胡蝶の夢に耽溺す【完結】

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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18 躾けられた犬は逆らわない

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「…………」
 
「…………」
 
 遠巻きに眺める――白き、美しい蝶のお方。
 …うっそりと物憂げに伏せられた白く美しい顔…、その切れ長のまぶたの下、翳る薄紫色の透き通った瞳…、赤く妖艶な唇は秘めやかに、薄紫色の口布の下にほのかに隠され…、男にして、よほど下手な女よりも繊細な、色っぽい月明かりを纏っているかの如し清廉な色気…、寝台に、しゃんと背筋を伸ばして腰掛けているわり、なんとも儚げな佇まい。
 
 思わず、うっとりと魅入ってしまうような美貌だ。
 もしうっかりでも触れてしまえば、たちまちはらりと壊れてしまいそうなほど、これは確かに…一目で彼を抱き締めてやりたい、と思ったらしいジャスル様の男心、俺にも理解できる。
 
 しかし…まさか、だからといって俺が、このユンファ殿に惚れてしまうなどあり得ぬ――と…おそらくジャスル様は、そう妄信していらっしゃるのだろう。
 つまりジャスル様は、よほど下女よりも――下女とはいえ一人の女、そしてユンファ殿はジャスル様の側室とはいえ、誰の目にも一人の美しい男である――、よほど俺のほうが、ユンファ殿に手を出す可能性は低い、とお考えなのである。
 
 それはひとえに――俺が、であるからだ。
 
 俺は俗に、狼族と呼ばれている種族の男である。
 蝶族と同様、俺たち狼族は山の中に隠れた里で、ひっそりと暮らしていた一族だ。――ただし五蝶の国とは違い、俺たち狼族が暮らしていた狼の里は、まさか可憐な薄桃色の山々などではなく、雪に染まって真っ白な山々に囲まれている。
 なかなか、このノージェスに比べれば過酷な環境である。見渡す限り雪、雪、雪――ことに冬はしばしば猛吹雪となり、また、夏になっても雪が溶けきることはほとんどないようなその極寒の地に、その狼の里はある。
 
 このノージェスの国境間近の北方、その極寒の地で暮らしていた俺たち狼族は、ノージェスの人口大半を占める人間たちとは、いささか体の造りが違っているのだ。――今の俺ならば、この身はノージェスの人間たちとまるで見分けがつかぬような、そうした姿をしてはいるが。
 俺たちは、俺は…満月の夜には決まって、この身に金の毛皮を纏う人狼となる。…そしておよそ一晩、月が欠けるまで、その状態で過ごさねばならぬのだ。――しかし、ではなぜジャスル様が、あえてこの俺を、この魔性の魅力あるユンファ殿の護衛に宛てがったのか。
 
 狼族は、忠義を誓った主人には逆らえない――。
 
 そういった、いわばがあるためである。
 狼族は、群れを率いるおさに従い、各々が律を乱さぬよう気を配りながら、仲間と強く協力し合って暮らしている。…それはたとえば狩りをするにしろ、日常的に生活を営むにしろ…俺たち狼族は、群れの長の意思決定を何よりも尊重するようにできている。…いわば長の命令は絶対だと、本能にもう刷り込まれているようなのだ。
 
 そして、これを言い換えればつまり、主人の命令には絶対に逆らえず、むしろ自ら進んで主には従うべきだと、生まれついた本能から刷り込まれている種族が――狼族、なのである。
 
 そのため、俺の主であると自負しているジャスル様は、俺が絶対自分には逆らえぬと思っているのだろう。
 まあ確かにそれは実際、俺がジャスル様の側近となってからというもの、俺はその人に一度も逆らわないどころか、言い付けに背いたことなど一度もなく、当然、口答えなんかもした試しがない。――ジャスル様の命令には、たとえそれがどのようなものであっても、口答えの一つもせず絶対に従ってきた俺だ。
 
 つまり俺はいうなれば、その人に飼われている、…とでも思われているのだろう。
 
 それから、このユンファ殿の護衛に俺が抜擢された理由――もう一つ推測できるものがある。
 狼族は、自分が“つがい”だと認めた者にしか、発情しない体質なのだ。…しかし、それはわりに単純――他種族の男のように、無性にこみ上げてくる性欲に任せて人を抱けぬ、というだけで、実に恋心さえあれば、何人にでも発情することはできるのだ。
 
 この体質を簡単にいえば、俺は愛している人しか抱けぬが――その愛というのがあれば、なんら普通に人を抱くことはできる、ということである。
 
 とはいえ、ある意味では証左というべきか、とでもいうか――俺はこれまで、このノージェスにやって来てからというもの、確かに誰にも勃起した試しがない。
 それこそ…性に奔放なジャスル様の、その行為を何度目の前にしていようが、その人の呼んだ妾やら娼婦、男娼やらに誘われようが――その人らが、どれほどの美形だろうが――たとえばジャスル様に、お前も混ざれ、と言われようが、モノを女や男に巧みに舐められまさぐられようが、何だろうが…結局俺のモノはまるで芯さえ持たず、つまり少しも勃たなかった。
 
 しかしそんなこと、狼族の俺にとっては至極当然のことである。…まさか、俺がその者らに恋心など、欠片だっていだけるはずもないのだから。――しかしジャスル様の目には、俺が狼族のその体質のことを教えていないばかりにか、俺はどんな美人やら美男にも興味のない、肉欲のない、つまらない堅物男、というようにしか見えていないようだ。
 
 そして更にいうと、俺はこれでも一応妻を持っている。
 妻――共に暮らしているわけでもなく、また近くの街にすらいない女であっても、ほとんど婚礼の儀を執り行ったのみであっても、妻は、妻だ。…と。
 ジャスル様はあの女が、堅物たらしい俺にとってのとなるには十二分である、とでもお考えなのだろう。…ジャスル様を含め、ノージェスの者たちの目には、俺が至極真面目で誠実な、遊び心のない堅物のようにしか見えていないらしい。――それでいてジャスル様は、護衛として側にいる若い男の俺が、人にぽうっとした色目で見られることが気に食わなかったらしく、…にわかにその女を、俺へ宛てがってきたのだ。
 
 ちなみに、多種多様な民族や種族が暮らしているこのノージェスでは、いわゆる同性婚は認められているが――しかしこのノージェス、一度結婚してしまうと、よほどの理由でもない限り、離縁は認められない。
 
 すなわちノージェスでは、結婚というものをするにおいてはまず大前提に――終生寄り添う、ということが念頭になければならぬらしいのだ。
 まあ離縁が認められる場合――離婚、再婚できる場合――もあるにはあるが、それはどちらかが死ぬか、あるいはどちらかが囚人となるか、もしくはどちらかが酷い加害体質か、それか結婚詐欺など、本来の婚姻とは逸れた関係で結婚してしまった場合のみである。
 
 
 しかし、何がか。
 我が故郷…狼の里であれば何も、ここまで婚姻関係に縛られるようなことはなかったのだが…――。
 
 
 
 
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