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第699話 番外編『支倉乃亜と警察官、槇』

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 次に目を覚ますと、そこはとても見慣れた部屋の一室だった。

「ここ……僕の部屋?」

 ノアが辺りを見渡すと、目の前で一人の男が酒を煽りながら写真に向かってくどくどと文句を言っている。槇だ。

 槇は突然部屋に現れたノアに気づくこと無くまだ写真の前で文句を言っている。

 ノアはそんな槇を放置して懐かしすぎる部屋を見渡した。部屋の中はまるで誰かが暴れ回った後かのように荒れ果てている。

 この部屋は会社の側にあった自宅とは別の、乃亜の隠れ家のような場所で当時はここだけが安らげる場所だった。

 絵美里すらこの部屋の存在を知らなかったはずなのだが、何故か部屋の隅には絵美里の物と思われる私物と、ビリビリに破かれたアリスのイラストがそこら中に散らばっていた。

 ここで一体何が起こったのか分からなくて首を傾げていたノアの耳に、突然槇の怒鳴り声が聞こえてきた。

「お前誰だ!? いつの間に入ってきたんだ! ここは私有地だぞ! メディア関係なら今すぐに出ていけ! でないと不法侵入で現行犯逮捕するぞ!」

 槇は突然背後に現れた中性的な男を見てギョッとした。鍵はもちろんかけているし、メディアにはこの場所の事は箝口令が敷かれていたというのに何故この場所を見つける事が出来たのか。また絵美里と乃亜の事を面白おかしく書きたてた連中が特定したのか。

 槇はそんな事を考えながらフラフラになって立ち上がると、男に近寄った。

 けれど男はそんな槇を見てニコッと微笑んだだけだ。その笑顔に何故か既視感があった槇はさらに男に近寄った。よく見ると男は何故か赤ん坊を抱いている。

「なんだ……? メディアじゃねぇな……ここは空き家じゃねぇんだぞ。ほら、さっさと出てけ。見逃してやるから」

 槇はそう言ってまたドカリと座り込んだ。

 一体どこから侵入したのか、寝床を探す浮浪者か。その割には身綺麗で少し時代錯誤な服を着ているが、槇が一番気になったのは腕に抱かれた赤ん坊だ。

 こんな深夜に赤ん坊なんて抱いてフラフラしているのは良くない。さっさとどこか新しい寝床を探して赤ん坊を寝かせてやってくれ。

 そんな事を考えながら足元に転がっていたビールの缶に指をかけたその時、突然その腕を掴まれた。

「飲み過ぎだよ、槇さん」
「!?」

 驚いて槇は顔を上げた。男は槇を見下ろして困ったように微笑んでいる。

 柔らかい声に独特な雰囲気、そして既視感のある笑顔。そこまで考えて何故か突然、ある日忽然と姿を消した乃亜の顔が頭の隅を過ぎった。

「はは……確かに飲み過ぎかもな。乃亜がこんな所に居る訳ねぇんだ……あいつは死んだんだから……」

 病室から忽然と跡形も無く消え去った支倉乃亜。病室に残されていたのは彼の愛用していたノートパソコンと、槇への手紙だけだった。

 乃亜はゲーム業界では元々そこそこ有名人だったが、その死に様のせいで世間に名前が一気に知れ渡り、そのビジュアルも手伝って今や超有名人だ。

 彼の死後、乃亜が手掛けたゲームはどれもこれもさらなる売上を記録し、その財産が一体誰の物になるのかがしばらくは話題の中心だったが、槇が受け取った乃亜の遺言のおかげでようやくそれも落ち着いた。

 そしてそれと同時に絵美里の事が暴かれ始めたのだ。

 槇は開けようとしていた缶ビールを床に転がすと、ぽつりぽつりと話し出した。自分はやはり完全に酔っているのだろう。乃亜によく似た不審者に乃亜と絵美里の話などしようとしているのだから。

「乃亜はな……顔は可愛いが気の強いガキでな。事故にあって事件性を調べるために俺が担当になったんだが、最初は口すら利いてくれなかったんだ。どっかから逃げてきたのか迷子になったのか、所持品は何も無くて、おまけに誰も名乗り出て来ねぇ。こりゃ訳ありだって事件の方向で追ってたら、ある一家心中事件に辿り着いてな」

 槇がそこまで言うと、男はハッとした顔をした。

「そうだったの?」
「ああ。乃亜には言わなかったけどな、ある一家の暴君だった両親を見かねて兄貴が両親と弟に薬飲ませて家に火を点けたんだ。入念に撒かれたガソリンのせいで家は全焼。焼け跡にはほとんど何も残っていなかった。原因は兄貴の高校受験の失敗だ。それに弟は巻き込まれたんだろうな。近所でも評判の教育ママとパパだったらしい。長男はその圧に耐えられなかったんだろうって証言してくれた。弟の方が出来が良かった、ともな」
「なるほど。弟は恨まれてたのか」

 ノアは何かに納得したように頷いた。全く思い出せないのでまるで他人事だ。

「死者は三人だった。だから世間では兄貴が家族を犠牲にして自分だけ逃げたんだろうだなんて言われてた。それから捜査が始まったんだが、いくら探しても見つからなかった。兄は名前を変え、浮浪者のような生活をしていたという事までは分かっていたのに、そこからも忽然と姿を消したんだ。それからしばらくして近くの川で焼け焦げた服と誰かの歯が見つかった。DNA鑑定をしたらそれが兄の物と一致ししてな。兄は焼身自殺をしたのだろうって事で捜査は打ち切られた。でもな、それから数年してある少年がトラックにはねられて瀕死の状態で病院に担ぎ込まれたんだ。俺がその事故を担当したんだが、少年の奥歯は一本無かった。最初は事故の衝撃で無くなったと思ってたんだが、それにしちゃ綺麗に抜けてるし差し歯にした形跡もない。何となく気になって個人的に調べたらな、その事件が浮上したんだよ。火事の後から唯一見つかったのは三人分の歯だった。現場に残っていたのは両親と弟の分の歯だ。それがな、不思議な事に弟の歯と少年の抜けた歯の場所は同じだったんだ。それじゃあ弟が真犯人かって言ったらそれは多分違う。火を点けて心中しようとしたのはやっぱり兄の方で、そこから逃げたのは弟だ。兄は事件の前に色んな所で家族の恨み言を言っていた。それこそ過激な書き込みも見られた。おかしな薬にも手を出していたみたいだし、精神的にはもうボロボロだったんだろうな。弟はそれを察知してある計画を立てたんじゃないかって俺は思ったんだ」
「計画?」
「そうだ。ここからは俺の推測だが、遅かれ早かれ兄が自分たちを殺そうとしている事に気付いた弟は、薬を飲むふりをして兄が家に火をつけるのを待ち、炎の海の中で兄の服に着替えてさらに兄の口の中から奥歯を抜き取った。その側に自分の歯を捨て、何も持たずに家を出た。そうして時期を開けて兄の焼けた服と歯を川に捨てたら、兄が自責の念に駆られてどこかで自死したって事になるだろうって考えたんじゃないかなってな」

 そう言って槇は視線を伏せた。最初は槇だって乃亜がそんな事をしただろうなんて思ってもいなかった。何せ本人は完全に記憶を失っていたしたまたま奥歯が無かっただけなのだから。

 それでも乃亜という少年を知るうちに、やはりあの事件の弟が乃亜なのではないかと思い始めたのだ。頭が良くて狡猾で、何にも興味を示さない乃亜を知れば知るほどあの事件の弟のように思えてならなかった。何よりも小学校の卒業アルバムに載っていた弟の顔が保護された乃亜とどことなく似ていたのもいけない。

