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王位継承──前編
【35】悪夢の後の冷たい静けさ
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沙稀は広間に着いた。まだ胸騒ぎを呼び起こす感覚は残っている。扉を開けてのぞくと、『何か』がいた痕跡はない。
周囲を慎重に見渡す。
兵士たちは意識を取り戻していて、互いに手当をしている姿が見える。重症を負っている者もいるが、命に別状のある者はいなさそうだ。安堵の息がもれ、足が動く。
「沙稀様」
大臣の驚くような声に、沙稀は声のした方を向く。近づくと、大臣も近づいてきた。
「一時間くらい前に忒畝君主が謝罪に見え、もう、お帰りになりました」
「そうか」
あんな出来事のあとに、大臣に顔を出して帰るのが、なんとも忒畝らしい。それにしても、謝罪とは、なにに対するものか──四戦獣のことか、それとも。
「それなら知っているかもしれないが……が恭姫の目の前で命を失った」
一部、声にならなかったが、沙稀に言い直す気はない。
「はい、伺いました」
大臣は重く答える。
「そうか」
沙稀の声も重い。
「大丈夫ですか?」
大臣が問う。その問いに、沙稀は返答できない。
ぼんやりと時空がゆれる感覚。
幼いころは、こうして大臣によく気遣われた。──そのときの記憶が交錯して。身分が恭良の護衛になってから、時折りあることだ。大臣に昔と変わらずに接されていると感じるときが。
まさに、今もそうで。
ゆれる感覚を振り払い、大臣の気遣いに気づかぬふりをする。
「恭姫のことなら、凪裟に頼んできた。凪裟は似た境遇を体験している。恭姫の側にいるのが凪裟なら、大丈夫だろう」
わざと沙稀は質問の解釈を違うように捉えて返答した。こうすれば大臣は、いつもならそのまま会話を流すからだ。
しかし、このときばかりは、改めて言葉を投げかけてきた。
「貴男が、大丈夫ですか?」
──折角、気づかぬふりをしたというのに。
今にも沙稀の本音が聞こえそうだが、沙稀は答えようとしない。視線を落としたまま一度深呼吸をする。
「片付けは引き受ける。色々大変でしょ、『あのお方』もそろそろ戻ってくると思うし」
完全に耳に入っていないふりだ。これには大臣も一瞬表情を変えた。
ただ、三回言うつもりはないらしい。深追いせず、無理に言葉をのむ。
「そうですね。お願いします」
明らかに業務的な返事をする。この場の片づけを急ぎたい気持ちは同じだ。一先ず、沙稀がくるまでの報告を大臣は行った。すると、
「あの人は……」
と、沙稀から暗い声がもれる。
『あの人』──大臣には考えるまでもない。倭穏のことだ。
憎き男が命を落とし、その悲しみに暮れる大切な人を前にして、瑠既の心配をしたのだろう。
瑠既と倭穏は深い仲だ。倭穏が深い怪我を負っていたら、まして命に関わっていたら、いや、命がなかったら?
「あのときの沙稀様の判断は、間違いはありませんでした。瑠既様には、私からお話します」
沙稀を庇うように、大臣は言った。それは、つまり。──明確な言葉にせずとも、沙稀には伝わる。
こみ上げる痛み。それに耐え、戒める。嘆いていいのは、沙稀自身ではないと。
ふと、妙に足音が耳についた。
誰かを探すような足音。走っては止まる、世話しない音が近づき、間近で立ち止まる。
大臣と沙稀は、ほぼ同時に扉を見る。そして、そこにいる者の姿を目にして、沙稀は思わず名を呼びそうになる。だが、多くの兵が周囲にいると意識したのか、口が開かれることはなかった。
「瑠既様」
変わりに呼んだのは、大臣で。
「倭穏はどこだ?」
不規則な呼吸、にじむ汗。何十分も、無理をして城内を走っていたのかは、明確だ。
思わず、沙稀は視線を逸らす。
「ご案内します」
大臣が一歩前へと出る。
「では、沙稀様。この場はお願いします」
「ああ」
大臣は瑠既と広間を出ていく。
「顔色が悪いですよ。すこし休憩をしますか?」
「いや、いい。……それより、どうなっているんだ? 鐙鷃城から戻ったら、なんだか変な雰囲気だぞ? なんていうか……十八年前のあのときみたいな……」
幼少期の混沌とした城内の雰囲気をまざまざと思い出したかのように、瑠既の血色は、更に悪くなる。
「王が亡くなりました。それと……」
