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秘密
秘密(3)
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梅雨もあけて、夏空がひろがる。彼と暮らし始めて一ヶ月、言ってた通り、取材にいったきり、もう二週間も帰ってこない。毎日移動してるみたいだけど、LINEと写真、電話もちゃんとしてくれる。
それでも、ひとりで眠るベッドは寂しくて、彼のまくらや洗濯物を抱きしめたり。すっかり、私は彼に恋してしまってる。
休憩スペースで、ランチをしながら、スマホで彼のブログを読むのが日課になっていて、その日も、ぼんやり読んでるけど、正直、難しくてよくわかんない。あんな感じなのに、難しいこと考えてるんだなって、なんだか、私の知ってる義人とは別人みたい。そして、なんだか、遠い世界の人みたい。
「ご一緒してよろしいですか」
声をかけたのは、城戸くんだった。
「もちろん、城戸くん、調子いいわね、今月は東京でベスト10に入りそうよ」
「え、本当ですか! やった、店長のご指導のおかげです!」
「なに言ってるの、関東、全国でトップ目指さなきゃ」
彼は、はい、と言って、ふと、私のスマホの画面に目を落とした。
「それ、藤岡義人ですか?」
「え、ええ。城戸くん、知ってるの?」
「知ってるも何も、藤岡義人は、僕たち世代じゃ、英雄的存在ですよ。僕もそのブログ読んでます。本は全部持ってますよ」
ウソ、あの人、そんな有名な人なの!
「英雄って、どうして?」
「僕ら世代って、ゆとりだとか、たたかれること多いじゃないですか。それをかばってくれて、認めてくれた、初めてのオトナが藤岡義人です。熱狂的な信者もいますよ。結構、なんていうか、やんちゃな感じのやつらには、特に人気です」
そうなんだ、だから……あの新幹線でも、初めて迎えにきてくれた時も……
「今は貧困問題のスペシャリストみたいになってますよね。他には、虐待とかDVとか、誰も触れないようなきわどい部分を、かっこよく書いてるって感じです。噂だと、スラム地域にも、赤いベンツだかBMWだかで取材に行くとか、ほんと、かっこいいです。憧れるな」
DVか。だから彼、わかってくれたんだ。そういうこと、全然話してくれないから、知らなかった。
「憧れるんだ」
「そりゃそうですよ、見た目もかっこいいし、何より、自分の考えや思いを、堂々と文章にするって、なかなかできないことだと思うんです。みんな、建前で生きてて、本音なんか忘れてしまう。って、これも藤岡義人の受け売りですけど」
彼はコンビニ弁当を食べ終えて、ゴソゴソと袋に詰め込んだ。
「昼から外回りにいきます。法人なんですけど、福利厚生にうちを使いたいってとこがありまして」
「福利厚生? 結婚相談所を?」
「男性ばかりの職場で、忙しいらしいんですよ。だから出会いの場を提供したいって。うまくいけば、100人単位で新規会員とれそうです」
「城戸くん、すごいじゃない、期待してるわ」
彼は嬉しそうに笑って、手鏡でネクタイをチェックしてる。
「ああ、そうだ。藤岡義人に興味あるなら、インスタがおすすめです。かなりハードですけど、なんか優しさを感じるいい写真ばかりです。なぜかプライベートも混ざってますけど」
「ありがとう、見てみるわ」
若い彼を見送って、インスタを見てみる。うわ、たしかにちょっと……でも、なんだろ。優しいのよね。彼って、ほんと不思議。あんな見た目で、言葉も乱暴なのに、どうしてあんなに優しく感じるのかしら。
でも、彼がそんなに有名人だったなんて、本当にびっくり。話してくれてもいいじゃない。
しばらく遡ると、あれ、どっかで見たことある口紅……って、これ、私のじゃない!
あの真っ赤な口紅の写真には、彼のコメント付き。
『この色、最高に似合う』
他にも、見覚えがある写真があって、この写真、あの定食屋さんじゃない?
