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兄と罪、罪と弟
【58】蓄積(1)
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羅暁城の裏口には、ひとつの棟がある。別棟と呼ばれる細長い円形の棟──羅凍はこの別棟で育った。
別棟には、父も母も兄もいない。
六歳になる羅凍は、兄にまだ一度しか会ったことがなかった。いや、父とはそれこそ──母には片手で数える程度に会ったことはあるが、一方的に、しかも威圧的に話す。
『怖い人』──それが羅凍にとっての『母』という人だ。
朝と昼の一定時間の教育が終わると、入れ替わり立ち代わり来ていた教育係も来なくなる。次に誰かがやってくるのは、夕飯を運びに来るだけ。それまでのおよそ五時間──羅凍は別棟を抜け出して過ごした。
あれは、シロツメクサの咲く季節だった。
別棟を抜け出した羅凍は、目の前の林へ遊びに行っていた。林には小動物が住んでいて、時折、白うさぎが羅凍の下へやってきていた。周囲に誰もいない、羅凍の唯一の友達。
だが、この日は違った。
羅凍が『いつもの場所』に行くと、先客がいた。しかも、場所だけではなく、白うさぎまで先客が独占していて。
口をへの字にして羅凍はその光景を見つめる。
先客は、深く濃い青い色の長い髪。体の大きさは羅凍よりもひとまわりくらい、ちいさいだろうか。日が暮れた後のような髪の毛が、ふと揺れる。──羅凍がじっと見ていたところには、髪の毛の色よりも淡い色の、大きな瞳が現れた。その大きな青空のような瞳は、羅凍の姿を映す。
「あっ」
可愛らしい声が聞こえて、羅凍の鼓動は跳ねた。ドキッと震えた、体の反応。
「へっ?」
あまりにも間抜けな声を羅凍が出す。──ここは、羅暁城の敷地内。子どもが間違って迷い込むような場所ではない。
座っていた人物は、白うさぎを抱いて立ち上がる。驚いていた羅凍に、一歩、また一歩と近づいて来た。
「こんにちは」
「こ、こんにち……は」
羅凍は熱い顔を、話しにくさを、怒りだと誤解していた。誰かと気軽に会話した記憶などない。だから、本で得た知識で、そう思い込んでいた。
居場所を邪魔された怒り、白うさぎに対するヤキモチ、そういう感情なのだろうと戸惑いつつ、言葉を返していた。
立って並ぶと、一層、目の前の人物はちいさく見える。赤面しつつも羅凍がムッとしていると、対面している人物が、また一歩踏み出してきた。
「誰?」
首を傾げながら聞かれた言葉。
『それ、俺のセリフだし!』と思ったが、羅凍は言葉にできず。それは日頃から会話を体験していなかったからで。何と言ったらいいのか、懸命に考えた挙句──。
「一応、羅暁城の二男なんだけど……」
そう言うのが、やっとで。誰かと聞かれたのに、身分を答えるのがやっとだった。自信のなさは、うつむく姿勢に表れていて。それなのに、対面の人物はにっこりと笑う。
「そうだったんだ。ごめんなさい。もしかして、双子の弟さんの方?」
『双子』という言葉に羅凍は反応して顔が上がる。──捷羅と初めて会うまで、羅凍が強く意識していた言葉。
「そう……だけど」
抉られるような思いは、警戒心となって表れて。それでも尚、青空のような瞳は曇らない。
「私ね、先週ここに引き取られたの。哀萩って言います。初めまして」
哀萩は寂し気に笑っていた。その笑顔は、幸せにあふれた環境にいたと言っているようで。──羅凍には、とても眩しかった。
「初め……まして」
「ねぇ、うさぎさん。抱っこする?」
透き通った瞳はキラキラとしていて。羅凍の心はモヤモヤと曇っていく。
『だから、そのうさぎは俺の友達なんだけど』口から出ない思いは心で響き。けれど、手を伸ばす気にもなれずに。
「いいよ。放してあげて」
白うさぎは野生だからと、冷静な言葉を出す。誰のモノでもなく、自由にするべきだという羅凍の思いがこもった言葉。
一方、言われた哀萩は、
「そ……っか」
と、しゃがみ白うさぎを手放した。
白うさぎは一度、羅凍を見上げて林へと走っていく。
「ねぇ、また会えるかな?」
哀萩は羅凍を見上げている。
「さぁ、野生動物は気まぐれなところもあるから……」
「うさぎさんじゃなくて、あなたに」
意外な言葉に、羅凍は一瞬、頭が真っ白になった。
「えと……」
『そういえば似た言葉を兄も言ったことがあった』と、羅凍は過去を思い出す。だからこそ、冷静に、期待をせずに言う。
「多分。わりとここには……いる」
「そう。じゃ、また来るね」
哀萩の弾んだ言葉とは裏腹に、羅凍の気持ちは沈んだ。
『また、必ず……すぐにでも来るから!』
双子の兄でさえ、その言葉を忘れたかのように、一年以上も羅凍に会いに来ていない。
胸が痛くなるようなことを思い出していると、哀萩は手を振って姿を消していく。赤い夕焼けが広がる空に、彼女の髪の毛の色が際立って見えていた。
別棟に戻りながら、羅凍は捷羅に初めて会った日のことを脳内で再生していた。あの日は、羅凍がとてもうれしかった日だ。うれしすぎて、意味なく走り出したくなった。その衝動を、理解もできないくらい。