 そんな考えを振り払うように槇は首を振った。

「とは言え乃亜が本当にあの時の弟の方かどうかは今となっちゃ誰にも分からねぇんだ。あいつは跡形もなく消えちまったんだからな。でも乃亜はよぉ、多分あの事件が無くてもいつかはあの家から逃げ出してたんじゃねぇのかな。絵美里のとことは別の意味で虐待されてたようなもんだったんだからな。なまじ頭が良かったからそんな方法を取ってまるで違う人間のように生きていくつもりだったんだろ。ただ戸籍だけはどうにもなんねぇよな。だから乃亜は目覚めてすぐに養護施設に入りたがったのかなって思ったんだ。なんてな、まぁこれは俺の憶測なんだが」

 そう言って槇は自嘲気味に笑った。目の前の男はそれを聞いてふと笑う。

「流石は槇さん。想像力が豊かだな。でもね、槇さん。当時から僕は自分の過去になんて何も興味なかった。でも戸籍の所は当たってる。目覚めてすぐに僕が考えたのは自分の経歴だった。住所不定で戸籍が無いのはこれから先、生活していく上で一番困るだろうって考えたんだよ。だから養護施設に入りたかったんだ。戸籍さえ貰えればその後はどうとでもなるからね」

 ノアが笑うと、槇はそれを聞いて鼻で笑った。

「ほらな、やっぱり乃亜は小賢しいガキだったんだ。……ちくしょう……もっと早く見つけてやれば良かった……中学に上がったばっかりの子どもが一体どうやって16になるまでたった一人で生きてたってんだよ! 誰にも頼らず、誰も信用せず、どうやって日々をやり過ごしてたんだよ!」

 槇は憤って自分の足に拳を打ち付けた。乃亜があの事件の弟でもそうでなくても、子どもが巻き込まれる事件は本当にやるせない。もっと早く見つけていれば……何度そう思ったか分からない。その度に悔しくてこうして涙を流すのだ。無力だ。自分はとても無力なのだ、と。

 そんな槇を見て男が近寄ってきて槇の正面に座り込んだ。その顔はやっぱり消えたはずの乃亜ととてもよく似ている。

「なぁ……お前、乃亜なのか?」

 何気なく呟くと、男はニコッと笑って言った。

「そうだよ。久しぶりだね、槇さん」
「……はは……相当酔ってんな……」

 自嘲気味に笑った槇に乃亜を名乗る男は苦笑いする。

「本当に僕なんだけどなぁ。まずは槇さん、手紙の内容を実行してくれてありがとう。あれのおかげで僕たちは正しい未来を掴む事が出来たんだよ」
「何で手紙の事知って……お前、さては乃亜の会社の社員か何かだな? また乃亜の事で一儲けしようとしてんだろ? そうはいかねぇぞ。俺はもう今回の事で相当頭に来てんだ。お前みたいに乃亜の知り合いを装ってあいつの財産を根こそぎ持っていこうとした奴らばっか見てきたからな! その点絵美里なんぞ可愛いもんだ! あいつが欲しかったのは本当に乃亜自身だったんだから……」

 そこまで言って槇はまた涙を零した。乃亜も絵美里も周りの人間にとことん恵まれなかった。それは自分も含めてだ。二人を守ってやれなかった。それが今も胸にしこりのように残っている。

「そんな事があったの? はは、皆は知らなかったんだよ。あの会社に今後入ってくる財産の全ては全国の養護施設に均等に配られるって事をさ。その手続も生前にしてたって事すら知らなかった。僕は、槇さん以外の人間を誰も信用していなかった」
「……お前……何でその事……」

 それを知っているのは乃亜本人と槇だけだ。だからこの男がそれを知っているはずがない。

「知ってるよ。だって本人なんだから。僕はずっと言ってたアリスの世界に行ったんだよ槇さん。信じないかもしれないけれど、これは本当。槇さんの秘密も知ってるよ。例えばお風呂に入ったら絶対に右腕から洗い出す所とか、人参が嫌いでどれだけ細かく刻んでも人参だけは綺麗に避ける所とか、ゴジラみたいなガタイの癖にホラーものが苦手で、結婚に並々ならぬ夢見てるとことか、それから――」
「も、もういい! 分かった! 分かったからそれ以上は勘弁してくれ!」