『カノジョと飯。一緒ならなんでもうまい! でもハンバーグ一切れとエビフライのトレードはちょっと納得できないなあ(笑)』
もう、そんなに根に持ってたの?
「あ、これ……」
そこには、新幹線のテーブルに乗ったコーヒーとクッキー。あの時はまさか、こんなことになるなんて、夢にも思わなかった。まさかね、こんなタイプじゃない人を、こんなに好きになるなんて。
『運命の出会い、きたかもしれない!』
運命の出会いかあ。うん、そうね、きっと、運命なのよ、私たち。あなたに出会えて、ほんとによかったって、思ってる。どの投稿にも、いっぱいコメントがついてて、フォロワーもいっぱい。急に、彼がすごく遠い存在に感じる。会いたいなあ、早く帰ってこないかな。
〈新規投稿〉
なんだろ。なんか公園の写真だけど……
『7月31日 ●公園で炊き出しやるけど、全然人が足りない! てわけで、今回も手伝ってくれるやつ募集だ。ヒマなやつ、日焼けしたいやつ、なんかやりたいやつ、朝8時に来てくれ。暑いから、対策しっかりな。悪いけど、今回も男限定な。待ってるぜ!』
炊き出し? 炊き出しって、災害の時にあるやつよね? なんでこんな場所で……
見てるうちに、次々にコメントがついていく。
『絶対行きます! 義人さんに会いたいです!』
『有給とりまーす』
『うう、女であることを呪います……(泣)』
えー、すごいんだ。地図みたら、そんなに遠くないし、いってみようかな。男限定って書いてあるけど、ちょっと見るくらいならかまわないよね、義人にも会いたいし。
『炊き出し』の日、私は彼のお気に入りのスーツを着て、あのリップを塗って、理由をつけて仕事を抜けた。タクシーの運転手さんに住所を見せると怪訝な顔をされる。
外はすっかり真夏で、強い日差しがガンガンに照りつけてる。タクシーは少し寂しい街並みを抜けて……この風景、大阪でも見たことある。ああ、もしかして、この辺りって……
「あの、運転手さん、この辺りってもしかして、スラム的なエリアですか」
「お客さん、知らないで来たわけ?」
「大阪から来たもので……」
「こっちじゃ有名なとこだよ。大阪にもあるでしょう、こういうとこ」
ああ、炊き出しって、そういうことなんだ。聞いたことあるかも、でも、ニュースとかでちらっと見たことあるだけ。
「あの公園ですよ」
目の前にはそんなに大きくない公園があって、大勢の人だかりが、この炎天下の中、並んでいる。熱い地面に座って、無表情で食事してるみたいだけど、あれが炊き出しってこと?
「どうします、降ります?」
「あの、少しまっててもらえますか。すぐ戻りますから」
「えー、あんまり停めときたくないんだけどなあ」
「10分で戻りますから、お願いします」
「できるだけ早くお願いしますよ」
ドアを開けると、すごい熱気と、ニオイ。なに、このニオイ。だめ、ちょっとクラクラする。
日傘をさして、ハイヒールで歩く私を、ジロジロみんな見てる。公園のフェンス越しに、行列の先頭にたどり着くと、頭にタオルを巻いた彼が、白いお碗に、何かよそってる。ひとりひとり、何か話しかけて、もらった人は笑顔になって。
「割り込みすんな、おっちゃん、ちゃんと並んで!」
あちこちで小競り合いが起きてるけど、彼はちゃんと見てて、そうやって声をかける。なんか、すごいんだ。フェンスの向こうにいる彼は、私の部屋にいる彼とはまるで別人で、全く知らない人みたい。来なきゃよかった、余計に寂しくなっちゃった……
「ねえちゃん、こんなとこでなにしてんだ?」
振り向くと、缶ビールを持ったおじさんが、ニヤニヤしながら私を見ていた。
