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うちのミアに触らないで!
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ケイトリンがニコラの家に着いた時は夜も更けて、通りの灯りは消えていた。
馬車に吊るしていたランプ石を手に持ち、ニコラの家の鍵を開ける。合鍵は渡されていたが、ミアがやってきてからは滅多に使ったことがない。
ニコラの様子がおかしいから覚悟しておいた方がいいと知らせを受け取とったのは遠方から帰宅してからだった。リシルは何やら王族を中心としたゴタゴタの対応に呼び出されていて、明日の朝まで留守にしている。
(ニコラの様子がおかしいのは、今に始まったことではないわ)
ニコラは、他の兄弟姉妹に比べて、手がかからない子だったように思う。
後妻の子として生まれ、モーウェル家を継ぐこともないニコラは、何かを欲しがることがあまりなかった。黙々と日課に取り組み、モーウェル家の一員として求められるものをそれなりに満たし、他の兄弟の邪魔になるようなこともしない。
軍神の神話や竜討伐の英雄伝などは好まず、寝物語には騎士と姫の恋物語ばかりをせがまれた。
時々、ケイトリンが仕えていた姫を一目見たいとねだられ、城へ連れて行くことはあった。
「すっかり拗らせてしまったのね……」
騎士の見習いになってからは、刺繍や女性の身支度について熱心にケイトリンに質問するようになった。もうあの時には女性の主に仕えることはニコラの中では決定事項だったのだろう。思春期の息子の引き出しに、ぎちぎちに詰まった姫と騎士の物語や艶本を、見ぬふりをしたのが間違っていたのだろうかとケイトリンは眉間に手をやる。
そういえば、恋人も作らず花街に通ったり、王族の夫婦を訪ねては怪しげな秘術を授けていると噂されることもあった。
ついに執念でセレスタニア姫の娘を探し出し、盛大に振られたり、ギルドマスターと内通するようになったのはここ数年のことだ。
全て見ない振りが出来たのは、ニコラがどこに出しても恥ずかしくない、完璧な騎士だったからに他ならない。
ニコラの欲望を放置してはいけなかったのだ。むしろ助長してしまったのは自分かも知れないと、ケイトリンは己の行いを猛省した。
幻想の中に生きて、それを実現させるために黙々と努力するニコラをケイトリンは祈るように見守ってきた。
いつか報われない努力を諦めさせて、現実に連れ戻してくれる相手に出会えるかもしれない、そんな投げやりな希望は、ついに叶わなかったのだ。
ニコラの部屋へ急ぐ。
しばらく来ないうちに壁紙が温かみのある色に張り替えられていたし、ニコラの背に合わせて取り付けられていた取手や物掛けは一段低いとこに移されている。
ニコラがどれほどミアを慈しんでいたのか分からないケイトリンではない。
(それがどうして……)
ドアを開けると、手枷をされてベッドに繋がれている絶望的なミアの姿が蠟燭の薄明りに浮かびあがる。
(やってしまった……)
ケイトリンは立ち尽くした。
息子はすっかり道を踏み外してしまった。
恋に溺れて、相手を襲い蹂躙する破滅的な結末を迎えてしまったのだ。
絶望で手指が冷えるのを感じて、震える声を絞り出す。
「ニコラ、あなた……」
半裸の息子は忙しそうに身支度を整えている。
ベッドの上はドロドロで、濃い精の匂いがした。
眠っているのか、気絶しているのか、目を閉じてベッドに横たわるミアの白い肌には無数の執着の跡が見てとれる。見たところ流血などはしていないが、小器用なニコラのことだ、どれほど残虐なことをやったかわからない。
目を覆いたくなるような惨状に、気丈なケイトリンも気が遠くなる。
「ニコラ……ミアに何をしたの?」
「ああ、母上でしたか。こちらから出向く手間が省けました」
ひどい有様が目の前に広がっているというのに、ニコラは機嫌よくケイトリンを迎え入れる。
ケイトリンは、微笑むニコラの頬を張った。こんなに憤ったことはない。
「母上、私はアディアール家を継げません」
「ニコラをアディアール家の後継から外します」
母と子は同時に言い放つ。
「流石母上、私からお願いに伺う所でした。アディアール家への養子の件ですが……」
ケイトリンはニコラの言葉を遮って金切り声を上げる。
「もう何も聞きたくないわ! ミアはうちに連れて行きます。二度と会わせるつもりはありませんから、追ってこないで。あなたももう、アディアール家とは関係のない者におなりなさい」
