偽りの婚約者のはずが、極上御曹司の猛愛に囚われています

冬野まゆ

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1巻

1-1

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   プロローグ 一夜の夢が醒めた後は


 失恋の傷は、新しい男に癒やしてもらうのが一番だよ。


 ――別にその言葉を信じたわけじゃないけど……
 ベッドに頬を預けて横たわる橋詰舞菜香はしづめまなかは、ふと友人の言葉を思い出して心の中で呟いた。

「どうかした?」

 舞菜香に寄り添い、彼女の肩を撫でていた男性が聞く。

「え?」

 声に反応して顔を上げると、その男性と目が合った。

「今、笑った気がしたから」

 そう言って、男性こと榛原裕弥はいばらゆうやは、慈しむような手つきで舞菜香の頬を撫で、むき出しの肩に口付けをする。

「なんでもないです」

 舞菜香は腕を伸ばして彼の髪に指を絡める。
 先ほど濃厚な男女の時間を過ごし、お互いシャワーを浴びたが、それでも肌には心地良い余韻が残っている。
 適当にタオルドライしただけの彼の髪は、スタイリング剤を洗い流したことで若干の癖が出ている。育ちがいいくせにやんちゃな雰囲気が隠しきれていない彼には、この髪型の方が似合う。
 そう思ったらまた笑みが零れた。
 クスクス笑いながら、髪に絡めていた指を頬に移動させると、彼はまぶたを伏せ舞菜香の好きにさせる。
 シャープな輪郭をした裕弥は高い鼻梁びりょうと、形の良い切れ長の目が印象的だ。
 いい意味で異質な存在感を放ち、群衆の中にいても見失うことはない。その存在感こそが、カリスマ性というやつなのだろう。

「裕弥さんがモテる理由がよくわかりました。こんなに優しくされたら、誰だって貴方に恋してしまうはずね」

 それは、このホテルに入ってからの情熱的な時間のことだけを言っているのではない。
 何気ない会話に始まり、触れる手つき、ささやく声、慈愛に満ちた眼差しと、裕弥は感覚の全てをフル活用して舞菜香の心をとろけさせてくれた。
 そんな彼だからこそ、恋人でもないのに一夜を共にしたいと思えたのだ。

「言っておくが、俺は、惚れた女以外に優しくするほどお人好しじゃないぞ」

 裕弥は不遜なことを誇らしげに言う。
 その言葉もまた、口説かれた女性に特別感を与えるのだろう。
 これが一夜の戯れを盛り上げるための常套句じょうとうくだったとしても構わない。

「ありがとうございます」

 夜明けまでまだ時間がある。
 もう少しの間、心地良い夢におぼれていたくて、舞菜香は目を伏せて自分から彼の唇に自分のそれを重ねた。

「積極的だな」

 肘をつき少し体の角度を高くした裕弥は、甘くかすれた声でささやき、舞菜香の肩を押す。
 体が上を向く動きにつられて目を開けると、自分の顔を覗き込む裕弥と目が合った。
 どこまでも強気で、躊躇ためらうことなく自分を求めてくる彼の視線を受け止めて、舞菜香の心が震える。

「君のそんな一面を知ることができて光栄だ」

 男の色気を感じさせる声でささやき、裕弥は舞菜香の唇を求めてきた。
 裕弥が腕でバランスを取り、こちらに掛かる体重を加減してくれているおかげで、息苦しいはずはない。
 それでもこうしていると、心が彼に囚われて息苦しさを覚える。
 ――でもそれは……

「今日だけは特別です」

 舞菜香は、唇を離した彼の頬を撫でて言う。
 その言葉の半分は、自分に言い聞かせるためのものだ。
 ――こんなふうに行きずりの関係におぼれるのは今日だけ。
 心の中で自分自身に誓いながら、彼の首筋に顔をうずめてその温もりにおぼれた。


「う……っ」

 まぶたの裏で強い日差しを感じて、舞菜香は小さくうなった。
 手でひさしを作りながら目を開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいるのが見える。

「起きた?」

 まぶしさで眉間にしわを寄せる舞菜香の肩に、大きな手が触れた。
 素肌に感じた手の感触で、自分が一糸まとわぬ姿で寝ていたことに気が付く。
 驚く間もなく首筋にやわらかな唇が押し当てられ、そのなまめかしい感覚に、濃厚な一夜の記憶が脳裏に蘇ってきた。