「いいケツしてんな、ちょっと酒付き合えよ」
お酒くさい、こんな時間から酔ってるのね。
「失礼、私、急ぎますので」
「待てよ、いいじゃねえか」
男は私の腕を引っ張った。その手は汚れていて、伸びた爪は真っ黒に染まっている。周りの人が、ざわざわして、人だかりができ始めた。
「や、やめて……離して」
「こっちこいって!」
急にまた、吐き気がして、体が動かない。怖い、どうしよう、義人……
「おい、なにやってんだ!」
後ろから彼の声がして、フェンスを飛び越えて、握った手を引き離した。
「やめろって、て、な、なっちゃん! なんでこんなとこに!」
「なんだ、義人、てめえの女か」
「そうだよ、さわんじゃねえよ。おっちゃん、また酒か? いい加減にしないと、またブタ箱行きだぜ?」
「けっ、えらそうに。ブタ箱のほうがマシだわ」
男はツバを吐き捨てて、ゴミ箱をあさりに行った。彼は私を木陰に連れて行って、汚れたスーツを拭いてくれる。
「大丈夫? ケガはない?」
「うん、怖かった……ごめんなさい、私、インスタで義人がここにいるって見たの。だから、ちょっとだけでも顔見たくて……」
「俺のために来てくれたんだ。なっちゃん、泣きそうなくらい嬉しいよ。でもさ、こんなとこ来ちゃダメだ。スカートなんかできたら、マジでやばいから。」
「し、しらなくて……ごめんなさい、迷惑かけちゃったね」
「なっちゃんに何かあったら、俺、やばいことなるからな」
そう笑って、いつものように優しく抱きしめてくれた。人前でこんなことされるの、前はすごく恥ずかしかったけど、今はもう慣れちゃった。汗くさいタンクトップに、顔を埋めて、彼の唇が近づいてくると、ピーっと、指笛が聞こえた。
「うるせえよ! さすがにここじゃまずいか」
彼はちょっと照れくさそうに笑って、ギャラリーをかきわけて、私たちは、そそくさとタクシーへ。
彼は運転手さんに、たぶん、2万円くらい渡して、頭を下げてくれてる。あーあ、私、非常識なことしちゃったんだ。ダメね、ほんと、なんにもわかってないんだ。
「今週末には帰るからね」
「うん。待ってる」
彼はずっと見送ってくれて、私もリアガラスから、見えなくなるまで手を振った。
「あの人、どっかで見たことあるなあ。有名人? 俳優か……格闘家か……」
格闘家って。そこまでムキムキじゃないでしょ。
「ああ! あれだ、ジャーナリストの、ヨシト、フジオカヨシトだ、そうでしょう?」
わかった、彼がなぜ、私に何も言わなかったか。彼は、ジャーナリストの藤岡義人じゃなくて、ひとりの藤岡義人として、私の前ではいたかったんだ。だって、本当に別人だもの。きっとあそこにいた人達は、彼を知ってる。彼が知らない人も、彼を知ってる。城戸くんも、信者とか、そんな言葉を使ってたし、そんな追われる生活から、少しでも離れたかったのね。
「違うわ、よく間違えられるみたいだけど。似てるのかしら」
「違うのかあ。まあ、私も写真をみたことしかないですけど、似てますねえ。若い子に人気なんですよ。前に乗せた、タレントだかアイドルだか、若い女の子が自慢げに言ってたんですよ。フジオカヨシトと付き合ってるとか。その時に、初めて写真をみたけど、若い子と並んでても、全然違和感なかったですよ」
「へ、へえ……いつの話?」
「去年のクリスマスくらいかなあ。まあねえ、ほんとかどうか、わからないですけどね。ああいう子たちは、わざと私らなんかに喋って、噂を流すんですよ。話題作りですね」
噂、話題。そうよね、きっとそう。もし本当でも、もう去年の話じゃない。今は違う。今は、私の恋人だもん。私だけ、私だけよね?
