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本当の騎士なのに

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 ミアが目覚めた時、ニコラの家とは違う天井が見えた。もう陽が高い、昼過ぎかもしれない。

「アディアール家……よね? どうしたのだっけ……? 夢?」
「――だったら悪夢だわ」

 本を閉じる音がして、目をやると、アディアール家の女主人、ケイトリンが疲れた顔で椅子に座っていた。
 ミアが目覚めるまでずっとそこにいたようで、膝掛けが置いてあり、軽食を摂った様子もある。

「ケイト様?」

 ケイトリンはミアが愛称で呼ぶのを好む。ニコラとよく似た赤毛を今日は緩く肩に垂らしていて、少し疲れているように見えた。
 
 ミアは、ベッドに寝たままではいけないと慌てて起きようとしたが、体がだるくて、上半身を起こすのにもひどく時間がかかる。

「いいのよ、ミア、休んでいて。大変な目にあったわね」
「ああ、そうでした。まぁ、大変といえば、そうですけど……」

 ケイトリンは眉を寄せて苦しそうな顔をする。
 何か考えていたようでしばらく黙ると、テーブルの上の盆に載せられていた小さな薬包紙をミアに差し出した。

「これは?」
「……避妊薬です」

 ケイトリンは震える指でミアの掌に薬を握らせて、水を用意し始める。

「私のせいで、ミアに辛い思いをさせてしまいました。ニコラがああいう子だと知っていたのに……」

 ミアは、しげしげと手の上の白い包みを眺めていた。本当は自分の薬入れの中にもたくさん持っている薬だ。花街の娼婦は子を孕むほどのことを客にさせることはほとんどないが、どんな時にも間違いは起きるものだ。娼婦にとっての常備薬として持たされていた。

「ケイト様、わたし、これはいただけません」

 ミアは掌に載せられた包みをケイトリンに返す。

「あなた、だって……」
「ケイト様はニコラ様を身籠った時のことを私に話してくださいましたね。誰かがこの子を必要とするかもしれないから、って」

 ケイトリンはモーウェル家に後妻として嫁ぎ、よくわからないままに母になった。母になるには若すぎる歳だった。
 若いケイトリンは同じ姫に仕えていたリシルへの思いを自覚するより先に、貴族の役割を与えられたのだ。

 ケイトリンがリシルへの恋心を自覚した時、母にならない選択の余地があった。しかし、ケイトリンはニコラを産まない決断をしなかった。
 人の命は儚い。愛しい人の子ではないが、何か役割があって生まれてくるのだろうと思うと、産まない選択はできなかった。
 ケイトリンはリシルとの馴れ初めを聞かせたときに、惚気半分でミアにそれを話していたのだ。

「あの話は忘れてちょうだい。私はあの時、大変な間違いをしてしまったのかも。ニコラがこんな事をするなんて――私、ミアに謝らなければ……」

 気丈なケイトリンの目に涙が浮かぶのを見て、ミアは慌てた。

「ケイト様、ニコラ様は立派な騎士です。ケイト様がおっしゃった通り、ニコラ様はたくさんの人に必要とされています。ケイトリン様の決めたことは正しかった。わたしもその恩恵を受けている者の一人なのです」

 ミアは自分の薄い腹に手を置く。

「ニコラ様をこの世に送り出してくれて本当にありがとうございます。わたし、ニコラ様が好きです」
「ミア……?」
「それに、ニコラ様のことですから、分かっていたとは思うのですけれど、きっともうすぐ月のものが来る予定です。来なかったとしても、産む覚悟があります。もう名前もあるのです。しっかり働いて、不自由な思いなどさせずに育てます」

 ケイトリンはおかしな顔をしている。
 ミアはケイトリンを見上げて願いを告げる。ケイトリンにする最初で最後のお願いだと思った。

「あの、もう二度とニコラ様の前には現れませんから、薬を飲んだことにして探さないでくださいませんか? 花街を出て。どこか遠くで暮らします。このまま、わたしはいなかったことにしてくれませんでしょうか」

 ケイトリンはミアの揺らぐことのない表情を見て、早とちりをしたことに気がついた。

「あらいやだ。違うの、違うのよミア……」

 ケイトリンは避妊薬を暖炉の火に投げ入れた。

「ニコラがおかしな薬を使ったのではないの? あなた、ちっとも目が覚めないし」

 ケイトリンはオロオロと部屋を行ったり来たりする。

「おかしな薬は使われました。自白剤です。ギルドで許可をとっているので全て記録に残っているとおっしゃっていましたよ」
「自白剤? どうしてそんなものを」

 ミアはどう説明したものかと、言い淀んだ。

「――ニコラ様に何も言わずに去るつもりが、洗いざらい隠していた気持ちを吐かされてしまって。そうまでして私の本心が知りたかったのだそうです。ニコラ様は、悪く……少ししか……ええと、そう、追い詰められていたのです!」

