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第670話 番外編『本当の愛』

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 地下に送られた絵美里は、もう何もかも考えるのを放棄していた。本物のアリスには敵わない。乃亜はどこへ行ってもやっぱり絵美里を見ない。

 面と向かって「消えてくれ」と言われたことで、忘れかけていた何かを思い出す。乃亜は、恥ずかしくて絵美里と目を合わせてくれなかったのではない。単純に絵美里が嫌いだったから。それはあちらに居た時に嫌という程感じていたではないか。

 それなのに、何故あんなにも乃亜に執着したのだろう?

 その答えはとても簡単だった。絵美里こそ、乃亜がいなければ何も出来なかったのだ。

「ふむ、アリスの奴め、余計な仕事を回しよって」

 せっかく地上に出て皆と戦闘準備をしていたというのに、突然ノアからアリスが絵美里を地下にのディノの部屋に送ったので処遇をよろしく、と言われ渋々戻ってきた妖精王だったが、目の前の項垂れて座り込んだままピクリとも動かない絵美里を見てため息を落とした。

「どうするの? この子」
「どうしたものかな……観測者、そなたは何か良い案はないか? この娘はこの世界に居る限りこれからもずっとノアにちょっかいをかけて回るぞ」
「そうねぇ……一番良いのはあちらの妖精王に頼む事かしらね。この状態のままあっちに返したって、絶対にこの子こっちに戻ってくるもの」

 カインとルイスにくっついて地上に出ていた観測者は、リーゼロッテの代わりにここへ呼ばれた。絵美里はとても凶暴だから極力リーゼロッテと会わせたくないオズワルドが、直接観測者にメッセージを送ってきたのだ。

「もう……ノアには近づかないわ」

 妖精王と観測者の言葉を聞いて絵美里がポツリと言うと、観測者がにっこり笑って絵美里の顔を覗き込んできた。

「ごめんなさいねぇ。あなたの言う事はもう何も信用出来ないのよぉ。あなた、これまで自分がしてきた事を、お咎めなしでこのまま開放されるとでも思ってるの?」
「それは……私だってアリスみたいに生きたかっただけよ。私とアリスの何が違うの? 何が違うって言うのよ!」

 そうだ。自己満足で周りを巻き込むばかりのアリスと自分と、一体何が違うのだ! 

「あなた本気で言ってるの? だとしたら認知が相当歪んでるわね。妖精王、前言撤回するわ。この子、多分転生させてしまった方が良いと思うわ」
「……そうだな。可哀想だがそれしかあるまい。こういう気性の魂は穏やかな星では生きづらいだろうから、真名書から名を消すか」
「ま、待ってよ! 私を殺すつもり!? 冗談でしょ!?」

 転生者の命をそんな簡単に奪ってもいいのか? あちらの世界の物語では転生者は最後には必ず報われていたはずだ。少なくとも、絵美里がアリスの話を作るために集めた資料ではそうだった。

「殺しはせぬぞ。我らにそんな権限は無いからな。ただ、次の転生先はこの星でも姉妹星でも無い、どこか遠い星になる。お前の魂は、未来永劫ノアの魂と交わる事はもう無いのだ。それがそなたへの罰だ」
「い、嫌よ! 次の人生こそ私は乃亜と幸せになるのよ!」
「それは無理だ。ここだけの話だが、ノアの魂はそれこそ未来永劫アリスと結びついている。あの二人は、どんなに離れていても必ず結ばれるようになっているのだ」
「不思議よねぇ。前回もそうだったのよね?」
「ああ。不思議なものでな、調べるとそれ以前もずーっとそうなのだ。あの二人はどの時代でもどの世界に居ても時間や次元を超えてまで常に一つになる。もしかしたら元は一つの魂だったのかもしれんな」
「私に言わせればあれこそ恐怖だわ。何が可哀想って、周りに居る子達も皆あの二人に引っ張られるのよね、いつも」
「うむ……誰一人として平々凡々な人生を送らないのがあいつらの魂の特徴だな……リー君とオリバーの魂など、毎度毎度巻き込まれてそれはもう不憫でな」

 そう言って妖精王はアリスとアリスの周りの人間の魂の今までとこれからを思って涙を拭う振りをする。

「そういう意味では稀有な魂よね。そういう訳だからね、あなたが付け入る隙間って本当に無いのよ、残念なんだけど」
「嘘よ! そんなの絶対に嘘! だって、私達は前世ではそれは仲の良い夫婦で、それで――」

 そう、そんな夢をずっと見ていたのだ。乃亜に恋をしたあの日から、ずっとそういう夢を見てきた。それなのに乃亜は一度たりとも絵美里など見ない。

「で、この子の処遇はどうするの?」
「そうだな……とりあえず狭間に落としておくか。全て片付いてからでもいいだろう」
「そうやって先延ばしにして、後で忘れないようにね?」
「うむ、流石に狭間に長いこと置いておく訳にはいかないからな! それでは絵美里、お前の処遇はとりあえず保留だ。けれど、ここへは二度と戻れないと思っておけ」
「い、嫌よ! 嫌! 乃亜の居ない世界なんて、そんなの絶対に嫌なの! お願い! 何でもするから! ちゃんと言う事も聞くか――」

 絵美里が最後まで言い終える前に、妖精王が手を上げて世界は真っ白になった。周りには何も無い。ただの真っ白な空間だ。ここはどこだろう? 妖精王は狭間に落とすと言っていたが、狭間とは一体何なのだろう?

