場の空気が自然と引き締まった。

「オルヴィン様、おはようございます」
「……様はやめろ。俺はただの辺境の騎士だ」
「では、“団長”とお呼びしますわ」
「それもやめろ」
「では……オルヴィン」
その名を呼んだ瞬間、彼の眉がわずかに動く。
火のように照れてはいない。だが、その沈黙がどこか心地よかった。

オルヴィンは訓練場を一巡してから、ルナリエの手元に視線を落とした。
「その手、赤くなっているな」
「……え?」
見下ろすと、冷たい水で皮膚がひび割れ、指先が赤く染まっていた。
ルナリエは慌てて隠す。
「大丈夫ですわ。これくらい」
「“これくらい”を放っておくのが一番危ない」
彼は小瓶を取り出し、無言で差し出す。
「薬草の軟膏だ。塗っておけ」
「……ありがとうございます」
「感謝はいい。仕事を覚える方が先だ」

冷たい口調のくせに、手当てだけは抜け目がない。
その不器用さが、なんだか少し嬉しかった。

訓練場では木剣の音が響いている。
騎士たちが剣を振り、互いに打ち合い、汗を飛ばす。
その姿を見ていると、胸の奥に小さな衝動が芽生えた。

(わたくしも……いつか、誰かを守る力を)

その瞬間、オルヴィンの声が響く。
「ルナリエ。お前もやってみるか?」

「……え?」
「木剣だ。重さを知っておくのも悪くない」

彼が差し出した木剣を、両手で受け取る。
ずっしりとした重みが腕に伝わる。
「……想像以上に、重いですわ」
「その重さを軽く感じられるようになるのが、戦う者だ」

オルヴィンは彼女の背後に立ち、そっと手を添える。
「腰を落とせ。力は腕じゃなく、足と背で支える」
「こ、こうですの?」
「違う。肩の力を抜け」
彼の手が腰に触れた瞬間、ルナリエの心臓が跳ねた。
「ちょ、ちょっと……近いですわ!」
「手本を見せているだけだ」
「“だけ”とおっしゃいますけど……っ!」

頬が熱くなっているのを隠せない。
けれど、教え方は真剣そのものだ。
指先一つの角度まで、正確に導かれる。

「……はい、今の姿勢でいい」
「こ、こうですの?」
「そうだ。そのまま一度、振ってみろ」

――ヒュッ。
木剣が風を切り、わずかに雪を散らした。
初めてにしては形になっている。
オルヴィンが小さく頷く。
「悪くない。だが、まだ心が揺れている」
「心、ですか?」
「剣は鏡だ。迷いがあれば、軌道がぶれる」

ルナリエは深く息を吸い、目を閉じた。
浮かんだのは、王宮の嘲笑でも、夜会の屈辱でもなく――
焚き火の夜に誓った自分自身の言葉。

(もう、他人に決められた人生は歩まない)

再び目を開け、木剣を振る。
風が鳴った。雪が舞い上がる。
その音を聞いたオルヴィンの瞳に、一瞬だけ微かな光が宿る。

「……今のは悪くない」
「ありがとうございます」
ルナリエは微笑んだ。
氷の姫ではなく、ひとりの“見習い”として笑えた気がした。

夕暮れ時、訓練を終えた彼女の手のひらには、小さな豆ができていた。
痛みよりも、その証が嬉しかった。

「明日もやるのか?」
「ええ。明日も」
「無理はするな」
「あなたが言うと、少しだけ安心しますわ」
「……そうか」

オルヴィンが短く答え、背を向ける。
雪がまた降り始めていた。
その白い中で、ルナリエは心の中で静かに呟く。

――この人となら、わたくしはきっと変われる。

そして、まだ知らなかった。
この日が、“氷の王女”としてではなく“ルナ”として生きる最初の朝だったことを。


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