 槇は淡々と話す男をじっと見つめた。髪の色や瞳の色は違う。

 けれど、やっぱりこの話し方や笑い方は、槇がよく知る乃亜そのものだった。

「信じた?」
「……ああ……お前……お前! 今までどこに行ってたんだよ! 全部全部捨てていきやがって! 何がアリスの世界だ! お前の世界はここだろ!?」
「違う。僕の世界はここじゃなかった。昔から漠然と感じてた違和感は、アリスの世界に行ったら無くなったんだ。僕は少しこの世界に寄り道をしたけれど、ようやく元の世界に戻れたんだよ、槇さん」
「そんな……そんな事言うなよ……」

 槇はそう言って乃亜の肩を掴んで情けなく泣いた。乃亜だ。これは本当に乃亜なのだ。何故なら、今の話を槇は何度も何度も聞いたから。

 乃亜はいつもどこかへ帰りたがっていた。槇はそれをよく知っていた。

「でも槇さん、そんな僕にも心残りはあった。この世界の全てを捨ててきたつもりで、あなたとの思い出だけは捨てられなかった。あなたが僕にしてくれた事、僕にくれた手紙、頼んでも居ないのに来てくれた学園祭、誰にも祝われた事なんて無かった誕生日にクリスマスプレゼント、僕はそれを取りに来たんだ。絵美里と一緒に」

 そう言ってノアは絵美里を槇に渡して立ち上がり、本棚の奥にあった二重扉を開いた。幸いな事にそこだけは誰にも開けられていなかったようで、中の物が当時のまま残っている。

 そこから両手で抱えて持ち出してきたのは、槇との思い出の数々が詰まった箱だ。

「覚えてる? あなたが高校生の僕にくれたぬいぐるみ。こんな物貰っても困るって当時は思いながらも喜ぶ振りをしたんだ。そしたらあなたはビックリするぐらい喜んだ。それからはもう地獄だよ。勝手にあなたは僕がぬいぐるみ好きなんだって勘違いしてさ、事あるごとにこうやってぬいぐるみを持ってきたんだ」

 笑いながらノアは箱の中に詰まった大小様々なぬいぐるみを見て笑う。そんなぬいぐるみ達を槇も何か思い出したかのように手にとって笑った。

「あれはお前が悪いんだ。その度に喜ぶもんだから、俺はてっきりお前はそういう趣味があるんだって思ってた」
「だろうね。ああ、あった。流石に全部は持っていけないから、これだけ持っていくよ」

 そう言ってノアが取り出したのは、ボロボロになったクマの手のひらサイズのぬいぐるみだ。

「これは……一番最初にやった奴か」
「うん。後は仕方ないから絵美里にあげるよ。ねぇ槇さん、僕の最後のお願いを聞いてくれる?」
「……なんだよ? どうせロクな事じゃないんだろうが、一応聞いてやる」

 こんな風に乃亜が改まる時は決まって碌でもない時に決まっているが、それでも槇はそのお願いを無下には出来なかった。

 そんな槇を見て乃亜はきちんと座り直して槇に頭を下げた。

「その子ね、絵美里なんだ。その子をどうか育ててやってほしい。今度こそ、真っ当に。駄目かな?」

 ノアは槇が抱いている赤ん坊を指差すと、槇は怪訝な顔をして絵美里を見下ろしている。もしも槇が駄目だと言っても、ノアは絵美里をこの世界に置いて行くつもりなのだが。

 乃亜の言葉に槇は少しだけ戸惑ったような素振りを見せる。

「無茶言うなよ。知ってるだろ? 俺はまだ嫁さんすらいねぇんだ」
「知ってるよ。でもね、絵美里はあちらの世界で大罪を犯した。流石の僕にも擁護出来ない程の罪を。本来なら死刑一択だった。でも一時的に置いていた場所で絵美里は赤ん坊に自らの意志で戻ってしまっていた。そこで絵美里は槇さんの声をずっと聞いてた。僕の声じゃなくて、あなたの声を」
「俺の……声?」

