氷の王女と影の騎士 ――誓いの逆転婚姻

しおしお

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第2章「影の騎士との盟約」

2-3 民の声

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2-3 民の声

朝、辺境の空は灰色の雲に覆われていた。
雪はやみ、しかし寒さは骨の髄まで染み込むよう。

ルナリエは、厚手の外套に身を包みながら村を歩いていた。
手には小さなバスケット。中には焼きたてのパンと、昨日のうちに仕込んだハーブバター。
訓練ばかりではなく、村人の生活を知ることも彼女の日課になりつつあった。

「おや、ルナリエさん。今日も早いねえ」
パン屋の女主人が、粉だらけの手で笑いかけてくる。
「おはようございます。お手伝いをしたくて……」
「まあまあ、貴族様が粉まみれになるなんて。変わった人だねぇ」

その言葉を、ルナリエは笑って受け流した。
“貴族様”と呼ばれても、もはや誇らしくもなんともない。
むしろ、こうして普通に名を呼ばれる方が嬉しかった。

彼女は女主人と一緒に、パン生地を丸めてオーブンへ入れる。
焼き上がる香ばしい匂いが、心まで温めてくれる。

――こんな香り、王宮では嗅いだことがなかった。
いつも漂っていたのは香水と金属の匂い。
人の温もりのない“贅沢”ばかりだった。

「……いい匂いですわね」
「そうだろう? 腹が減ってる時にこれを嗅いだら、戦も忘れちまうよ」
「ふふっ……平和の秘訣ですわね」

笑い合う声。
それだけで、この地が少しずつ彼女の居場所になっていく気がした。

――だが、その日の午後。

村の広場で、彼女は耳を疑うような言葉を聞くことになる。

「税が……また上がるってよ」
「え? この冬に?」
「王都の新しい法令だってさ。聖女様の“祈りの儀式”に必要なんだと」
「バカらしい! こっちは食うにも困ってんのに!」

怒号に近い声が飛び交う。
人々の顔には疲労と不安が刻まれていた。
老人がため息をつく。
「“聖女”エリザ様とやらが現れてから、王様も王太子様も民の声を聞かなくなった……」

エリザ――。
あの名を聞いた瞬間、ルナリエの心がわずかに凍る。
あの女の“真実の愛”が、どれほど多くの人を苦しめているのか。
かつて自分がいた王宮が、どれほど腐っていたのか。

彼女は拳を握りしめた。
(わたくしは、見て見ぬふりをしていたのですね……)

王宮では聞こえなかった“民の声”。
それが今、こんなにも生々しく響く。

「ルナリエさん……」
隣でオルヴィンが声をかけた。いつの間にか彼も広場に来ていた。
「顔色が悪いぞ」
「……ええ、少し。ですが、これが現実なのですね」

「現実を知るのは苦い。だが、目を背ける方が罪だ」

ルナリエは静かに頷いた。
「……なら、わたくしも罪を償わなくては」

その夜、彼女は蝋燭の光の下で小さな帳簿を開いた。
パン屋で得た少額の報酬を、こつこつと記していく。
「どうする気だ?」
「村の子供たちに靴を買いたいのです。雪の中を裸足で歩いている子を見ました」
「……王女がすることじゃない」
「もう王女ではありませんわ」

そう言い切ったルナリエの目は、確かな光を宿していた。

数日後、村の子供たちが新しい靴を履いて走り回る姿を見て、村人たちは口々に言った。
「ありがてぇ……“白雪の娘様”のおかげだ」
「娘様に神のご加護を!」

その呼び名を聞いて、ルナリエは苦笑した。
「……また称号がついてしまいましたわね」
「悪い呼び名ではない。民はお前を慕っている」
「でも、わたくしは神ではありません」
「だからこそ、信じられるんだろう」

オルヴィンの言葉に、ルナリエははっとした。

王女だったころ、誰も彼女を“信じる対象”とは見なさなかった。
ただ“象徴”として、冷たく遠い存在に祀り上げられていたのだ。
けれど今――彼女は、血の通った“誰か”として、見られている。

夕暮れ、焚き火を囲む子供たちがルナリエに駆け寄った。
「ルナ様! 雪だるま一緒につくろ!」
「ルナ様、パン焼き手伝うー!」
「“様”はやめて。ルナでいいですわ」
「じゃあ……ルナ!」

その笑顔に、胸が熱くなる。
氷の心に、確かに春が宿っていた。

「……ねえ、オルヴィン」
「なんだ」
「わたくし、この村が好きですわ」
「そうか」
「ええ。ここでなら、“氷の王女”ではなく、“ルナ”として生きていける気がします」

オルヴィンはわずかに目を細め、空を見上げた。
雪が、静かに降り始めていた。

「それでいい。名や称号を失っても、お前が光であることに変わりはない」
「……光、ですか?」
「影は、光がなければ存在しない」

ルナリエはその言葉を胸の奥で反芻した。
彼の言う“影”とは、自分の歩む道のことなのか、それとも――彼自身のことなのか。

だが、その答えを知るよりも先に、遠くで馬の蹄の音が鳴り響いた。

「……王都からの使者です!」

騎士が駆け込んでくる。
空気が一気に緊張に包まれた。

ルナリエは、冷たい風の中で立ち上がる。
民の笑顔を背にして、彼女の表情は再び“王女”のものに戻っていた。

「……わかりました。行きましょう、オルヴィン」

氷の姫が、再び試されるときが来た。


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