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『ユアン・バレンシアの衝撃・前半』

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「おい、おい! そこにそのハーブは……ハーブだけは止めろ――――!」

 ハッと息を飲んで飛び起きたユアンは、急いで今しがた眼の前にあった鍋をかき混ぜようとしてふと気づいた。

「あ、あれ? あれ⁉」

 小さな自分の手を見たユアンはその手で顔をぺたぺたと触って何かに気付き、急いで鏡の中の自分を見るなり、そのまま後ろにパタリと倒れて意識を失う。

 この冒頭はアリスが14歳に戻ってしまった時にそっくりそのまま体験した事だが、そんな事はユアンは知らない。

「……アン、ユアン」
「んん?」

 ユアンは誰かに揺さぶられてうっすらと目を開けた。

 目の前には何故か学生の頃のアーロとエリザベスががこちらを心配そうな顔で見下ろしている。

 もしかして今までの事は全部夢だったのか? ユアンがそんな事を考えている事など知らずに、アーロとエリザベスは二人して青ざめて顔を見合わせた。

「ど、どうしようアーロ! どこかぶつけたかも!」
「凄い音だったしな。ポリーを呼んでこよう。リサ、頭を打っていたら下手に動かすのは良くない。ユアンが歩きまわらないように見ていてくれ」
「ええ!」

 エリザベスはそう言ってユアンを抱きかかえようとしたのだが、その手をひょいっとユアンに避けられた。

「……ユアン? 頭打ってたら大変だからママに抱っこさせて?」

 まさかもう親離れ? エリザベスは何だか酷くショックで泣きそうになりながらユアンに震える手を伸ばすと、ユアンは怪訝な顔をしてこちらを見てくる。

「……」

 そんなユアンに気付いたのか、部屋を出ていこうとしていたアーロが近寄ってきて徐ろにユアンを抱き上げる。

「どうした? ユアン。ああ、そうか。おはようのキスがまだだったな。ほら、いつものようにパパにおはようのキスをしてくれ」
「……は?」

 自分の声とは思えないほどの低い声に、ユアンどころかエリザベスとアーロまでその場に固まり、しばらく沈黙が流れる。最初に動いたのはアーロだ。

「リサ、やはりユアンは頭を強く打っているようだ。至急ポリーを呼んでくる」
「ええ! 早くね、アーロ!」

 おろおろしながらアーロに上着を持ってきてやろうとするエリザベスの手を、ユアンが止めた。

「待て! 頭なんて打ってないぞ、俺は。それよりもこれはどういう事だ? ここはどこで、俺とお前らの関係はなんなんだよ!? とりあえず降ろせよ、アーロ」

 パパだとかママだとか挙句の果てにはおはようのキス!? とんでもない! というか、スチュアート家に居た時からそんな事した事無い。

「お、お前……まさか……」
「マ、ママの事忘れちゃったの……?」
「記憶喪失か。やはりこれはポリー案件だな。アレックスに強烈な気付け薬を作ってもらってそれから――」
「記憶喪失じゃねぇ! むしろ思い出したんだろ! で、こっちの質問に答えろよ! 俺は! どこで! 何をして、何をさせられてんだ!? こんな……なんだよ、誰の趣味だよ、このフリフリの服は……」

 至る所にレースの透かしが入ったまるでどこぞの王子様のような服を見てユアンがドカリとその場に座り込むと、アーロとエリザベスはまた顔を見合わせてキョトンとしている。

「誰って、シェリーだが」
「そうよ、シェリーのお気に入りよ」
「……誰だよ、シェリーって。あれからまた仲間増えたのか?」

 聞いた事も無い名前にユアンがキョトンとすると、アーロは腕組をして何かに納得したように問いかけてきた。

「なるほど。自分の名前はわかるか? ユアン」
「ああ? ユアン・スチュアートだろ? で、お前はアーロ・バレンシアで廃嫡済み、それからエリザベス・バセット」

 ユアンがアーロとエリザベスを指さして言うと、それを聞いて今度は二人とも青ざめた。

「お、お、お前思い出したのか!?」
「お、お、思い出しちゃったの!?」
「だからさっきからそう言ってんだろうが! で、これは何のままごとだ? シェリーってのは誰だよ?」
「シェリーは俺たちの一人娘だ。もうじき二歳で歩くのに夢中だ。ちなみに今はお昼寝の時間だが」
「娘ぇ!? ちょっと待て! あの戦争から何年経ってんだよ!?」
「5年ほどだな。そうか、お前の記憶はそこで止まっているのか」

