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王位継承──後編
【55】嫁ぐ者
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頑なだった沙稀の決意が揺れる。沙稀の返事次第で、恭良の長年の夢を壊すことになる。叶うあと一歩で、奪うことになる。
決して誄を蔑ろにするわけではないが、沙稀にとっての第一優先は、誰よりも恭良だ。みるみるうちに沙稀は俯いていく。
迷う。
恭良の笑顔を守りたくて。
何を選べばいいのか。いや、どれを選べば、恭良の笑顔を守れるのか。沙稀の選ぶものは──。
「恭姫は……居辛くはならないだろうか」
「ええ、貴男が傍にいれば」
見計らったかのように、大臣は後押しする。一度決めてしまえば、よほどのことがない限り沙稀は考えを変えないと大臣はよく知っている。
「俺が、傍にいれば?」
「そうです」
疑問形の言葉を即座に肯定する。
「今の沙稀様は、どんなときであっても恭良様のすぐ傍にいられる存在でしょう?」
──婚約者なのだから。
サラリと長いリラの髪が揺れた。沙稀は顔を上げ、しっかりと大臣をその瞳に映す。
「わかった」
大臣が敢えて言葉にしなかった部分を受け止めたのか。沙稀は短く了承すると、決意を続ける。
「今の俺はどんなことがあっても傍にいられる。真実を知っても傍にいることを恭姫が許してくれるのなら、これから恭姫を襲う辛さも、ともに背負っていこう」
それは『鴻嫗城の第二子』、『鴻嫗城の後継者』に戻る覚悟。同時に、恭良のことも変わらずに守り続けるという宣言。
宣言を受け、大臣は善は急げと言わんばかりに扉を開ける。その姿は、なんとも満足そうで。沙稀は大臣の術中にはまった感覚を抱く。
大臣が出て行くと、沙稀は距離を取りながらうしろを歩く。行先はひとつしかない。恭良の部屋だ。
恭良の部屋をノックをした大臣が入室したあと、すぐに閉まっていく扉から沙稀はするりと入り込み、何食わぬ顔で扉を閉めた。
「沙稀様」
大臣は出て行くように促すが、当の本人は聞く耳を持っていない。まるで大臣がいないかのように沙稀は恭良に近づく。
沙稀の足が止まったのは、手の届きそうで届かない距離。──長い間保っていた、ふたりの距離だ。
「恭姫。何があっても俺と、いてくれますか?」
沙稀の真剣な問いに、恭良は事情が呑み込めない。真っ直ぐと見つめる沙稀に対し、恭良はクロッカスの瞳を大きく見開く。
見開いたクロッカスの瞳は、今にも揺れそうなリラの瞳を映し──。
「もちろん」
恭良は微笑む。
ふと、軽やかに動くのは恭良の足。一気に沙稀との距離は埋まり──恭良は沙稀の胸に飛び込む。
ふわっと浮いたクロッカスの髪が重力に従うころ、沙稀は恭良を強く抱き寄せていた。守りたいと一心で。
一方の恭良は、沙稀の腕の中で安堵している。ただうれしく、抱き締め返している。
ふたりが抱き合って、何分が経過しただろうか。
一向に離れようとしないふたりに大臣は近づく。
「いい加減離れて下さい」
この場にいるのは、ふたりだけではないという自己主張。けれど、大臣の思い空しく、状況に変化はない。ふたりの世界には互いしか存在しないのか。
声をかけても変わらぬ現状に、大臣は半ば強引にふたりを離す。そうして、流れ作業のように沙稀の背中を両手で押す。沙稀に、部屋から出て行けと。
「はい! では、沙稀様はお戻り下さい」
「あ! 沙稀」
大臣が扉に手を伸ばしたそのとき、恭良は沙稀を呼び止める。大臣はドアノブを握ったまま動きが止まり、沙稀は声の方を強引に向く。
恭良は幸せそうに、にこりと笑い、
「『姫』付け、禁止ね」
と、実に根気よく沙稀に注意をする。
「努力します」
答える沙稀は苦笑いだが、はたから見れば互いに『愛している』と言っているようなもの。大臣はドアノブを回し、沙稀の背を力任せに押す。
沙稀は部屋から追い出されたが、扉が閉まるとすぐ真横の壁に寄りかかる。気配を消して、大臣が出てくるのを待つ気だ。──微かに、大臣の声が聞こえる。その声は途切れ途切れだが、推測はできる。
「十八年前……」
十八年前の混沌。──ああ、間もなく王の連れ子だと知るのか。そう思えば沙稀の胸はズキリと痛む。
「瑠既様と……は……」
瑠既と沙稀が双子だと話しているのだろう。これから、瑠既と沙稀が現在に至る経緯も話されていく。王の悪事も恭良は聞くことになる。王と紗如の関係も知る。
それは、恭良に紗如との血縁関係は、鴻嫗城との関係は皆無だと知らされること。
初めこそ聞き耳を立てていた沙稀だが、壁から耳は離れていく。
──大臣も俺も、同罪だ。いや、真実を告げている大臣の方が……。
大臣も沙稀も全てを知りつつ、恭良に『鴻嫗城の姫』という重荷を押し付けてきたようなもの。
──恭姫も、被害者だった。
恭良もまた、十八年前の混沌に巻き込まれたとこの期に及んで再認識する。
今更、真実を知らせるなど。詫びても詫びきれることではない。
──俺たちが騙していたようなものだ。
選んだ結論は、間違っていたのか──沙稀は罪悪感で呑まれそうになる。この先、本当に恭良の傍にいていいのかと。
ほどなくして、扉がちいさな音を立てた。沙稀が壁から体を離すと、部屋から出ていた大臣は驚く。
だが、沙稀は大臣を気にせずに、入れ違いで部屋に入る。リラの瞳に飛び込んできたのは、今にも泣き崩れてしまいそうな恭良。
「恭姫」
「私……」
つい数分前、幸せそうに笑っていた場所で恭良は立ち尽くしていた。
沙稀の心配は的中し、恭良は大きなショックを受けているのだろう。『自分がどうあるべきか』を探しているようで。
恭良の虚ろな瞳が、沙稀を一度見る。けれど、すぐに目を伏せて。クロッカスの瞳は今にも震えそうに──。
「『姫』、だなんて……付けないで」
ぐにゃりと恭良の表情が歪む。泣き叫びそうであるのに、悲鳴を上げない華奢な体。けれど、細い足は、体重を支えるには心ともなく。──膝が曲がる瞬間、沙稀は駆けつけ、恭良を抱き締める。
「誰が、何と言おうと、恭姫は鴻嫗城の『姫』ですから。誰より俺が……昔にそれを認めましたから!」
他に言える言葉はない。ただ、ひとつ残った真実。
あの日に沙稀は思い知っていた。──恭良に剣を向けたあの日に、恭良は何も知らないと。
何ひとつ知らずに、紗如を実の母と慕い、あんな男を父と慕い、己の時間なんて省みずに鴻嫗城の姫として育ち、振舞っていた。国務に対し、すべて笑顔でいた。嫌な顔なんて見たことがない。
いつも沙稀の心配ばかりしていた。『私には笑っていることしかできない』と、無理をしていた。
それを無理と感じられないほど、日常化していた。それなのに、他の者への感謝を惜しまなかった。一緒にいてくれる人にできることをしたいと願い、実行していた。
沙稀には抗うしかできなかったこと。それらに答えを見つけて、弱さも受け止めていた。自らが出した答えで、できる限りをしていた。──あの日まで、沙稀がそんなことにも気づけないくらい、受け止められないくらい、弱かったと気がづかせてくれた。今の状態は失望ではなく、『母の想い出が詰まるこの城を護りたい』と、『父を目指したい』という昔の思いが、すこし形が違うだけだと、気づかせてくれた。
あの日は──
沙稀が鴻嫗城の姫は恭良だ、と認めた日。
鴻嫗城の姫に命を捧げると誓った日。
恭良に想いを寄せた、初めの日。
「沙稀」
恭良は沙稀の右腕をつかむ。沙稀は驚く。感覚のないはずの部位に伝わる感触、あたたかさに。
恭良の頬には涙が伝う。静かに落とす涙が、沙稀の胸を痛める。いつの間にか、沙稀の頬にも涙が伝う。
ふたりは相手の痛みを受け止めるかのように、互いの頬に伝う涙に触れた。
決して誄を蔑ろにするわけではないが、沙稀にとっての第一優先は、誰よりも恭良だ。みるみるうちに沙稀は俯いていく。
迷う。
恭良の笑顔を守りたくて。
何を選べばいいのか。いや、どれを選べば、恭良の笑顔を守れるのか。沙稀の選ぶものは──。
「恭姫は……居辛くはならないだろうか」
「ええ、貴男が傍にいれば」
見計らったかのように、大臣は後押しする。一度決めてしまえば、よほどのことがない限り沙稀は考えを変えないと大臣はよく知っている。
「俺が、傍にいれば?」
「そうです」
疑問形の言葉を即座に肯定する。
「今の沙稀様は、どんなときであっても恭良様のすぐ傍にいられる存在でしょう?」
──婚約者なのだから。
サラリと長いリラの髪が揺れた。沙稀は顔を上げ、しっかりと大臣をその瞳に映す。
「わかった」
大臣が敢えて言葉にしなかった部分を受け止めたのか。沙稀は短く了承すると、決意を続ける。
「今の俺はどんなことがあっても傍にいられる。真実を知っても傍にいることを恭姫が許してくれるのなら、これから恭姫を襲う辛さも、ともに背負っていこう」
それは『鴻嫗城の第二子』、『鴻嫗城の後継者』に戻る覚悟。同時に、恭良のことも変わらずに守り続けるという宣言。
宣言を受け、大臣は善は急げと言わんばかりに扉を開ける。その姿は、なんとも満足そうで。沙稀は大臣の術中にはまった感覚を抱く。
大臣が出て行くと、沙稀は距離を取りながらうしろを歩く。行先はひとつしかない。恭良の部屋だ。
恭良の部屋をノックをした大臣が入室したあと、すぐに閉まっていく扉から沙稀はするりと入り込み、何食わぬ顔で扉を閉めた。
「沙稀様」
大臣は出て行くように促すが、当の本人は聞く耳を持っていない。まるで大臣がいないかのように沙稀は恭良に近づく。
沙稀の足が止まったのは、手の届きそうで届かない距離。──長い間保っていた、ふたりの距離だ。
「恭姫。何があっても俺と、いてくれますか?」
沙稀の真剣な問いに、恭良は事情が呑み込めない。真っ直ぐと見つめる沙稀に対し、恭良はクロッカスの瞳を大きく見開く。
見開いたクロッカスの瞳は、今にも揺れそうなリラの瞳を映し──。
「もちろん」
恭良は微笑む。
ふと、軽やかに動くのは恭良の足。一気に沙稀との距離は埋まり──恭良は沙稀の胸に飛び込む。
ふわっと浮いたクロッカスの髪が重力に従うころ、沙稀は恭良を強く抱き寄せていた。守りたいと一心で。
一方の恭良は、沙稀の腕の中で安堵している。ただうれしく、抱き締め返している。
ふたりが抱き合って、何分が経過しただろうか。
一向に離れようとしないふたりに大臣は近づく。
「いい加減離れて下さい」
この場にいるのは、ふたりだけではないという自己主張。けれど、大臣の思い空しく、状況に変化はない。ふたりの世界には互いしか存在しないのか。
声をかけても変わらぬ現状に、大臣は半ば強引にふたりを離す。そうして、流れ作業のように沙稀の背中を両手で押す。沙稀に、部屋から出て行けと。
「はい! では、沙稀様はお戻り下さい」
「あ! 沙稀」
大臣が扉に手を伸ばしたそのとき、恭良は沙稀を呼び止める。大臣はドアノブを握ったまま動きが止まり、沙稀は声の方を強引に向く。
恭良は幸せそうに、にこりと笑い、
「『姫』付け、禁止ね」
と、実に根気よく沙稀に注意をする。
「努力します」
答える沙稀は苦笑いだが、はたから見れば互いに『愛している』と言っているようなもの。大臣はドアノブを回し、沙稀の背を力任せに押す。
沙稀は部屋から追い出されたが、扉が閉まるとすぐ真横の壁に寄りかかる。気配を消して、大臣が出てくるのを待つ気だ。──微かに、大臣の声が聞こえる。その声は途切れ途切れだが、推測はできる。
「十八年前……」
十八年前の混沌。──ああ、間もなく王の連れ子だと知るのか。そう思えば沙稀の胸はズキリと痛む。
「瑠既様と……は……」
瑠既と沙稀が双子だと話しているのだろう。これから、瑠既と沙稀が現在に至る経緯も話されていく。王の悪事も恭良は聞くことになる。王と紗如の関係も知る。
それは、恭良に紗如との血縁関係は、鴻嫗城との関係は皆無だと知らされること。
初めこそ聞き耳を立てていた沙稀だが、壁から耳は離れていく。
──大臣も俺も、同罪だ。いや、真実を告げている大臣の方が……。
大臣も沙稀も全てを知りつつ、恭良に『鴻嫗城の姫』という重荷を押し付けてきたようなもの。
──恭姫も、被害者だった。
恭良もまた、十八年前の混沌に巻き込まれたとこの期に及んで再認識する。
今更、真実を知らせるなど。詫びても詫びきれることではない。
──俺たちが騙していたようなものだ。
選んだ結論は、間違っていたのか──沙稀は罪悪感で呑まれそうになる。この先、本当に恭良の傍にいていいのかと。
ほどなくして、扉がちいさな音を立てた。沙稀が壁から体を離すと、部屋から出ていた大臣は驚く。
だが、沙稀は大臣を気にせずに、入れ違いで部屋に入る。リラの瞳に飛び込んできたのは、今にも泣き崩れてしまいそうな恭良。
「恭姫」
「私……」
つい数分前、幸せそうに笑っていた場所で恭良は立ち尽くしていた。
沙稀の心配は的中し、恭良は大きなショックを受けているのだろう。『自分がどうあるべきか』を探しているようで。
恭良の虚ろな瞳が、沙稀を一度見る。けれど、すぐに目を伏せて。クロッカスの瞳は今にも震えそうに──。
「『姫』、だなんて……付けないで」
ぐにゃりと恭良の表情が歪む。泣き叫びそうであるのに、悲鳴を上げない華奢な体。けれど、細い足は、体重を支えるには心ともなく。──膝が曲がる瞬間、沙稀は駆けつけ、恭良を抱き締める。
「誰が、何と言おうと、恭姫は鴻嫗城の『姫』ですから。誰より俺が……昔にそれを認めましたから!」
他に言える言葉はない。ただ、ひとつ残った真実。
あの日に沙稀は思い知っていた。──恭良に剣を向けたあの日に、恭良は何も知らないと。
何ひとつ知らずに、紗如を実の母と慕い、あんな男を父と慕い、己の時間なんて省みずに鴻嫗城の姫として育ち、振舞っていた。国務に対し、すべて笑顔でいた。嫌な顔なんて見たことがない。
いつも沙稀の心配ばかりしていた。『私には笑っていることしかできない』と、無理をしていた。
それを無理と感じられないほど、日常化していた。それなのに、他の者への感謝を惜しまなかった。一緒にいてくれる人にできることをしたいと願い、実行していた。
沙稀には抗うしかできなかったこと。それらに答えを見つけて、弱さも受け止めていた。自らが出した答えで、できる限りをしていた。──あの日まで、沙稀がそんなことにも気づけないくらい、受け止められないくらい、弱かったと気がづかせてくれた。今の状態は失望ではなく、『母の想い出が詰まるこの城を護りたい』と、『父を目指したい』という昔の思いが、すこし形が違うだけだと、気づかせてくれた。
あの日は──
沙稀が鴻嫗城の姫は恭良だ、と認めた日。
鴻嫗城の姫に命を捧げると誓った日。
恭良に想いを寄せた、初めの日。
「沙稀」
恭良は沙稀の右腕をつかむ。沙稀は驚く。感覚のないはずの部位に伝わる感触、あたたかさに。
恭良の頬には涙が伝う。静かに落とす涙が、沙稀の胸を痛める。いつの間にか、沙稀の頬にも涙が伝う。
ふたりは相手の痛みを受け止めるかのように、互いの頬に伝う涙に触れた。
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