29 / 163
29 動く蝶、動けぬ狼
しおりを挟むやっと鎮まり返ったこの部屋は、とたんにしんみり、森閑とした。――ただ、ユンファ殿は相変わらず寝台に腰掛けたまま、じっとして本を読んでいる。
「…………」
「…………」
彼に与えられたもの――この広く豪華な部屋。
洋式の部屋である。…大きな天蓋付きの寝台、その隣の細長い机には、皿に山盛りの果物、水入れと、それを汲んで飲むための器。…それから蝶族のユンファ殿のため、固形物を吐き出すための壺。
ごてごてとした飾りの、大きな太った洋服ダンス――クローゼット、といったか――、簡単な筆記机と椅子が一脚、丸い鏡のついた化粧台と丸椅子、壁際に長椅子――ソファ、という――、その隣には浴室への扉、洋式の厠への扉が並び。…俺がいるこの部屋の出入り口、その扉からでも開けて見える、寝台向こうの…両開きの扉のような、大きな窓。
――月がよく見える、広い窓。
その窓の外に出れば、屋根のない空間…バルコニーというらしい。――開けたその場所からなら、雲一つない、星々煌めく夜空を見上げることも叶うが、…しかし。
「…………」
「…………」
ユンファ殿は、その窓に背を向けている。
読み終えたか…パタン、といよいよ腿の上にのせている本を閉ざした彼は、出入り口にいる俺のほうへ体を向けて寝台に腰掛け、いままたうっそりと俯き――斜めに揃えた脚の、その腿の上の本、その若草色の表紙の上にそっと置いた白い手の甲を、またぼんやりと眺めはじめた。
これほど広い部屋に、平民ならばおよそ、手放しに羨ましがるような豪華なこの部屋にいようとも――ユンファ殿は、何よりも自由ではない。
よほど彼は、俺よりも自由ではないのだ。
…俺はまだ、この屋敷の中を自由に立ち歩くこともできれば、この王都からさらに下の街にくだることだって許されている。しかし、このユンファ殿はどうだろう。
少なくともユンファ殿は、おそらく――第一子をご懐妊なさり、大々的なお披露目となるまでは、街に行くことさえ許されないはずだ。…つまり少なくとも、それまではこの屋敷にまた、彼は閉じ込められるに違いない。
そして今晩のみの話かもわからないが、誰ぞと会話することさえ許されていない。…それも嫉妬深いジャスル様なら、あるいはいつまで続くことかもわからない話だ。
「…………」
「…………」
お可哀想に――。
せめてもの慰めに、何か召し上がられてはどうだろうか。…食欲もないか。わからぬが、腹が空いていては上手く眠ることさえできぬだろうに。
もし食欲もないのなら、今背を向けている窓へ、ほんの少しだけ目を向けてほしい。…月が、星々が、暗い群青色の空に輝いていて、とても美しい。…美しい夜だ、とはとても思えぬかもしれないが、その輝きを見れば、ちょっとした慰めくらいにはならないものだろうか。
もう騒ぎ立てる声はない。ほんの少しばかりでも、自由な時間だ。月を見上げる自由くらいは、今の貴方にもある。…バルコニーとやらに出て、夜風に当たられるのはどうか。晴れない気分も、少しはスッとするやもしれぬ。
「…………」
「…………」
そう…ユンファ殿に話しかけてやりたい気持ちは俺にもある、むしろ山々だが、――敷かれた緘口令のせいで、そうとも声をかけてやることさえ叶わない。つくづく哀れである。
「…………」
「……、…」
不意に――ユンファ殿は、ふ…とその顔を上げた。
目があった。――その薄紫色の瞳…虚でありながらも潤んだその瞳は、俺をじっと見据えている。
つい体がドキリと揺れた俺は、さっと横へ目を逸らした。――体中がざわざわと落ち着かない。
「…………」
「…………」
どうやらユンファ殿は、そんな俺を見ながらすっと立ち上がって、少し早足に俺の元へと歩み寄ってきている。
――なんだ、何か用らしい、とは思ったが。
何かご用でしょうか、と声をかけることもできず、また、俺よりも身分の高いお方がわざわざ俺のほうに赴く必要はない、と歩み寄ることさえできない――緘口令に付け加えて俺は、この出入り口の扉の前から動くことを、許されていないのだ。…もちろん、有事の際を除いて、ではあるが。
0
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる