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清算と解放と
【72】あと一歩
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忒畝は息を深く吐く。一先ず、竜称に託された『龍声』をどうにかしなければならない。変わらず彼女は眠っているようで、顔を上げない。
持ってきた血清は試験管一本だった。その一本で悠穂だけではなく、母も女悪神の力から解放できたのはよかったが──もう手元にはない。血清があるのは、忒畝の職場だ。けれど、このまま『龍声』を置き去りにし、取りに行くのは気が進まない。
ここは悠穂の部屋で、尚且つ部屋の主は深く深く眠っている。
だからといって、『龍声』を起こすのもためらわれる。起こせば、事情を説明しなければならない。そうなれば、それなりの時間がかかる。
一先ず、ここは起こさず『龍声』を運ぶ方が賢明そうだ。
無防備に眠る女性に手を伸ばすのは気が引けるが、忒畝は一種の救助として割り切る。もっとも、大きなくくりで言えば身内であり、彼女が目覚めたらそう接していくことになる。無関係な人だとは、忒畝には言えない。
忒畝はおもむろに『龍声』へ手を伸ばし──ビクリとした。彼女の腹部には、わずかな膨らみがあったから。
反射的に忒畝は伸ばしていた手を戻す。
──まさか。
血の気が引く。嫌な予感がして。
じっと見る。目を逸らしたくても、目を離せない白緑色の長い髪を。
──どうして、気づかなかったのか。
忒畝は落胆する。見逃していた事実が浮き彫りになっていく。
色々あったとか、考えることが山積みだったとか、そんなことは言い訳だと全否定して自責する。
鴻嫗城で悠穂と会い、帰りの船に乗ったとき。忒畝は確かに悠穂から『龍声』の存在を聞いていた。
そうして、母を含む四戦獣と忒畝、悠穂以外にこの血を継いでいる者がもう『ひとり』いると理解していたはずだった。──それなのに。
──僕ら以外の『ひとり』が、『龍声』だった。
鴻嫗城から帰宅したその日の夜、初めて目にした少女。誰かと忒畝は考えたにも関わらず、消去法でその『ひとり』だと気づけなかった。
それを、今になって──。
静まり返る室内で、時計の針の音だけが響く。
忒畝は落胆の色を浮かべながらも、なにかを吹っ切ったかのように『龍声』を背負う。悠穂の眠るベッド付近に転がる試験管を一瞥したが、すぐに扉へ視線を移し、そのまま部屋を退室する。
職場へと戻ってきた忒畝は、仮眠で使用しているベッドに『龍声』をおろす。足元まである裾の長いワンピースの上に、肘までのポンチョを羽織っていて露出は限りなく少ない。けれど、眠っている姿はあまりにも無防備で──忒畝はしっかりと布団をかける。『龍声』は母にとっても、竜称にとっても大事な娘だ。いや、『龍声』は竜称にとってはかけがえのない存在。
その『龍声』を竜称は、忒畝に託すと言った。
──竜称は、すべての罪を被って死を受け入れる気だ。
忒畝はまぶたを閉じる。竜称との思い出は、なにひとつ、いいものなどない。けれど、竜称の意図に気づいた以上、忒畝には果たさなければならないことがある。
──竜称を助けなければ。
竜称を救わなければ、終われない。けれどその前に、忒畝にはやるべきことがある。竜称に託された『龍声』を救うこと。
『龍声』に背を向け、忒畝は透き通ったセルリアンブルーの液体が入る試験管を取りに行く。
どこか呆然としていたが、何気なく時計に視線止まる。手を伸ばしかけた注射器からすばやく手を引き、急いで試験管をつかむ。ベッドへと戻りながら、セルリアンブルーの液体を口に含む。そして、眠っている『龍声』へとためらわずに口移しする。
コクリと飲んで、すうっと呼吸が聞こえたのを確認し、忒畝は空の試験管を元の位置に戻す。新たにもう一本のセルリアンブルーの液体が入る試験管を手に取り、今度は注射器に移す。蓋をし、上着の左側へと入れて退室する。