 乃亜の言ってる意味はさっぱり分からないけれど、乃亜が行ったという世界があのゲームのような世界なのであれば、魔法が使える世界だったはずだ。槇に理解出来ないような事が起こっても何も不思議ではない。

「うん。槇さんの声。写真がさ、一杯貼ってあってさ、多分あれは絵美里の記憶の断片だったんだろうけど、赤ん坊になった絵美里が握りしめてたのはこの写真だったんだ」

 そう言ってノアは赤ん坊絵美里の手から一枚の写真を取り出すと、それを開いて槇に見せた。

「これ……運動会の奴か……?」

 その写真を見て槇は息を呑んだ。それは絵美里が養護施設に来てから通っていた小学校の運動会の時の写真だった。一体誰がこんな写真を撮ったのだろう? あの時槇がカメラを絵美里に向けたら絵美里は酷く嫌がっていたのに!

 謎すぎて首を傾げる槇を見て乃亜が笑う。

「それは本物じゃないんだよ。絵美里の記憶の中から写真として残っただけ。絵美里は運動会に槇さんが来てくれた事が本当はきっと凄く嬉しかったんだ。そして最後の最後までそれを忘れなかった。だからこの写真を握ってたんだと思う」
「そんな……俺が戻って来いって言ったから? だから絵美里はこんな赤ん坊に……?」
「かもね。僕たちの唯一の親だったからね、あなたは」

 ノアが言うと、それを聞いて槇はハッとして顔を上げた。

「忘れたくても忘れられないよ。僕たちにとって槇さんは命の恩人で、僕たちの親だった。それは僕たちだけじゃない。あなたに助けられた子達全員がきっとそう思ってる。大人に裏切られて打ちひしがれて、何の救いも無かった子達の親なんだよ、あなたは。今もこれからもずっと」

 未だになかなか人を信用しないノアにとって、何も疑わず甘えられるのは家族と槇だけだ。それは、ノアにとって槇はそれほどの存在だと言うことなのだろう。

 笑顔を浮かべて言ったノアを見て、槇はとうとう涙を零した。

「う……うぅ……馬鹿たれが……親置いて勝手に消えやがって……とんだ親不孝者だよ、お前らは! それだけ言うのにどんだけの時間がかかったんだ! 俺は毎日仕事が終わったらここに来て……いつ戻ってきてもいいようにって……それをお前、こんな形で戻るなんて……ほんとにふざけんなよ!」