 ケイトリンの様子だと、ミアが正しく釈明しないとニコラが罰せられるかもしれない。
 手段は異常だったが、ニコラは全てミアの幸せの為に行動していたのだと伝えなければならない。

「どうにかニコラ様の家を出ようとおもっていたのですが、お見通しだったようで。足止めに睡眠薬を盛られてしまいました」

 ケイトリンはニコラの言っていた意味が分かり、手を打ち鳴らした。

「ああ、そういうことだったのね! やだわ、私ったら。だって、あの子、アディアール家を出るっていうし、てっきり、怪しい薬でミアを手篭めにしてしまったのだと」

 ミアが思ったよりもひどい方向に誤解されている。
 暴力とは程遠い、目眩く快感を思い出して、顔が赤くなる。

「……わたしがニコラ様に乱暴を働かれたという事実はありません。多少の事故はあったのですが、ちゃんと合意の上でそうなったというか……ええと……」

 自白剤のせいで恥ずかしいことばかりを言って、ニコラを求めた事を思い出して、より赤面する。ケイトリンは察したようで、慌てて夫を呼びに行く。

「リシル様! リシル様! 私、ひどい勘違いしていたみたい。どうしましょう、ニコラを追い出してしまったわ」

 ミアは昨日あったことを所々ぼかしながら、リシルとケイトリンに告げた。特にニコラの変態性を隠しながら物事を伝えるのには骨が折れた。

 リシルはミアがニコラに求婚されていたのだと知り、目尻を下げた。

「ミア、私からも頼む。ニコラと連れ添ってやってはくれないか? アレは本当にケイトリンにそっくりだ。一度決めたら何十年でもしつこい。花街にずっと通われたら厄介だろう?」

 リシルはニコラのことをよくわかっているようで、ミアの手を握り懇願する。

「花街から出て、どこか別の所へ行こうと思っていた所だったのですが、やっぱりニコラ様を振り切るのは、無理でしょうか?」

 ケイトリンとリシルは顔を見合わせて、手遅れだとばかりに頭を振る。

「それは無理だな。ニコラも思い込みが激しい。よっぽどのことが――タリム嬢をルロイに目の前で奪われた時のような――そんなことがない限り、別の相手を見つけるなんて無理だろう」

「ニコラってなんですか、その言いかた。私がリシル様にしつこくしたみたいに聞こえますけど」

 ケイトリンが口を尖らすと、リシルは苦笑いする。

「事実だ。お前たちは双子のような母子だろう。ニコラの未来が心配でならないよ」
「ね、ミア。ニコラの――私たちの家族になってくれない?」

 ミアは嬉しさと不安でぎゅっと目を閉じる。

「でも、わたし娼婦なんです!」

 リシルとケイトリンはすぐに意図を酌んで、二人でミアの肩を抱く。

「もう年季が明けるだろう? どこに問題がある? 愛するものと共にある事は、かつて難しいことだった。私たちもそうだった。今はギルドの時代だ。若者が自由を求めずしてどうする」

 リシルとケイトリンが思い浮かべたのは自分たちの事だけではない。
 儚く笑い、散っていった気高き王女のことを言っているのだと、まだミアは知らない。


 急に外が騒がしくなる。
 窓の外から大声が聞こえた。

「母上! 反省しました。ミアを返してください! ミア、薬を盛って悪かった。すべて解決してきたから中に入れてくれないだろうか!」

 敷地には入らず、遠くから叫んでいるニコラの声が聞こえる。
 どうやら、ケイトリンに追放されたことを律儀に守っているようだ。

「騎士をやめてきました。ギルドの登録も済ませました。モーウェルの姓も捨てました。ついでに陛下から結婚承諾書を賜りました。ミアはもう私の妻です」

 ケイトリンが窓に駆け寄り、忙しく窓を開ける。

「あなたいったいどこに行っていたの、何の説明もしないで。あなたたち、ちゃんと意思の疎通が出来ているの?」

 ケイトリンが話を聞くそぶりを見せたので、ニコラは窓の下まで走り寄る。

「『善は急げ』が母上の座右の銘でしょう?」
「いいえ、私の座右の銘は『命短し恋せよ乙女』です。全然違うじゃない。あんな様子で私にミアを託しても何も分からないわ! 本当に反省しているの?!」
「放っておけば、ミアは私の前から消えるつもりでした。少し眠ってもらったのは乱暴な手段でしたが、一日できっちり結果を出してきましたので、大目に見ていただきたい」

