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過去からの使者
【43】かすかな違和感
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鴻嫗城での出来事に心を痛めたまま、忒畝は低くなった太陽を見ていた。これから夕刻を迎える。赤い夕陽が街を照らせば、あっという間に夜がやってくることだろう。
船は楓珠大陸、緋倉へと到着し、忒畝は悠穂と降りて帰路へと向かう。途中、街並みでひとつの張り紙が目についた。
『暫くの間、休業します』
宿屋──綺だ。ふと、浮かんできたのは、人懐っこく話しかけてきた明るい声。行きの船で会い、船に乗る前にも会っていたと話しかけてきた女性のこと。
一緒にいた男──瑠既とともに鴻嫗城に行くと言っていたが、鴻嫗城では会わなかった。
──感じる胸騒ぎが、気のせいだといい。
あの女性──倭穏と綺の関連性を忒畝は知らない。ただ、宿屋で踊り子をしていると聞いて、あの性格は職業柄なのかと思ったのを覚えていたに過ぎなかった。
妙な胸のざわつきに、つい、妹の手を握る。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな声に、忒畝は妹の存在を噛みしめる。心情とは裏腹に、やさしい笑みを浮かべて。
「すぐに日は落ちてしまう。森を抜けるなら夜を迎える前がいい。急ごう、みんなが待っていてくれる」
妹は弾む声が聞こえそうなほどに笑顔を浮かべる。そして感じる、握り返される手の、力強さ。
「そうだね! 馨民さんにも、充忠さんにも……きっとたくさん心配をかけちゃった。はやく帰らなくっちゃ!」
引っ張られる手に、景色は流れていく。
感じる風はどこかあたたかい。春はまだだというのに。
景色は街から土の道になり、草が茂ってきたと思えば、木々多く。そこは木の葉が触れ合い、風が囁き合う場へと変わっていった。
どこの城や建物の中よりも、変わりゆく森の中の方が迷わないと言ったら。忒畝は変わっていると誰もに言われるかもしれない。いや、彼を知っている者に言わせれば、忒畝らしいと笑うのかもしれない。
そろそろ克主研究所に着くと悠穂と足を弾ませていたら、時間の概念は飛んで行ってしまった。景色は確かに目にしていたのに、まるで一瞬で移動してきたような感覚を持つ。
「よう」
「お帰りなさい!」
充忠は痺れを切らすような、馨民は今にも駆け出しそうな。そんなふたりを見て、悠穂がうれしそうに言う。
「ただいま帰りました!」
それを聞いて、忒畝はにっこりと笑い、
「ただいま。心配をかけて、ごめんね」
と言う。そのころには、出迎えていたふたりに挟まれて、忒畝は無事に帰宅したと安堵する。
和やかな会話は通り過ぎていって、日常に戻ったような錯覚を覚える。そう、錯覚だと忒畝は自覚していた。
わずかばかりに流れる会話を楽しみ、忒畝は職務へと戻る。
仕事はさほど残っていなかった。残っているのは、忒畝にしか裁量できないものだけだ。期待を裏切らない君主代理の判断に、
「頼りになるな」
と、感謝や感心よりも、誇らしく思う。パラパラと書類に目を通し、着々と処理を済ませていく。
悠穂を連れて帰ってこられたことで、親友の気持ちに報うことはできた。だが、本来なら四戦獣のことも話すべきだろうという気持ちが忒畝のどこかでくすぶっている。まだ四戦獣のことを話すとは、決断できずにいて。
もし、克主研究所が鴻嫗城のように奇襲されたのなら、忒畝の大事な人たち全員が危険にさらされることになる。それをすこしでも防ぐには、充忠にも馨民にも話した方がいいのかもしれない。