「あっ」

 ガバリと勢いよく身を反転させると、隣で体を横たえている見目麗しい男性と目が合った。

「は、榛原裕弥……さん」

 声を震わせる舞菜香を前に、裕弥はとろけるような表情を浮かべ、その頬に口付けをする。
 チュッという軽いリップ音の後に「誕生日おめでとう」と、お祝いの言葉が続く。
 その一言で、誕生日前日である昨日、恋人のひどい裏切りにあい、深く傷付いていたことを思い出す。
 ――だからって、酔っ払って軽い面識しかない彼と……
 二日酔いで思考がかなり鈍っているはずなのに蘇る記憶は鮮明で、らしくないほど積極的な昨夜の自分の姿を思い出して血の気が引く。

「舞菜香?」

 みるみる青ざめていく舞菜香の表情の変化に、裕弥が気遣わしげな声を出す。

「えっと……榛原さん、昨日のことは……」

 昨日、彼と肌を重ねたことは自分の意思だし、それについては後悔していない。
 ただこれまで舞菜香は、ごく一般的な恋愛しかしたことがないのだ。
 当然ながら、こんなふうに行きずりの相手と関係を持ったことなどない。しかも昨夜の自分は、なんというか、かなり情熱的だったので余計に恥ずかしい。
 なにをどう話せばいいかわからず舞菜香が口をパクパクさせていると、裕弥が苦笑する。

「目が覚めた途端、つれないな」

 裕弥は舞菜香の髪を撫で、からかい混じりの口調で言う。
 こちらの酔いは完全に醒めているのに、彼はまだ夢の続きの中にいるような振る舞いだ。

「今日はゆっくり君の誕生日を祝わせてくれ」

 その言葉に、舞菜香は心の中で「とんでもないっ!」と、悲鳴を上げる。
 昨日のあれは、一夜限りの夢のようなもの。
 長い夜を共に過ごし舞菜香を丁寧に扱ってくれた彼が、自分にひどいことをするとは、もちろん思ってはいない。
 でも酔いが醒めた今、超絶イケメンの彼とどう過ごせばいいのかわからないのだ。
 忙しく思考をめぐらせていた舞菜香は、覚悟を決めて声を絞り出す。

「と、とりあえず、シャワーを浴びて着替えませんか?」
「確かにそうだな」

 裕弥は同意して軽く肩を動かす。
 レディーファーストとばかりに、先にシャワーを使うよう勧めてくれる裕弥に、舞菜香は笑顔で首を横に振る。

「私は、もう少し横になっていたいので」

 鼻が隠れる位置まで布団を引き上げると、裕弥は「わかった」と言って布団を抜け出す。
 起き上がってマットレスに腰掛けた裕弥は、布団の上から舞菜香の体を抱きしめる。

「ゆっくりしていて」

 優しい声でそう伝えて、彼は部屋を出て行く。
 そのまま布団の中で体を丸めていた舞菜香は、ほどなくしてシャワーを使う水音が聞こえてくると、勢いよく布団を跳ね上げた。
 そして、ソファーにたたんで置かれていた自分の服を急いで身につけ、バッグを掴む。
 ――よくわかんないけどごめんなさい。
 逃げることは最大の防御だ。
 もちろん舞菜香だって、彼を悪い人だとは思わない。
 だけど、無理なものは無理なのだ。
 女性慣れしている彼からすれば、一連の行動は全て、情事を楽しんだ女性へのアフターサービスのようなものだろう。
 だけど遊び慣れていない舞菜香としては、あんなイケメンに素面しらふで甘く迫られても、ただただ戸惑うばかりだ。
 せめてもの謝罪の思いを込めて、水音が聞こえるバスルームの前で深く頭を下げてから、舞菜香は部屋を後にした。
 そしてラグジュアリーなホテルの廊下を早足で進みながら、誕生日の一週間前から自分の身に起きた様々な出来事を思い出した。



   1 誕生日の前祝い


 六月最初の金曜日。仕事帰りの舞菜香は、古民家風の和風ダイニングバー“花いち”を訪れていた。
 木製の引き戸をスライドさせると、中の賑わいが耳に飛びこんでくる。
 ぐるりと見渡した店内が和やかな空気に満たされていることが嬉しくて、しばし喧噪けんそうに耳を傾けていると、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「舞菜香」