──このまま彼女は、悠穂と同じくらい眠るだろう。
推測が正しければ、彼女の瞳は柳葉色になる。克主の瞳の色だ。
忒畝は馨民を訪ねていた。手短に悠穂と『龍声』の面倒をみてほしいと頼む。
「ごめん、またすこし出かけてくる。今度は、明日には帰ってこられると思うから」
急いで緋倉に行かなくては、目的地に向かう船が出てしまう。最終便ではないが、二、三時間待つのが惜しい。最悪、手遅れになってしまう。
慌てる様子が伝わったのか、
「頼ってもらえてうれしいわ。気をつけてね、忒畝」
と、幸いにも馨民は詳細を要求しないで見送ってくれようとする。だからこそ、忒畝は言う。
「ありがとう。帰宅したら今度こそ、きちんと話すよ」
研究所の景色が足早に過ぎ去っていく。思えば、悠穂を追って鴻嫗城に行ってからずい分経った。黎馨を過去へと見送ってからすぐにできると思っていた血清の完成には、数週間がかかった。最優先したい思いはあれど、最優先しないといけない業務があって。馨民と充忠に言えないもどかしさから、業務で返すしかないと研究の手を止めてやっと日常を取り戻して。ようやく血清が完成した。
進めていた研究は、また一からやり直しだ。だが、今日に血清が間に合ってよかったと忒畝は心底思っている。悠穂を、母を救えて。
けれど、あと一歩。
竜称を救えなくては、一歩間に合わなかったと悔いることになる。
竜称との思い出は、なにひとつ、いいものなどない。けれど、それは竜称を救わない理由にはならない。
研究所の扉を開けた。すると、忒畝の目の前には誰かが立っていた。──その人物は研究所のベルを押そうとして、動きを止めていた。
恐らく、研究所を訪問した人物がベルを押そうとしたのと、忒畝が扉を開けたのが同時だったのだろう。
忒畝が見上げるその人物は、漆黒の髪を高い位置でひとつに結んでいる長身の男。──羅凍だ。
忒畝は羅凍を見て、予感が正しかったと判断する。
「事情は予想できてる。急ごう!」
持ってきた血清は試験管一本だった。その一本で悠穂だけではなく、母も女悪神の力から解放できたのはよかったが──もう手元にはない。血清があるのは、忒畝の職場だ。けれど、このまま『龍声』を置き去りにし、取りに行くのは気が進まない。
ここは悠穂の部屋で、尚且つ部屋の主は深く深く眠っている。
だからといって、『龍声』を起こすのもためらわれる。起こせば、事情を説明しなければならない。そうなれば、それなりの時間がかかる。
一先ず、ここは起こさず『龍声』を運ぶ方が賢明そうだ。
無防備に眠る女性に手を伸ばすのは気が引けるが、忒畝は一種の救助として割り切る。もっとも、大きなくくりで言えば身内であり、彼女が目覚めたらそう接していくことになる。無関係な人だとは、忒畝には言えない。
忒畝はおもむろに『龍声』へ手を伸ばし──ビクリとした。彼女の腹部には、わずかな膨らみがあったから。
反射的に忒畝は伸ばしていた手を戻す。
──まさか。
血の気が引く。嫌な予感がして。
じっと見る。目を逸らしたくても、目を離せない白緑色の長い髪を。
──どうして、気づかなかったのか。
忒畝は落胆する。見逃していた事実が浮き彫りになっていく。
色々あったとか、考えることが山積みだったとか、そんなことは言い訳だと全否定して自責する。
鴻嫗城で悠穂と会い、帰りの船に乗ったとき。忒畝は確かに悠穂から『龍声』の存在を聞いていた。
そうして、母を含む四戦獣と忒畝、悠穂以外にこの血を継いでいる者がもう『ひとり』いると理解していたはずだった。──それなのに。
──僕ら以外の『ひとり』が、『龍声』だった。
鴻嫗城から帰宅したその日の夜、初めて目にした少女。誰かと忒畝は考えたにも関わらず、消去法でその『ひとり』だと気づけなかった。