「わかりました。アディアール騎士にもそうお伝えください」
ミアに出会ってから、少しはまともに現実を生きるようになったのだと安心していた。
ミアはとても良い娘だった。娼婦をするには商売っ気のうすい律儀な子で、年季を買い取ることになってしまったニコラに恩を返したいと躍起になっていた。
ケイトリンはミアとニコラを見てピンときた。ニコラに運命の人がやってきたのだと。
ケイトリンにはニコラがミアに恋に落ちるであろう確信があった。
ニコラがミアを生涯必要とするだろうと確信して、ミアを社交界でもやっていけるように仕立てあげたのはケイトリンだ。
ミアは幼い頃から教会で暮らしていたが、どんどん増える孤児に居場所を空けるため、自ら教会を出た。道端にいたと聞いた時は驚いたが、教会で生活した経験は礼儀作法を覚えるのに邪魔にならなかった。立ち姿は綺麗だし、決められた歩幅で歩くこともすぐに上達した。
ミアは勉強熱心で、ケイトリンが教える以上に姫らしいの立ち居振る舞いをどんどん身につけていく。
その佇まいに、自分が幼い頃から仕えていたクリスタニア姫を彷彿させることすらあったケイトリンとリシルは、一層ミアの幸せを祈った。
リシルとケイトリンの姫よりずっと健康で、ずっと自由なミア。だからこそニコラを救うのはミアだと信じていた。
(それが、こんなことになるとは――)
「私は出かけますから、ミアをよろしくお願いします。なるべく早く迎えに参りますから」
ニコラは時計を確認すると、書類の束を抱えて出ていこうとする。
「二度と会わせないと言いましたよ!」
それには答えずにベッドにかがみ込んで、眠り続けるミアに口付ける。
「駄目! うちのミアに触らないで!!」
ケイトリンは思わず悲鳴を上げる。
ニコラは目を見開き、それから感慨深そうに笑みの形に細める。
「うちの、ですか……そうですね。母上のミアは、うっかりすると私たちの為に自分を犠牲にして、姿をくらませるつもりでいますよ。くれぐれもしっかり見張っていてくださいね」
「何を言っているの? いったいどこへ行くつもり?」
「ミアに良くしてくださって有難うございました。感謝しております、母上」
ニコラは深々と騎士の礼の姿勢をとり、ケイトリンに首を垂れると、颯爽と部屋を出ていった。
その姿は騎士として一点の曇りもなかった。
馬車に吊るしていたランプ石を手に持ち、ニコラの家の鍵を開ける。合鍵は渡されていたが、ミアがやってきてからは滅多に使ったことがない。
ニコラの様子がおかしいから覚悟しておいた方がいいと知らせを受け取とったのは遠方から帰宅してからだった。リシルは何やら王族を中心としたゴタゴタの対応に呼び出されていて、明日の朝まで留守にしている。
(ニコラの様子がおかしいのは、今に始まったことではないわ)
ニコラは、他の兄弟姉妹に比べて、手がかからない子だったように思う。
後妻の子として生まれ、モーウェル家を継ぐこともないニコラは、何かを欲しがることがあまりなかった。黙々と日課に取り組み、モーウェル家の一員として求められるものをそれなりに満たし、他の兄弟の邪魔になるようなこともしない。
軍神の神話や竜討伐の英雄伝などは好まず、寝物語には騎士と姫の恋物語ばかりをせがまれた。
時々、ケイトリンが仕えていた姫を一目見たいとねだられ、城へ連れて行くことはあった。
「すっかり拗らせてしまったのね……」
騎士の見習いになってからは、刺繍や女性の身支度について熱心にケイトリンに質問するようになった。もうあの時には女性の主に仕えることはニコラの中では決定事項だったのだろう。思春期の息子の引き出しに、ぎちぎちに詰まった姫と騎士の物語や艶本を、見ぬふりをしたのが間違っていたのだろうかとケイトリンは眉間に手をやる。
そういえば、恋人も作らず花街に通ったり、王族の夫婦を訪ねては怪しげな秘術を授けていると噂されることもあった。
ついに執念でセレスタニア姫の娘を探し出し、盛大に振られたり、ギルドマスターと内通するようになったのはここ数年のことだ。
全て見ない振りが出来たのは、ニコラがどこに出しても恥ずかしくない、完璧な騎士だったからに他ならない。
ニコラの欲望を放置してはいけなかったのだ。むしろ助長してしまったのは自分かも知れないと、ケイトリンは己の行いを猛省した。
幻想の中に生きて、それを実現させるために黙々と努力するニコラをケイトリンは祈るように見守ってきた。