 見ると入ってすぐのボックス席から髪の長い女性が身を乗り出し、手をヒラヒラさせている。
 小学校の頃からの付き合いである、幼なじみの板倉莉子いたくらりこだ。

「莉子」

 店のスタッフに連れであることを合図して席へ足を向けた。

「いい雰囲気の店だね」
「でしょ」

 莉子の言葉に、舞菜香は腰掛けながら得意気に頷く。
 この店は再開発が進んだ駅の近くにある、古き良き商店街の面影おもかげを残したエリアに建っている。
 経営者の高齢化を理由に閉店した呉服屋を、複数の飲食店を経営する今のオーナーが居抜きで買い取り、呉服屋時代の面影おもかげを残しつつ和風ダイニングバーにリノベーションしたものだ。椅子のシートクッションや壁のタペストリーは、店に残されていた帯をリメイクして使用している。
 ボックス席を仕切る格子の木材にも、呉服屋時代の桐箪笥きりたんすの廃材を使っていた。
 他にも、行灯あんどんをイメージした照明など、和モダンを強く意識した造りになっている。
 舞菜香が胸を張るのは、この店の内装デザインを請け負ったのが、舞菜香が勤める三羽みわホームだからだ。
 店舗デザインを手掛ける三羽ホームに新卒で就職して、五年と少し。まだまだ一人前とは言えないが、この店のデザインには舞菜香の提案がかなり反映されているので愛着が強い。
 心地良い賑わいに耳を傾けているとスタッフが注文を取りに来た。

「誕生日のお祝いに今日はおごるから、好きなの頼んでね」

 莉子が、メニューを差し出して舞菜香に言う。
 舞菜香はお礼を言って、柚子のカクテルを注文した。
 そのまま二人で相談して、シェアできそうな料理をいくつか注文する。
 ここ花いちは、昼はカフェ、夜は和風ダイニングバーとして営業している。食事メニューだけでなくスイーツメニューも充実しているので、甘い物好きの舞菜香としては嬉しい。
 先付けと飲み物が運ばれてくると、莉子は「二十八歳の誕生日おめでとう」と、舞菜香にグラスを差し出してきた。

「ありがとう」

 舞菜香はお礼を言って、自分のグラスを彼女のグラスに合わせる。

「って言っても、誕生日は来週の土曜日だけどね」

 チンッとガラスが触れ合う澄んだ音が妙に気恥ずかしくて、ついそんなことを言ってしまう。
 舞菜香のその言葉に、莉子が若干むくれる。

「だって当日は、アイツに祝ってもらう約束をしてるんでしょ?」

 莉子が『アイツ』と呼ぶのは、舞菜香の職場の五歳年上の先輩社員で、恋人でもある南野栄一みなみのえいいちのことだ。
 彼と付き合うようになって約一年。職場には二人の関係を隠しているが、莉子が会いたがったこともあり、一、二回三人で食事をしたことがある。
 その時は会話が弾んでいたように見えたけれど、どうやら莉子は、栄一に対して好感を持っていないようだ。

「ごめんね」

 来週の金曜日は、予約したレストランで食事をして、そのまま彼のマンションで誕生日を迎える約束をしている。

「まあ、私も彼氏いる時はそっちを優先しているからお互い様なんだけどね」

 莉子は肩をすくめる。
 長い付き合いの莉子とは、これまで何度もお互いの誕生日を祝ってきたが、必ず誕生当日に祝っていたわけではない。
 それなのに今年に限って、やけに誕生日を栄一と過ごすことに対して絡んでくる。

「来週の金曜日も予定は空けておくから、もし予定変更になったら私を呼んでよね」
「不吉なこと言わないでよ」

 華やかで社交的な莉子と違い、少々人見知りの傾向にある舞菜香は、恋人ができること自体がまれなのだ。
 この世に“言霊”というものが実在するかはわからないけど、できることなら不穏な発言は避けていただきたい。
 苦い顔をする舞菜香に、莉子は「ごめん」と謝ってグラスを傾ける。

「でも、心配してくれてありがとう」

 お礼を言って、舞菜香もグラスを傾けた。
 長い付き合いなので、もちろん彼女が悪意を持ってそんなことを言っているわけではないとわかっている。
 きっと恋愛ベタな舞菜香を心配して言ってくれているのだろう。
 友人の思いやりに感謝しつつカクテルを味わっていると、莉子が言う。