それを、今になって──。
静まり返る室内で、時計の針の音だけが響く。
忒畝は落胆の色を浮かべながらも、なにかを吹っ切ったかのように『龍声』を背負う。悠穂の眠るベッド付近に転がる試験管を一瞥したが、すぐに扉へ視線を移し、そのまま部屋を退室する。
職場へと戻ってきた忒畝は、仮眠で使用しているベッドに『龍声』をおろす。足元まである裾の長いワンピースの上に、肘までのポンチョを羽織っていて露出は限りなく少ない。けれど、眠っている姿はあまりにも無防備で──忒畝はしっかりと布団をかける。『龍声』は母にとっても、竜称にとっても大事な娘だ。いや、『龍声』は竜称にとってはかけがえのない存在。
その『龍声』を竜称は、忒畝に託すと言った。
──竜称は、すべての罪を被って死を受け入れる気だ。
忒畝はまぶたを閉じる。竜称との思い出は、なにひとつ、いいものなどない。けれど、竜称の意図に気づいた以上、忒畝には果たさなければならないことがある。
──竜称を助けなければ。
竜称を救わなければ、終われない。けれどその前に、忒畝にはやるべきことがある。竜称に託された『龍声』を救うこと。
『龍声』に背を向け、忒畝は透き通ったセルリアンブルーの液体が入る試験管を取りに行く。
どこか呆然としていたが、何気なく時計に視線止まる。手を伸ばしかけた注射器からすばやく手を引き、急いで試験管をつかむ。ベッドへと戻りながら、セルリアンブルーの液体を口に含む。そして、眠っている『龍声』へとためらわずに口移しする。
コクリと飲んで、すうっと呼吸が聞こえたのを確認し、忒畝は空の試験管を元の位置に戻す。新たにもう一本のセルリアンブルーの液体が入る試験管を手に取り、今度は注射器に移す。蓋をし、上着の左側へと入れて退室する。
──このまま彼女は、悠穂と同じくらい眠るだろう。
推測が正しければ、彼女の瞳は柳葉色になる。克主の瞳の色だ。
忒畝は馨民を訪ねていた。手短に悠穂と『龍声』の面倒をみてほしいと頼む。
「ごめん、またすこし出かけてくる。今度は、明日には帰ってこられると思うから」
急いで緋倉に行かなくては、目的地に向かう船が出てしまう。最終便ではないが、二、三時間待つのが惜しい。最悪、手遅れになってしまう。
慌てる様子が伝わったのか、
「頼ってもらえてうれしいわ。気をつけてね、忒畝」
と、幸いにも馨民は詳細を要求しないで見送ってくれようとする。だからこそ、忒畝は言う。
「ありがとう。帰宅したら今度こそ、きちんと話すよ」
研究所の景色が足早に過ぎ去っていく。思えば、悠穂を追って鴻嫗城に行ってからずい分経った。黎馨を過去へと見送ってからすぐにできると思っていた血清の完成には、数週間がかかった。最優先したい思いはあれど、最優先しないといけない業務があって。馨民と充忠に言えないもどかしさから、業務で返すしかないと研究の手を止めてやっと日常を取り戻して。ようやく血清が完成した。
進めていた研究は、また一からやり直しだ。だが、今日に血清が間に合ってよかったと忒畝は心底思っている。悠穂を、母を救えて。
けれど、あと一歩。
竜称を救えなくては、一歩間に合わなかったと悔いることになる。
竜称との思い出は、なにひとつ、いいものなどない。けれど、それは竜称を救わない理由にはならない。
研究所の扉を開けた。すると、忒畝の目の前には誰かが立っていた。──その人物は研究所のベルを押そうとして、動きを止めていた。
恐らく、研究所を訪問した人物がベルを押そうとしたのと、忒畝が扉を開けたのが同時だったのだろう。
忒畝が見上げるその人物は、漆黒の髪を高い位置でひとつに結んでいる長身の男。──羅凍だ。
忒畝は羅凍を見て、予感が正しかったと判断する。
「事情は予想できてる。急ごう!」
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