いつか報われない努力を諦めさせて、現実に連れ戻してくれる相手に出会えるかもしれない、そんな投げやりな希望は、ついに叶わなかったのだ。
ニコラの部屋へ急ぐ。
しばらく来ないうちに壁紙が温かみのある色に張り替えられていたし、ニコラの背に合わせて取り付けられていた取手や物掛けは一段低いとこに移されている。
ニコラがどれほどミアを慈しんでいたのか分からないケイトリンではない。
(それがどうして……)
ドアを開けると、手枷をされてベッドに繋がれている絶望的なミアの姿が蠟燭の薄明りに浮かびあがる。
(やってしまった……)
ケイトリンは立ち尽くした。
息子はすっかり道を踏み外してしまった。
恋に溺れて、相手を襲い蹂躙する破滅的な結末を迎えてしまったのだ。
絶望で手指が冷えるのを感じて、震える声を絞り出す。
「ニコラ、あなた……」
半裸の息子は忙しそうに身支度を整えている。
ベッドの上はドロドロで、濃い精の匂いがした。
眠っているのか、気絶しているのか、目を閉じてベッドに横たわるミアの白い肌には無数の執着の跡が見てとれる。見たところ流血などはしていないが、小器用なニコラのことだ、どれほど残虐なことをやったかわからない。
目を覆いたくなるような惨状に、気丈なケイトリンも気が遠くなる。
「ニコラ……ミアに何をしたの?」
「ああ、母上でしたか。こちらから出向く手間が省けました」
ひどい有様が目の前に広がっているというのに、ニコラは機嫌よくケイトリンを迎え入れる。
ケイトリンは、微笑むニコラの頬を張った。こんなに憤ったことはない。
「母上、私はアディアール家を継げません」
「ニコラをアディアール家の後継から外します」
母と子は同時に言い放つ。
「流石母上、私からお願いに伺う所でした。アディアール家への養子の件ですが……」
ケイトリンはニコラの言葉を遮って金切り声を上げる。
「もう何も聞きたくないわ! ミアはうちに連れて行きます。二度と会わせるつもりはありませんから、追ってこないで。あなたももう、アディアール家とは関係のない者におなりなさい」
「わかりました。アディアール騎士にもそうお伝えください」
ミアに出会ってから、少しはまともに現実を生きるようになったのだと安心していた。
ミアはとても良い娘だった。娼婦をするには商売っ気のうすい律儀な子で、年季を買い取ることになってしまったニコラに恩を返したいと躍起になっていた。
ケイトリンはミアとニコラを見てピンときた。ニコラに運命の人がやってきたのだと。
ケイトリンにはニコラがミアに恋に落ちるであろう確信があった。
ニコラがミアを生涯必要とするだろうと確信して、ミアを社交界でもやっていけるように仕立てあげたのはケイトリンだ。
ミアは幼い頃から教会で暮らしていたが、どんどん増える孤児に居場所を空けるため、自ら教会を出た。道端にいたと聞いた時は驚いたが、教会で生活した経験は礼儀作法を覚えるのに邪魔にならなかった。立ち姿は綺麗だし、決められた歩幅で歩くこともすぐに上達した。
ミアは勉強熱心で、ケイトリンが教える以上に姫らしいの立ち居振る舞いをどんどん身につけていく。
その佇まいに、自分が幼い頃から仕えていたクリスタニア姫を彷彿させることすらあったケイトリンとリシルは、一層ミアの幸せを祈った。
リシルとケイトリンの姫よりずっと健康で、ずっと自由なミア。だからこそニコラを救うのはミアだと信じていた。
(それが、こんなことになるとは――)
「私は出かけますから、ミアをよろしくお願いします。なるべく早く迎えに参りますから」
ニコラは時計を確認すると、書類の束を抱えて出ていこうとする。
「二度と会わせないと言いましたよ!」
それには答えずにベッドにかがみ込んで、眠り続けるミアに口付ける。
「駄目! うちのミアに触らないで!!」
ケイトリンは思わず悲鳴を上げる。
ニコラは目を見開き、それから感慨深そうに笑みの形に細める。
「うちの、ですか……そうですね。母上のミアは、うっかりすると私たちの為に自分を犠牲にして、姿をくらませるつもりでいますよ。くれぐれもしっかり見張っていてくださいね」
「何を言っているの? いったいどこへ行くつもり?」
「ミアに良くしてくださって有難うございました。感謝しております、母上」
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その姿は騎士として一点の曇りもなかった。
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