しかし、竜称を昔から研究所内で見かけること、そもそも母がいたときも、いなくなった後も竜称は忒畝にしか接触してこなかったこともある。ただ一度、竜称が忒畝以外の人物にも接触したのは、母が姿を消す直前だけ。今回の悠穂の件は、竜称から接触されたわけではない。
それを考慮するなら、やはり克主研究所を四戦獣が奇襲をしかけてくるとは考えにくい。言い換えるなら、克主研究所は安全だとも言える。わざわざ充忠や馨民に言って、よけいな心配をかけたくはない。
コンコンコン
扉から聞こえてきた音に、手を止める。すると、返事もしていないのに扉は開く。
「やっぱり。こんなことだと思った」
馨民だ。両手で持ち直すお盆の上からは、湯気が立ち上っている。
「あ」
今更ながら、夕飯を食べに行かなかったと気づく。いつも同じ時間に食事をする忒畝を気遣って、馨民は夕飯を持ってきてくれていた。いつもの時間に食堂にいないということは、食べていないのだろうと推測して。
「もう……相変わらず集中すると時間を忘れるんだから」
馨民は忒畝の目の前の机をじっと見たが、そこには書類が広がっている。
「ああ、ごめんね? あっちで構わないよ」
忒畝が言うのは、背にある簡素でちいさなテーブル。視界に入らない上、離れているそこは置いたら最後。いつ食べるのかと苦言を呈したくなるような場所。
作業を再開する忒畝を横目で見ると、馨民は言われた通りに従う。毎度のことだ。持ってきてくれた食事を、忒畝がすぐに手をつけることは、まずない。
珍しく今日は──馨民のちいさなため息が聞こえた気がした。
「どうかした?」
近くに戻ってきた馨民に、忒畝は声をかける。すると、
「ううん。私の方こそ、ごめんなさい。邪魔しちゃった」
と、そそくさと扉に駆け寄る。急ぐようにノブをまわし、ひらりと身を廊下に出す。
「おやすみなさい」
彼女はなにも悪いことをしていないのに、眉を下げて申し訳なさそうに笑う。
「うん。おやすみ」
だからこそ、忒畝は満面の笑顔を返す。そうして、扉はゆっくりと閉まる。
結局、忒畝が食事を口にしたのは深夜だった。職場から自室へと持って行き、温度には無頓着で口へと運ぶ。彼は、折角持ってきてもらった感謝の念だけ食べているに過ぎない。
──何も起きなかった。
安堵で疲労感が襲ってくる。それは、倒れ込みそうなほど強烈な感覚。意識を切れさせてしまえば、目の前の食器と食べ物を散乱させかねないわけで。
申し訳なさを感じつつも、食事は適当に終わらせる。立って汗を流す程度の風呂に入り、早々に眠りにつく。
忒畝が眠りについて、数時間が経ったころ。ふと、忒畝の意識は戻ってきた。
──誰かが部屋の中にいる。
かすかな違和感。空気の匂いがなんとなく違うというか、固さが違うというか。直感的に感じるものだ。気を張って、誰の気配だろうと考えてみても答えに辿り着けない。得体の知れない誰か──その気配をどこかと思考を切り替えたときだった。
すっと下から左側の腰に腕がまわされ、反射的に瞳を開ける。そのときには、体をよじ登られるように首の右側にも手を回されていた。次の瞬間には上から覆いかぶさる影が、忒畝の視界をより奪う。
声にならぬ声が出る。
唇を伝う生ぬるい弾力のあるもの。顔に触れる息づかい。
忒畝は首を動かし逃れようとするが、いつの間にか腰にあった腕が頭に回されていて、自由に首を動かせない。可能な限りあらがうも、唇の周囲を舌が這う。
──動けないなら、動かすしかない。
上に覆い被さっている相手は、忒畝の右足をまたいでいる。体は多少くの字になっているはずだ。相手の脇腹辺りに手は届くだろう。足とともに左側に倒せば、相手の態勢を崩し、身の自由を確保できるかもしれないと忒畝は考える。
そこで、抵抗を止める。相手の油断を誘うために。口内を好き放題されるのは本望ではないが、これ以上、好きにさせないための犠牲だ。