 ではこの5年間の親子で居た記憶はそっくりそのまま失ってしまっているのか。何となくそれが寂しくて視線を伏せたアーロの背中を、慰めるようにエリザベスが撫でてくれる。

「いや、そりゃ今は忘れてるけど、また何かの拍子に思い出すだろ……多分」

 何だかあまりにも残念そうな二人を見ていたたまれなくてユアンが言うと、二人は絵に描いたように顔を輝かせて頷く。

「そうだな。あの毎日のキスもお風呂遊びも忘れてしまうなんて寂しいからな」
「そうよ。毎日一緒に眠っていた事も枕投げをして脳震盪を起こした事も忘れちゃうなんて寂しいもの!」
「いやリサ、あれは忘れていた方がユアンの為だろう」
「そう? 忘れて良い記憶なんてないと思うわ」
「む……それもそうか」
「なぁ! お前らほんとに俺の記憶が無いのを良い事に何してくれてたんだよ!?」

 相変わらずの二人の間にユアンは割って入ると二人を睨みつけるが、二人はそんなユアンを見下ろしてニコニコしている。これはもう駄目だ。

「まぁいいさ。で、俺はどこに帰ればいいんだ? 今までお前らの世話になってたみたいだが」
「世話も何も、お前はもうユアン・バレンシアだぞ?」
「は?」
「そうよ。ユアンは私達の養子よ! つまり! 私達は家族!」
「……嘘だろ?」 
「嘘なもんか。俺を庇ったお前を俺が引き取らない訳がないだろ?」
「そうよ! それにあなたはバセット領ではそれはもう評判の王子様なんだから!」
「お、王子様? 一体どういう事だよ?」

 何だか不穏な響きにユアンが引きつると、にこやかにユアンがこのバセット領でいかに愛されているかを二人して滔々と語ってくれる。

「な、何だってそんな事に……」

 子どもに戻るにしても、今の性格とかけ離れすぎてやしないか? ユアンはそんな事を考えながらふと子供の頃を思い出して顔を赤らめた。確かにユアンの幼い頃はそんな感じだったからだ。一体いつからひねくれてしまったのか、それはもう思い出せないが今更あれに戻るのは無理がある。これは早々に自分の記憶が戻った事を領内に知らせるしかない。

 ユアンは立ち上がって部屋を見渡すと、恐らく自分の物であろう上着に袖を通した。

「おい、どこへ行くつもりだ?」
「アリスのとこだよ。いや、ノアの所か」
「何故?」
「記憶が戻った事を伝えに行く。ついでにあっちに保護してもらう。おい、ハリーは?」

 ユアンが言うと、アーロが隣の部屋を指さした。

「シェリーとお昼寝の真っ最中だ」
「……あいつ、執事だったよな?」
「ああ。だが今はお守り係だ。実質シェリーはお前とハリーが面倒を見ているな」
「そうなのよ~。シェリーが生まれた時にポリーさんにね、私達が子育てに携わるのはせめて二歳になってからにした方がいいって言われたの。酷いわよねぇ」
「そのポリーさんが正解だろ。こんなとんちんかんな夫婦に育てられたら命がいくつあっても足りねぇよ。あと情緒も心配だ」
「ちなみに言うと、俺はそこまでは言われていないぞ。ただ、愛の方向性がおかしいから一歩引けと言われたぐらいだ」
「それは十分お前もヤバいって事だよ。じゃな。世話になったな」
「あ、おいユアン!」
「ちょっとユアン!」