「しかし、似てたなあ。ダンナさん?」
「いえ、結婚はしてないんですけど……」
「そうですか、男前だから、心配でしょ。でもお客さんも美人だし、お似合いですよ」
「お似合い? 私たち、お似合いかしら?」
「ええ、お似合いですよ。美男美女カップルだ」
なんかすごく嬉しい。スマホには、彼からのメッセージ。
『なっちゃん、顔見れてマジで嬉しかった。家帰ったら、さっきの続きしようぜ♡』
もう、義人ったら。
『私も嬉しかった、早く帰ってきてね♡♡』
それでも、ひとりで眠るベッドは寂しくて、彼のまくらや洗濯物を抱きしめたり。すっかり、私は彼に恋してしまってる。
休憩スペースで、ランチをしながら、スマホで彼のブログを読むのが日課になっていて、その日も、ぼんやり読んでるけど、正直、難しくてよくわかんない。あんな感じなのに、難しいこと考えてるんだなって、なんだか、私の知ってる義人とは別人みたい。そして、なんだか、遠い世界の人みたい。
「ご一緒してよろしいですか」
声をかけたのは、城戸くんだった。
「もちろん、城戸くん、調子いいわね、今月は東京でベスト10に入りそうよ」
「え、本当ですか! やった、店長のご指導のおかげです!」
「なに言ってるの、関東、全国でトップ目指さなきゃ」
彼は、はい、と言って、ふと、私のスマホの画面に目を落とした。
「それ、藤岡義人ですか?」
「え、ええ。城戸くん、知ってるの?」
「知ってるも何も、藤岡義人は、僕たち世代じゃ、英雄的存在ですよ。僕もそのブログ読んでます。本は全部持ってますよ」
ウソ、あの人、そんな有名な人なの!
「英雄って、どうして?」
「僕ら世代って、ゆとりだとか、たたかれること多いじゃないですか。それをかばってくれて、認めてくれた、初めてのオトナが藤岡義人です。熱狂的な信者もいますよ。結構、なんていうか、やんちゃな感じのやつらには、特に人気です」
そうなんだ、だから……あの新幹線でも、初めて迎えにきてくれた時も……
「今は貧困問題のスペシャリストみたいになってますよね。他には、虐待とかDVとか、誰も触れないようなきわどい部分を、かっこよく書いてるって感じです。噂だと、スラム地域にも、赤いベンツだかBMWだかで取材に行くとか、ほんと、かっこいいです。憧れるな」
DVか。だから彼、わかってくれたんだ。そういうこと、全然話してくれないから、知らなかった。
「憧れるんだ」
「そりゃそうですよ、見た目もかっこいいし、何より、自分の考えや思いを、堂々と文章にするって、なかなかできないことだと思うんです。みんな、建前で生きてて、本音なんか忘れてしまう。って、これも藤岡義人の受け売りですけど」
彼はコンビニ弁当を食べ終えて、ゴソゴソと袋に詰め込んだ。
「昼から外回りにいきます。法人なんですけど、福利厚生にうちを使いたいってとこがありまして」
「福利厚生? 結婚相談所を?」
「男性ばかりの職場で、忙しいらしいんですよ。だから出会いの場を提供したいって。うまくいけば、100人単位で新規会員とれそうです」
「城戸くん、すごいじゃない、期待してるわ」
彼は嬉しそうに笑って、手鏡でネクタイをチェックしてる。
「ああ、そうだ。藤岡義人に興味あるなら、インスタがおすすめです。かなりハードですけど、なんか優しさを感じるいい写真ばかりです。なぜかプライベートも混ざってますけど」
「ありがとう、見てみるわ」
若い彼を見送って、インスタを見てみる。うわ、たしかにちょっと……でも、なんだろ。優しいのよね。彼って、ほんと不思議。あんな見た目で、言葉も乱暴なのに、どうしてあんなに優しく感じるのかしら。
でも、彼がそんなに有名人だったなんて、本当にびっくり。話してくれてもいいじゃない。
しばらく遡ると、あれ、どっかで見たことある口紅……って、これ、私のじゃない!
あの真っ赤な口紅の写真には、彼のコメント付き。
『この色、最高に似合う』
他にも、見覚えがある写真があって、この写真、あの定食屋さんじゃない?
『カノジョと飯。一緒ならなんでもうまい! でもハンバーグ一切れとエビフライのトレードはちょっと納得できないなあ(笑)』
もう、そんなに根に持ってたの?