また双子の兄が会いに来てくれると思うだけでただ、ウキウキと胸は弾んで。今度はいつ会えるのかとワクワクして。
その夜は眠れなかった。
別棟には、父も母も兄もいない。
六歳になる羅凍は、兄にまだ一度しか会ったことがなかった。いや、父とはそれこそ──母には片手で数える程度に会ったことはあるが、一方的に、しかも威圧的に話す。
『怖い人』──それが羅凍にとっての『母』という人だ。
朝と昼の一定時間の教育が終わると、入れ替わり立ち代わり来ていた教育係も来なくなる。次に誰かがやってくるのは、夕飯を運びに来るだけ。それまでのおよそ五時間──羅凍は別棟を抜け出して過ごした。
あれは、シロツメクサの咲く季節だった。
別棟を抜け出した羅凍は、目の前の林へ遊びに行っていた。林には小動物が住んでいて、時折、白うさぎが羅凍の下へやってきていた。周囲に誰もいない、羅凍の唯一の友達。
だが、この日は違った。
羅凍が『いつもの場所』に行くと、先客がいた。しかも、場所だけではなく、白うさぎまで先客が独占していて。
口をへの字にして羅凍はその光景を見つめる。
先客は、深く濃い青い色の長い髪。体の大きさは羅凍よりもひとまわりくらい、ちいさいだろうか。日が暮れた後のような髪の毛が、ふと揺れる。──羅凍がじっと見ていたところには、髪の毛の色よりも淡い色の、大きな瞳が現れた。その大きな青空のような瞳は、羅凍の姿を映す。
「あっ」
可愛らしい声が聞こえて、羅凍の鼓動は跳ねた。ドキッと震えた、体の反応。
「へっ?」
あまりにも間抜けな声を羅凍が出す。──ここは、羅暁城の敷地内。子どもが間違って迷い込むような場所ではない。
座っていた人物は、白うさぎを抱いて立ち上がる。驚いていた羅凍に、一歩、また一歩と近づいて来た。
「こんにちは」
「こ、こんにち……は」
羅凍は熱い顔を、話しにくさを、怒りだと誤解していた。誰かと気軽に会話した記憶などない。だから、本で得た知識で、そう思い込んでいた。
居場所を邪魔された怒り、白うさぎに対するヤキモチ、そういう感情なのだろうと戸惑いつつ、言葉を返していた。
立って並ぶと、一層、目の前の人物はちいさく見える。赤面しつつも羅凍がムッとしていると、対面している人物が、また一歩踏み出してきた。
「誰?」
首を傾げながら聞かれた言葉。
『それ、俺のセリフだし!』と思ったが、羅凍は言葉にできず。それは日頃から会話を体験していなかったからで。何と言ったらいいのか、懸命に考えた挙句──。
「一応、羅暁城の二男なんだけど……」
そう言うのが、やっとで。誰かと聞かれたのに、身分を答えるのがやっとだった。自信のなさは、うつむく姿勢に表れていて。それなのに、対面の人物はにっこりと笑う。
「そうだったんだ。ごめんなさい。もしかして、双子の弟さんの方?」
『双子』という言葉に羅凍は反応して顔が上がる。──捷羅と初めて会うまで、羅凍が強く意識していた言葉。
「そう……だけど」
抉られるような思いは、警戒心となって表れて。それでも尚、青空のような瞳は曇らない。
「私ね、先週ここに引き取られたの。哀萩って言います。初めまして」
哀萩は寂し気に笑っていた。その笑顔は、幸せにあふれた環境にいたと言っているようで。──羅凍には、とても眩しかった。
「初め……まして」
「ねぇ、うさぎさん。抱っこする?」
透き通った瞳はキラキラとしていて。羅凍の心はモヤモヤと曇っていく。
『だから、そのうさぎは俺の友達なんだけど』口から出ない思いは心で響き。けれど、手を伸ばす気にもなれずに。
「いいよ。放してあげて」
白うさぎは野生だからと、冷静な言葉を出す。誰のモノでもなく、自由にするべきだという羅凍の思いがこもった言葉。
一方、言われた哀萩は、
「そ……っか」
と、しゃがみ白うさぎを手放した。
白うさぎは一度、羅凍を見上げて林へと走っていく。
「ねぇ、また会えるかな?」
哀萩は羅凍を見上げている。
「さぁ、野生動物は気まぐれなところもあるから……」
「うさぎさんじゃなくて、あなたに」
意外な言葉に、羅凍は一瞬、頭が真っ白になった。
「えと……」
『そういえば似た言葉を兄も言ったことがあった』と、羅凍は過去を思い出す。だからこそ、冷静に、期待をせずに言う。
「多分。わりとここには……いる」
「そう。じゃ、また来るね」
哀萩の弾んだ言葉とは裏腹に、羅凍の気持ちは沈んだ。
『また、必ず……すぐにでも来るから!』
双子の兄でさえ、その言葉を忘れたかのように、一年以上も羅凍に会いに来ていない。
胸が痛くなるようなことを思い出していると、哀萩は手を振って姿を消していく。赤い夕焼けが広がる空に、彼女の髪の毛の色が際立って見えていた。
別棟に戻りながら、羅凍は捷羅に初めて会った日のことを脳内で再生していた。あの日は、羅凍がとてもうれしかった日だ。うれしすぎて、意味なく走り出したくなった。その衝動を、理解もできないくらい。
また双子の兄が会いに来てくれると思うだけでただ、ウキウキと胸は弾んで。今度はいつ会えるのかとワクワクして。
その夜は眠れなかった。
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