 槇は赤ん坊になってしまったという絵美里を抱きしめて気が済むまで泣いた。

 病室から突然消えた乃亜とこの部屋で自殺をしていた絵美里。絵美里は無理にしても、槇は乃亜の帰りをずっと待っていた。

 もしも乃亜の手紙が本当に遺書なんかではなくて助かる為の手紙なのだったとしたら、いつか乃亜はまた姿を現すかもしれない。そう考えていたからだ。

 だから毎日この家に来て二人の写真に向かって槇はずっと話しかけていたのだが、まさかこんな形で戻ってくるとは思ってもいなかった槇だ。

 槇があまりに泣くものだから、とうとう絵美里が目を覚ましてしまった。

「ふぇ……ぇぇぇ……」
「ああ、すまん、起こしちまったな! ほら、大丈夫だ、ここに居るぞ」

 腕の中で小さな手足をジタバタさせる絵美里を見て、槇はもう一度抱きしめてやる。暖かくて小さくて、また泣きそうになる。

 そんな槇と絵美里を見てノアが何かを差し出してきた。

「槇さん……今まで本当にごめん。ずっと謝りたかった。ずっとありがとうを言いたかった。僕はだから、これを届けに来たんだ」

 そう言ってノアはペンダントを2つ槇に渡した。一つはバセット三兄妹の絵姿が入ったペンダントで、もう一つは子どもたちも描かれたバセット家の絵姿だ。

 槇はそれを受け取って中を開いて微笑む。

「はは、アリスとキリじゃねぇか」

 乃亜が作ったゲームは全部一通りプレイした槇だ。我が子達が作った物は何でも読みたいしやっておきたかった。それは乃亜に限った事ではなくて、未だに更生した子や養護施設から出た子達から届く作品全てに目を通して手紙を書く槇だ。もちろん、アリスやキリも知っている。

「うん」
「それにこっちは……?」
「それはうちの長男のノエルと長女のアミナス。可愛いでしょう?」
「お、お前……それって……」
「うん! 約束通り、僕はちゃんとアリスと結婚したよ!」

 悲しくて辛い報告の後は、ちゃんと楽しくて嬉しい報告をしろ。これはいつも暗い顔をしていた乃亜に槇が言った言葉だ。

 ノアの言葉に槇は割れんばかりの笑顔を浮かべて腕を伸ばし、子どもの頃のように乃亜を抱きしめてきた。

「そうか! そうだったのか! でかしたぞ、乃亜! どっちもお前とアリスにそっくりじゃねぇか! そうか! そうだったのか……良かった……お前はちゃんと幸せになってたんだな……ああ、安心した……」

 涙まじりにそんな事を言う槇に、乃亜は苦しそうに呻いて頷く。

「本当は一番に知らせたかったけどあの時はまだこの世界と繋がる術が無かったんだ。手紙でも良かったんだろうけど、やっぱりこうやって会って報告したかったんだよ」

 槇の腕の中で呻きながらノアが言うと、槇は豪快に笑う。

「いいさ! 今の報告でお前のしでかした事は全部帳消しだ! しかしお前、これは絵だよな? ま、まさか俺を喜ばせようとしてお前が描いたとか……そういうんじゃないよな?」

 乃亜はそういう事を平気でする。思わず半眼になった槇に、乃亜は苦笑いで言った。

「そんな事しないよ。と、言いたいけどまぁ信じてくれないのも分かってたから、これも置いていくよ」

 そう言ってノアは自分のスマホを取り出して槇に握らせる。

 これにはノアの色んな思い出が詰まっているから置いていこうだなんて思ってもいなかったけれど、こんな槇を見たら、こんな思いを聞いてしまったら、ノアにはその選択をすることしか出来なかった。

「これは?」
「あっち版のスマホ。ここに写真が入ってるよ、ちゃんとした奴」

 そう言ってノアが操作して槇に写真を見せると、槇はそれを見て今度は涙を流して喜んだ。そしてふと首を傾げる。

「でもこれ、いいのか? 大事な物だろ?」
「まぁ大事だけど物はまた買えばいいし、僕の思い出はアリスやキリ達のスマホにも沢山残ってるから。だからそれは槇さんにあげる」

 そう言って笑ったノアを槇がもう一度強く抱きしめてきた。その腕の強さは昔と何も変わらない。その時だ。

『ノア、そろそろ時間だ。挨拶は済んだか?』

 突然部屋に妖精王の声が響いた。どうやらそれは槇にも聞こえたようで、目を白黒させて部屋を見渡している。

「今のが妖精王だよ。彼が僕と絵美里をここへ連れてきてくれたんだ。槇さん、そろそろ時間みたいだ。僕は戻るよ」
「妖精王……ま、待て! まだ話したい事は山程あるんだぞ!」
「僕もゆっくり話したいけれどあちらではまだ戦争中なんだ。そろそろアリスを止めないと、仲間たちが疲弊しちゃう」

 そう言ってニコッと笑ったノアを見て、槇が首を傾げた。その顔にはデカデカと「どうしてアリス?」と書かれている。そりゃそうだ。槇はゲームのアリスしか知らないのだから。