 それだけ言ってユアンは着の身着のまま部屋を出て行ってしまったのだが、そんな後ろ姿をアーロとエリザベスはしばらく見つめてポツリと言う。

「反抗期か。早かったな」
「本当ね。まぁ、それも成長よね」

 うんうんと頷き合いながら二人はきちんと整頓されたユアンの部屋を見渡して、おもむろにアルバムを開いて思い出話に花を咲かせていた。
 

 そんな事を二人がしているとは考えもしないユアンは、アーロに言われた通り隣の部屋に静かに入ると、ベッドの上でグースカ寝ているハリーの頭を小突く。

「んぁ!?」
「おい、起きろハリー」
「ああ、ユアンか……んー……もうちょとだけ……」

 ハリーがそう言ってもう一度目を閉じようとしたその時、今度はさっきよりも随分と強いげんこつが降ってくる。

「もうちょっとじゃねぇんだよ! さっさと起きろ!」
「へ!?」

 今朝までのフワフワユアンとは違い、何だかやけにイガイガしているユアンに驚いてハリーがは飛び起きる。

 そしてよく見ると、何やら顔つきまで違っているのでハリーは青ざめた。

「ヤバい、どっかで見たことあるユアンだ。アーロに知らせないと! 何か変な物食べたのかも!」
「お前もかよ! もうそのくだりは済ませてきたんだよ! ほら、行くぞ」
「いや、ちょっと待って。もしかして……思い出した?」
「ああ。で、これが噂のシェリーか。へぇ」

 ユアンはここでようやくハリーの影で寝ていたシェリーを見て思わず目を細めた。

「アーロにそっくりなんだな」
「そうなんだよ。そりゃもうクール美人になるぞって今から評判なんだ」
「中身は似なきゃいいがな。あれと似た女子は悲惨だぞ?」
「俺もそう思う。だからポリーさんはあんな事言ったんだろうなぁ……なぁ! ほんとに思い出しちゃってんの!?」
「だからそう言ってるじゃねぇか。一体この5年間に何があったのかは知らんが、道中説明してくれ、ハリー」
「道中?」
「ああ。これからバセット家に行く。記憶が戻った事知らせないと。それから何か仕事もらって、ああ、アンソニー達にも挨拶に行かないとな」

 指折り数えながらベッドを離れようとしたその時、突然シェリーがフヤフヤと泣き始めた。ふと見ると、シェリーの手はしっかりとユアンの服の裾を掴んでいる。

「シャリーはユアンがお気に入りなんだよなぁ~」

 ニヤニヤしながらハリーが言うと、ユアンは顔をしかめてどうにかその手を離そうとするが、シェリーは思いの外強い力でユアンの服を握りしめていたようでとうとう目を覚ましてしまった。

「はぁ……マジか」
「あーあ、うー!」
「なんだよ?」

 ユアンがシェリーを見下ろすと、シェリーは一生懸命ユアンに両手を伸ばしてくる。これは間違いなく抱っこの合図だ。

 それに気付いたユアンは大きなため息を付きながらシェリーを抱っこすると、シェリーの機嫌は途端に良くなる。

「ほらね。君さ、すっごく気に入られてんの。どこ行くにも一緒だったもんね~?」
「んー!」
「俺はいつになったら子守から開放されるんだ?」
「さあ? まぁ動物とか赤ん坊はその人の本質を見抜くって言うし? いくら悪ぶっても無駄無駄」
「……行くぞ」