相手の体に触れると、やわらかくしっとりとして忒畝は手を戻しそうになる。相手は、裸の女だ。
船は楓珠大陸、緋倉へと到着し、忒畝は悠穂と降りて帰路へと向かう。途中、街並みでひとつの張り紙が目についた。
『暫くの間、休業します』
宿屋──綺だ。ふと、浮かんできたのは、人懐っこく話しかけてきた明るい声。行きの船で会い、船に乗る前にも会っていたと話しかけてきた女性のこと。
一緒にいた男──瑠既とともに鴻嫗城に行くと言っていたが、鴻嫗城では会わなかった。
──感じる胸騒ぎが、気のせいだといい。
あの女性──倭穏と綺の関連性を忒畝は知らない。ただ、宿屋で踊り子をしていると聞いて、あの性格は職業柄なのかと思ったのを覚えていたに過ぎなかった。
妙な胸のざわつきに、つい、妹の手を握る。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな声に、忒畝は妹の存在を噛みしめる。心情とは裏腹に、やさしい笑みを浮かべて。
「すぐに日は落ちてしまう。森を抜けるなら夜を迎える前がいい。急ごう、みんなが待っていてくれる」
妹は弾む声が聞こえそうなほどに笑顔を浮かべる。そして感じる、握り返される手の、力強さ。
「そうだね! 馨民さんにも、充忠さんにも……きっとたくさん心配をかけちゃった。はやく帰らなくっちゃ!」
引っ張られる手に、景色は流れていく。
感じる風はどこかあたたかい。春はまだだというのに。
景色は街から土の道になり、草が茂ってきたと思えば、木々多く。そこは木の葉が触れ合い、風が囁き合う場へと変わっていった。
どこの城や建物の中よりも、変わりゆく森の中の方が迷わないと言ったら。忒畝は変わっていると誰もに言われるかもしれない。いや、彼を知っている者に言わせれば、忒畝らしいと笑うのかもしれない。
そろそろ克主研究所に着くと悠穂と足を弾ませていたら、時間の概念は飛んで行ってしまった。景色は確かに目にしていたのに、まるで一瞬で移動してきたような感覚を持つ。
「よう」
「お帰りなさい!」
充忠は痺れを切らすような、馨民は今にも駆け出しそうな。そんなふたりを見て、悠穂がうれしそうに言う。
「ただいま帰りました!」
それを聞いて、忒畝はにっこりと笑い、
「ただいま。心配をかけて、ごめんね」
と言う。そのころには、出迎えていたふたりに挟まれて、忒畝は無事に帰宅したと安堵する。
和やかな会話は通り過ぎていって、日常に戻ったような錯覚を覚える。そう、錯覚だと忒畝は自覚していた。
わずかばかりに流れる会話を楽しみ、忒畝は職務へと戻る。
仕事はさほど残っていなかった。残っているのは、忒畝にしか裁量できないものだけだ。期待を裏切らない君主代理の判断に、
「頼りになるな」
と、感謝や感心よりも、誇らしく思う。パラパラと書類に目を通し、着々と処理を済ませていく。
悠穂を連れて帰ってこられたことで、親友の気持ちに報うことはできた。だが、本来なら四戦獣のことも話すべきだろうという気持ちが忒畝のどこかでくすぶっている。まだ四戦獣のことを話すとは、決断できずにいて。
もし、克主研究所が鴻嫗城のように奇襲されたのなら、忒畝の大事な人たち全員が危険にさらされることになる。それをすこしでも防ぐには、充忠にも馨民にも話した方がいいのかもしれない。
しかし、竜称を昔から研究所内で見かけること、そもそも母がいたときも、いなくなった後も竜称は忒畝にしか接触してこなかったこともある。ただ一度、竜称が忒畝以外の人物にも接触したのは、母が姿を消す直前だけ。今回の悠穂の件は、竜称から接触されたわけではない。