大臣は続けて、ついてくるようにと言う。おもむろに歩き出す大臣のあとを瑠既はついていく。
一度、外に出て渡り廊下を歩く。歩調を変えずに歩いていた大臣だったが、地下へ続く道の手前で足を止めた。
一度振り返り、瑠既の様子を確認するように見る。
「こわいですか?」
瑠既が地下へと行くのも、あの日以来だ。
「いや」
短く答えるが、視線は逸れた。降りないで済むのなら、そうありたいのは見え見えだ。瑠既にとっても、いい思い出のはずがない。
大臣は再び歩き始め、地下へと続く階段をおりていく。瑠既は大臣の姿が消えないように、影をまとっていく背中を追う。
地下を黙々と歩いていると、瑠既は落ち着かないように周囲を見渡す。大臣には、瑠既の呼吸がかすかに上がっているのが伝わっていた。
不安だ。瑠既もまた、過去の記憶を鮮明に思い出しているのだろう。
「この奥って、なにがあんだっけ」
不安に押しつぶされないようにするためか、瑠既は思い出そうとしていない。
「瑠既様の方が、よくご存知でしょう?」
大臣としては、倭穏のいる場所に案内すると言った手前、答えにくい。さぐられているのかと大臣は警戒もする。瑠既は目的を忘れてついてくるほど、愚かではない。
「え~と、実験施設とか、その装置とか、医薬品とか……」
「そうですね。宮城研究施設や、治療室、分娩室もあります。瑠既様たちも、ここでお生れになりました」
コツコツと響く足音は、すでに宮城研究施設を通り過ぎている。
「あ~、あとは懐迂と……」
「懐迂が出てくるとは、さすがは瑠既様ですね」
だが、大臣は懐迂とは逆へと進む。
「独房と……その手前には」
瑠既は思い出したように言葉を止めた。声に出してはいけない気がしたのかもしれない。
──道を間違えてないか?
そう言おうとしたときは、遅かった。
「ご名答です。瑠既様」
大臣は、あるひとつの扉の前で止まった。
周囲を慎重に見渡す。
兵士たちは意識を取り戻していて、互いに手当をしている姿が見える。重症を負っている者もいるが、命に別状のある者はいなさそうだ。安堵の息がもれ、足が動く。
「沙稀様」
大臣の驚くような声に、沙稀は声のした方を向く。近づくと、大臣も近づいてきた。
「一時間くらい前に忒畝君主が謝罪に見え、もう、お帰りになりました」
「そうか」
あんな出来事のあとに、大臣に顔を出して帰るのが、なんとも忒畝らしい。それにしても、謝罪とは、なにに対するものか──四戦獣のことか、それとも。
「それなら知っているかもしれないが……が恭姫の目の前で命を失った」
一部、声にならなかったが、沙稀に言い直す気はない。
「はい、伺いました」
大臣は重く答える。
「そうか」
沙稀の声も重い。
「大丈夫ですか?」
大臣が問う。その問いに、沙稀は返答できない。
ぼんやりと時空がゆれる感覚。
幼いころは、こうして大臣によく気遣われた。──そのときの記憶が交錯して。身分が恭良の護衛になってから、時折りあることだ。大臣に昔と変わらずに接されていると感じるときが。
まさに、今もそうで。
ゆれる感覚を振り払い、大臣の気遣いに気づかぬふりをする。
「恭姫のことなら、凪裟に頼んできた。凪裟は似た境遇を体験している。恭姫の側にいるのが凪裟なら、大丈夫だろう」
わざと沙稀は質問の解釈を違うように捉えて返答した。こうすれば大臣は、いつもならそのまま会話を流すからだ。
しかし、このときばかりは、改めて言葉を投げかけてきた。
「貴男が、大丈夫ですか?」
──折角、気づかぬふりをしたというのに。
今にも沙稀の本音が聞こえそうだが、沙稀は答えようとしない。視線を落としたまま一度深呼吸をする。
「片付けは引き受ける。色々大変でしょ、『あのお方』もそろそろ戻ってくると思うし」
完全に耳に入っていないふりだ。これには大臣も一瞬表情を変えた。
ただ、三回言うつもりはないらしい。深追いせず、無理に言葉をのむ。
「そうですね。お願いします」
明らかに業務的な返事をする。この場の片づけを急ぎたい気持ちは同じだ。一先ず、沙稀がくるまでの報告を大臣は行った。すると、
「あの人は……」
と、沙稀から暗い声がもれる。
『あの人』──大臣には考えるまでもない。倭穏のことだ。
憎き男が命を落とし、その悲しみに暮れる大切な人を前にして、瑠既の心配をしたのだろう。
瑠既と倭穏は深い仲だ。倭穏が深い怪我を負っていたら、まして命に関わっていたら、いや、命がなかったら?