「あ、これ……」
そこには、新幹線のテーブルに乗ったコーヒーとクッキー。あの時はまさか、こんなことになるなんて、夢にも思わなかった。まさかね、こんなタイプじゃない人を、こんなに好きになるなんて。
『運命の出会い、きたかもしれない!』
運命の出会いかあ。うん、そうね、きっと、運命なのよ、私たち。あなたに出会えて、ほんとによかったって、思ってる。どの投稿にも、いっぱいコメントがついてて、フォロワーもいっぱい。急に、彼がすごく遠い存在に感じる。会いたいなあ、早く帰ってこないかな。
〈新規投稿〉
なんだろ。なんか公園の写真だけど……
『7月31日 ●公園で炊き出しやるけど、全然人が足りない! てわけで、今回も手伝ってくれるやつ募集だ。ヒマなやつ、日焼けしたいやつ、なんかやりたいやつ、朝8時に来てくれ。暑いから、対策しっかりな。悪いけど、今回も男限定な。待ってるぜ!』
炊き出し? 炊き出しって、災害の時にあるやつよね? なんでこんな場所で……
見てるうちに、次々にコメントがついていく。
『絶対行きます! 義人さんに会いたいです!』
『有給とりまーす』
『うう、女であることを呪います……(泣)』
えー、すごいんだ。地図みたら、そんなに遠くないし、いってみようかな。男限定って書いてあるけど、ちょっと見るくらいならかまわないよね、義人にも会いたいし。
『炊き出し』の日、私は彼のお気に入りのスーツを着て、あのリップを塗って、理由をつけて仕事を抜けた。タクシーの運転手さんに住所を見せると怪訝な顔をされる。
外はすっかり真夏で、強い日差しがガンガンに照りつけてる。タクシーは少し寂しい街並みを抜けて……この風景、大阪でも見たことある。ああ、もしかして、この辺りって……
「あの、運転手さん、この辺りってもしかして、スラム的なエリアですか」
「お客さん、知らないで来たわけ?」
「大阪から来たもので……」
「こっちじゃ有名なとこだよ。大阪にもあるでしょう、こういうとこ」
ああ、炊き出しって、そういうことなんだ。聞いたことあるかも、でも、ニュースとかでちらっと見たことあるだけ。
「あの公園ですよ」
目の前にはそんなに大きくない公園があって、大勢の人だかりが、この炎天下の中、並んでいる。熱い地面に座って、無表情で食事してるみたいだけど、あれが炊き出しってこと?
「どうします、降ります?」
「あの、少しまっててもらえますか。すぐ戻りますから」
「えー、あんまり停めときたくないんだけどなあ」
「10分で戻りますから、お願いします」
「できるだけ早くお願いしますよ」
ドアを開けると、すごい熱気と、ニオイ。なに、このニオイ。だめ、ちょっとクラクラする。
日傘をさして、ハイヒールで歩く私を、ジロジロみんな見てる。公園のフェンス越しに、行列の先頭にたどり着くと、頭にタオルを巻いた彼が、白いお碗に、何かよそってる。ひとりひとり、何か話しかけて、もらった人は笑顔になって。
「割り込みすんな、おっちゃん、ちゃんと並んで!」
あちこちで小競り合いが起きてるけど、彼はちゃんと見てて、そうやって声をかける。なんか、すごいんだ。フェンスの向こうにいる彼は、私の部屋にいる彼とはまるで別人で、全く知らない人みたい。来なきゃよかった、余計に寂しくなっちゃった……
「ねえちゃん、こんなとこでなにしてんだ?」
振り向くと、缶ビールを持ったおじさんが、ニヤニヤしながら私を見ていた。
「いいケツしてんな、ちょっと酒付き合えよ」
お酒くさい、こんな時間から酔ってるのね。
「失礼、私、急ぎますので」
「待てよ、いいじゃねえか」
男は私の腕を引っ張った。その手は汚れていて、伸びた爪は真っ黒に染まっている。周りの人が、ざわざわして、人だかりができ始めた。
「や、やめて……離して」