 ユアンはシェリーを抱いたまま部屋を出ると、隣の部屋に戻ってアーロとエリザベスにシェリーを押し付けた。

「じゃあな。それから、ハリー借りるぞ」
「ああ、気をつけてな」
「夕食までには戻るのよ」
「……」

 本気で親子ごっこをしていたのか。ユアンはそんな二人に背を向けて屋敷を出た。すると、屋敷の外にまでシェリーの泣き声が聞こえてくる。

「あーあ、なーかした」
「うるさい」

 心を鬼にしてユアンはスタスタと歩くと、バセット家を目指す。

「それで、あの戦争の後何があった? 大きく変わった事は?」

 ユアンの真剣な顔を見てハリーもようやく気を引き締めたように真顔でこれまでの経緯を説明してくれた。

 その道中、色んな人達がユアンに声をかけてくるが、元々は愛想の良くないユアンだ。チクチクと良心は痛むが、その全てを無視してどうにかバセット家に辿り着いた。

「あ! ユアンだー! ハリーも居る!」
「アミナスか。厄介なのに見つかったな」

 庭で泥遊びをしていたアミナスが、レックスを引き連れて嬉しそうに駆け寄ってきた。

「どうしたの? あれ? 今日はシェリーは一緒じゃないの?」
「ほんとだ。珍しい。いっつも一緒なのに」
「……」
「ほらね? 君とシェリーはもうセットだから。あーあ、可哀想だな~シェリー。生まれた時からずーと一緒だったのに、急に大好きなお兄ちゃんが出て行っちゃうかもしれないなんてな~」

 そんな事を言いながらハリーが細い目をさらに細めると、ユアンはキッとハリーを睨みつけてくる。

「なんだよ、何が言いたいんだよ?」
「別に何も? ただ今頃アーロとリサは大変だろうなって思っただけ。あいつらマジで子育てに関してはポンコツだからさ、おむつとかちゃんと変えられてるのかな?」
「……あいつら、おしめすらまともに変えられないのかよ」
「そうだよ。離乳食はかろうじて作れるけど、リサに任せたら一瞬でシェリーはあの世行きだろうし、アーロはアーロであんなだし?」

 おかしそうにハリーが言うと、それを聞いてユアンが青ざめた。

「なんでそれを早く言わないんだよ! 任せて来ちまったじゃねぇか! おい、すぐに戻るぞ!」
「は~い。そんな訳だからアミナス、レックス、また後でね」
「う、うん」
「分かった。待ってる」

 何だかよく分からないが、まるで人が変わってしまったようなユアンに二人は顔を見合わせて首を傾げた。そこへ森に木の実を取りに行っていたディノが楽しそうに尻尾を揺らしながら戻ってくる。

「二人とも真っ黒だな! さあ、そろそろおやつの時間だ。ノエル達も呼んで……ん? どうしたんだ?」
「あ! ディノ! あのね、ユアンが何だか変だったの!」
「ユアンが?」
「うん。何だか前のユアンみたいな話し方をしてた。もしかして、記憶が戻ったのかな?」

 レックスが言うと、ディノは背負っていた木の実が詰まったカゴを下ろして腕を組んで考えた。

「ありえないとは言い切れないな。人の脳は私達が思うよりもずっと優秀だ。記憶というのは脳にだけ保存されている訳ではない。全ての細胞に刻み込まれているものだ。年月を経て少しずつ元のユアンの記憶が再構築されていったのかもしれない」
「それって、おじいちゃんに戻ったって事!?」
「そうだ。どこまで戻っているのかは分からないが、これは皆に報告すべきだな。アミナス、お前は今すぐアリス達に知らせてきてくれ。私は皆にメッセージを送ろう」
「うん! レックス、行こ!」

 アミナスは顔を輝かせてレックスの手を取った。そんなアミナスを見てレックスも嬉しそうに笑って頷いて走り出した。


「アミナス!? あれほど言ったのにまたこんな真っ黒になって! それにレックスまで巻き込むなんて!」
「僕は楽しかったから構わないよ。それよりも大変なんだ」

 屋敷に戻ると、学園の長期休暇を満喫していたノエルが二人を見て叫び声を上げた。ノエルは相変わらずノアにそっくりで、汚れるのが苦手だ。

「大変なのは君たちだよ! 話は後で聞くからまずはお風呂と着替えが先だよ! 二人分の着替えは用意しとくから、早くお風呂に行って!」

 そう言ってノエルは二人の背中を押して屋敷の外に放り出した。

 あれからバセット家は色々と屋敷を魔改造して、とうとうアリスは庭にまで温泉を引き出したのだ。ちゃんと男女に分かれているので、今ではキリ一家が毎晩温泉に入って帰る。何なら森の奥の温泉に行くのが面倒な領民たちまでやってくるようになっている。

