婚約破棄、ありがとう!二度近づかないでください!

鏡おもち

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温泉宿の建設が最終段階に入り、アシュクロフト領はかつてない活気に包まれていた。


リリアンは、完成間近の露天風呂の石組みをチェックしながら、手元の算盤を激しく弾いている。
その後ろでは、セドリックが「温泉宿掃除係・見習い」として、慣れない手つきで落ち葉を掃いていた。


「お、お嬢様……。この『清掃業務』という名の労働、私の高貴な腰にかなりの負担がかかっているのですが、休憩時間の最適化をお願いできませんか?」


「殿下。あなたの現在の清掃効率は、村の五歳児の半分以下ですわ。その生産性で休憩を要求するなど、投資家に対する裏切りです。黙って手を動かしなさい、その一振りが金貨一、二枚分の損失を埋めるのだと思って」


リリアンが冷たく言い放った、その時だった。


遠くから、地響きのような蹄の音が聞こえてきた。
それはセドリックが連れてきた軟弱な王室馬車のものとは明らかに違う、重厚で統制の取れた軍馬の足音。


「……この振動周期、そして土埃の舞い上がり方。ただの旅人ではありませんわね。ギルバート、迎撃……いえ、接客の準備を」


リリアンが指示を出すより早く、ギルバートの顔つきが変わった。
彼は担いでいた建築資材を静かに下ろし、鋭い視線を街道の先へと向ける。


「……お嬢様。隠れん坊は本当に終わりのようです。あいつが……我が国の『歩く合理主義』が、自らお出ましですよ」


街道から姿を現したのは、深紅の旗印を掲げた黒鉄の騎兵隊。
その中央に、一際巨大で威圧感を放つ黒塗りの馬車が止まった。
扉が開くと、そこから一人の男が降り立つ。


銀髪を短く刈り込み、冷徹なまでの美貌を持つその男は、ギルバートをより鋭く、より巨大にしたような圧倒的な存在感を放っていた。
隣国レインワース王国の第一王子、にして次期国王と目される男——ヴィクトール・レインワース。


「……ギルバート。随分と薄汚れた格好をしているな。一国の王子が、辺境の地で土を弄んでいるという報告を聞いた時は、耳を疑ったぞ」


ヴィクトールの声は、氷の柱を叩いたような冷たさで響いた。
セドリックは、その圧倒的な威圧感に腰を抜かし、持っていた箒を放り出して震え上がった。


「ギ、ギルバート殿下の兄君……! なぜ、なぜこんなところに隣国の最高権力者が!」


ヴィクトールはセドリックを一瞥もせず、真っ直ぐにリリアンの前へと歩み寄った。
その歩幅は完璧に一定で、無駄な動きが一切ない。


「貴様が、我が弟を『重機』として使い潰しているという、不敵な公爵令嬢か」


「初めまして、ヴィクトール殿下。アシュクロフト領の最高経営責任者、リリアンですわ。……使い潰すだなんて心外です。私は彼の潜在能力を最大限に引き出し、資産価値を一〇パーセント向上させただけですわよ。ご覧なさい、あの広背筋のキレ。我が領地の栄養価の高い猪肉と、効率的な労働の賜物です」


リリアンは一歩も引かず、ヴィクトールの目を正面から見据えた。
周囲の騎士たちが、その不敬な態度に剣の柄を握るが、ヴィクトールは片手を挙げてそれを制した。


「……ふん。口の減らない女だ。だが、ギルバートを連れ戻しに来ただけではない。隣国の動向は把握しているか? 現在、我が国との国境付近で、貴公の国の正規軍が不審な動きを見せている」


「軍の動き? お父様からは何も聞いておりませんが」


「貴様の国のバカな王が、この領地の急速な発展……特に、温泉から湧き出た『特殊な魔力成分』を、軍事利用しようと画策しているという情報がある。ギルバート、遊びは終わりだ。この女を連れて我が国へ来い。この地は間もなく戦場になる」


ヴィクトールの言葉に、マリアが悲鳴を上げた。
だが、リリアンの反応は違った。


「……戦場? 殿下、それは極めて非効率的な提案ですわね」


「何だと?」


「戦争。それは莫大な軍事費を浪費し、労働力を失い、せっかく構築したインフラを破壊する、経済活動における最悪の選択肢です。我が国の王がそのような愚行を犯すというのであれば、私は彼を『非効率な経営者』として解任……いえ、徹底的に説得する必要がありますわ」


リリアンは、算盤をチャッ、と鳴らしてヴィクトールの鼻先に突きつけた。


「それに、ヴィクトール殿下。ギルバートを連れて帰るというのであれば、彼のこれまでの労働による利益配分、および早期契約解除に伴う違約金を、レインワース王国が肩代わりしてくださるのかしら? 金貨一万枚ほどになりますけれど」


ヴィクトールは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
大陸最強の武闘派として恐れられる自分に対し、戦争の脅威を説くどころか「違約金」の話をされたのは、彼の人生でも初めてのことだった。


「……っ、はははは! 素晴らしい! ギルバートが惚れ込むわけだ。これほどの狂気、いや、徹底した合理主義を持つ女は、我が国にもおらん!」


ヴィクトールは、初めてその冷たい唇を吊り上げ、愉悦の笑みを浮かべた。


「面白い。リリアン・ヴァン・アシュクロフト。貴様をレインワース王国の『国政アドバイザー』としてヘッドハンティングしたいところだが……まずはこの地を、貴様の国の強欲な王の手から守って見せろ。それができれば、私は貴様との『通商条約』を検討してやろう」


「お安い御用ですわ。私の領地の純利益を脅かす者は、王であろうと神であろうと、数字の暴力で粉砕して差し上げますわ!」


リリアンの瞳に、かつてない野心の光が宿る。
ギルバートは、兄の隣で呆れたように肩をすくめた。


「兄上。見ただろう? このお嬢様に『連れ去る』なんて言葉は通用しないんだ。彼女は、来るべき嵐さえも、自分の懐を潤すための『追い風』に変えるつもりなんだから」


アシュクロフト領に、戦雲が忍び寄る。
だが、リリアンにとっては、それさえも新たなビジネスチャンス、あるいは「王室という名の巨大な不良債権」を整理するための絶好の機会に過ぎなかった。


「マリア様! 防衛費の予算案を作成しなさい! ギルバート、兄上を温泉へ案内して。一泊金貨五十枚……いえ、身分相応に百枚で請求してよろしいわよ!」


「……承知いたしました、お姉様!!」


波乱の予感を孕みながら、リリアンの強欲な進撃は、一国の枠を超え、大陸全土を巻き込む巨大な渦へと成長しようとしていた。
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