 よく分からないけれど、絵美里はとりあえず立ち上がって歩き出した。

 けれど、どこまで歩いても真っ白で、やはり何も無い。その時だ。どこからともなく男の声が聞こえてきた。どこかで聞いた事のある声だ。この声は一体誰の声だったか。

『絵美里、お前は本当に好き勝手してたよな。乃亜に何回ストーカー被害出されても、めげずにまた乃亜を追いかけて……でもよぉ、こんな形で追いかけなくても良かったんじゃないのか? 何でこんな愛し方しか出来なかったんだよ?』

 男の声が徐々にハッキリしてきた。この声は槇だ。槇がどこに居て何故絵美里に話しかけているのかは分からないが、その声はあまりにも寂しそうで悲しそうだった。

『俺は何回もお前に言ったな? お前の生い立ちは悲惨だ。あんな愛し方しか出来なくなっても仕方ない。でも、母親と同じような女にはなるなってあれほど言ったよな? 自制を覚えろって。乃亜の墓を暴いたのは母親と同じ事をしようとしたのか? 乃亜を食べようとしたのか? 俺はお前たちの生き方を否定しない。俺はお前らの本当の家族じゃないからな。でも……俺はお前たちの事を息子と娘みたいに思ってたんだぞ。それをお前らときたら……ふざけるなよ。二人揃って俺より先に逝くなんて……ふざけるなよ!』

 槇の声はそこで途絶えた。

「槇なんて嫌い……いっつも私と乃亜の邪魔する。でも……私のことを人食いの娘って言わなかった大人は槇だけ……」

 父親が母親に殺され、母親は父親の遺体を食べていた。忘れもしない、6歳の頃の寒い日の深夜3時。あの時の光景は今も脳裏にこびりついている。

 母親は言った。「これでやっと、この人が手に入ったのよ」と、嬉しそうに真っ赤な口紅を引いたみたいに父親の血で唇を赤く染めながら笑っていた。

 その光景はゾッとして怖かったのに美しくて、それが究極の愛なのだと思った。愛する人と一つになるには、食べればいいのだ。そうすればいつまでも一緒にいられる。

 その後、世間では母親は悪魔だと罵られ、マスコミが四六時中家に押しかけ、近所付き合いも無かった人たちが皆して母親を悪く言う。大して話をした事も無いのに、まるで以前からずっと知っていたかのような顔をして絵美里が可哀想だ、と。

 スマホの中でも知らない人たちが絵美里の事を褒めたり嘆いたり蔑んだりしていた。母親はまるで人では無いかのように扱われ、家にほとんど帰ってこず外に愛人ばかり作っていた暴力的な父親が同情を集める。

 それからしばらく病院に居た絵美里は、その後孤児院に引き取られた。人食いの娘なんて親戚は誰も引き取りたがらなかった。当然だ。

 乃亜が孤児院にやって来た時の事は今もよく覚えている。乃亜が孤児院にやってきたのはそこそこ大きくなってからだったが、乃亜は絵美里以上に周りに馴染まず、孤独だった。そんな孤独を抱えた乃亜の側にいるのは、とても居心地が良かったのだ。だから執拗に乃亜に絡んだ。乃亜と家族になる事ができれば、きっとこの時々訪れる衝動も忘れる事が出来るはずだ。そう思い込んでいたのだ。

 この場所は不思議な所だった。真っ白で何もなくて、絵美里もただの絵美里に戻ってしまう。殺人鬼で人食いの娘ではない、ただの絵美里に。

 そうすると今度は怖くなってきた。何も無い事が怖くて仕方なくなってきたのだ。

『なぁ絵美里、今からでも戻って来いよ。乃亜はもう違う世界で幸せを見つけたんだそうだ。お前だってそろそろ幸せになってもいいだろ? 世間ではお前のことを覚えてた奴らがまた面白おかしく書き立てて遊んでるよ。身勝手な正義を振りかざして、自分の快楽の為にあれこれ考察して対立してお前を嬲り者にしてんだよ。こんなんじゃ、お前は死んだって幸せになんてなれやしない……警察官としてこんな事言っちゃいけないんだろうが、俺だって人間だ。娘がそんな目に遭ってたらしまいにゃキレそうなんだ。だからなぁ、絵美里……戻って来いよ……そんでとびきり幸せになってそんな奴らを見返してやろうや。な?』

 槇は泣いていた。静かに怒りを押し殺して苦しんでいた。

「……槇おじちゃん……」

 何も無くなって心の中を渦巻いていた激情はすっかり凪いで、残ったのは小さい頃のまま成長が止まってしまった心だけだ。

 ふと気付くと、体が縮んでいた。どうして自分はこんな所にいるのだろう? いつまでここに居ればいいのだろう?

 何も分からないまま、絵美里は槇の声だけを聞いていた。一人ぼっちは嫌だけれど、槇が絵美里との思い出を一方的に話してくれる。

 それを聞きながら絵美里は寝転がって目を閉じて、ただ槇の声だけをずっと聞いていた――。
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