 二人が渋々温泉に向かったのと入れ違いに、今度はディノがやってきた。

「おや? あの二人はどうした?」
「ディノ、おはよう。凄いね、それ全部取ってきたの?」
「ああ! やはり水晶で作り出す木の実と自然に出来る木の実とでは若干違う気がしてな。半分置いていくから菓子にでも使ってくれ。ところでノエル、もう聞いたか?」
「何を?」
「どうやらユアンの記憶が戻ったようだ」

 言いながらディノがカゴをノエルに渡そうとすると、ノエルはそれを聞いてその場で固まった。

「え?」
「なんだ、まだ聞いていなかったのか。先程ユアンが来たらしいのだが、態度がまるで以前のユアンだったらしい。ノア達にも知らせてやってくれるか?」
「も、もちろん! すぐに伝えてくる! レオ! カイ! 大変だよ!」 

 そう言ってノエルは駆け出した。

「ははは、元気だな。さて、それでは私もお祝いのバーベキューの準備にでも取り掛かるか」

 どうせアリスはそれを聞いたらまずはお祝いだ! バーベキューだ! などと騒ぎ出すに違いないのだ。この5年間、ずっとそうだったのだから間違いない。
 

 一方、ハリーにアーロとエリザベスのポンコツぶりを聞いたユアンは、屋敷に戻って愕然とした。

「まだ泣いてんじゃねぇか」

 外にまで聞こえてくるシェリーの泣き声に思わずユアンが言うと、ハリーは納得したように頷く。

「だから言ったでしょ? 君でないとシェリーのご機嫌は直らないんだってば。ああ、ほら出てきた」

 ハリーが玄関を指差すと、中からアーロとエリザベスが憔悴した様子で揃って出てきた。

「ユアン、戻ったか。さっき一瞬泣き止んだんだが、お前が屋敷の中のどこにも居ない事に気付いてまた泣き出してしまったんだ」
「ユアン! はい、これ」
「……なんだよ、これ」
「何って、抱っこ紐よ。はい、これつけて!」

 エリザベスは何が何だか分からなくて棒立ちしているユアンにいそいそと抱っこ紐を装着すると、そこにシェリーをセットした。すると、途端にシェリーはピタリと泣き止む。

「ふぅ!」
「ふぅ! じゃねぇんだよ! 何だってこんなに俺に懐いてんだ!?」
「そりゃ、生まれた時からお前が面倒を見てくれていたからな。可愛い可愛いと言って、どこに行くにも連れて歩いていたらそうなるだろう」
「そうよ。シェリー連れてたら遊べないだろうから置いて行きなさいって言っても、あなた聞きもしなかったんだから」
「……本能でここに置いてたらヤバいって分かってたんじゃないのか」

 抱っこ紐で機嫌を良くしたシェリーは、もう完全にお散歩に行くと思っているようで、道路をしきりに指さして「ん! ん!」と言っている。

「というよりも、完全に溺愛してただけだと思うけど。言っとくけどこの二人も大概だったけど、君も大概だったんだからね? まともなのは俺だけ! ほんと、頭おかしくなるかと思ったよ」
「そりゃ悪かったな。つうか、このままじゃ第三のアリスになりそうで怖いな」
「それね! だから余計にポリーさんはこの二人だけには任せておけないって思ったんだと思う。だってさ、アリスやアミナスと違ってシェリーは普通の人間だからね。真似でもしたら大変だよ」
「確かに」

 これはもう詰みではないのか。シェリーが無事に、まともに大人になれるかどうかはユアンとハリーにかかっているのでは? 何となくそんな考えが脳裏を過ぎって、ユアンはすぐに首を振って考え直した。