「舞菜香のそういうところ好きだよ」
「突然なによ」

 脈絡のない会話に、カクテルを零しそうになる。
 舞菜香は、グラスをテーブルに戻しておしぼりで口元を押さえた。

「なんて言うか、それなりに苦労してきてるはずなのに、いくつになっても舞菜香には感情のトゲみたいなものがなくて、人の優しさを素直に受け止めてくれる。だから私も、舞菜香のためになら、なんでもしてあげたくなるんだよ」

 莉子の手放しの賞賛が気恥ずかしくて、舞菜香は黙って肩をすくめる。
 彼女の言う『苦労』とは、中学生の時、舞菜香の父が経営していた橋詰鉱業が倒産したことをさしているのだろう。
 確かに会社が倒産したことで家はほとんどの財産を失い、舞菜香も幼稚舎からずっと通っていた学校を辞め、公立学校への転校を余儀なくされた。

「生活環境は大きく変わったけど、私は苦労と言うほどの苦労はしていないよ」

 舞菜香はけろりとした口調で言う。
 それは別に強がりではない。
 確かに失ったものは色々あるけど、大事なものはなにも失っていないのだから。
 会社が倒産した後も両親は変わらず仲が良く、一人娘である舞菜香にも惜しみない愛情をそそいでくれている。
 それに莉子を始め、気心の知れた友人たちは、舞菜香の暮らし向きが変わっても態度を変えることなく、それまでと同じように友達付き合いを続けてくれた。

「逆に面倒な付き合いから解放されて、気楽になったくらいかも」
「今、安達あだちさんのことを思い出したでしょ」

 まさにそのとおりだったので、舞菜香は苦笑する。
『安達さん』とは、安達沙梨さりという名前の女性で、舞菜香と莉子の元同級生だ。
 関東エリアでチェーン展開しているエステ店の社長令嬢で、少しキツい印象のある美人だ。
 クラスの中心的存在だった彼女は何故だか舞菜香を目の敵にしていて、同じ学校に通っていた頃、なにかと理由をつけては絡んできたのだ。
 こちらがなにかした覚えはないのだけど、どうにも舞菜香の存在が気に食わなかったらしい。

「舞菜香が可愛くて人気あったから、嫉妬してたのよ」

 彼女にされた意地悪のなんやかんやを思い出してため息をつくと、莉子がそう言った。

「まさか。安達さんの方が人気あったじゃない」
びる女子に弱い、一部の男子にだけね。正しく人間性を判断できる人の間では、彼女より舞菜香の方が愛されていたもの」
「それは……ありがとう」
「確かに安達さんの嫌がらせから解放されたのは、良かったわよね。私、大学で学部が分かれるまで、ずっとあの子と同じクラスだったもん」

 家業が順調な莉子は、安達と共に、幼稚舎から通っていた私学の系列大学に内部進学した。そのため、舞菜香以上に彼女との思い出が多いのだが、その多くは不快なものらしい。
 学生時代を思い出したのか、莉子が顔をしかめている。ちょうどそこへ、頼んだ料理が運ばれてきた。
 鰹のたたきを使ったサラダと京野菜のポトフ、しらすのピザ。日本ならではの食材を使った料理は器との色彩のバランスもよく、映えを意識しているのがわかる。
 ちなみに食後を抹茶パフェで締めることは、店を決めた段階で莉子と打ち合わせ済みだ。

「美味しそう」

 はしゃいだ声を上げる莉子が写真を撮るのを待って、それぞれの皿に料理を取り分けていく。
 ――安達さんか……
 舞菜香はかつての同級生の名前を、心の中でくり返す。
 実は最近、その安達と再会したのだ。
 もちろん舞菜香から連絡を取ったわけじゃない。
 どこで情報を仕入れたのか、舞菜香の勤め先を調べて、わざわざ名指しで仕事を依頼してきたのだ。
 その案件で、現在かなり振り回されている。
 舞菜香と安達が同じ学校に通っていたのは、十年以上昔のことだ。
 それなのに彼女は未だに舞菜香を目の敵にしていて、クライアントであることを盾に取り、こちらのすることにあれこれ難癖をつけてくるので迷惑で仕方ない。
 メールや電話の対応一つ取ってみても、安達は舞菜香とやり取りした後で必ず経営者である三羽所長に態度が気に入らないとクレームを入れてくる。
 それでいて所長が担当替えを提案すると『同級生のよしみなので橋詰さんのままで結構よ』と、上から目線で継続を願う。
 要するに、有利な立場に立ってネチネチと舞菜香をいじめたいだけなのだ。
 それでも仕事である以上、こちらからはすぐに関係を切ることはできないので頭が痛い。