 ニコラが出かけてから半日が過ぎたところだ。全ての手続きを済ませてきたとすれば、恐ろしい手際だ。

「ですが、ミアに何の相談もなしに……」
「大丈夫です、全てミアに聞いた上で決めたことです。その、少し順番が前後してしまったので平手打ちは甘んじて受けました」
「あれはニコラが悪いわ。ついに犯罪に手を出してしまったのだと肝を潰したわ。いいえ、今からだってミアが同意が無かったと証言したら、あなたは牢獄暮らしなのだから、覚悟なさい!」

 ニコラは部屋の中にいるであろうミアを見たくて、伸び上がって室内をさがす。

「母上、ただのニコラが妻を迎えにきたのではいけませんか?」
「あなたが紛らわしいことをするから悪いのよ。余計なことをしてしまったわ。あんな姿でいたら、だれでもニコラが強姦魔になってしまったのだと思うじゃない。本当に心臓に悪いったらない」

 ミアはどうしたものかと親子を見守っていた。どちらにしてもニコラから逃げ出すのは難しそうだ。

「ミア、おいで。うちに帰ろう。騎士はやめたが、無職ではないから心配することはない。王子に負傷させられた分の傷痍年金を受け取ることができる。ミアの仕事もそのまま続けられるように話してきた」

 ニコラはすがすがしい顔でミアに告げる。
 しかし、ミアはニコラの言葉に顔色を失って、息を呑む。
 自分がニコラと結婚してしまったことよりも、ニコラが冒頭で口にしたことの方に気を取られていた。

「……ニコラ様、騎士を辞めてしまったのですか?」

 ミアが恐る恐る訊ねると、ニコラは快活に答える。

「そうだ。貴族も辞めた。実家に離縁してもらったからモーウェルでもない。アディアールの姓も継がない。跡継ぎは母上がどうにかするのだろう? 気楽なものだ」

 ニコラは玄関から入り直す時間が惜しいのか、そのまま軽々と窓枠を乗り越えて部屋に入ってきた。

「……わたしのせいですか? ニコラ様は騎士様で……あんなに騎士服だってお似合いだったのに、あんなに凛々しい騎士様だったのに?」
 
 ミアは目の前が暗くなったように感じた。
 
 リリアムが夢見るようにニコラを理想の騎士だと語る姿が浮かぶ。
 ミアはリリアムに連れ出され、ニコラの街での働きを覗いた。
 道に迷った子どもにニコラは身を屈めて世話を焼く。子どもが笑うとニコラも微笑む。街の皆がニコラの姿を眩しそうに見る――。
 イーサンやニールがニコラを頼って駆け寄ってくる姿も浮かぶ。
 国王がニコラを呼び、主ではないがとしぶしぶ膝を折る姿は誇り高い騎士の姿だった。
 城にいると至る所からニコラを呼ぶ声が聞こえる。隊長として部署を超えて頼られ、城で働く娘たちはニコラをうっとりと眺める――。
 ニコラは国にとって、必要な存在だったはずなのに。

「ニコラ様は騎士なのに。本当の騎士なのに……なんて事するんですか!」

 ミアはとても大切なものを無くしてしまった気持ちになって、泣き出した。
 シクシクではなく、ワンワンと子どものように泣いた。
 手足を投げ出して号泣するミアに、ニコラは所在なく歩み寄る。

「どうした? やはり騎士の方が性的に好ましかっただろうか? それ以外は何も問題はない。家も何も今までのままだ。騎士服も返還せよとは言われなかったから、時々は着て見せるから……」
「そんなこと望んでません。どうしてやることがいつも唐突なんですか。私に相談とかしないんですか?」
「だって、ミアに言ったら何もかも反対するだろう?」
「します、しますよ。ニコラ様が騎士を辞めるってなんですか。そんなことしたら、この国に本物の騎士がいなくなってしまいます。ニコラ様こそが騎士なのですから!」

 ミアは泣きながら、ニコラの胸を叩く。ニコラはどうやら騎士姿を褒められたようだとわかり、頬が緩む。
 リシルが「私だって一応、伝説の騎士の端くれなのだが」と口を尖らすのを、ケイトリンが肘で突いて黙らせた。

「ミアと暮らすのに必要なら些細なことだ。何をしたって生きられると言ったのはミアだろう」
「限度ってモノがあります」

 もったいないことに敏感なミアは、ニコラが捨ててしまった大きなものを考えると、心が引き裂かれそうになる。

「ああああ……私のせいだ! どうしよう、わたしのせいで……」

 ミアが顔をぐしゃぐしゃにして泣いていると、執事のトマスが慌てて駆け込んできた。酷く困惑した顔をしている。

「ニコラ様、その――ニコラウス王子がいらっしゃっているのですが」

 想定外の来客に、一同は顔を見合わせた。

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