「後で写真を見て。そうしたら僕のアリスがどんな人か分かるだろうから。それじゃあ槇さん、僕は行くね。絵美里をどうか、よろしくお願いします」

 ノアは立ち上がって槇に頭を下げると、槇は渋々納得したように頷いて腕で涙を拭うと笑った。

「元気でな、乃亜。どこに居てもどれだけ離れてても、俺はお前の幸せを願ってる。お前は俺の自慢の息子だ。それを忘れるなよ!」
「うん……槇さんも僕の自慢の父親だよ。また……どうにかして手紙を出すよ。約束する」
「いや、お前の約束は当てにならん。頼むから、いつかまた手紙を書いてくれ。いいな?」
「あはは! うん、分かった!」

 槇の言葉にノアは吹き出した。そうだった。こちらに居た時もノアは約束はほとんど守らなかった。

 けれどお願いされると弱い。槇だけがノアのそんな習性をよく知っていた。

 そこにまた妖精王の声が聞こえてくる。

『ノア、扉を開くぞ! 槇とやら、ノアの人生はこの先はもう幸せに溢れる予定だ。安心していろ。それから……すまぬが、絵美里を頼む。そなたとそなたの周りに我の祝福を……ありがとう、槇』
「どこのどなたか存じませんが、乃亜を、乃亜の家族を、友人たちをどうぞよろしくお願いします」

 突然話しかけられた槇は絵美里を抱え直して頭を下げた。こんな事が出来るぐらいだ。きっと物凄い人に違いない。

「ありがとう、槇さん! それじゃあね! いつまでも元気で」
「ああ、お前もな! 忙しくてもちゃんと飯食うんだぞ! 風呂にもちゃんと入って、地べたで寝るな! それから――」

 槇が怒鳴ると、目の前から乃亜の姿が消えていく。それを止めるように槇は手を伸ばしたが、その手は乃亜をすり抜けてしまった。代わりに乃亜のおかしそうな声が聞こえてくる。

「もう! 大丈夫だよ! 槇さんは心配性だなぁ」


「……乃亜……」

 最後の言葉は、病室で最後に会った時の乃亜のセリフと全く同じだった。こちらに居た時はそのまま姿を消した乃亜だが、また同じ事を言って乃亜は姿を消してしまった……。

 けれど、今回は前のような鬱々としたやりきれない感情は無い。何故なら今回の乃亜の声は希望に、喜びに満ち溢れていたからだ。

 部屋は乃亜が消えた途端、シンとしてしまった。辺りを見回すと、床には大量に自分が飲んだ酒の缶が転がっている。

「なんか夢見てたみたいだな……いや、まだ夢の中なのか……だとしたら良い夢だったな……はは……」

 槇は笑って絵美里を抱いたまま寝転がった。シンと静まり返った部屋に今の今まで乃亜が居ただなんて思えない。

 あまりにも嘆く槇を見かねてきっと乃亜は夢の中に会いに来てくれたのだろう。腕の中の温かい赤ん坊も目が覚めたら消えてしまうのか、などと考えながら槇は眠りについた――。
 

 翌朝。

「んえぇぇぇ! びぇぇぇ!」
「ゆ、ゆ、夢じゃねぇ! やべぇ! ど、どうすりゃいいんだよ!? おー、よちよち、頼むから泣かんでくれ! え? よく見たらおむつ葉っぱじゃねぇか! いや、そんな事よりミルクミルク! どこだ? どこに売ってんだ!? と、とりあえず母ちゃんと姉ちゃんに電話! それから里子申請! えっと、他には……あ! 職場に休暇願い! それと……ああ、くそ! 乃亜、乃亜ーーーーー!!!!!!」

 槇は泣きじゃくる赤ん坊を抱えたまま、部屋の中を右往左往しながらとんだ置き土産をしていった乃亜を思い出して叫ぶ。

 足元には乃亜とアリスが抱き合って笑っている待ち受け画面のスマホが転がっていた。
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