それを考慮するなら、やはり克主研究所を四戦獣が奇襲をしかけてくるとは考えにくい。言い換えるなら、克主研究所は安全だとも言える。わざわざ充忠や馨民に言って、よけいな心配をかけたくはない。
コンコンコン
扉から聞こえてきた音に、手を止める。すると、返事もしていないのに扉は開く。
「やっぱり。こんなことだと思った」
馨民だ。両手で持ち直すお盆の上からは、湯気が立ち上っている。
「あ」
今更ながら、夕飯を食べに行かなかったと気づく。いつも同じ時間に食事をする忒畝を気遣って、馨民は夕飯を持ってきてくれていた。いつもの時間に食堂にいないということは、食べていないのだろうと推測して。
「もう……相変わらず集中すると時間を忘れるんだから」
馨民は忒畝の目の前の机をじっと見たが、そこには書類が広がっている。
「ああ、ごめんね? あっちで構わないよ」
忒畝が言うのは、背にある簡素でちいさなテーブル。視界に入らない上、離れているそこは置いたら最後。いつ食べるのかと苦言を呈したくなるような場所。
作業を再開する忒畝を横目で見ると、馨民は言われた通りに従う。毎度のことだ。持ってきてくれた食事を、忒畝がすぐに手をつけることは、まずない。
珍しく今日は──馨民のちいさなため息が聞こえた気がした。
「どうかした?」
近くに戻ってきた馨民に、忒畝は声をかける。すると、
「ううん。私の方こそ、ごめんなさい。邪魔しちゃった」
と、そそくさと扉に駆け寄る。急ぐようにノブをまわし、ひらりと身を廊下に出す。
「おやすみなさい」
彼女はなにも悪いことをしていないのに、眉を下げて申し訳なさそうに笑う。
「うん。おやすみ」
だからこそ、忒畝は満面の笑顔を返す。そうして、扉はゆっくりと閉まる。
結局、忒畝が食事を口にしたのは深夜だった。職場から自室へと持って行き、温度には無頓着で口へと運ぶ。彼は、折角持ってきてもらった感謝の念だけ食べているに過ぎない。
──何も起きなかった。
安堵で疲労感が襲ってくる。それは、倒れ込みそうなほど強烈な感覚。意識を切れさせてしまえば、目の前の食器と食べ物を散乱させかねないわけで。
申し訳なさを感じつつも、食事は適当に終わらせる。立って汗を流す程度の風呂に入り、早々に眠りにつく。
忒畝が眠りについて、数時間が経ったころ。ふと、忒畝の意識は戻ってきた。
──誰かが部屋の中にいる。
かすかな違和感。空気の匂いがなんとなく違うというか、固さが違うというか。直感的に感じるものだ。気を張って、誰の気配だろうと考えてみても答えに辿り着けない。得体の知れない誰か──その気配をどこかと思考を切り替えたときだった。
すっと下から左側の腰に腕がまわされ、反射的に瞳を開ける。そのときには、体をよじ登られるように首の右側にも手を回されていた。次の瞬間には上から覆いかぶさる影が、忒畝の視界をより奪う。
声にならぬ声が出る。
唇を伝う生ぬるい弾力のあるもの。顔に触れる息づかい。
忒畝は首を動かし逃れようとするが、いつの間にか腰にあった腕が頭に回されていて、自由に首を動かせない。可能な限りあらがうも、唇の周囲を舌が這う。
──動けないなら、動かすしかない。
上に覆い被さっている相手は、忒畝の右足をまたいでいる。体は多少くの字になっているはずだ。相手の脇腹辺りに手は届くだろう。足とともに左側に倒せば、相手の態勢を崩し、身の自由を確保できるかもしれないと忒畝は考える。
そこで、抵抗を止める。相手の油断を誘うために。口内を好き放題されるのは本望ではないが、これ以上、好きにさせないための犠牲だ。
相手の体に触れると、やわらかくしっとりとして忒畝は手を戻しそうになる。相手は、裸の女だ。
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