 とりあえず一旦バセット家に行こう。アリスとアミナスは厄介だが、何だかんだ言ってまだノアとノエルは話も通じる。

「よし、行くぞ」
「はいはい。それじゃあ行ってきま~す」
「ああ。気をつけてな」
「夕飯には戻ってね! 今日は海鮮丼なのよ~」
「……」

 海鮮丼ってなんだ。よく分からないが料理に関してはアーロに任せておけばいいし、ハリーから聞いた便利な水晶とやらがあるので大丈夫だろう。

 ユアンは大きなため息を落としてまたバセット家を目指して歩いていたのだが、行きと違って今度は領民たちが何故か残念そうにユアンに挨拶をしてくれる。

 先程無視をしたからか? と思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだと気付いたのは、バセット家に辿り着いた時だった。

「おい、なんであいつら全員勢ぞろいしてんだ?」

 何故かバセット家の前にアリスを筆頭にアリス一家とキリ一家が勢ぞろいしてこちらを見ている。

「さあ?」
「嫌な感じがする」

 ユアンがそんな事を言いながらバセット家を見上げて言うと、とんでもない大きさの声でアリスの声が聞こえてきた。

「パパ~!」
「アリスの声帯は一体どうなってんだ!?」
「そうだ、言い忘れてたけど、あそこ今シェリーとは比べ物にならないぐらい地獄みたいな子育てしてるんだ」
「どういう意味だ? 別にもうノエルもアミナスもそんな手はかからないだろ?」
「うん、その二人はね。でも三人目がね……おじいちゃん、頑張ってね!」

 そう言ってハリーは何だか幾分やつれた様子のノアとキリを見てユアンの肩を叩いた。

「不穏な事言うなよ……ここに来たの間違いだったか? そもそも三人目ってなんだ? まさかまたアリスが量産されたんじゃないだろうな!?」

 何かに気付いたユアンが思わずハリーを見上げると、ハリーは肩をすくめて見せただけだ。そんなハリーの反応を見て何かを察したユアンは、その場でくるりと回れ右をして早歩きでバセット家を離れようとしたのだが――。

「うぐっ」
「お義父さん、どうして逃げるのかな?」
「は、放せ! 絶対にろくな事にならないって分かってる所に突っ込むバカがどこにいるんだよ!?」

 逃げようとした所をいつの間にかやってきていたノアにしっかりと首根っこを掴まれその場でジタバタすると、そんなユアンを見てノアはニコッと笑う。

「驚いた。本当に記憶戻ったんだね! おめでとう。いや、喜んでいいのかどうか分からないけど、とりあえずお菓子とお茶の準備したんだから休んで行ってよ。ね?」
「嫌だ! 一瞬でもお前はまだ話が通じるだなんて考えた俺がバカだった! ノエルはともかくお前は絶対に俺の話なんて聞きゃしないのに!」
「ははは、嫌だな。僕はこんなにもお義父さんが戻った事喜んでるのに! アリスだってそうだよ。それに子どもたちも」

 そう言ってノアが振り返ると、アリスが子どもたちを抱えて物凄い勢いでこちらに向かって駆けてくる。

「パパ~!」
「おじいちゃ~ん!」
「緩めろ! スピードをちょっとは緩めろよっ!」

 坂道を利用してついでに子どもたちの重さも利用して弾丸のようなスピードで駆け寄ってくるアリスを見て、ユアンは思わずシェリーを庇うように抱きしめながら怒鳴った。

 いよいよ駄目かと思ったその時、突然アリスが目の前から消え、気付いたら後ろに笑顔で立っている。そして抱えられた子どもたちの顔面はアミナスを除いて蒼白だ。

「い、今何が起こった?」
「ここまで来て宙返りしたんだよ。アリス、それ喜ぶのアミナスとエルシーだけだからね?」
「ぶー!」
「ぶー、ではありません! いい加減レオとカイとレックスを巻き込むのを止めてもらってもいいですか? ノエルはまぁお嬢様の血が半分入ってるので少々大丈夫でしょうが、うちの子達とレックスは正真正銘人間なのです」
「ねぇキリ、何だかあんまり僕褒められていない気がするんだ」
「褒めていますよ。まともな感性と思考でお嬢様の驚異的な体力を受け継いでいるのはノエルだけですから。あなたの妹二人を見てみなさい。中身までゴリラそっくりで目も当てられないでしょう?」
「やっぱり褒めてないと思う」
「キリ? アミナスもエルシーも可愛いんだよ? 何なら二人ともアリスにそっくりで僕は誇らしいんだけど?」
「ノア様、すみません。流石に俺はあなたとゴリラの魔法を受け継いだ頭のキレるお花畑に脅威しか感じないです」

