婚約破棄、ありがとう!二度近づかないでください!

鏡おもち

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ギルバートとの「終身雇用……もとい婚約」が成立してから一夜。
リリアンは朝一番のコーヒーを啜りながら、領主室の窓から広場を見下ろしていた。


そこには、未だに往生際悪く、昨夜の「猪の被り物」を引きずって蹲るセドリックの姿があった。


「リリアン……! 私は認めん、認めんぞ! 隣国の王子と婚約するなど、我が国の安全保障に関わる重大な規約違反だ! 今すぐその契約を破棄し、私の胸に戻って――」


「……ギルバート。あの『残留ノイズ』、音量が大きすぎて私の今日の執務スケジュールの開始を三二〇秒遅延させていますわ。今すぐ強制シャットダウン……いえ、お掃除が必要ですわね」


リリアンは冷徹な眼差しで、背後に立つギルバートに命じた。


「お嬢様、俺が力ずくで追い出してもいいですが……それだとまた『悲劇のヒーロー』を気取って戻ってきそうですよ。あのタイプは物理的な衝撃より、精神的な収支報告を叩きつけるのが一番です」


「その通りですわ。マリア様、用意していた『最終決済書類』を持ってきてくださる?」


「はい、お姉様! 殿下の全存在価値を数値化し、負債額と相殺した完璧なレポートですわ!」


マリアが、鈍器のような厚みのある書類束を持って現れた。
三人は連れ立って広場へと降り立ち、絶望に浸るセドリックを囲い込んだ。


「殿下。あなたの滞在によって、我が領地が発生させた損失の最終報告書ですわ。……お読みになります?」


リリアンが突きつけた紙面には、目を剥くような数字が並んでいた。


「な、何だこれは……! 食費、宿泊費はいい。だがこの『王子の存在による領民の生産性低下(困惑による作業停止)』、さらには『不必要なドラマチック演出による空気抵抗の増大(マントを翻す動作による風圧)』……!? こんなものにまで金を取るのか!」


「当然ですわ。あなたのその無駄なパフォーマンスのせいで、領民たちの平均心拍数は乱れ、作業効率は昨対比で五パーセントも落ち込みました。さらに、あなたの『猪コスプレ』によるブランドイメージの毀損。これらを合算すると、あなたの残りの人生を全て使っても返済不可能な額になりますわね」


リリアンは、冷たく微笑みながら計算尺をカチリと鳴らした。


「そこで提案です。殿下、あなたをこれ以上ここに置いておくのは、アシュクロフト領にとって『毒資産』を抱え続けるのと同じ。……そこで私は、あなたという不良債権を、王都へ向けて『損切り』することに決めましたわ」


「そ、損切り……!? 王子を投資失敗みたいに言うな!」


「いいえ、これは慈悲ですわ。殿下、今すぐこの領地から永久追放……いえ、『自己都合退職』という形で王都へ戻るなら、これまでの負債の八割を免除して差し上げます。ただし、二度とこの領地の土を踏まず、私とギルバートの婚約に異議を唱えないことが条件です」


「そんな……! 私は、君を救おうと……!」


「救う? 誰をです? 年間利益成長率一五〇パーセントを誇る私を、赤字垂れ流しの王都へ連れ戻すことが救済だと? 殿下、あなたの脳内演算装置は、やはり一度初期化したほうがよろしいですわね」


リリアンは一歩近づき、セドリックの額に筆を突きつけた。


「今のあなたは、私にとって『価値を生み出さない、ただの維持費のかかるオブジェ』でしかありませんの。……ギルバート、彼の馬車を。マリア様、彼の荷物を玄関から三十メートル先まで射出しなさい」


「承知いたしましたわ、お姉様! 放物線の計算は完了しております!」


マリアが合図を送ると、領地の入り口付近で待機していた巨大な投石機(温泉掘削用を改造したもの)が、セドリックの豪華なトランクを次々と空の彼方へと飛ばし始めた。


「あぁぁ! 私の王室特製パジャマが! 私の高級ヘアオイルがぁ!」


「安心してください、殿下。着地地点には、王都へ向かう行商人の荷車がちょうど通るように計算してあります。……さあ、あなたも走りなさい。今すぐ馬車に乗らなければ、残りの二割の負債を即刻、体で払っていただくことになりますわよ。……そうね、まずは温泉の底に溜まった湯垢を、その豪華なマントで磨く作業から始めていただきましょうか」


「ひ、ひぇぇぇ! わ、わかった! 帰る! 帰るから、その恐ろしい顔を向けるな!」


セドリックは、猪の被り物を放り捨て、尻を端折って待機していた馬車へと逃げ込んだ。
馬車は、御者が鞭を打つまでもなく、恐怖に駆られた馬たちによって猛烈なスピードで走り去っていった。


「……ふぅ。ようやく『不採算部門』の整理が終わりましたわね。これで空気中の酸素濃度が正常に戻りましたわ」


リリアンは満足げに頷き、去りゆく土埃を見送った。


「お嬢様……。今の追い出し方、合理的すぎて清々しいというか、もはや悪役を超えて魔王の域に達していますよ」


ギルバートが苦笑しながら、リリアンの肩を抱き寄せる。
リリアンは、彼の胸の中でフンと鼻を鳴らした。


「効率を妨げるものは、例え王子であろうと排除するのが経営者の義務ですわ。……さて、ギルバート。ノイズがいなくなったところで、中断していた『新婚旅行を兼ねた隣国への視察ルート』の作成を再開しますわよ。一分一秒も無駄にはできませんわ」


「はいはい。……でも、少しは甘い雰囲気とか、そういうリソースも割いてくれませんか?」


「あら。甘い雰囲気なら、隣国の市場に私の開発したお菓子を流し込んだ後の『独占的優越感』で十分に味わえますわよ?」


「……やっぱり、お嬢様は一生このままなんでしょうね」


ギルバートは、愛しさと諦めが混じったキスを、リリアンの額に落とした。


邪魔者を一掃し、完璧なまでの「経営環境」を整えたリリアン。
彼女の進撃は、もはや一つの領地には収まりきらず、国家という名の巨大な市場を飲み込もうとしていた。


「お姉様! 殿下が落とした猪の被り物、消毒して土産物屋の展示品に転換しましたわ! 『王子が改心した記念品』として、閲覧料を取ります!」


「マリア様、素晴らしいわ! 一円の無駄も出さないその姿勢、まさに私の右腕ですわね!」


アシュクロフト領の朝は、今日も今日とて、欲望と合理性に満ちた笑い声と共に幕を開けるのであった。
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