「あのときの沙稀様の判断は、間違いはありませんでした。瑠既様には、私からお話します」
沙稀を庇うように、大臣は言った。それは、つまり。──明確な言葉にせずとも、沙稀には伝わる。
こみ上げる痛み。それに耐え、戒める。嘆いていいのは、沙稀自身ではないと。
ふと、妙に足音が耳についた。
誰かを探すような足音。走っては止まる、世話しない音が近づき、間近で立ち止まる。
大臣と沙稀は、ほぼ同時に扉を見る。そして、そこにいる者の姿を目にして、沙稀は思わず名を呼びそうになる。だが、多くの兵が周囲にいると意識したのか、口が開かれることはなかった。
「瑠既様」
変わりに呼んだのは、大臣で。
「倭穏はどこだ?」
不規則な呼吸、にじむ汗。何十分も、無理をして城内を走っていたのかは、明確だ。
思わず、沙稀は視線を逸らす。
「ご案内します」
大臣が一歩前へと出る。
「では、沙稀様。この場はお願いします」
「ああ」
大臣は瑠既と広間を出ていく。
「顔色が悪いですよ。すこし休憩をしますか?」
「いや、いい。……それより、どうなっているんだ? 鐙鷃城から戻ったら、なんだか変な雰囲気だぞ? なんていうか……十八年前のあのときみたいな……」
幼少期の混沌とした城内の雰囲気をまざまざと思い出したかのように、瑠既の血色は、更に悪くなる。
「王が亡くなりました。それと……」
大臣は続けて、ついてくるようにと言う。おもむろに歩き出す大臣のあとを瑠既はついていく。
一度、外に出て渡り廊下を歩く。歩調を変えずに歩いていた大臣だったが、地下へ続く道の手前で足を止めた。
一度振り返り、瑠既の様子を確認するように見る。
「こわいですか?」
瑠既が地下へと行くのも、あの日以来だ。
「いや」
短く答えるが、視線は逸れた。降りないで済むのなら、そうありたいのは見え見えだ。瑠既にとっても、いい思い出のはずがない。
大臣は再び歩き始め、地下へと続く階段をおりていく。瑠既は大臣の姿が消えないように、影をまとっていく背中を追う。
地下を黙々と歩いていると、瑠既は落ち着かないように周囲を見渡す。大臣には、瑠既の呼吸がかすかに上がっているのが伝わっていた。
不安だ。瑠既もまた、過去の記憶を鮮明に思い出しているのだろう。
「この奥って、なにがあんだっけ」
不安に押しつぶされないようにするためか、瑠既は思い出そうとしていない。
「瑠既様の方が、よくご存知でしょう?」
大臣としては、倭穏のいる場所に案内すると言った手前、答えにくい。さぐられているのかと大臣は警戒もする。瑠既は目的を忘れてついてくるほど、愚かではない。
「え~と、実験施設とか、その装置とか、医薬品とか……」
「そうですね。宮城研究施設や、治療室、分娩室もあります。瑠既様たちも、ここでお生れになりました」
コツコツと響く足音は、すでに宮城研究施設を通り過ぎている。
「あ~、あとは懐迂と……」
「懐迂が出てくるとは、さすがは瑠既様ですね」
だが、大臣は懐迂とは逆へと進む。
「独房と……その手前には」
瑠既は思い出したように言葉を止めた。声に出してはいけない気がしたのかもしれない。
──道を間違えてないか?
そう言おうとしたときは、遅かった。
「ご名答です。瑠既様」
大臣は、あるひとつの扉の前で止まった。
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