 AMINAS改めエルシーは、満を持してバセット家に誕生した。それが3年前の話だ。ところが、まだ三歳だと言うのにエルシーは時々こちらが引くような知識を披露する。一体ソラはAMINASにどんな加護を与えたのかと問い詰めたくなるほどだ。

「はは……まぁ、それはちょっと……可愛くないよね」

 キリの指摘に思わず言葉を濁したノアにアリスが憤慨する。

「何てこと言うの、兄さま! キリ! エルシーも超可愛いよ!」
「いや、可愛いのは可愛いよ。でも何ていうか、時々垣間見えるあの子の名残にビクっとするよね。子供らしさが無いって言うかさ……」

 言いながら視線を伏せたノアを見てユアンは引きつった。

「……どんな娘が生まれたんだよ、今度は……」
「想像を絶すると思います。シェリーがバカみたいに可愛く思えると思います」
「お前、相変わらず仕えている家に対して言いたい放題だな。はぁ、まぁ何でもいい。そんな訳で俺の記憶は戻った事を言いに来たんだ。俺はこれからこの足でアンソニー達の所に行く」
「えー! あ、じゃあその前にエルシーに会って行ってよ、せめて!」

 記憶が戻ったユアンと聞いて、アリスは嬉しくて堪らなかった。

 領地の皆はユアンが不用意に思い出してしまわないようにとの配慮でアリス達にユアンの事を「パパ」や「お祖父ちゃん」と呼ぶことを禁止していた。

 だからアリスは心の中では「パパ」と呼びたいのをこらえて、ずっと名前で呼んでいたのだ。

 けれどもう大手振ってユアンの事をパパと呼ぶことが出来るのだ!

 満面のアリスを見てユアンは大きなため息を落として渋々頷く。

「仕方ねぇな。ついでにシェリーのおしめも変えるか」
「ノンノン! パパ、今はもう誰もおしめなんて使ってないゾ!」
「どういう意味だよ?」
「おしめの代わりにおむつって言う使い捨てのおしめを開発したのだ! 小さく折り畳めるし匂いも水分もすっごく吸収してくれるから超便利!」
「へぇ。ハリー、持ってるか?」
「持ってるよ。常にカバンに入ってるよ。君の」
「俺のかよ! マジで俺は一体どんな生活を送ってたんだよ!?」

 思わず叫んだユアンにノアが苦笑いを浮かべて何かを思い出すように言う。

「いや~……聞かない方がいいと思うけど」
「……そんなにか」
「そんなにだね。もしも僕がお義父さんの立場であれば、聞かなきゃ良かったって思うね」
「そうか。やっぱ聞くのはよそう。で、噂の三人目は寝てんのか?」

 ノアの言葉で全てを察したユアンは、すぐさま切り替えてアリスに尋ねるとアリスとノアは同時に首を振った。

「今は書斎で何か難しい本読んでるよ!」
「は?」
「だから言ったでしょ? 何ていうか……時々可愛くないんだよ」
「……会うの止めていいか?」

 会う前から何だか怖くなってきたユアンが言うと、アリスが途端に悲しそうな顔をする。そんな顔を見てノエルとアミナスがユアンの両手を繋いでくる。

「お祖父ちゃん、逃げちゃ駄目!」
「そうだよ、お祖父ちゃん。父さまと母さまの子だよ。何があってもおかしくないってポリーさんも言ってたし……」
「そこで言葉を濁すなよ! お前らも怖がってんじゃねぇか! あとお前らも押すなよ!」

 二人に手を引かれ、背中をレックスとレオとカイが三人がかりで押してきた。ユアンはとうとう諦めて、バセット家に続く坂道を上りながら、どうやってこの受難から逃げ出すかを考えていた。
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