推しに恋した。推しが俺に恋をした。

吉川丸子

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第二章 共鳴の輪郭

4.灯坂律の臆病

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「あいつは、燦は、なんであんなに努力ができるんだ」

 知らず、ぽつりと呟いていた。

「努力だと思ってないからでしょう。仕事なら当然です」
「義務感だけであそこまでできるのか? 楽しくないとあんなことやってられないだろう」

 仕事終わりの午前四時に自宅に戻って、近場のカラオケボックスで歌の練習をするような生活だ。なんのためにそこまでできる?

「じゃあ楽しいんでしょうよ、あの男も」
「あんたもか? あんたも仕事が楽しいのか?」
「私ですか? 私の話を聞いてどうするんですか。……まあ、そうですねえ」

 神経質そうな細い指で軽く右にウインカーを切ってから、対向車線が一瞬途切れたタイミングを見計らって滑らかに右折する。心地の良い運転だ。

「無茶苦茶に積み重なったスケジュールを立ててその通りに動けたときでしょうか。午前二時に寝て午前四時に出発という日常の繰り返しですが、楽しいといえば楽しいかもしれませんね」

 佐藤は銀縁メガネを右手の人差し指で押し上げ、感情なんてなさそうな顔で答えてくれた。よく見れば地味だが妙に目を引く顔をしている。

「楽しいことをして金をもらえるなら最高だな」

 軽い嫌味のつもりだった。こちとら本業はコンビニバイトのフリーター。楽しみといえば、場末のライブハウスでバンドのギターを弾く程度だ。チケットが捌けるかと言われれば正直微妙なレベルのお粗末なバンド。
 すると佐藤が、首を傾げた。

「灯坂さんは、音楽はお好きですか?」
「好きだ」

 即答。
 音楽は俺を自由にする。俺は言葉をうまく使えないから、言葉にできないいろんな感情を音に乗せて表現する。怒りや悲しみだったり、喜びだったり。音にすることで、自分自身を再確認することもできる。

「ではなぜ、音楽で身を立てようと思わないんですか?」
「は? 無理だろう」

 音楽が好きだからこそ、音楽で食うなんて、才能のある一部の奴だけができる芸当だということを俺はよく知っている。例えば、天音透子のような。
 佐藤が、逆の方向に首を傾げる。

「歌も歌えて、声もいい。伝え聞くところによると、曲も詞も書けるらしいじゃないですか。見た目だっていい。今日お会いして、お顔が整っていて驚きました。天音透子氏という大きな後ろ盾もお持ちだ。なのになぜ、小さなバンドのギターなんてやっていらっしゃるんですか?」
「俺の歌も曲も聞いてもいないのに適当なことを言うな」

 思ったより強い語気が出たのには自分でも驚いた。

「失礼しました。もしかしてこれまでたくさんのコンペに挑戦されて、結果が芳しくなかったご経験でも? それなら黒波と話が合うのも理解でき」
「出したことはない」
「は?」
「ありふれてつまらないおかしな歌しか作れない。結果なんて決まってる。世の中にはすごいやつが山ほど転がっている」

 窓越しに外を見る。ぽつりぽつりとウインドウに雨粒が落ちてきた。天気予報では晴れだと言っていたはずなのに、遠くの空から黒い雲が流れてきているのが見えた。

「……ありふれてる、のに、おかしな歌? 矛盾していませんか?」
「聞けばわかる。気の利いた恋の歌だの、世の中に溢れるチャラついて洒落っ気のある歌は作れない」
「むしろ興味がわきますね。灯坂さん、もしかして、天音透子氏を近くで見すぎてあの方を基準にされてるんじゃないですか? ただのサラリーマンの私が申し上げるのも僭越ですが、あの方は常人ではありません。人間業というより、もはや化け物の域かと」
「ばけもの」

 視線を佐藤に戻す。さっき傾げた首の角度がまだそのままになっている。

「歌って踊れて喋れて時代を作った方です。今は表舞台から去られましたが、あの方が作った曲が世代を超えた共通言語になってる事実は、相当の才能がなければ無理です。時代を代表するエンターテイナーの一人でしょうね」
「……」
「あんな化け物みたいな方が身近にいたら、確かにご自身がちっぽけに感じる気持ちもわからなくはないです」
「別に、透子と比べてるわけじゃ」
「その天音透子氏に『秘蔵っ子』と言わしめていらっしゃるご自身のことをお考えになったことはありますか? 挑戦もなさらないのに最初から負けを決めつけるのはどうかと思います。ああ、それとも灯坂さんは」

 ちらりと小さな黒目をこちらに一度動かした。

「ご自身を過小評価しすぎてご自分が見えなくなっている、おめでたい方でいらっしゃいますか?」

 慇懃無礼を固めて人の形にしたような佐藤の言動に、一瞬言葉を失った。

「な……っ! あ、あいつは友人がいないからそんなことを言うだけだ。それこそ俺が身近だから過大評価を」
「バイト先のコンビニエンスストア、そろそろ到着しますよ。傘はお持ちですか?」

 言い返そうとしたが、佐藤は話を打ち切った。
 イラつきながら、俺は黙って窓の外を見た。雨粒がウインドウを流れていく。
 丁寧な運転だったが、佐藤は最後まで首を斜めに傾げたままだった。
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