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晩餐会の喧騒がようやく収まり、夜風が火照った屋敷を冷やし始めた頃。
リリアンは、誰もいないテラスで一人、月明かりを頼りに手元の手帳にペンを走らせていた。
今日の晩餐会での飲料消費量と、そこから導き出される次回の仕入れ最適化案……。
彼女の脳内には、ロマンチックな余韻など一ミリも残っていなかった。
「お嬢様。……こんな時間まで、まだ『利益』を数えているんですか?」
背後から聞こえてきたのは、聞き慣れた、しかし少しだけ硬い声。
振り返ると、そこには軍礼装のボタンを一つ外し、少し疲れたような、それでいて決意を秘めた瞳のギルバートが立っていた。
「あら、ギルバート。いいところに来ましたわ。見てください、この『ワインの飲み残し率』。三割のゲストがグラスの底に二ミリほど残しています。これはサーブする量を三ミリ減らせば、一樽につき金貨一目分のコストカットになりますわよ」
リリアンが興奮気味に手帳を差し出す。
だが、ギルバートはその手帳を優しく押し戻し、そのまま彼女の手首を掴んだ。
「お嬢様。今はワインの量なんてどうでもいいんです。……俺の話を、一人の男としての話を聞いてください」
「……? ギルバート、あなたの心拍数が平時より一二パーセント上昇していますわね。過労かしら? それとも、先ほどの猪肉の消化にエネルギーを使いすぎました?」
リリアンは真面目に心配して、彼の額に手を伸ばそうとした。
しかし、ギルバートはその手を捕まえ、自分の頬に当てさせた。
「いい加減にしてください、リリアン。……俺は、あんたの『高出力モーター』でも『有能な重機』でもありません。あんたを愛している、一人の人間です」
テラスの空気が、一瞬で凍りついた。
リリアンの演算回路が、かつてないほどの巨大なエラーを吐き出し始める。
「あ、愛……? ギルバート、その単語の定義は極めて曖昧で、法的な効力も薄いですわよ。もっと具体的に……例えば、『契約内容の更新』ということでよろしいかしら?」
「いいえ、違います。……俺の妻になってほしいと言っているんです。ビジネスパートナーとしてではなく、人生を共に歩む伴侶として」
ギルバートの声は、静かだが、夜の闇を切り裂くような力強さを持っていた。
「……妻。つまり、隣国の第三王子の配偶者という地位。……ギルバート、それはつまり、レインワース王国の王族特権を利用した『恒久的な通商条約の締結』、およびアシュクロフト領への『国家予算レベルの投資保証』を意味するということで間違いありませんわね?」
リリアンは、必死に脳内で「結婚」という事象をメリット・デメリットの表に変換しようとした。
「お嬢様、まだそっち(ビジネス)に逃げるんですか。……俺が言っているのは、権利や利益の話じゃない。俺の隣で笑って、一緒に飯を食って、数字に疲れた時は俺の腕の中で休んでほしい……ただ、それだけのことなんです」
ギルバートが、一歩詰め寄る。
彼の高い体温が、リリアンの肌に伝わってくる。
それは、どんなに厚い帳簿よりも、どんなに正確な計算式よりも、確かな「質量」を持って彼女の心を揺さぶった。
「……休息。……私の脳を休ませるための、安全なリソースの確保……。……ギルバート、あなたの提案は、私の人生設計において『極めて高い幸福度』という不確定要素を注入することになりますわ」
リリアンの声が、微かに震える。
彼女は今、自分の計算機が弾き出したことのない「解」を目の当たりにしていた。
「不確定なのが人生ですよ。……リリアン。あんたがどれほど数字を愛していても、俺はあんた自身を愛している。あんたが泥だらけでクワを振っている姿も、セドリックをゴミのように見下す冷たい目も、俺にとっては世界で一番美しい景色なんだ」
ギルバートはそう言って、リリアンを優しく抱きしめた。
逞しい腕の感触。
彼の心臓の鼓動が、リリアンの背中に一定のリズム(BPM七十五、非常に安定している、と脳が勝手に分析する)で響く。
「……ギルバート。……あなたの提案を採用した場合、私の『独身貴族としての自由な経営権』は、一部制限されることになりますわね?」
「……ええ、そうですね。俺という『口うるさい夫』に、毎日大好きだと言われる刑に処されますよ」
「……っ。それは、極めて……極めて、カロリーの高い刑罰ですわね」
リリアンは、ギルバートの胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
彼女の顔は、晩餐会の最高級ワインを飲んだ時よりも赤く染まっていた。
「検討……検討の結果を申し上げますわ。……あなたの提案、アシュクロフト領の長期的発展、および私の精神的安定に寄与する可能性が極めて高いと判断されました」
「……それは、つまり?」
ギルバートが、期待を込めて彼女の顔を覗き込む。
リリアンは、恥ずかしさを隠すように彼を突き飛ばそうとしたが、結局その服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……採用ですわよ、バカ! これ以上の条件提示は不要です。……ただし、結婚式の費用は徹底的にコストカットしますわ。浮いたお金で、新しい灌漑システムを導入するのが条件ですわよ!」
「……はは、やっぱりそう来ましたか。お嬢様らしい。……最高ですよ、俺の奥さんは」
ギルバートは、今度こそ心からの笑顔を浮かべ、リリアンに誓いの……ではなく、これからの波乱に満ちた(しかし最高に効率的な)共同生活の始まりを告げる、熱い口づけを落とした。
テラスの隅でその様子を盗み見ていたマリアが、「……お姉様の初めての契約違反(恋)ですわ! 尊すぎて計算が合いませんわぁ!」とハンカチを噛み締めていたが、それは二人の知るところではなかった。
リリアンの「合理主義」という鉄壁の要塞が、ついに「愛」という名の最大級の投資によって、華麗に陥落した瞬間であった。
リリアンは、誰もいないテラスで一人、月明かりを頼りに手元の手帳にペンを走らせていた。
今日の晩餐会での飲料消費量と、そこから導き出される次回の仕入れ最適化案……。
彼女の脳内には、ロマンチックな余韻など一ミリも残っていなかった。
「お嬢様。……こんな時間まで、まだ『利益』を数えているんですか?」
背後から聞こえてきたのは、聞き慣れた、しかし少しだけ硬い声。
振り返ると、そこには軍礼装のボタンを一つ外し、少し疲れたような、それでいて決意を秘めた瞳のギルバートが立っていた。
「あら、ギルバート。いいところに来ましたわ。見てください、この『ワインの飲み残し率』。三割のゲストがグラスの底に二ミリほど残しています。これはサーブする量を三ミリ減らせば、一樽につき金貨一目分のコストカットになりますわよ」
リリアンが興奮気味に手帳を差し出す。
だが、ギルバートはその手帳を優しく押し戻し、そのまま彼女の手首を掴んだ。
「お嬢様。今はワインの量なんてどうでもいいんです。……俺の話を、一人の男としての話を聞いてください」
「……? ギルバート、あなたの心拍数が平時より一二パーセント上昇していますわね。過労かしら? それとも、先ほどの猪肉の消化にエネルギーを使いすぎました?」
リリアンは真面目に心配して、彼の額に手を伸ばそうとした。
しかし、ギルバートはその手を捕まえ、自分の頬に当てさせた。
「いい加減にしてください、リリアン。……俺は、あんたの『高出力モーター』でも『有能な重機』でもありません。あんたを愛している、一人の人間です」
テラスの空気が、一瞬で凍りついた。
リリアンの演算回路が、かつてないほどの巨大なエラーを吐き出し始める。
「あ、愛……? ギルバート、その単語の定義は極めて曖昧で、法的な効力も薄いですわよ。もっと具体的に……例えば、『契約内容の更新』ということでよろしいかしら?」
「いいえ、違います。……俺の妻になってほしいと言っているんです。ビジネスパートナーとしてではなく、人生を共に歩む伴侶として」
ギルバートの声は、静かだが、夜の闇を切り裂くような力強さを持っていた。
「……妻。つまり、隣国の第三王子の配偶者という地位。……ギルバート、それはつまり、レインワース王国の王族特権を利用した『恒久的な通商条約の締結』、およびアシュクロフト領への『国家予算レベルの投資保証』を意味するということで間違いありませんわね?」
リリアンは、必死に脳内で「結婚」という事象をメリット・デメリットの表に変換しようとした。
「お嬢様、まだそっち(ビジネス)に逃げるんですか。……俺が言っているのは、権利や利益の話じゃない。俺の隣で笑って、一緒に飯を食って、数字に疲れた時は俺の腕の中で休んでほしい……ただ、それだけのことなんです」
ギルバートが、一歩詰め寄る。
彼の高い体温が、リリアンの肌に伝わってくる。
それは、どんなに厚い帳簿よりも、どんなに正確な計算式よりも、確かな「質量」を持って彼女の心を揺さぶった。
「……休息。……私の脳を休ませるための、安全なリソースの確保……。……ギルバート、あなたの提案は、私の人生設計において『極めて高い幸福度』という不確定要素を注入することになりますわ」
リリアンの声が、微かに震える。
彼女は今、自分の計算機が弾き出したことのない「解」を目の当たりにしていた。
「不確定なのが人生ですよ。……リリアン。あんたがどれほど数字を愛していても、俺はあんた自身を愛している。あんたが泥だらけでクワを振っている姿も、セドリックをゴミのように見下す冷たい目も、俺にとっては世界で一番美しい景色なんだ」
ギルバートはそう言って、リリアンを優しく抱きしめた。
逞しい腕の感触。
彼の心臓の鼓動が、リリアンの背中に一定のリズム(BPM七十五、非常に安定している、と脳が勝手に分析する)で響く。
「……ギルバート。……あなたの提案を採用した場合、私の『独身貴族としての自由な経営権』は、一部制限されることになりますわね?」
「……ええ、そうですね。俺という『口うるさい夫』に、毎日大好きだと言われる刑に処されますよ」
「……っ。それは、極めて……極めて、カロリーの高い刑罰ですわね」
リリアンは、ギルバートの胸に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
彼女の顔は、晩餐会の最高級ワインを飲んだ時よりも赤く染まっていた。
「検討……検討の結果を申し上げますわ。……あなたの提案、アシュクロフト領の長期的発展、および私の精神的安定に寄与する可能性が極めて高いと判断されました」
「……それは、つまり?」
ギルバートが、期待を込めて彼女の顔を覗き込む。
リリアンは、恥ずかしさを隠すように彼を突き飛ばそうとしたが、結局その服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……採用ですわよ、バカ! これ以上の条件提示は不要です。……ただし、結婚式の費用は徹底的にコストカットしますわ。浮いたお金で、新しい灌漑システムを導入するのが条件ですわよ!」
「……はは、やっぱりそう来ましたか。お嬢様らしい。……最高ですよ、俺の奥さんは」
ギルバートは、今度こそ心からの笑顔を浮かべ、リリアンに誓いの……ではなく、これからの波乱に満ちた(しかし最高に効率的な)共同生活の始まりを告げる、熱い口づけを落とした。
テラスの隅でその様子を盗み見ていたマリアが、「……お姉様の初めての契約違反(恋)ですわ! 尊すぎて計算が合いませんわぁ!」とハンカチを噛み締めていたが、それは二人の知るところではなかった。
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