「こっちこいって!」
急にまた、吐き気がして、体が動かない。怖い、どうしよう、義人……
「おい、なにやってんだ!」
後ろから彼の声がして、フェンスを飛び越えて、握った手を引き離した。
「やめろって、て、な、なっちゃん! なんでこんなとこに!」
「なんだ、義人、てめえの女か」
「そうだよ、さわんじゃねえよ。おっちゃん、また酒か? いい加減にしないと、またブタ箱行きだぜ?」
「けっ、えらそうに。ブタ箱のほうがマシだわ」
男はツバを吐き捨てて、ゴミ箱をあさりに行った。彼は私を木陰に連れて行って、汚れたスーツを拭いてくれる。
「大丈夫? ケガはない?」
「うん、怖かった……ごめんなさい、私、インスタで義人がここにいるって見たの。だから、ちょっとだけでも顔見たくて……」
「俺のために来てくれたんだ。なっちゃん、泣きそうなくらい嬉しいよ。でもさ、こんなとこ来ちゃダメだ。スカートなんかできたら、マジでやばいから。」
「し、しらなくて……ごめんなさい、迷惑かけちゃったね」
「なっちゃんに何かあったら、俺、やばいことなるからな」
そう笑って、いつものように優しく抱きしめてくれた。人前でこんなことされるの、前はすごく恥ずかしかったけど、今はもう慣れちゃった。汗くさいタンクトップに、顔を埋めて、彼の唇が近づいてくると、ピーっと、指笛が聞こえた。
「うるせえよ! さすがにここじゃまずいか」
彼はちょっと照れくさそうに笑って、ギャラリーをかきわけて、私たちは、そそくさとタクシーへ。
彼は運転手さんに、たぶん、2万円くらい渡して、頭を下げてくれてる。あーあ、私、非常識なことしちゃったんだ。ダメね、ほんと、なんにもわかってないんだ。
「今週末には帰るからね」
「うん。待ってる」
彼はずっと見送ってくれて、私もリアガラスから、見えなくなるまで手を振った。
「あの人、どっかで見たことあるなあ。有名人? 俳優か……格闘家か……」
格闘家って。そこまでムキムキじゃないでしょ。
「ああ! あれだ、ジャーナリストの、ヨシト、フジオカヨシトだ、そうでしょう?」
わかった、彼がなぜ、私に何も言わなかったか。彼は、ジャーナリストの藤岡義人じゃなくて、ひとりの藤岡義人として、私の前ではいたかったんだ。だって、本当に別人だもの。きっとあそこにいた人達は、彼を知ってる。彼が知らない人も、彼を知ってる。城戸くんも、信者とか、そんな言葉を使ってたし、そんな追われる生活から、少しでも離れたかったのね。
「違うわ、よく間違えられるみたいだけど。似てるのかしら」
「違うのかあ。まあ、私も写真をみたことしかないですけど、似てますねえ。若い子に人気なんですよ。前に乗せた、タレントだかアイドルだか、若い女の子が自慢げに言ってたんですよ。フジオカヨシトと付き合ってるとか。その時に、初めて写真をみたけど、若い子と並んでても、全然違和感なかったですよ」
「へ、へえ……いつの話?」
「去年のクリスマスくらいかなあ。まあねえ、ほんとかどうか、わからないですけどね。ああいう子たちは、わざと私らなんかに喋って、噂を流すんですよ。話題作りですね」
噂、話題。そうよね、きっとそう。もし本当でも、もう去年の話じゃない。今は違う。今は、私の恋人だもん。私だけ、私だけよね?
「しかし、似てたなあ。ダンナさん?」
「いえ、結婚はしてないんですけど……」
「そうですか、男前だから、心配でしょ。でもお客さんも美人だし、お似合いですよ」
「お似合い? 私たち、お似合いかしら?」
「ええ、お似合いですよ。美男美女カップルだ」
なんかすごく嬉しい。スマホには、彼からのメッセージ。
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