「舞菜香、どうかした?」

 思わず眉間を揉む舞菜香に、莉子が怪訝けげんな顔をする。

「ごめん。なんでもない」

 舞菜香は軽く首を振り、不快な記憶を振り払う。
 せっかくの楽しい雰囲気を壊したくはないので、彼女と再会したことは黙っておくことにした。

「さてと……はい、これ」

 写真を撮り、料理を取り分けた莉子が、かたわらに置いてあったカバンからなにかを取り出しテーブルの上に置く。
 莉子に促され、舞菜香はふんわりとしたオーガンジーのリボンでラッピングされた箱を手に取る。中身は、香水だと告げられた。

「ありがと」
「甘いけどくどすぎない香りで、舞菜香に似合うと思う」

 そう話す莉子の視線が、舞菜香の肩を通り越して高い位置で止まる。
 どうかしたのだろうかと、彼女の視線を追いかけて背後を確認した舞菜香は、思わずといった感じで背中をらせた。
 通路に、背の高い男性が立っていたからだ。
 三つ揃えのスーツを上品に着こなす彼は、名前こそ知らないが、時々この店で見かける常連客だ。

「えっと……イタゲンさんの……」

 男性は、莉子の親が経営する会社名を口にした。でも本人の名前までは思い出せないらしく、語尾を曖昧あいまいにごす。

「板倉莉子です。ハイバラ電気の榛原裕弥さんですよね。時々、パーティーなどでお見かけします」

 立ち上がり社長令嬢として挨拶あいさつをする莉子に、榛原裕弥と呼ばれた男性が右手を差し出し握手を交わす。
 莉子が口にしたハイバラ電気とは、大手家電メーカーだ。
 冷蔵庫に始まり、炊飯器や電子レンジ、洗濯機といった、いわゆる白物家電と呼ばれる分野で高いシェアを占めている。
 ちなみに舞菜香の部屋のエアコンも、ハイバラ電気製だ。

「そうだった。失礼」

 すぐに名前を思い出せなかったことを詫びる裕弥が、こちらをチラリと見た。
 向こうも舞菜香に見覚えがあったのか、一瞬驚いた表情を見せた後で、親しげに笑みを添えて会釈えしゃくをした。
 舞菜香も立ち上がって挨拶あいさつをするべきかとも考えたが、そこまですると、かえって大げさかもしれない。
 莉子ともそれほど親しい感じではないので、座ったまま会釈えしゃくするだけに留めておいた。

「なにかのお祝い事?」

 裕弥が、テーブルの上のプレゼントを見る。

「友人の誕生日祝いです。正しくは、来週の土曜日なんですけど、当日は恋人と過ごす予定だから今日は前祝いです」

 莉子が舞菜香に視線を向けて言う。
 説明に合わせて舞菜香が会釈えしゃくをすると、裕弥が「おめでとう」と、やわらかく笑った。

「ありがとうございます」

 舞菜香がお礼を言うと、それが会話の区切りとなった。
 裕弥は「良い夜を」と、その場を離れて奥のカウンター席に落ち着いた。

「莉子、あの人と知り合いだったんだね」
「知り合いっていっても、パーティーなんかで見かける程度だよ」

 莉子は家業とは関係ない別の仕事をしているが、それでも親に付き合ってパーティーなどに出席する機会があるそうだ。そういった場で、たまに顔を合わせることがあるらしい。

「あと、ウチの商品のお客様でもある」

 彼女の父親は、特殊塗料の会社を経営している。
 塗るだけで驚くほどの遮熱効果を発揮する塗料の特許を持っていて、それがハイバラ電気の製品にも使用されているのだとか。

「なるほど」

 納得する舞菜香に、今度は莉子が質問する。

「舞菜香こそ、榛原さんと知り合いだった?」

 先ほどのやり取りで、そう感じたようだ。
 隠すようなことでもないので、正直に答える。

「私もさっき名前を知ったくらいで、知り合いってほどじゃないよ。常連みたいで、時々このお店で見かけることがあるの。たぶん、オーナーと知り合いなんだと思う」

 ここのオーナーはいくつかの飲食店を経営しており、普段は店にいないことが多いが、いつだったかオーナーと裕弥が親しげに話しているのを見かけたことがある。

「なるほどね」

 わざわざ体をひねってカウンター席に座る裕弥の姿を眺めていた莉子が、こちらに視線を戻すと、ワクワクした様子で言う。

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